2012年1月 8日 (日)

Conan Doyle on Bryan Waller

 知能的にも精神的にも何のみやげもなく一年を楽しくドイツですごして(1876年に)エディンバラへ帰ってみると、家庭の事情はあいかわらず窮迫していた。…………母は大きな家を共用する方策をあみだしていたが、これはある点で母を楽にしたろうけれど、そのほかの点ではみじめにもした。(My mother had adopted the device of sharing a large house, which may have eased her in some ways, but was disastrous in others.)
(日p.28、英p.17)

 disastrousとはどういうことか? これだけしか書いてないのだから「みじめにもした」くらいの訳しか付けられないだろう。Bryan Wallerという名前は出てこない。

Fairdetail

  チャールズ・ドイルとメアリ・ドイル
http://ils.unc.edu/dpr/path/charlesdoyle/purpose.htm

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2012年1月 7日 (土)

1895年のストランド街

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2012年1月 5日 (木)

小林司博士によれば

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Doyle was born on May 22, 1859 at Picardy Place, Edinburgh, as the son of Charles Altamont Doyle, a civil servant in the Edinburgh Office of Works, and Mary (Foley) Doyle. Both of Doyle’s parents were Roman Catholics. His father suffered from epilepsy and alcoholism and was eventually institutionalized. Charles Altamont died in an asylum in 1893. In the same year Doyle decided to finish permanently the adventures of his master detective. Because of financial problems, Doyle’s mother kept a boarding house. Dr. Tsukasa Kobayashi has suspected in an article, that Doyle’s mother had a long affair with Bryan Charles Waller, a lodger and a student of pathology, who had a deep impact to Conan Doyle.

http://sirconandoyle.com/biography-of-sir-arthur-conan-doyle/

 小林先生に責任を取ってもらうつもりらしい。三島由紀夫の伝記が日本語ではなかなか出せなかったのと同じか。

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2012年1月 4日 (水)

コントラルト(4)

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「ボヘミアの醜聞」のオペラ版はどうなるだろうか。
 第一幕第一場はベーカー街221Bである。シャーロック・ホームズ(テノール)とドクター・ワトソン(バリトン)がマントルピースの前で差し向かいになって話し込んでいる。
 ハドソン夫人(コントラルト)が入って来て、ホームズにA gentleman to see you, sir.とだけ言って引っ込む。(アリア「私は辛抱強い女」を歌わせるのはまたの機会にする。)
 ボヘミア王(バス)登場。ホームズとやりとり。朗々たるバスでアリアIch bin der König.を歌う。レシタティーヴォ

The facts are briefly these: Some five years ago, during a lengthy visit to Warsaw, I made the acquaintance of the well-known adventuress, Irene Adler.

 をきっかけに回想シーンに入る(回り舞台使用)。場面はワルシャワ帝室オペラである。プリマドンナのアイリーン・アドラー(メゾソプラノ)がカルメンを演じている。アリア「ハバネラ」を歌う。

L'amour est un oiseau rebelle que nul ne peut apprivoiser,
et c'est bien en vain qu'on l'appelle, s'il lui convient de refuser.
Rien n'y fait, menace ou priere, l'un parle bien, l'autre se tait:

  ハバネラ
http://www.youtube.com/watch?v=8w9yJdkeryI&feature=related

 アイリーン・アドラーがケルビーノを演じて男装する場面も欲しい。弁護士ノートン(バリトン)はどういうふうに登場させればよいか。ボヘミア王とアイリーン・アドラーのデュエットはぜひ必要だ。
 ホームズ役にはマリオ・デル・モナコのような力強いテノールを使って派手なアリアを歌わせたいが、ふさわしい場面があったかな。
 なかなか、むつかしい。

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2012年1月 3日 (火)

コントラルト(3)

 あの女、アイリーン・アドラーはコントラルトだった。しかし現代で言えばナタリー・シュトゥッツマンのような純コントラルトではなく、アンネ・ゾフィー・フォン・オッターのようにメゾソプラノに分類されることもある声だったのではないか。オペラのステージ上ではカルメンなど、メゾソプラノの役を演じて活躍した。ズボン役も多かった。

ズボン役とは、オペラにおいて、男装する女性歌手の役柄を言う。元々はフランスオペラの伝統だったが、有名作品ではドイツオペラに多い。モーツァルト作曲「フィガロの結婚」のケルビーノ(メゾソプラノ)、ベートーヴェン作曲「フィデリオ」のフィデリオことレオノーレ(ソプラノ)、ヨハン・シュトラウス2世作曲のオペレッタ「こうもり」のオルロフスキー(メゾソプラノ)(まれにカウンター・テナーやテノールが歌うケースもあり、この場合はズボン役とは呼ばない)、フンパーティンク作曲「ヘンゼルとグレーテル」のヘンゼル(メゾソプラノ)、リヒャルト・シュトラウス作曲「薔薇の騎士」のオクタヴィアン(メゾソプラノ)が代表的。(ウィキペディア)

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 薔薇の騎士のオクタヴィアンはアイリーン・アドラーが演じたらぴったりだろう。残念ながら時代が違うが。
 シャーロック・ホームズに宛てた手紙

「でも、ご存じの通りお芝居には慣れておりますし、男装をいたすなど造作もございません。これまでにもよく、そのおかげで気ままにふるまったものでございます。私は馭者のジョンにあなたさまの見張りをさせておき、二階へ駆け上がって、散歩服と呼んでおりますが、急いでそれを身につけて降りてみますと、ちょうどあなたさまはお帰りになるところでございました。
 それからおあとをしたってお玄関先まで参り、私風情を狙っていらっしゃるのが、有名なシャーロック・ホームズさまに違いないことを確かめたのでございます。そして少しはしたなくはございましたけれど、ご挨拶申しあげて、その足でテンプルに良人を訪ねてまいりました。」(延原謙訳による)

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2012年1月 2日 (月)

コントラルト(2)

 シャーロック・ホームズの時代に活躍した有名なコントラルトのプリマドンナにエルネスティーネ・シューマン=ハインク(1861―1936)がいる。この人ならボヘミアの醜聞の事件の1887年には26歳である。しかしアイリーン・アドラーのモデルは彼女だ! と言いきるのはちょっとためらう。

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 これは20世紀に入ってだいぶ経ってからの写真であるが、She was a well-known adventuress in her youth.とは言えないようだ。どちらかというと「家庭的」な容貌である。子供を七人産んだという。
 歌手としてのキャリアはすばらしい。
 彼女が有名になったきっかけは、ウィキペディアによると

「ハンブルク歌劇場の監督とプリマドンナのマリーエ・ゲッツェがいさかいを起こした時、エルネスティーネに突破口が開かれ、大役が転がり込んできた。劇場監督から《カルメン》の主役を演じるように依頼され、リハーサルなしで大評判をとったのである。」
 
 女の声は、上からソプラノ、メゾソプラノ、コントラルト(アルト)である。ふつうソプラノが女の主役、プリマドンナになる。メゾソプラノは侍女などの役が多い。コントラルトはせいぜいお祖母さん、乳母、下宿の女将といった役柄で、オペラでは活躍の機会が少ない。
 カルメンはメゾソプラノがプリマドンナになる数少ないオペラの一つである。ソプラノでは妖艶な感じが出ないからだろう。その他メゾソプラノが主役を務めるオペラには『サムソンとデリラ』『ウェルテル』などがある。
 コントラルトでも高音が出せる歌手は、オペラではカルメンなどメゾソプラノの役をやることがある。現代の歌手ではアンネ・ゾフィー・フォン・オッターなどがそうだ。

アンネ=ゾフィー・フォン・オッター(Anne-Sofie von Otter, 1955年5月9日 - )はスウェーデン人の著名なコントラルト歌手・メゾソプラノ歌手。レパートリーは非常に広く、オペラや宗教曲、歌曲といったジャンルに広がっており、スタンダードな作曲家のほかに、演奏や録音活動を通じてバッハ以前のバロック音楽や、ツェムリンスキーやコルンゴルトのようなウィーン世紀末の作曲家、シャミナードのような女性作曲家など、不当に忘れられた作曲家の再評価にも取り組んでいる。オペラにおいては特にズボン役の女声歌手の一人として知られ、楽曲に知的な解釈を示すことでも知られる。(ウィキペディア)

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2012年1月 1日 (日)

謹賀新年

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 本年もよろしく。

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2011年12月29日 (木)

コントラルト(1)

「どれ、見せたまえ。――フム、1858年米国ニュージャージーの生まれ、コントラルト歌手、スカラ座出演、フム! ワルシャワ帝室オペラのプリマドンナ……歌劇壇引退……ホウ、目下ロンドン在住か、なるほどね! そうしますと陛下、この若い人物と煩わしい関係をお持ちになりまして、問題をおこしそうな手紙をお与えになりましたので、それをいまはとりもどしたいとお望みなのでございますな?」
(延原謙訳による)

 しかし、コントラルトがプリマドンナになるだろうか? 
 コントラルトがオペラの「主役」になることはある。しかし女で主役でもプリマドンナとは限らない。

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  現代の有名なコントラルト、ナタリー・シュトゥッツマンは、リートを歌うことが多いようだ。シューベルトの『冬の旅』のCDがある。これはもちろん男の歌である。第一曲「おやすみGute Nacht」の第一節は

 よそ者としてやって来て
 またよそ者として去って行く
 五月は僕を暖かくもてなし
 数多の花束を贈ってくれた
 あの娘は愛を語り(Das Mädchen sprach von Liebe,)
 母親は結婚のことまで口にした(die Mutter gar von Eh')
 だが今やこの世界は暗澹とし
 道は雪に覆われている
(http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmegaoka/songs/S/Schubert/S1763.htm より)

 動画ではシューベルトの『白鳥の歌』から「セレナーデ」を歌っているところが見れる。これも男の歌である。
 http://www.youtube.com/watch?v=jCxdoFQlhqg
 
 この人がオペラで主役を張るのはたとえばヘンデルの『ジューリオ・チェザーレ(ジュリアス・シーザー)』のタイトルロールである。
 しかし、言うまでもなくシーザーは男であるから、この場合にシュトゥッツマンはプリマドンナではない。
 これは元来は「プリモカストラート」の役なのである。ヘンデルのジュリアス・シーザーは1724年初演であった。このころのオペラはカストラートが主役のものが多かった。
 フランス革命後は「やはりちょん切ってしまうのはまずい」ということでヘンデルなどのオペラは上演の機会が減った。カストラートがいない場合、ジュリアス・シーザー役は1オクターブ下げてバリトンに歌わせる手もあるが、どうも味が変わってしまう。シュトゥッツマンのように低音に迫力のある男性的なコントラルトがタイトルロールを歌うのが一番よいらしい。
 19世紀末でも事情は同じであった。しかし「あの女」アイリーン・アドラーは、ワルシャワ帝室オペラのプリマドンナだった。やはり女の役をやったはずだ。コントラルトでもシュトゥッツマンなどとは少し違う声だったのだ。 

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2011年12月28日 (水)

Der junge Hitler

  彼も人の子だった。

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 リンツのレアルシューレ。最後列右端がアドルフ・ヒトラー。後ろから2番目の列、右から3番目がルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン。写真は1901年に撮られたらしい。ヒトラー(1889―1945)とヴィトゲンシュタイン(1889―1951)は同年生まれ。学年は哲学者が2学年上だった。

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 ヒトラー伍長

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2011年12月25日 (日)

パジェット、ドイルを描く

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Portrait of Sidney Paget and Arthur Conan Doyle by Phil Cornell for Goode Press(2006) ウィキメディア・コモンズより。

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2011年12月23日 (金)

椿姫とは違います(4)

 共産主義者の婦人共有制とやらに対する我がブルジョア諸君の道学者めいた驚きほど笑うべきものはない。婦人の共有は、共産主義者が実施するまでもない。それはこれまでほとんど常に実在していたのだ。
 我がブルジョア諸君は、公娼については言わずもがな、プロレタリアの妻や娘が自分らの自由になるだけでは飽き足らず、自分らの妻を互いに誘惑し合うことに、無常の楽しみを見出してきたのだ。 
 ブルジョアの結婚は、実際には妻の共有である。だから彼らが共産主義者を非難できたとしても、それはたかだか「共産主義者は偽善に覆われていた婦人の共有の代わりに公明正大な婦人の共有を企んでいる」と言える程度である。

 ブルジョアに限らず上流の結婚は「実際には妻の共有」である場合があった。結婚前は必ず処女でなければならなかった。しかし結婚後は……
 ウィンストン・チャーチルのお母さんの場合。

(1880年、チャーチル8歳のときに、ウィンストンの父母である)ランドルフ(・チャーチル)夫妻がロンドンに帰ってからも、夫と連れ立たないジェニー夫人の姿が社交の場に目立つようになった。皇太子エドワードもその相手の一人であったが、何かにつかれたように毎日夜社交に熱中する彼女の姿を見て、家族や友人たちはその著しい変化に気づくようになった。ジェニーは生涯に数多くの男性を遍歴したといわれ、なかには皇太子エドワードのほかに、オーストリアのロンドン駐在外交官キンスキー伯爵、セルビア国王ミラン一世も含まれていた。
(関p.59)

「チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン」では、さる既婚の貴婦人の手紙が元で起きた大変な事件をホームズとワトソンが目撃することになった。上流の結婚は必ず「実際には妻の共有」だったとは限らない。しかし「ある一定の条件」が整えば、当人同士と周りの了解の下に「妻の共有」が実現する場合があった。この一定の条件が何であるかは、まだ研究していない。「跡継ぎの長男を産んでいること」が必要条件だったのではないかと思う。チャーチル家の場合は、長男ウィンストンが生まれていた。弟は夫ランドルフではない、誰か別の人の子だったらしい。しかし、これも「場合によっては」という留保を付けなければならないか。要するによく分からない。

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 リリー・ラントレーの場合は、1880年に皇太子と別れてから生活のために女優になったのは、ある程度「身を落とした」と言えなくもない。しかし腐っても鯛である。元皇太子の愛人であり「有夫の貴婦人」である。オーストリアの太公ルイ・バッテンベルグやアメリカの百万長者の愛人になった。夫は1897年になってようやくリリーと離婚して間もなく亡くなったが、本人は1898年、46歳のときに自分よりはるかに若い男爵と結婚し、モナコで1929年に亡くなるまで豊かに暮らした。
 椿姫とは違う。ヴィオレッタはドゥミ・モンデーヌでありクルティザンであった。恋人のアルフレードとの結婚はかなわず、結核で死ぬのである。いくら「高級」でも娼婦は娼婦である。妻の共有とは違う。
 日本の芸者の場合はどうか。お蔦も主税と添い遂げられずに死んでしまうのだった。しかし芸者が政府高官の妻になることもあったので、西洋とはだいぶ違う。
cf. 『湯島の白梅』http://www.youtube.com/watch?v=Ewf1brZMShY

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2011年12月21日 (水)

アーミーコーチ補足

 アーミーコーチにはもう決着がついたと思っていたが、平山歯科医院日記を見たらまだ何か書いてあるので補足。私は「チャーチルは士官学校入学とともに数学とは縁が切れた」と書いた。チャーチルの『わが半生』に書いてあるというのに、信用しない。以下に引用する。

 チャーチル『わが半生』角川文庫版p.37
その後この輩(数学を指す――引用者)とは会わない。最後の三度目の試験合格とともに、彼らは悪夢の幻影の中へみな消え去った。

 同上p.p.54-5
サンドハーストでは新規まき直しであった。前のようにラテン語やフランス語あるいは数学ができなくて、ハンディキャップをつけられることがなかった。みんながいっせいに新規なことをならうので一列平等に出発した。過程は戦術、築城、地形学(地図作成)および軍法、軍政だった。このほかに教練、体操、乗馬があって、競技は好きなものだけがやればよかった。規律は厳格で、勉強、練兵の時間が長かった。一日が終わると全く疲れた。私は勉強がおもしろく、とくに戦術と築城に興味をもった。

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