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2006年2月25日 (土)

ガンディーと使徒たち(4)

ヴェド・メータ『ガンディーと使徒たち』新評論 248頁から

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 ノーアカーリーにおけるガンディーの個人的危機を描いて最も信頼できるのは、ニルマール・クマール・ボースの『ガンディーとの日々』である。ボースはガンディーのベンガル語通訳としてシュリランプルに同行し生活をともにした。ボースは昔からの弟子ではなく左翼のインテリである点で、随行者の中でユニークだった。彼はカルカッタ大学の教職にあったが、ガンディーの通訳としてノーアカーリーに行くために休暇を取って来ていた。結果的に彼はどの随行者よりも客観的な見方ができた。ノーアカーリーではガンディーは真夜中に震えながら目を覚ました、とボースは言う。震えが収まるまでしばらく体を押さえていてくれ、とガンディーは隣に寝る者――ふつうは女性だった――に頼んだ。「自分のベッドに寝てくれと彼は女性に言った。夜具を共にしようと言うこともあった」とボースは書いている。「そして自分がほんのわずかでも性欲を感じないか、相手の方はどうかを確かめようとした」ガンディーはこのような女性との接触は「ブラフマチャリヤの実験」なのだと言った。「神の宦官」となるために必要だというのである。しかしボースの意見によれば、これは一種の無意識の搾取であった。実験に使われる女性はある意味で劣等者として扱われるからである。まわりの女性たちは誰もがガンディーと自分は特別な関係だと思いこみ、自分が彼の心に占める位置に敏感で彼の愛を失うことを恐れていたから、少しでも冷たくされるとたちまち「ヒステリーになった」。ボースは言う。「このプラヨーグ〔実験〕はガンディー自身にとっての価値は別として、少なくとも相手の心には傷を残した。彼女たちはガンディーの実験に加わる精神的な必要はなかったからだ」ブラフマチャリヤの実験は道徳的に有害ではないかとボースは直言した。これに対してガンディーは、自分を抱いたり隣に寝たりしても悪い影響は受けていないと女性たちが言っていると答えた。ブラフマチャリヤの実験は性の放棄の究極のテストである。のみならずノーアカーリーの暴力に対するヤグニャ〔贖罪〕なのだとガンディーは言った。さらにガンディーは、ボースが彼の女性との関係に「いわれのない疑い」を抱いているのだと非難した。ボースはこの問題に悩み続け、突然ガンディーのもとを去ってカルカッタに帰った。議論は手紙で続けられた。ボースはガンディーの手紙を本に載せている。

 私にとっては女性に触れぬことがブラフマチャリヤなのではない。今していることは私には新しいことではない。……実験の前提に女性の劣等性があるとお考えになるとは驚かざるを得ない。もし私が色情を持ちあるいは相手の同意なく女性を見れば、そのとき女性は劣等者であろう。私の妻は私の欲望の対象だったとき、劣等者であった。私の隣に裸で妹として寝るようになってからは、彼女はもはや劣等者ではなかった。かつてのように妻ではなく他の妹であっても同じことではないか。隣に裸で寝る女性に対して私がみだらなことを考えるなどと思わないでいただきたい。AあるいはB(ボースによる匿名)のヒステリーは私の実験とは関わりがないと思う。彼女たちはこの実験の前から多かれ少なかれヒステリーだったのだ。

 ボースは納得しなかった。彼はフロイトの説をあげて「私たちはしばしば無意識の動機によって全く意識せぬ別の方向に動かされるのです」と返事を書いた。これに対してガンディーは、自分はフロイトという人の著作については少しも知らない、彼の名前は前に一度どこかの教授の口から聞いたことがある、と答えた。ガンディーはフロイトのことをもっと知りたいと言ってきたが、ボースはこの問題をこれ以上追求しなかったようだ。

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