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2006年2月28日 (火)

言葉、言葉、言葉

 永田議員の記者会見にはびっくりした。情けなくなった。日本人に絶望した。
 永田さんは、武部幹事長の息子がホリエモンから3000万円もらったという趣旨の発言をしたのである。事実だと証明できなかったら、深々と頭を下げるだけでは駄目だ。昔ならもちろん切腹だ。
 腹まで切らなくてもいいと思うけれど、少なくとも一つだけ、絶対にしなければならないことがあった。「武部さんの息子が3000万円もらったというのは事実無根でした」とはっきり言うことである。
 これを言わなければ謝罪になんかならない。永田さんの口振りは「メールの真実性の証明はできないが、書かれていた事実そのものについてはなお疑いが残る」というようなことだった。
 一体どういうことだ? 彼が前に言ったことは、事実なのか、事実でないのか、二つに一つのはずだ。
 「一定程度の事実を含んだものかについては調べる」だって? 一定程度ってどれくらいだ? 10パーセントくらいか? 3000万円はもらわなかったが、300万円もらった?

 テレビを見ていて歯がゆかったのは、記者たちがこの点を追求しなかったことだ。本人がどういう心境であるか、なんてことはどうでもいいのだ。
 なぜ、これが分からないのだろう。
 日本人に絶望したというのは、そういうことだ。
 記者会見に出ていたのは、放送局や新聞社などの記者、言葉の専門家のはずだ。彼らが言葉というものを信じていない。言葉なんてどうでもいいと思っている。日本人が言葉を信じていなくて、言葉なんてどうでもいいと思っていて、記者たちはその日本人の代表なのだ。

 しかし、言葉は言葉です。大切なのは気持です。ほんとにそうか?
 言葉なんて一応言ってみるだけのことで、本当のところをちゃんと言い表すことはできない。君と君のガールフレンドの間では、その通りかも知れない。
 しかし、世の中のことは言葉で正確に表現できる、と信じなければ政治なんてやっていられないはずだ。報道なんて成り立たないはずだ
「武部二男は3000万円もらった」という言表は、事実なのか、事実でないのか? 二つに一つのはずだ。繰り返して言うが、なぜこれが分からないのだろう?

 むかし、「外国人に対して恥ずかしい」という言い方があった。久しぶりに思い出した。ほんとに恥ずかしい。
 外国ならどういう展開になったか? 外国ならなんて、お前、外国のことを知っているのかと言われると困る。でも、考えてみることはできるだろう。

 武部幹事長の息子が出てきて、永田議員に対して
「国会の外で同じことをもう一度言ってください。私はすぐに名誉毀損であなたを訴えます。それができなければ直ちに事実無根でした、と言って取り消してください」
 と要求するだろう。
 言葉で何かを表現する。それが事実なのか、事実と異なるのかは、大問題なのだ。外国では大問題なのだ。「外国では」というのは変ですか? では昔の日本ならどうだ。もちろん切腹だ。

 ここまでは28日、テレビ記者会見を見て直後の感想。

 3月1日になって、改めて考えてみると、永田君は要するにバカなのだから仕方がないが、あの記者会見では隣に鳩山幹事長がいたのだから、永田議員が「メールの真実性はともかく、更に事実を調べて……」などと言い出したときにすぐに話を遮って、「彼はいま頭が狂っております。この話は事実無根でした」と訂正しなければ駄目だ。

 武部幹事長はさすがに被害者だから当たり前だがよく分かっている。「誰に何を謝っているか、分からない」「息子が民事刑事で告訴する準備を進めている」 当然だろう。

 みのもんたは偉い。本質が分かっている。ほかのニュースショーでまだ「メールを黒く塗りつぶしたのは云々」などとやっているのは情けない。全く分かっていない。

 荒俣さんが「頭を丸めて遍路に出ろ」と言ったのは正しい。切腹なんかされては迷惑だから、これしかないだろう。

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 ブログを読んでいて、びっくり仰天したのは「これで灰色決着」などという意見があったことだ。自民と民主のどちらをひいきするかという問題ではないのだ。君自身のことに置き換えて考えてみたまえ。誰かが「某山某男が痴漢をした」と証言して、君が逮捕されたとする。もちろんそんなことはするはずがないから、証拠不十分で釈放される。「あの証言自体は証明できなかったが、まだ疑惑は残る。灰色決着だ」などと言われたらどうする?

お遍路については、http://www.tokushima-kankou.or.jp/pick/hatijyuhati/jyunrei.html

画像をお借りしました。徳島へ行こう。

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2006年2月27日 (月)

猫にとって小判とはなにか

そりゃバナナのパパは偉いと僕も思うけど、あの題の付け方はちょっと趣味が悪いんじゃない?

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コナン・ドイル伝

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[コナン・ドイル伝(1)再録の方も見てください。11月13日付記]
  コナン・ドイルはアイルランドの血を受け、スコットランドに生まれ、長じてイングランドに住んだ。
 彼は感じやすい質だったから、この三国はいずれもその性格形成に与り、ドイルはアイルランド人の侠気と熱情、スコットランド人の誇りと気骨、イングランド人の一徹とユーモアを兼ね備えることになった。後年になると、侠気は烏滸の沙汰と評され、誇りは自惚れと見られ、一徹は頑迷の印だと非難されることもあったのだが、これについては追々述べて行くことにしよう。
 彼の祖父ジョン・ドイルは一八一五年にダブリンからロンドンに出てきて、間もなくH・Bの筆名で風刺画家として名をなした。前世代のギルレイやローランドソンの苛烈な風刺画への反動が始まっていた時期であり、ジョン・ドイルの感じのよい画風は流行の先駆けをなした。「祖父は紳士であり、紳士のために紳士を描いた」とコナン・ドイルは書いている。ジョンの流儀は成功をもたらし、四人の息子はみな父親の才能を受け継いだ。長男のジェームズは『英国年代記』を書いて自ら色刷りの挿絵をつけ、後には『英国貴族名鑑』の編集に十三年を空費した。次男のヘンリーは古い絵の目利きとして知られ、ダブリンのアイルランド国立美術館の館長となった。三男のリチャードはサッカレーの『ニューカム家の人々』の挿絵を描き、 『パンチ』誌の画家として名声を博し、その表紙をデザインした〔一八四九年から一九五六年までリチャード・ドイルの描いた表紙が使われた〕。Encpunch_2
 ここでは叙述の的を四男のチャールズに絞らねばならない。彼は公務員で、余暇に絵を描いていた。チャールズの絵のモチーフは幻想的だった。興が乗ると妖精を描き、陰鬱な気分のときはもっと「途方もなく恐ろしいもの」が画題になるのだった。これは彼の内部に秘められた力と狂気と優しさを表していた。

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 チャールズは十九歳でエディンバラ市の建設局に職を得て、一八五五年にメアリー・フォレーと結婚した。彼女もアイルランド人であり、パック家とパーシー家を通じてプランタジネット朝につながる家柄の出であった。二人はエディンバラ市のピカデリー・プレースで小さなフラットに住み、長男のアーサー・コナン・ドイルは一八五九年五月二十二日にここで生まれた。
 初めのうち、チャールズとメアリーは彼の年二百四十ポンドの給料だけでまずまず暮して行くことができた。しかしやがて女の子が三人、男の子が一人生まれると、生活は苦しくなった。チャールズは頼りにならなかった。ときには絵が売れて五十ポンドほどになることもあったが、彼はいわゆる「芸術家気質」の人で、仕事にはほとんど意欲がなく、家庭にもあまり関心を示さなかった。彼は雲の中に住んでいた。息子はのちに「父の欠点もある意味では高い霊性の反映だった」と書いているが、絵はたいてい売るよりも進呈してしまい、お返しに好意として幾ばくかの金銭を得ることもあったのだろう。「父は背が高く、長いひげを生やし、気品があった。父ほど物腰の上品な人はいなかった。ウィットがあり冗談も好きだったが、同時に繊細で鋭敏な感受性の持ち主だった父は、会話が下品になるとすぐに席を立つ勇気があった。……父は浮世離れした人で実務能力に欠け、家族はそのために苦しんだ」
 子供たちにとって幸いなことに、彼の妻は芸術家気質ではなかった。夫と同じくアイルランド人でありカトリックであったが、スコットランドの風土が彼女を非凡な(しかし英国北部では珍しくない)女性に鍛え上げていた。所得税の課税最低限以下の収入で家族の衣食をまかなった上に教育まで受けさせたのは彼女の才覚だった。メアリーは多くのケルト人同様に家系を誇りにし、長男もこの誇りを受け継いだ。エドワード・ヤング〔十八世紀の詩人〕の言うように「家柄自慢をする者は負債ばかりをこしらえる」ものだが、アーサーは先祖からの負債に利息を付けて完済したのである。
 幼いアーサーの環境は苛烈だったが、彼は頑健だった。七歳になると小学校に通い始め、二年の間、教師の体罰に耐えることになった。この教師はまるでディケンズの小説から抜け出してきたような人物だったが、それで彼の与える苦痛が和らげられるわけではなかった。しかし少なくともアーサーを鍛えてくれたことは確かであった。アーサーは休み時間には同じ年頃の少年たちとよく喧嘩した。彼は闘争本能が旺盛であった。あるとき馬券屋の助手に重いブーツの入った袋で脳天を殴られて気絶したこともあったが、彼はそんなことではたじろがなかった。…………

ヘスキス・ピアソンの『コナン・ドイル伝』のはじめの部分です。
1943年に書かれたこの伝記について、グレアム・グリーンは序文で、

 コナン・ドイルはワトソンと比べられることがあまりにも多かったが、この伝記ではピアソン氏がワトソン役を務めて、イエズス会の教育が作った奇妙な謎の人物、シャーロック・ホームズの心を持ったドイルを語るのである。

と書いています。コナン・ドイルの生涯はシャーロック・ホームズに負けないくらい面白いのだ。

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2006年2月25日 (土)

ガンディーと使徒たち(4)

ヴェド・メータ『ガンディーと使徒たち』新評論 248頁から

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 ノーアカーリーにおけるガンディーの個人的危機を描いて最も信頼できるのは、ニルマール・クマール・ボースの『ガンディーとの日々』である。ボースはガンディーのベンガル語通訳としてシュリランプルに同行し生活をともにした。ボースは昔からの弟子ではなく左翼のインテリである点で、随行者の中でユニークだった。彼はカルカッタ大学の教職にあったが、ガンディーの通訳としてノーアカーリーに行くために休暇を取って来ていた。結果的に彼はどの随行者よりも客観的な見方ができた。ノーアカーリーではガンディーは真夜中に震えながら目を覚ました、とボースは言う。震えが収まるまでしばらく体を押さえていてくれ、とガンディーは隣に寝る者――ふつうは女性だった――に頼んだ。「自分のベッドに寝てくれと彼は女性に言った。夜具を共にしようと言うこともあった」とボースは書いている。「そして自分がほんのわずかでも性欲を感じないか、相手の方はどうかを確かめようとした」ガンディーはこのような女性との接触は「ブラフマチャリヤの実験」なのだと言った。「神の宦官」となるために必要だというのである。しかしボースの意見によれば、これは一種の無意識の搾取であった。実験に使われる女性はある意味で劣等者として扱われるからである。まわりの女性たちは誰もがガンディーと自分は特別な関係だと思いこみ、自分が彼の心に占める位置に敏感で彼の愛を失うことを恐れていたから、少しでも冷たくされるとたちまち「ヒステリーになった」。ボースは言う。「このプラヨーグ〔実験〕はガンディー自身にとっての価値は別として、少なくとも相手の心には傷を残した。彼女たちはガンディーの実験に加わる精神的な必要はなかったからだ」ブラフマチャリヤの実験は道徳的に有害ではないかとボースは直言した。これに対してガンディーは、自分を抱いたり隣に寝たりしても悪い影響は受けていないと女性たちが言っていると答えた。ブラフマチャリヤの実験は性の放棄の究極のテストである。のみならずノーアカーリーの暴力に対するヤグニャ〔贖罪〕なのだとガンディーは言った。さらにガンディーは、ボースが彼の女性との関係に「いわれのない疑い」を抱いているのだと非難した。ボースはこの問題に悩み続け、突然ガンディーのもとを去ってカルカッタに帰った。議論は手紙で続けられた。ボースはガンディーの手紙を本に載せている。

 私にとっては女性に触れぬことがブラフマチャリヤなのではない。今していることは私には新しいことではない。……実験の前提に女性の劣等性があるとお考えになるとは驚かざるを得ない。もし私が色情を持ちあるいは相手の同意なく女性を見れば、そのとき女性は劣等者であろう。私の妻は私の欲望の対象だったとき、劣等者であった。私の隣に裸で妹として寝るようになってからは、彼女はもはや劣等者ではなかった。かつてのように妻ではなく他の妹であっても同じことではないか。隣に裸で寝る女性に対して私がみだらなことを考えるなどと思わないでいただきたい。AあるいはB(ボースによる匿名)のヒステリーは私の実験とは関わりがないと思う。彼女たちはこの実験の前から多かれ少なかれヒステリーだったのだ。

 ボースは納得しなかった。彼はフロイトの説をあげて「私たちはしばしば無意識の動機によって全く意識せぬ別の方向に動かされるのです」と返事を書いた。これに対してガンディーは、自分はフロイトという人の著作については少しも知らない、彼の名前は前に一度どこかの教授の口から聞いたことがある、と答えた。ガンディーはフロイトのことをもっと知りたいと言ってきたが、ボースはこの問題をこれ以上追求しなかったようだ。

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2006年2月24日 (金)

ガンディーと使徒たち(3)

 ガンディーの自伝の中で最も有名なのは次の一節だろう。

 恐ろしい夜が来た。十時半か十一時ころだった。私は父の体をさすっていた。叔父が代わってくれると言った。私は喜んですぐに自分の寝室に行った。かわいそうに妻はぐっすりと眠っていた。しかし私が同じ部屋にいて彼女がどうして眠っておれようか。私は妻を起こした。五、六分後、召使がドアをノックした。私は驚愕した。
「起きてください」と召使は言った。
「どうしたんだ?」
「お父様がお亡くなりになりました」
 恥ずかしく惨めだった。私は父の部屋に走った。動物的な欲情が私を盲目にしていなかったならば、私は父の最期を見届けられただろう。父は私の腕の中で、私に体をさすらせながら亡くなっていたはずだ。
 父の最期の瞬間に私は恥ずべき肉欲にふけっていた。これは忘れることのできない、拭い去ることのできない汚点だ。私は限りなく父を愛していた。しかし、私の愛には許し難い欠如があった。私は同じ瞬間に肉欲の虜になっていた。……私が肉欲の絆から解放されるにはなお長い時間が必要だった。肉欲を制するまでに私は多くの試練を経ねばならなかった。

 これは一八八五年のことである。ガンディーは十六歳、結婚後三年たっていた。カストゥルバーイは妊娠後期だった。父の病気は別にしてこのことだけでも自分は妻との性交を慎むべきだったとガンディーは書いている。しかし彼が真剣に性欲を絶つ試みを始めたのは、十五年後、五人目の子供が産まれたあとだった。彼はもう子供は欲しくなかった。そして禁欲だけが道徳的に許される避妊の方法であるとそれ以前から信じていた。彼は妻と別に寝て、疲れ切るまで床につかないことにした。それでも彼は性欲を制することはできなかった。生涯をかけた神の探求がますます彼の心を占めるようになっていたから、彼はブラフマチャリヤ、すなわち絶対的な禁欲の誓いを立てる決意を固めた。ヒンドゥー教の神秘主義者と苦行者の間では、ブラフマチャリヤは究極の自己犠牲と克己の行であり、あらゆる誘惑を退けて神を見いだすための最も確実な方法であると信じられている。しかしこの誓いを立てる力が彼に具わるにはさらに五年を要した。そのとき彼は三十六歳、結婚後二十四年であった。「妻との肉体的関係を絶つことは当初は奇妙なことに思えた」とガンディーは書いている。「しかし私は神の支えを信じて断固として始めた」

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ヴェド・メータ著『ガンディーと使徒たち――偉大なる魂の神話と真実』234-235頁 新評論2004 

 リチャード・アッテンボロー監督の映画『ガンジー』(1983年/米)は必見である。題名役のベン・キングズレーが素晴らしい。この作品は1983年のアカデミー賞で最優秀作品賞、最優秀男優賞、最優秀監督賞などを受賞した。

 しかし、この映画では描かれていない側面もあった。ガンジーのブラフマチャリア(禁欲)の「実験」である。ヴェド・メータは、ガンジーの死後四半世紀を経て、この実験に関わった弟子たちをインタビューして『ガンディーと使徒たち』を書いた。

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2006年2月23日 (木)

柔道か柔術か(4)

 1891年5月4日、シャーロック・ホームズは宿敵モリアーティ教授とライヘンバッハの断崖上で格闘し、二人は取っ組み合ったまま転落して滝壺の底に沈んだ。

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 ところが、3年後の1894年4月5日になって、死んだはずのホームズが突然ワトソンの前に姿を現した。驚いたワトソンは生涯で最初で最後に気絶した。
 どうしてあの深淵から生還することができたのか? むつかしいことではなかった。落ちなかったのだ。
 モリアーティが猛然と掴みかかってきて、二人は崖っぷちでもみ合った。ところがホームズは――

  僕はバリツ、すなわち日本式レスリングを心得ていて、これまでにも随分役に立ったのだ。このときも、僕は相手の掴んでくる手をすり抜けた。彼は恐ろしい悲鳴をあげ、足をばたつかせ空をかきむしった。しかしついにバランスを失って転落した。僕は崖の縁から顔を出した。彼がずっと下の方まで落ちてゆくのが見えた。岩にぶつかって跳ね返り、しぶきを上げて水中に消えた。

  ホームズの生還は「バリツ」のお陰であった。原文をあげておこう。

I have some knowledge, however, of baritsu, or the Japanese system of wrestling, which has more than once been very useful to me. (The Empty House全文はこちら

 OEDのju-jitsuの定義と比べてみよう。バリツとはすなわちジュージツであることは明らかである。(なぜワトソンはバリツなどと書いたのか――これは別の機会に考察したい。)

 シドニー・パジェットによるイラストは、もちろん間違っている。
 ホームズはモリアーティの胴体に腕を回して右手で自分の左手首を握っている。これは日本式レスリングではない。グレコローマン式レスリングのグリップである。これでは相手の掴んでくる手をすり抜けることなどできない。二人で取っ組み合ったまま滝壺に転落するほかはないだろう。 
 実戦的な日本式レスリングでは、こういう場合に使える技があるのだ。モリアーティが猛然と突進してくる。ホームズは相手の押す力に逆らわず、体を沈めて「巴投げ」をかけたに違いない。柔よく剛を制す。まさに柔術の極意であった。

 しかしホームズはいつ、どこで、誰からジュージツを学んだのだろう? (続く)

シャーロック・ホームズについては書斎の死体も見てね。

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2006年2月19日 (日)

柔道か柔術か(3)

 柔道と柔術はどう違うのか。明治時代の日本人はそんなことは考えてもみなかった。
 外国人はどうか? たとえば英語ではどう言っていたか? OED(Oxford English Dictionary)を見てみよう。ご存じのようにOEDは、あらゆる単語の語義の一々について初出年代と出典を明示して用例を並べている。
 

  柔術も柔道もそのまま英語になってOEDの見出しに出ている。
 柔術は見出し語としてはju-jitsuと表記されている。普通はジュージツと発音したことが分かる。
 jiu-jitsu, jiu-jutsu,ju-jitsu, ju-jutsu、およびそれぞれハイフン抜きの形があるとしている。
 初出はジュージツが1875年、ジュードーが1889年である。
 まず、それぞれの定義を見ておこう。

ju-jitusu=A Japanese system of wrestling and physical training, characterrized by the use of certain techniques and holds to overcome an adversary.

ジュージツ=日本式レスリングおよび身体訓練法であって、敵を制する一定の技(techniques and holds--投げ技と固め技)によって特徴づけられるもの

judo=A refined form of ju-jitsu introduced in 1882 by Dr. Jigoro Kano, using principles of movement and balance, and practised as a sport or form of physical exercise.

ジュードー=1882年に嘉納治五郎博士が導入した洗練された形式のジュージツであって、動きとバランスの原理を用い、スポーツまたは体育の一形態として行われるもの

 定義を見る限り、現代の英国人はジュージツとジュードーを区別しているようだ。
 しかし、過去の用例にあたってみると、ジュードーとジュージツは混用されていたことが分かる。

 まず、ジュージツの例
 1875年のJapan Mail 3月10日号に
Jiu-jitsu (wrestling) is also taught, but not much practiced by gentlemen.
 とある。
 1875年は明治8年である。英字新聞ジャパンメールが日本の士族階級(gentlemen)の間ではジュージツすなわちレスリングも教えられていたが、それほど盛んではなかったというのである。それはそうだろう。文明開化に忙しくて柔術どころではなかったはずだ。

 ジュードーの初出は1889年のアジア学会会報日本特集である。
The art of Jiujutsu, from which the present Jiudo has sprung up.
 7年前の1882年に嘉納治五郎が講道館を開いている。
 だからジュージツがジュードーになって、ジュージツという言葉は使われなくなったかというと、そうではないのである。

  1891年、ラフカディオ・ハーンが書いた手紙
A building in which ju-jitsu is taught by Mr. Kano.
 嘉納氏がジュージツを教えている建物、すなわち講道館である。柔道のことをハーンはジュージツと呼んでいる。

 1895年、J. Inoueの書いたWrestlers and Wrestlingという本には
These methods were adopted and extensively practiced by Samurai, and were finally developed into what is now known as Jujitsu.
とある。「現在ジュージツとして知られているもの」というフレーズに注目。
 
 1905年のデイリー・クロニクル2月21日号
Their gymnasium is often visited by ju-jitsu wrestlers.
  ジュージツ・レスラーで英国の新聞読者にはよく分かったらしい。

 同じ1905年、HancockとHigashiのComplete Kano Jiu-Jitsuという本には
Jiudo is the term selected by Professor Kano as describing his system more accurately than jiu-jitsu does.
「嘉納柔術大観」という本を英語で出版したのである。ジュードーという言葉を覚えさせたいのだが、ジュージツという言葉がすでにかなり普及していたのでこちらを使ったのであろう。写真は同書の著者近影。左がKatsukuma Higashi、右がIrving Hancock。

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 やがて日本や日本人とは無関係の文脈でジュージツが使われる例も出てくる。

1925年  N. Venner Imperfect Impostor 
Jos Polkins--enwrapped him in a benevolent jiu jitsu grip that left him powerless to move.

1928年  F. Romer Numbers Up!
"Revenge?--Nothing of the kind. I shall merely practise Moral Jiu-jitsu."
 これは小説の登場人物の台詞だろう。「精神的なジュージツ」という比喩を使っている。ジュージツという言葉が完全に定着したことが分かる。

 ジュージツが英語に定着したのは、英国で柔術を使ってみせた人物(たぶん複数の日本人)がいて、英国人にかなり強烈な印象を与えたからだろう。(続く)

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2006年2月17日 (金)

アルペン・スキーの元祖コナン・ドイル

 アルペン・スキーは100年少し前にコナン・ドイルが始めたことはご存じだろうか?
 シャーロック・ホームズを書いたアーサー・コナン・ドイルである。
 
 コナン・ドイル(1859―1930)は、ストランド・マガジン1891年7月号に載せた『ボヘミアの醜聞』が好評を呼び、暇な開業医からたちまち人気作家になった。翌92年6月号の『ぶな屋敷』までストランドに連載した12の短編は『シャーロック・ホームズの冒険』にまとめられた。
 1892年12月号には『シルバー・ブレーズ』を発表し、翌93年の12月号まで、後に『シャーロック・ホームズの思い出』に収める短編を連載した。
 問題はドイル自身がホームズに嫌気がさしてきたことだった。彼は妻と訪ねたスイスのライヘンバッハの滝で「ホームズにケリをつける」方法を思いつき、1893年12月号の『最後の事件』で実行して見せた。ホームズは1891年5月4日に死亡したとされた。3年後の1894年4月5日に彼はワトソンの前に姿を現し、実はチベットなどにいたと言うのだが、このことをドイルが読者に説明したのは1903年になってからである。

 1894年にコナン・ドイル自身は何をしていたか? 彼は家族とともにスイスに滞在していた。ヘスキス・ピアソンの『コナン・ドイル伝』の第9章「行動の人」のはじめの部分を見てみよう。

 一家は1894年の夏をマローヤで過ごし、冬になってダヴォスに戻ってきた。95年のはじめに、ドイルはあるスポーツをスイスに導入した。これはやがて当地の主要な娯楽となったのであるが、お陰で大もうけした地元住民が先駆者に金銭で報いた形跡はない。それどころか、礼一つ言わなかったようだ。ドイルはナンセンの『スキーによるグリーンランド横断記』に感銘を受け、スイスは理想的なスキー場になると思ったのである。ダヴォスの商人、ブランガー兄弟が彼のスキー熱に感染して、ノルウェーから用具を取り寄せた。何でも火付け役は人気を呼ぶもので、はじめのうち三人が七転び八起きするのを見て住民たちは大いに楽しんだ。しかし一ヶ月たつと彼らはかなり上達して喜劇の段階を脱した。三人はヤコブスホルンに登頂して、ダヴォスの町では彼らに敬意を表して旗が掲げられた。下山路では「ときどき墜落した」が、実に爽快だった。これなら峠を越えてアローザまで行ってみるのも悪くない。冬の間、アローザへ行くには、これまでなら汽車を乗り継いで大回りするほかはなかったのである。しかしスキーのことはまだよく知らなかったから、自分たちの才覚だけが頼りだった。今度は快適どころか、ときには身の毛もよだつ恐怖を味わった。ドイルは自伝にこう書いている。「やがて切り立った断崖があらわれた。夏にはジグザグの道がついているのだろう。ほとんど垂直で、かろうじて雪が積もれるだけの勾配があった。降りるのはとても無理だと思ったが、ここまで来る間にブランガー兄弟は工夫の才を身につけていた。兄弟はスキーを外し、革紐で結び合わせて一種のソリを作った。このソリに腰を下ろし、崖から跳び出すと、すさまじい雪煙を立てて滑り落ちていった。無事下について、今度は私に降りてこいと手招きする。二人にならって私はスキー板に坐り跳び出す準備をした。ところが恐ろしいことが起こった。スキー板が尻の下から逃げ、斜面を滑り落ち、大きく跳びはねながら下の雪の中に消えてしまったのである。何たることだ。ブランガー兄弟は数百フィート下から茫然と私を見上げていた。しかし、ここでどうすればよいかというと、選択肢は一つしかない。私はそれを選んだ。崖の縁から跳び出し、しゃがんだ姿勢のまま落ちていった。勢いを殺すために手と足をできる限り拡げていた。一分後、私は雪まみれになってガイドたちの足下に転がっていた。スキー板は何百ヤードか離れたところで見つかったから、結局何も害はなかったのである」アローザのホテルで宿帳に名前を書くとき、ブランガー兄弟の一人が「コナン・ドイル、シュポルテスマン」と書いた。

 アルペン・スキーの発祥については別の説もあるようだ。
 オーストリアのマチアス・ツダールスキー(1856-1940)もナンセンのグリーンランド横断記(ドイツ語版1891年刊)を読んで感銘を受け、アルプスの急斜面で使えるスキー術を研究した。彼は1897年に著書Die alpine Lilienfelder Skifahrtechnik(アルペン・リリエンフェルト・スキー滑降術)を出版した。これは長い一本杖を持って滑るスキーである。
 コナン・ドイルはこれより2年早くスイスでスキーを始めたのであるから、少なくともアルペン・スキーの創始者の一人であると言うことはできるだろう。

 シャーロック・ホームズについては書斎の死体もご覧下さい。

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3月11日付記 「みっちょん」さん(コメント欄)からコナン・ドイルのスキー姿の写真を見せていただきました。上の写真はそのうちの1枚。やはり一本杖を使ったのですね。隣の女性はドイル夫人でしょう。同氏のサイトThe World of Holmesは必見。東郷元帥がストランド・マガジンに登場していたなど、貴重な情報あり。

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2006年2月16日 (木)

柔道か柔術か(2)

 ブラジリアン柔術というのがありますね。あれは一般に「柔道でなく柔術なのだ」と解されているようだけれど、果たしてそうか?
 ブラジリアン柔術の創始者は、コンデ・コマこと前田光世(1878-1941)である。前田は1898(明治31)年講道館に入門、やがて講道館三羽烏の一人として勇名をはせるようになった。1904(明治37)年に渡米し、レスラーやボクサーと他流試合をして百戦百勝した。やがてブラジルに渡ってグレイシー一族に格闘技を教えた。これがブラジリアン柔術の発祥である。これは今やよく知られていることである。

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  前田光世が教えた格闘技は柔道か柔術か?
 日本語が出来ないブラジル人が柔「道」と柔「術」を区別して、「我々のやっているのは柔道ではなく柔術だ」などと言うはずがない。
 前田自身が自分の技を「柔術」と呼んでいたから、ブラジルでもジュージツになったのである。坊ちゃんや三四郎のように世間一般でも柔道のことを柔術と呼んだし、講道館で柔道を修業する者も「柔術」と言うのが普通だった。むかしは柔道と柔術を特に区別しなかったのだ。(続く)

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2006年2月15日 (水)

柔道か柔術か(1)

 1882(明治15)年、帝大の学生であった嘉納治五郎は、東京下谷稲荷町の永昌寺に講道館を開いて柔道を創始した。
 その後、嘉納の弟子の姿三四郎たちの活躍によって、柔道はたちまち旧来の柔術を駆逐してしまった――黒澤明の「姿三四郎」を見て、こんな風に考えていましたが、これは間違いらしい。
 柔道が急速に普及したことは確かだ。しかし、その柔道は相変わらず「柔術」と呼ばれていたのではないか。
 
 今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは大人しい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道を拵えて待ってるんだから、よっぽど奸物だ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁でなくっちゃ利かないと、瘤だらけの腕をまくってみせた。おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術でもやるかと聞いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっと攫んでみろと云うから、指の先で揉んでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。

 広田先生が病気だというから、三四郎が見舞いに来た。門をはいると、玄関に靴が一足そろえてある。医者かもしれないと思った。いつものとおり勝手口へ回るとだれもいない。のそのそ上がり込んで茶の間へ来ると、座敷で話し声がする。三四郎はしばらくたたずんでいた。手にかなり大きな風呂敷包みをさげている。中には樽柿がいっぱいはいっている。今度来る時は、何か買ってこいと、与次郎の注意があったから、追分の通りで買って来た。すると座敷のうちで、突然どたりばたりという音がした。だれか組打ちを始めたらしい。三四郎は必定喧嘩と思い込んだ。風呂敷包みをさげたまま、仕切りの唐紙を鋭どく一尺ばかりあけてきっとのぞきこんだ。広田先生が茶の袴をはいた大きな男に組み敷かれている。先生は俯伏しの顔をきわどく畳から上げて、三四郎を見たが、にやりと笑いながら、
「やあ、おいで」と言った。上の男はちょっと振り返ったままである。
「先生、失礼ですが、起きてごらんなさい」と言う。なんでも先生の手を逆に取って、肘の関節を表から、膝頭で押さえているらしい。先生は下から、とうてい起きられないむねを答えた。上の男は、それで、手を離して、膝を立てて、袴の襞を正しく、いずまいを直した。見ればりっぱな男である。先生もすぐ起き直った。
「なるほど」と言っている。
「あの流でいくと、むりに逆らったら、腕を折る恐れがあるから、危険です」
 三四郎はこの問答で、はじめて、この両人の今何をしていたかを悟った。
「御病気だそうですが、もうよろしいんですか」
「ええ、もうよろしい」
 三四郎は風呂敷包みを解いて、中にあるものを、二人の間に広げた。
「柿を買って来ました」
 広田先生は書斎へ行って、ナイフを取って来る。三四郎は台所から包丁を持って来た。三人で柿を食いだした。食いながら、先生と知らぬ男はしきりに地方の中学の話を始めた。生活難の事、紛擾の事、一つ所に長くとまっていられぬ事、学科以外に柔術の教師をした事、ある教師は、下駄の台を買って、鼻緒は古いのを、すげかえて、用いられるだけ用いるぐらいにしている事、今度辞職した以上は、容易に口が見つかりそうもない事、やむをえず、それまで妻を国元へ預けた事――なかなか尽きそうもない。

『坊ちゃん』と『三四郎』(姿ではなくて小川三四郎)は、それぞれ1906(明治39)年と1908(明治41年)の発表です。
 山嵐だって広田先生の客だって、修業したのは柔道のはずだが、漱石は柔術と書いている。まだこの時代には柔術と呼ばれていたらしい。
 私など高校で柔道か剣道かどちらかが必修だったから、昔からそうなのかと思っていた。ところが柔剣道が旧制中学で正科必修となったのはようやく1931(昭和6年)のことである。
 明治時代には、柔道にしろ柔術にしろそんな古くさいものをやっておれるかという雰囲気があったらしい。
 だから嘉納治五郎の講道館は柔道/柔術の修業の機会を与えて大いに歓迎された。柔道と柔術の敵対や反目はなかったし、そもそも両者の区別がなかったのである。(この項続く)

  柔道か柔術かは断続的に(11)まで続きます。カテゴリの「格闘技」も見てください。

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2006年2月11日 (土)

漱石・猫・探偵

 何探偵?――もってのほかの事である。およそ世の中に何が賤しい家業だと云って探偵と高利貸ほど下等な職はないと思っている。なるほど寒月君のために猫にあるまじきほどの義侠心を起して、一度は金田家の動静を余所ながら窺った事はあるが、それはただの一遍で、その後は決して猫の良心に恥ずるような陋劣な振舞を致した事はない。

「アハハハ君は刑事を大変尊敬するね。つねにああ云う恭謙な態度を持ってるといい男だが、君は巡査だけに鄭寧なんだから困る」
「だってせっかく知らせて来てくれたんじゃないか」
「知らせに来るったって、先は商売だよ。当り前にあしらってりゃ沢山だ」
「しかしただの商売じゃない」
「無論ただの商売じゃない。探偵と云ういけすかない商売さ。あたり前の商売より下等だね」
「君そんな事を云うと、ひどい目に逢うぜ」

 もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に行かないものだ。願くばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構をもって良民を罪に陥れる事さえあるそうだ。良民が金を出して雇っておく者が、雇主を罪にするなどときてはこれまた立派な気狂である。

「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。そんな奴の云う事を聞くと癖になる。決して負けるな」
「なに大丈夫です、探偵の千人や二千人、風上に隊伍を整えて襲撃したって怖くはありません。珠磨りの名人理学士水島寒月でさあ」
「ひやひや見上げたものだ。さすが新婚学士ほどあって元気旺盛なものだね。しかし苦沙弥さん。探偵がスリ、泥棒、強盗の同類なら、その探偵を使う金田君のごときものは何の同類だろう」
「熊坂長範くらいなものだろう」
「熊坂はよかったね。一つと見えたる長範が二つになってぞ失せにけりと云うが、あんな烏金で身代をつくった向横丁の長範なんかは業つく張りの、慾張り屋だから、いくつになっても失せる気遣はないぜ。あんな奴につかまったら因果だよ。生涯たたるよ、寒月君用心したまえ」
「なあに、いいですよ。ああら物々し盗人よ。手並はさきにも知りつらん。それにも懲りず打ち入るかって、ひどい目に合せてやりまさあ」と寒月君は自若として宝生流に気焔を吐いて見せる。
「探偵と云えば二十世紀の人間はたいてい探偵のようになる傾向があるが、どう云う訳だろう」と独仙君は独仙君だけに時局問題には関係のない超然たる質問を呈出した。
「物価が高いせいでしょう」と寒月君が答える。
「芸術趣味を解しないからでしょう」と東風君が答える。
「人間に文明の角が生えて、金米糖のようにいらいらするからさ」と迷亭君が答える。
 今度は主人の番である。主人はもったい振った口調で、こんな議論を始めた。
「それは僕が大分考えた事だ。僕の解釈によると当世人の探偵的傾向は全く個人の自覚心の強過ぎるのが原因になっている。僕の自覚心と名づけるのは独仙君の方で云う、見性成仏とか、自己は天地と同一体だとか云う悟道の類ではない。……」
「おや大分むずかしくなって来たようだ。苦沙弥君、君にしてそんな大議論を舌頭に弄する以上は、かく申す迷亭も憚りながら御あとで現代の文明に対する不平を堂々と云うよ」
「勝手に云うがいい、云う事もない癖に」
「ところがある。大にある。君なぞはせんだっては刑事巡査を神のごとく敬い、また今日は探偵をスリ泥棒に比し、まるで矛盾の変怪だが、僕などは終始一貫父母未生以前からただ今に至るまで、かつて自説を変じた事のない男だ」
「刑事は刑事だ。探偵は探偵だ。せんだってはせんだってで今日は今日だ。自説が変らないのは発達しない証拠だ。下愚は移らずと云うのは君の事だ。……」
「これはきびしい。探偵もそうまともにくると可愛いところがある」
「おれが探偵」
「探偵でないから、正直でいいと云うのだよ。喧嘩はおやめおやめ。さあ。その大議論のあとを拝聴しよう」
「今の人の自覚心と云うのは自己と他人の間に截然たる利害の鴻溝があると云う事を知り過ぎていると云う事だ。そうしてこの自覚心なるものは文明が進むにしたがって一日一日と鋭敏になって行くから、しまいには一挙手一投足も自然天然とは出来ないようになる。ヘンレーと云う人がスチーヴンソンを評して彼は鏡のかかった部屋に入って、鏡の前を通る毎に自己の影を写して見なければ気が済まぬほど瞬時も自己を忘るる事の出来ない人だと評したのは、よく今日の趨勢を言いあらわしている。寝てもおれ、覚めてもおれ、このおれが至るところにつけまつわっているから、人間の行為言動が人工的にコセつくばかり、自分で窮屈になるばかり、世の中が苦しくなるばかり、ちょうど見合をする若い男女の心持ちで朝から晩までくらさなければならない。悠々とか従容とか云う字は劃があって意味のない言葉になってしまう。この点において今代の人は探偵的である。泥棒的である。探偵は人の目を掠めて自分だけうまい事をしようと云う商売だから、勢自覚心が強くならなくては出来ん。泥棒も捕まるか、見つかるかと云う心配が念頭を離れる事がないから、勢自覚心が強くならざるを得ない。今の人はどうしたら己れの利になるか、損になるかと寝ても醒めても考えつづけだから、勢探偵泥棒と同じく自覚心が強くならざるを得ない。二六時中キョトキョト、コソコソして墓に入るまで一刻の安心も得ないのは今の人の心だ。文明の咒詛だ。馬鹿馬鹿しい」
(Special thanks to 青空文庫

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2006年2月10日 (金)

高島俊男先生

 五十年あまりむかし、毛沢東のことを「けざわあずま」と言って物笑いのタネになった国会議員がいたそうな。
 「井真成【せいしんせい】」はたしかに日本人であるが、しかしこの名前は、この人が唐の都長安で名乗っていた中国名前なのである。つまり名前の点では中国人とおなじなのだ。
 中国人の名前は漢字の音でよむ、というのは日本の常識である。小学生でも関羽を「せきはね」と言ったり張飛を「はりとび」と言ったりする子はいない(と思う)。
 井真成を「いのまなり」と言ったりするのは、その知力小学生以下、けざわあずま国会議員とチョボチョボの、饅頭屋の親父くらいのものかと思っていたら、なんと日本古代史専攻の学者でそう言ったり書いたりしているのがいるんだそうだ。
 饅頭屋にたのまれてチンドン屋を買って出たのかな?
 いっぺん顔が見たいものだ。

 週刊文春の高島俊男先生の連載「お言葉ですが…」522回「井真成という呼び名」の出だしの部分です。2月16日号に載っていますから、あとは買ってお読み下さい。
 しかし、なんと小気味のいい悪態のつきかたなんだろう。この先生はいつでもこういう調子ですね。怖いものがないらしい。週刊文春の編集部も偉いね。日本古代史専攻の学者なんぞはどうでいいが、饅頭屋やチンドン屋が故障を申し入れないだろうか? 「全日本饅頭製造業連盟」か何かが「差別だ」と抗議してきたらどうするんだろう。
 「いっぺん顔が見たいものだ」の次の段落は、
この「井真成」は現代漢語音でXXXX、国際表記では多分YYYYということになるだろう。(XXXXとYYYYはそれぞれローマ字による複雑な発音表記。雑誌を見てください。)日本ではむかしから日本漢字音の漢音で言うのが慣習だから、セイシンセイということになるわけだ。
 と、一転して学問的になる。
 この本論の部分がむつかしくてよく分からないのですね。当方の学がないのがよくないのですが、話が高級すぎる。週刊誌のページでは無理です。次回からもっとやさしい話になるそうです。
 しかし、中国語をやっている人はうらやましいな。英語だと、どうしても土着英語話者には敵わないという意識がある。中国語の場合は、もちろん高島先生のようにしっかり勉強した場合だけれど、中国人の学者が相手でも「あいつは馬鹿だ」と言うことができる。何しろ古典の知識がものをいう言葉だから。
 高島先生の本は、『お言葉ですが…』シリーズのほか、『本が好き、悪口言うのはもっと好き』など何でも読む値打ちがあります。絶対おすすめです。痛快です。

 学識はとうてい敵わないけれど、「本が好き、悪口いうのはもっと好き」という点では、はばかりながら私も同じです。これから私も人の翻訳の悪口を大いに言うつもりです。「翻訳者なんかやめて、饅頭屋かチンドン屋になれ」なんて言うかもしれない。悪しからず。
 
 

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2006年2月 9日 (木)

原文が間違っている!

 翻訳すべき原文が間違っていることがありますね。そういう場合、翻訳者の皆さん、どうしていますか?
  私が手がけた『ガンディーと使徒たち』の翻訳では、著者の記憶違いで年号が間違っている箇所があった。これはもちろん黙って正しい年号に直しておきました。

  村上春樹の『羊をめぐる冒険』の英訳A Wild Sheep Chase(translated by Alfred Birnbaum)は、かなり省略があって少々乱暴な訳です。誤訳もある。自動車の「セリカ」をわざわざNissan Celicaと訳しているのなどは、まあご愛敬でしょうが。
 しかしBirnbaumさんが村上さんの間違いを訂正している箇所もあります。

「一九三四年に羊博士は東京に呼び戻され、陸軍の若い将官に引き合わされた。将官は来るべき中国大陸北部における軍の大規模な展開に向けて羊毛の自給自足体制を確立していただきたい、と言った。」
 
 どこが間違いか、分かりますか? はい、「若い将官」が間違いですね。将官というのは、もちろん大将、中将、少将を言う。五十歳くらいにならないと大日本帝国陸軍の少将にはなれなかったはず。若い「将校」のつもりでうっかり「将官」と書いてしまったのでしょう。後にノモンハン事件を調べて『ねじ巻き鳥クロニクル』を書くことになる村上さんも、このころはまだ若くて昔の軍隊のことなどよく知らなかったらしい。
 英訳は
In 1934, the Sheep Professor was called back to Tokyo and was introduced to a young army officer. For the big, immiment North China campaign, the Sheep Profesor was asked to establish a self-sufficiency program based on sheep.

  a young army officerとなっています。将官をそのまま訳せばgeneralになるところ。なお、羊博士をSheep Professorと訳してあるのは誤訳ではありません。英語のDoctorはそんなに偉くないので、ここはProfessorでなければならない。
「羊毛の自給自足体制を確立」をto establish a self-sufficiency program based on sheepは、微妙にずれているような気もする。少なくとも私には書けない英語だ。これが英語らしい英語なのだろうか? 英米人にはもう一人の翻訳者Jay RubinよりもBirnbaumの文章の方がよいという人もいるようだけど、どんなものだろう?

今度は同じ箇所を、ドイツ語訳 Wilde Schafsjagdで見てみましょう。

1934 wurde er nach Tokyo zurueckbeordert und einem jungen Armeegeneral vorgestellt. Angesichts des bevorstehenden grossangelegten Vormarschs der Armee nach Nordchina beauftragte der General ihn mit der Plannung und Durchfuerung eines Selbstversorgunssystems fuer Schafwolle.  (ウムラウトをeで置き換えた。)

「将官」の訳語は、ArmeegeneralとGeneralになっています。ドイツ語の訳者はJuergen Stalphという人ですが、この人に限らず、ドイツ人は律儀に直訳する傾向がある。「来るべき中国大陸北部における軍の大規模な展開に向けて」など、Angesichts以下できちんと訳してあります。しかし、原文の間違いには気がつかなかった。
 なぜ気がつかなかったかというと、無理もない事情があるのです。ドイツ国防軍では「若い将官」は特に珍しくなかったからです。日本の場合、昇進は徹頭徹尾、年功序列だったけれども、ドイツでは、特にヒトラーが総統になって以降は、三十代前半で少将に抜擢されるケースがかなりあったようです。
 ドイツの「若い将官」ならば、「羊毛の自給自足体制確立」というような実務にも自分で取り組んだでしょう。しかし旧日本軍では、将軍は閣下として祭り上げられていて、何でも佐官クラスが取り仕切っていた。ノモンハン事件(1939年)も、少佐参謀だった辻正信が主導権を握って関東軍を引き回して起こしたらしい。
 1934年に羊博士と接触したという若い「将校」も、せいぜい少佐くらいでしょう。ひょっとしたら辻正信本人だったかも知れない。まだ大尉か中尉くらいだったでしょうが。
 この辺の事情は、なかなか外国人には分からない。英訳者のBirnbaumさんはあまり細かいことにこだわらずに勢いで訳してしまうので、ときどき間違いもあるのだけれど、この場合は怪我の功名だったのでしょう。

 産業翻訳、特に日本語から英語への翻訳では、原文の間違いは毎回のようにありますね。
 翻訳者にも「守秘義務」があるので、むやみに例を挙げられませんが、sourceが特定できないものなら構わないでしょう。

 某大企業の会長の挨拶の原稿ですが、どこが間違いか分かりますか?

「本日はXXXXの開会式に、文仁親王・同妃、両殿下のご臨席を賜り……」

 もちろん「文仁親王・同妃、両殿下」がおかしいのです。昔なら不敬罪ものだ。皇族のお名前をむやみに呼ぶものではない。ましてや、この場合はご本人が目の前においでになるのだ。当然「秋篠宮両殿下」でなければならない。
 女性週刊誌やテレビで「雅子様」「紀子様」「愛子様」などと言うのは仕方がない。しかし、大企業の総務部員ともあろうものが、これくらいの常識がなくては困る。右翼の街宣車が来たらどうするつもりだ。普通の人だって、たとえば「山田課長」の代わりに「太郎さん」なんて呼ばれればムッとするでしょう――というような話をして、原文を直してもらいました。

 ところで、一昨日のニュースによれば「秋篠宮妃殿下紀子様はご懐妊なさった」そうですね。おめでとうございます。
 

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2006年2月 8日 (水)

明智小五郎からシャーロック・ホームズへ

 明智小五郎(生没年不詳)がシャーロック・ホームズ(1854ー?)に宛てて書いたと思われる手紙を発見しましたので、ご報告します。

出典はちゃんとしたものです。ペーパーバックで240頁の本で、Amazon.ukで入手できます。
Letters to Sherlock Holmes, Richard Lancelyn (Editor), Penguin Books Ltd. 1985
の146頁に出ています。

                          Bunkyo-ku,Tokyo, Japan

My Dear Mr Holmes,

I'm a private detective and I have cleared up many mysterious affairs, but the affair which I investigate now is so difficult. It's out of my hand. So I have a favour to ask of you. I hear you are one of the best detectives in the world. Would you mind coming to Japan to help me?
  Thank you in anticipation.

  Yours truly,
              Kogoro Akechi

 [翻訳]
                                  東京都文京区
親愛なるシャーロック・ホームズ様

私は私立探偵であり、数多くの奇怪な事件を解決してまいりました。しかし現在手掛けている事件は困難を極めております。私の手には負えません。そこでお願いがあります。あなたは世界一の探偵であるとうかがっております。日本に来て私を助けていただけませんか?
前もって御礼申し上げます。

敬具
     明智小五郎

 手紙に年月日が書いてないのが残念ですね。私立探偵明智小五郎がはじめて登場したのは、1925年の「D坂の殺人事件」です。「私はすでに数多くの奇怪な事件を解決しました」というのだから、この手紙を書いたのはそれから数年たってからでしょう。
 ホームズの活躍した事件として記録に残っているのは、 His Last Bowが最後でした。これは1914年8月2日に起きた事件であり、1854年生まれのホームズはこのとき60歳になっていた。ちなみに、翌8月3日にイギリスはドイツに宣戦布告しています。
 1925年以降になると、ホームズはもう70歳を越えているわけで、リウマチに悩んでいるという噂もあり、明智探偵の要請に応えることはむつかしかったかも知れない。
 しかし、あの明智小五郎にも手に負えない事件とは、何だったのだろう。あるいはかの怪人二十面相が絡んだ事件だったかも知れないですね。
 しかし、神出鬼没のホームズのことだから、あるいはお忍びで来日したかも知れない。「怪人二十面相対ホームズ」の冒険の記録がどこかに残っていないだろうか?
 手紙の差出人住所は東京都文京区となっていますが、これは団子坂何番地まで書いてあったのを、編者が削除してしまったものと思われます。ほかの手紙も差出人に迷惑がかからないように、番地などは削除してあります。
 明智探偵の助手であった小林少年ご本人か、その縁者などがまだご健在ではないでしょうか。何か資料があったら是非提供していただきたいものです。

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2006年2月 7日 (火)

Watsonはワトソンかワトスンか?

 もちろん私は延原謙氏の功績を認めるにやぶさかではない。シャーロック・ホームズは夏目漱石より一回り以上も年上なのだから、仮に日本語で話すとすれば、新潮文庫の延原謙訳のような古風な言葉遣いをするはずだと思う。(某氏のように変な日本語をホームズにしゃべらせるのは犯罪だと思う。)
 
 しかし氏がホームズの親友にしてパートナーであるWatsonを「ワトスン」と表記しているのには、賛成できない。これは「ワトソン」でなければならないと思う。
 発明王「エディスン」なんて言いますか? 下宿の女将は「ハドスン夫人」でまあよいとしても、ニューヨーク州東部を流れているのはやはり「ハドソン川」でしょう。
 アイリーン・アドラーはボヘミア王ヴィルヘルム・ジュゲムジュゲムを(仲良くしていたときは)「ウィリー」と呼んだはずだ。「ディオゲネス」クラブはホームズもマイクロフトも「ダイオジニーズ」と発音した。『武器よさらば』のフレデリック・ヘンリーはイタリア人に「あんたがフェデリコ・エンリコか」と言われる。構造主義の親玉レヴィ=ストロースがアメリカに渡れば、ジーンズのリーバイスになってしまう。
 何が言いたいのかというと、どの国語でも固有名詞には「読み癖」があるということです。日本語なら日本語の音韻体系の中でおさまりがよいように、たとえば阪神「タイガーズ」ではなく「タイガース」と発音する。同じようにワトスンではなくワトソンと言うのだから、そう書くべきだ。原音に忠実な方がよい? 英語で話していて "Elementary, my dear Watson!"なんてことを言う機会がもしあれば、そのときは純英国式に発音すればよろしい。しかし日本語でしゃべるときにカタカナの「ワトスン」という発音をするのはちょっと変だ(「ウォトスン」に至っては論外だ)と思う。
 ところがちくま文庫版を除いて、正典の訳はどれも延原氏に追随している。外典(「最近発見された原稿」と称するものですね)を訳す人も例外なく「ワトスン」と書いているようだ。なかには同じ訳者が大人向けには「ワトスン」、児童向けには「ワトソン」と使い分けていることもある。不見識も甚だしいと言わねばならない。
 私は日本語として自然な「ワトソン」に固執したい。これからホームズ物を訳す人も、できれば「ワトソン」と書いていただきたいものです。

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ドクター・ワトソンのクリスチャン・ネーム

           ドロシー・セイヤーズ
            
 ドクター・ワトソンについては、友達が少々びっくりし敵は意地悪い笑みを浮かべる事実がある。ワトソン夫人*がどうやら夫の名前を知らなかったらしいことである。ワトソンのクリスチャン・ネームがジョンであることには疑問の余地がない。『緋色の研究』の扉にはJohn H. Watsonという名前が大きな文字で麗々しく印刷してある。ワトソンは処女作の出版を大いに誇りに思っただろう。校正刷を見てもし他人の名前になっていたら直さないはずがない。ところが1891年に同じワトソンが発表した『唇のねじれた男』では、ワトソン夫人が夫を「ジェームズ」と呼んでいるではないか。
 H・W・ベル氏は、この「ジェームズ」は単なる誤植だと主張する(『シャーロック・ホームズとドクター・ワトソン』66頁注2)。「ワトソンは校正にはあまり注意を払わなかった」というのである。その通りかも知れないが、一度でもゲラに目を通せば、まさか自分の名前が間違っているのを見逃しはしない。別人扱いされて平気なはずがない。それに1891年12月にはメアリー・ワトソンが存命だったのである。メアリーは、愛する夫の作品がストランド・マガジンに出ればすぐ読んだはずで、夫の名前も覚えられない女だと思われては困るから、もし間違いなら直させただろう。ワトソンは迂闊な人で、その前の月には妻のことで小さなミスをしている。『五つのオレンジの種』の事件の間、妻は「母親のところへ行っていた」と書いてしまったのである。ワトソン夫人は言うまでもなく孤児であったから(『四つの署名』)、当然この間違いを指摘した。その証拠に翌1892年刊行の『シャーロック・ホームズの冒険』ではmotherがauntに直してある。年月日や歴史的事実のような詰まらぬことはさておき、家庭に関ることになれば彼女は黙っていなかった。ところがJamesという名前は、以後の判でもずっとそのままになっているのである。
 これをどう説明すればよいのか?
 解決は、これまで研究者がほとんど顧みなかった方向に求めねばならない。ワトソンの第二のクリスチャン・ネームという問題の浅薄疎漏な取り扱いは、ホームズ学研究史上の一大汚点であると言わねばならない。
 S・C・ロバーツ氏は、ワトソンの母親は「オックスフォード運動*に傾倒する敬虔な女性であった」と言うが(『ワトソン博士伝』9頁)、証拠は何一つ挙げていない。ワトソンが偉大なニューマンの名前を貰って「ジョン・ヘンリー」と名付けられたという推定を持ち出したいがためにこう言うに過ぎないのである。仮にワトソンの性格にオックスフォード運動への共感が(あるいは逆に反発でもよいが)窺われれば、この推定にも意味があるだろう。母が熱心な信徒なら息子によかれ悪しかれ影響を与えるはずだから。ところがワトソンの宗教観は無色透明である。我々はホームズの信仰についてもほとんど知らないのであるが、ワトソンのことはまったく分からない。この仮説は取り上げるに値しない。
 手堅い考証で知られるH・W・ベル氏もニューマン説を退けている。「ニューマンがカトリックになったのは1845年である。ロバーツ氏がワトソン生誕の年とされる1852年よりも7年も前のことなのである。仮に母親がオックスフォード運動に関っていたとしても、改宗者の名前を息子につけるはずがない」というのである(『シャーロック・ホームズとドクター・ワトソン』前掲箇所)。しかしこの記述は「ジェームズ」という名前に関する注の一部なのだが、ベル氏はここで問題を自分で解決しようとはしない。本当の解決にあと一歩のところまで来ていて、もう一押しすればよかったのである。ところが氏は「ジェームズ」を誤植として片付けてしまったから、ワトソンはかわいそうに笑い物になったままである。
 T・S・ブレイクニー氏の主張はさらに馬鹿げている。氏はジェームズとジョンの「ワトソン二人説」を持ち出し、J・M・ロバートソン氏の説を援用して「本物のジョン・ヘンリー・ワトソンの手になる核心部分と偽ワトソンによる添加部分を区別しなければならない」と言うのである。ジョン・ヘンリー・ワトソンが憶測に過ぎないことはイエス・バラバ*と同様であることを忘れて、架空の名前で身元を保証しようとする。没論理も甚だしい*と言わねばならない。
 事実から引き出すことのできる結論は一つしかない。「ジェームズ」と妻が呼び、頭文字がHである――これが両立できる名前はただ一つである。ワトソンのフルネームはJohn Hamish Watsonなのである。
 Hamishはスコットランド人の名前であるが、イングランドのJamesがスコットランドではHamishになることは言うまでもない。ドクター・ワトソンにスコットランド人の名前がついていても驚く必要はない。むろん彼は歴としたイングランド人であるが、同胞の多くと同様に先祖をたどればスコットランド人がいても不思議ではないのである。雑種の血統を誇るのはたぶん世界でイングランド人だけだろう。「百パーセントのイングランド人」などという言葉は、本物のイングランド人なら決して口にしない。混血が強みだと思っているからだ。スコットランド人、ウェールズ人、アイルランド人、ユダヤ人は血統の純粋性にこだわる。混血によって民族性が失われると思うからだ。しかしイングランドの血は強い。一滴でも混じればイングランド人になるのである。先祖にスコットランド人が百人いても、母親がスコットランド人だったとしても、ドクター・ワトソンがイングランド人であることは揺るがない。
 単なる仮定ではなく、実際にワトソンがスコットランドの血を引いている可能性もある。微少ながら証拠らしきものもある。『恐怖の谷』の冒頭でホームズが「参った。これは一本取られたねえ。君も近頃なかなか食えない奴になってきたね、ワトソン。僕もこれからは用心しなくっちゃ。A touch! A distinct touch! You are developing a certain unexpected vein of pawky humour, against which I must learn to guard myself.」と嘆いてみせるところがあるが、ここで「食えないpawky」というスコットランド語を使っているのは偶然ではないだろう。ホームズは民族的性格については鋭い観察者だった。ワトソンの母親はスコットランド人だった(ただし北西部の高地*ではなく東部の出身)かも知れないのである。この場合は、息子にスコットランド式の名前をつけたとしても不思議ではないだろう。
 しかし名前がスコットランド風だからといって、スコットランド系だと決めてしまう必要もないのである。イングランド人はとにかく異国風のものが好きで、自分の家系でさえ混血にしてしまおうとする。民族的偏見にとらわれるのは愚かしいと思っているから、洒落ていて詩的だと思えば平気で異国の名前をつける。ロンドンの郊外にはダグラスもドナルドもマルコムもイアンも多いが、たいていスコットランドとは縁もゆかりもないのである。パトリックもブライアンもシーラもアイルランド系とは限らない。グラディスが「私の名前はGladysではなくてGwladysと綴るのよ」などと言っても、まず単なる気まぐれで別に先祖伝来の名前というわけではない。ジョン・ハミッシュ・ワトソンという組み合わせも特に変ではないのである。
 妻が夫を呼ぶのにファーストネームではなくセカンドネームを使うのも珍しいことではない。自分が夫を呼ぶ名前はほかの誰も知らない――これは素敵なことではないだろうか。それにワトソン夫人はジョンという名前が嫌いだったのかも知れない。父親の死をもたらしたジョン・ショルト少佐を連想させるからである。「ジョニー」と呼んでも同じことである。それにまともなセンスのある人なら、まさかドクター・ワトソンを「ジョニー」呼ばわりはしない。「ジャック」ならば特に悪くもないようだけれども、彼女にはこれでも軽すぎるという気がしたのだろう。おそらく「ジョン」やその派生形は一切使いたくないと思ったのではないか。とすると「ハミッシュ」と呼ぶか愛称を使うしかない。しかし「ハミッシュ」は少々仰々しい。これを「ジェームズ」とイングランド式に直してしまえば、愛称が同時に本名だということになる。ほかの誰も自分の夫をこの名前では呼ばない。普通の愛称のように浮ついた響きもない。堅実で沈着な夫にはぴったりの名前ではないか。
 ドクター・ワトソンの方も、三年もの間「ジェームズ」と呼ばれるのに慣れていたから、愛妻との会話を描くとき、思わずこの名前を書いてしまったのだろう。事情を知らぬ読者が変に思うかも知れぬことは忘れていたのである。ワトソン夫人もこれを訂正しなかった。彼女にとってワトソンはいつも「私のジェームズ」だった。別の名前で呼ぶなんて不自然で下品なのだ。ストランド・マガジンのページを繰りながらワトソン夫人は微笑んだに違いない。自分たちの家庭がそのまま活字で再現されているのだから。

*ワトソン夫人(原注) ワトソン夫人とは、むろん最初の妻でありただ一人の恋人であったメアリー(旧姓モースタン)である。最近一つの陰謀が進行中らしい。ワトソンに複数の(ヘンリー八世並に多くの)妻をあてがおうとする陰謀である。あるいは複数だったかも知れない。しかし、ワトソン自身がその名を口にした女性、彼の心に永遠の愛を残した女性は、ただ一人だった。

*オックスフォード運動(訳注) 1830年代からオックスフォード大学の英国国教会聖職者たちによって行われた信仰復興運動。中心人物のジョン・ヘンリー・ニューマン(1801-90)が1845年にカトリックに改宗して分裂した。ニューマンは1879年に枢機卿に叙せられた。

*イエス・バラバ(訳注) マタイ伝第27章
祭りの時には、総督、群衆の望みにまかせて、囚人一人を之に赦す例あり。ここにバラバといふ隠れなき囚人あり。されば人々の集まれる時、ピラト言ふ「なんぢら我が誰を赦さんことを願ふか。バラバなるか、キリストと称ふるイエスなるか」
Now at that feast the governor was wont to release unto the people a prisoner, whom they would. And they had then a notable prisoner, called Barabbas. Therefore when they were gathered together, Pilate said unto them, Whom will ye that I release unto you?  [Jesus] Barabbas, or Jesus which is called Christ?
マタイ伝のテキストにJesus Barabbas (ギリシャ語Iesous ton Barabbas)とバラバの前にイエスがついている版がある。これを根拠に「イエス・バラバ」という名前の殺人犯(マルコ伝15章、ルカ伝23章)あるいは盗賊(ヨハネ伝18章)がいたという説をなす者があるが、正統な解釈ではないとされている。

*没論理も甚だしい(原注) S・C・ロバーツ氏も直ちにこの「客観的データと推測の混同」を指摘して厳しく批判している。(1932年10月30日付オブザーバー紙)

*北西部の高地(原注) 北西部高地出身のいわゆるハイランダーならばケルト人である。気が短くて詩的で生真面目で、要するにワトソンとは正反対の性格を示すのがケルト人である。しんねりむっつりで食えない(dour and pawky)のは、スコットランドでも東部のアバディーン側の特徴である。

(原注) 「ジェームズ」と「ハミッシュ」の交換可能性は、ウッド夫人の小説『チャニングズ家の人々』に「長男のジェームズはいつもハミッシュと呼ばれていた」とあるのを見ても分かる。この小説は1890年代のベストセラーであった(1895年までに15万部が売れた)から、ワトソン夫人もここからヒントを得たのかも知れない。

Dorothy Sayers, "Dr. Watson's Christian Name," in Unpopular Opinions, Victor Gollancz Ltd., 1946, pp. 148-151

ドロシー・セイヤーズについては

http://www.aga-search.com/113dorothyl.sayers.html

をご覧下さい。行き届いた紹介があります。

このサイト「ミステリー・推理小説データベース」を作成しているのはどういう人でしょうか? 偉い人がいるものだ。

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2006年2月 6日 (月)

雪国の英訳

 川端康成の雪国の冒頭の文
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
が、サイデンステッカーによる英訳では
The train came out of the long tunnel into the snow country.
となっていることは割合よく知られています。
原文にはないThe trainが主語の位置に出しゃばってきている。
 続いて第2文「夜の底が白くなった。」
は直訳すればThe bottom of the night turned white.というような英語になりそうなものですが、これでは拙いのだそうで、
The earth lay white under the night sky.
となっている。
 この点については昔から色々議論があるようですね。
Googleで「雪国」と「英訳」で検索してみると
言問い亭9月号(2005年)
http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/kototoi/2005_9.html
というサイトがトップになる。
 何でも2005年9月17日、18日にお茶の水大学で開かれた認知言語学会の大会で、この問題が取り上げられたのだそうです。以下引用

 国際基督教大学の小澤伊久美先生は、「国境の長いトンネルを(話者が)抜けると、そこは雪国であったという気づきがある。雪国はすでにそこに存在していたが、そのことを、話者は自分自身のイマココ(今此処)に結びつけ、イマココでようやく認知したという表現である。」と説明しました。つまり、話者(筆者)の心の中の「長いトンネルを今抜けたようだな。ああ、雪国だ。」という認識がそのまま文章に直接表現されているわけです。もちろん、時制が過去形ですから、過去のある時点での心の動きを述べています。これに対して、英訳では「列車は長いトンネルを出て雪国へ入った。」となっていますから、筆者の視点はトンネルを見下ろす外部の地点にあり、あくまで客観的、第三者的に記述しています。主語の「train」に定冠詞「the」が付いていることから、かろうじて、この汽車に主人公が乗っているか、あるいはこの汽車が何か重要な役割を果たすのではないかということが想像されます。

 少し省略してまた引用。
 小澤先生の解説を引用すると、「日本語原文では、引用符号の有無にかかわらず、登場人物の発話と内言そして物語の話者の内言のみによってなりたっているのだとも言えるだろう。」「英語訳では、この物語世界には存在しない話者(あるいは神のような客観的視点を持った話者)が語る文章が地の文を構成し、物語世界の渦中において発話された言葉は登場人物の発話ないし内言として表現されている」ということになります。

 この大会では、英訳の他に5種類の中国語訳も参照して議論を進めたそうです。色々と名論卓説が出たようだが、そんなに大層な議論が必要な問題なのだろうか? 議論する前にそもそもデータが足りないのではないだろうか?

 第一の疑問――英語では他に言い方がないのだろうか? サイデンステッカーの訳が絶対なのか? 中国語では5種類も訳があるというではないか? James Kirkupという人がthe trainを主語に使わないでこの文を訳しているという話を聞いた覚えがあるのですが、どなたがご存じありませんか?

 第二の疑問――英語と中国語以外の外国語ではどう訳されているのか? ノーベル賞をもらったのだから、独訳や仏訳などもあるのではないか? 調べてみると少なくともドイツ語訳は出版されているらしい。Yasunari KawabataのSchneelandはAmazon.deで買うことができる。しかし、この一文を調べるためにわざわざ取り寄せる気はしない。どなたかドイツ語訳を読んだ方はおられませんか?

 ドイツ語ではどういう風になるかをだいたい想像してみると、

Man hatte den Grenztunnel durchgegangen, man fand sich in dem Schneeland.

というようなことになるのではなかろうか? このドイツ語にはもう一つ自信がないけれども、少なくともZug (=train)のような「列車」にあたる単語は使わなくでも翻訳できるはずだとは言えそうだ。

 シャーロック・ホームズも言っているではないか?

It is a capital mistake to theorize before one has data. Insensibly one begins to twist facts to suit theories, instead of theories to suit facts.

 翻訳についても、具体的なデータを十分に揃えないでtheorizeするほど危険なことはないのである。

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2006年2月 5日 (日)

ヘスキス・ピアソンのドイル伝

 ドクター・ワトソンのliterary agentであったアーサー・コナン・ドイル(1959-1930)の伝記としては

John Dickson Carr: The Life of Sir Arthur Conan Doyle, John Murray, 1949
早川書房『コナン・ドイル』大久保康雄訳 1962
Julian Symons: Portrait of an Artist - Conan Doyle, Whizzard Press, 1979
東京創元社『コナン・ドイル』深町眞理子訳 1984
という二大作家による伝記がすでに刊行されているが、英国では依然としてベストの伝記と見なされているものが未訳である。

Hesketh Pearson: Conan Doyle, His Life and Art
First published in Great Britain by Methuen & Co., Ltd in 1943

 1943年本書が刊行されたとき、グレアム・グリーン(1904-1991)が次のような書評を寄せている。私が持っている1987年版のペーパーバックではこの書評が序文になっている。

『コナン・ドイル伝』 グレアム・グリーンによる序文
ポーカーフェース

 バーのカウンターの後ろに掛かった絵や写真などでよく見た顔である。広く白い額、その上の一刷毛の髪、先を尖らせた物々しい口髭、じっとこちらを見つめる快活そうな眼。これは宴席では大いに人を楽しませるが悪ふざけになればぴしゃりと止めさせる男だ。服装はダークスーツ(上着は四つボタン)とよく磨いたブーツである。シャーロック・ホームズならば、このいかにも磊落そのものの外見から、推理によってあの奇怪な真実に迫ることができただろうか。
 ヘスキス・ピアソン氏は、この尋常ならざる伝記をいつものように見事に率直に語る。伝記作家としてのピアソン氏にはジョンソン博士に通じる特質があって、叙述は端的で誠実であり、背後には常に普通の生活が続いていることを感じさせる。鈍い伝記作家ではあのポーカーフェースの裏側は見抜けない。伝記作家が興奮してしまっては、読者は信じられなくなる。何しろこれは北極洋の捕鯨からアフリカ西海岸の熱病へ、ポーツマスでの医院開業からサセックスの幽霊狩りへと、目まぐるしく展開する物語なのである。しかしピアソン氏の語るところならば、我々は受け入れることができる。コナン・ドイルはワトソンと比べられることがあまりにも多かったが、この伝記ではピアソン氏がワトソン役を務めて、イエズス会の教育が作った奇妙な謎の人物、シャーロック・ホームズの心を持ったドイルを語るのである。
 これは実に壮快な伝記で、しかも語り口が見事である。そしてピアソン氏の長所は、伝記作家に対して主人公を擁護してやりたいという気持を我々に起こさせることである(読者に与える効果という点ではジョンソン博士も同じである)。たとえば私ならば、ピアソン氏が触れていないドイルの詩人としての資質についてぜひとも一言付け加えたくなる。ドイルの作品に生命を与えているのは、彼の才知よりもこの詩人の資質なのだ。アッパー・ノーウッドの月桂樹の茂る車寄せやロワー・カンバーウェルのカーテンの背後に漂っていた、あの恐怖を思い起こされたい。ポンディチェリ荘では「逆立った赤毛」の顔に「身の毛もよだつ謎の笑み」を浮かべたバーソロミュー・ショルトの死体が揺れている。一方、外の庭では、掘り返したゴミの山の間にワトソンとモースタン嬢が子供のように手と手をつないで立っている。あるいは、テムズ河畔のプラムステッド湿地やバーキング平地のような場所でも、ドイルは実に生き生きと描き出すことができて、並の作家ならアフリカ西海岸のマングローブの沼地(ドイルは熟知していたがわざわざ小説には書かなかった)と同じくらいおどろおどろしく、まるで未知の土地のような感じがするではないか。
 さらにたいていの大作家とは違って、ドイルは生涯を通じてまことに実直で好感の持てる男であった。倹約に気を使わなければならなかった少年ドイルは、ストーニーハースト校の寄宿舎から母親に宛ててこう書いている。「仕立屋に行ってきました。お手紙を見せて、長く着られて見た目もよいものを作りなさいとおっしゃったことを説明しました。紺の布地があるがこれは上着用で、ズボンには合わないと仕立屋は言いました。黒っぽい布を見せてくれて、これなら上着にぴったりでズボンに仕立てても長持ちすると言いました。彼の勧めでこれにしましたが、お母さまも気に入ると思います。汚れが目立たないし見た目もよいものです。白黒の縞でごく暗い色の布です」。この少年に後年のドイルと同じ性格が宿っていたことは明らかである。中年になった彼は、バーナード・ショーの攻撃に対して敢然と筆を執ってタイタニック号の乗組員を弁護したのである(おそらくドイルの方が間違っていたのだろう。しかし、ピアソン氏も匂わせているように、我々はショーの正論に与したいとは思わない。間違っていてもドイルの肩を持ちたいのである)。
 作家が好感の持てる人間であり続けるのは容易なことではない。成功しても失敗しても、ふつうは性格がゆがんでしまう。芝居がかり、ヒステリー、わがまま、うぬぼれに陥る機会はあまりにも多い。作家はほとんど制約を受けずに、したいことをして好きなところに行くことができる。そして人はこのような自由の試練にはまず耐えられないのであって、立派に耐え抜いた数少ない例外の一人がドイルなのである。彼のパートナーであったバッド医師の常軌を逸した姿は、この伝記の前半では巨人のように闊歩している。しかし読み終えた後では、その姿ははるか遠くに退いてしまう。我々の目の前に浮かび上がってくるのは、大きい、がっしりした、力強い肩である。その上の顔はごく平凡で、まるで時とともに風化した彫刻のようにも見える。その彫刻が何か抽象的な特性を表しているとすれば、それは「親切」や「忍耐」であって、決して「想像力」や「詩」ではない。

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ガンディーと使徒たち--2

ヴェド・メータ 『ガンディーと使徒たち』新評論より

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日本語版自序

 本書が英語で出版されてから二十七年後に日本語に翻訳されることは、大きな喜びである。作家は誰でも、自分の本が刊行後も長く読み継がれて欲しいと思うものだ。この望みはときに適えられることもある。不遇だった作品が生き残り、一時は大いに喧伝されたものが忘れ去られることもある。死後に自分の著作が生き残るとすればどのような要素のためなのか、分かる作家がいるだろうか。『アイルランドにおける貧困家庭子女が、両親および国家の高負担となることを防止し、むしろこれを社会有用の材たらしむる件についての私案の一つ』を一七二九年に発表したとき、スウィフトはこれが二十世紀に読まれると思っただろうか。まさか高校生や大学生の必読書になっているとは思わなかっただろう。
 一九七七年に発表した本書は、二十世紀の傑出した指導者の一人であるガンディーを扱い、当時存命の親族や弟子たちとの会話を記録している。ガンディーが不朽の歴史的価値を有することは当然として、当事者に直接聞いた話と当時の記録からなる私の本も、船底に張りついたフジツボのように生き残るだろうと私は思ったのである。しかしガンディーを主題に選んだのは事の成り行きからであった。それまで数年の間、私は自分の生まれた国に関する『ポートレート・オブ・インディア』という本に取り組んでいた。これを書き終えたとき、インド最大の指導者を避けて通る限り「ポートレート」は不完全であることに気づいたのである。それで私はさらに五年をかけて本書『ガンディーと使徒たち』を書いた。
 一九七一年に私がこの本の準備を始めたときは、ガンディーの死からすでに二十三年がたっていた。このころには、もっとも人間的な人であったガンディーはすでに多くの神話に覆われて、本当の姿が見えなくなっていた。事実、弟子の多くの物した先師の伝記はあくまでも恭しく尊崇の念に満ち、歴史とはほとんど無縁であるように思われた。私は歴史学の研究から出発したので、存命の弟子たちを探し当ててその証言を聞き反対尋問を行うことが自分の任務であると考えた。私は彼らを求めてインド中を旅した。初めのうちこそ寡黙であったが、彼らはずいぶん積極的に語ってくれた。おそらく私が来るまでは、誰もバプー(これは「お父さん」という意味で、彼らはガンディーをこう呼んでいた)の思い出を聞き出そうとはしなかったからであろう。インタビューするとき、私はまず相手の話を引き出すことに努めて、自分は聞き役に徹することにしている。こちらが適切なタイミングで適切な問いを発すれば、語り手の口から思い出がほとばしり出て、ときには語り手自身が驚き衝撃を受けることさえある。
 私の本が出版されると、与党ジャナタ党の女性議員六十名がモラルジー・デサイ首相に面会して、に関する私の「不潔な」本を発禁処分にせよと訴えた。首相は、自分はその本を読んでいないが、ジャナタ党は言論の自由を公約に掲げて選挙に勝ったのであるから、いかに不潔であっても出版を禁止することはできないと答えた。そこで女性議員たちは、公開焚書を挙行した。新聞の報道によれば(真偽を確かめることはできなかったが)、選挙区に帰って私の藁人形を焼いた議員もいるという。
 私がインタビューした人たちの中に、シスター・アバーと呼ばれていたガンディーの身内の若い女性がいた。ガンディーの晩年、彼女は彼と裸で同衾していた。これはガンディーが性欲を制して「神の宦官」となったこと、生涯の目標であった内なる神の認識に達したことを自身に証明するための行であった。晩年には、もう一人、マヌという若い女性が彼と裸で同衾していたが、この二人を彼は「私の杖」と呼び、二人は常に身辺にあって老年のガンディーに肩を貸していた。マヌは一九六九年に亡くなっていたが、シスター・アバーは私に会うと言ってくれた。初めのうち、彼女はガンディーとの関係に何かやましいところがあるかのように何も言わなかったが、やがてバプーが絶対的な真理の光によって生きたこと、禁欲の実験については彼自身が何一つ隠さず論じていたことを思い出して、腹蔵なく語ってくれた。彼女の劇的な証言だけでもこの本は後に残る価値があり、歴史家には貴重な史料となると私は信ずる。しかし私はあくまでも芸術作品として本書を書いたのであって、これは歴史そのものではない。したがって本書はインタビューに手を加えずそのまま集めたものではない。一つ一つのインタビューは、それぞれ精錬してその精髄を取り出してから、彫刻家が粘土を扱うように形を整えたのである。

ヴェド・メータ
ニューヨークにて
二〇〇四年十一月

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ヴェド・メータについて

『ガンディーと使徒たち』巻末の著者紹介
ヴェド・メータ Ved (Parkash) Mehta
1934年インドに生まれる。オックスフォード大学ベイリオル・カレッジで歴史学を専攻し、ハーバード大学大学院を経て、1961年-94年『ニューヨーカー』誌のスタッフ・ライター。現在はフリーランスの作家。米国各地の大学で英文学と歴史学の客員教授をつとめる。処女作Face to Face (1957)に始まる著作は、英国現代哲学論『ハエとハエ取り壺』(Fly and the Fly-Bottle,1963 邦訳みすず書房1970)、プロテスタント神学論、変形生成文法論、現代インド論、短編小説集など多岐にわたる。さらに父親の伝記Daddyji (1972)から最新刊のThe Red Letters (2004)まで、著者がContinents of Exile (流謫の大陸)と呼ぶ一連の自伝的著作も、20世紀初めのロンドン、独立前のインド、1950年代のオックスフォード大学、全盛期のニューヨーカー誌など多彩な背景を持つ。25冊の著書の過半はニューヨーカーに連載された。米国に帰化し、ニューヨークに住む。http://www.vedmehta.com/

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 メータについて注目すべきことは、彼が四歳で失明した盲人であるというだ。ところが、『ガンディーと使徒たち』を読んでも、著者が盲人であるとは一言も書かれていない。それどころか、「彼女はしわの寄った白いカーディーの布に黄色で縁取りしたサリーとかすかに緑の混じった白のチョリを着ている」「彼は60代後半だろう。大きな耳の上にカールした白髪の房が残っている。額は円く広く、小さな目の瞼ははれぼったい。長くとんがった段鼻で剛毛ような小さい口ひげを蓄え、口はややおちょぼ口だ」というような視覚的描写が至る所に出てくるので、読者はまさか著者が全盲であるとは思わない。

『ガンディーと使徒たち』訳者あとがき
本書はVed Mehta, Mahatma Gandhi and His Apostles, Viking Press 1977(ペーパーバック版Yale University Press 1992)の全訳である。本書は一九七六年に『ニューヨーカー』誌に全文が連載された。原著に注はないが、翻訳では最小限の注をつけた。用語解説、年表、索引は、訳者が作成した。
 著者ヴェド・メータは、一九三四年に英領インドのパンジャーブ州ラホールで生まれた。父親は英国で医学教育を受けた高級官僚だった。インドの独立は、メータが十三歳の時である。メータ家はヒンドゥー教徒であるから、パキスタン領となったラホールから難民となって逃れた。本書の難民の描写は、著者の個人的体験に裏づけられている。当時の体験は、自伝の一部The Ledge Between the Streams(『川の中の岩礁』一九八四)に描かれている。
 メータは四歳の誕生日直前に髄膜炎を患い、視力を完全に失った。本書を書くには「四感を最大限に動員」し、同行者の視覚を借りたのである。膨大な資料はすべてamanuensisに朗読してもらったという。この単語は辞書には「筆記者」とあるが、目の不自由な人が学業や著作を行うための助手である。メータはamanuenses(複数)に頼って、カリフォルニアのポモナ大学、オックスフォード大学、ハーバード大学大学院を卒業し、口述筆記で二十五冊の本を書いている。
 メータの著作には二系列がある。一つは彼がContinents of Exile(流謫の大陸)と呼ぶ一連の自伝的著作で、もう一つは本書を含めた一般の著作である。後者では、メータは自分が盲目であることに一切触れていない。しかし、彼の本は自伝的著作を含めて過半がニューヨーカーに連載されたから、英語圏の読者はよく知っていることなのである。
 メータは一九六一年から九四年までニューヨーカーのスタッフ・ライターであった。これは編集部員ではなく、基本的にはフリーランスの作家である。編集部内に個室を提供され(メータの場合には助手がついた)、著作は最初にニューヨーカーに載せるという契約を結ぶだけである。
 一九五二年から八七年まで、ニューヨーカーの編集長はウィリアム・ショーンであった(謝辞に彼の名をあげている)。ショーンは商業主義を排し、インド、言語学、神学、哲学などの地味な主題でメータに自由に書かせた。本書の前に書いた『ポートレート・オブ・インディア』は六七年から三年がかりで連載された。オックスフォード言語哲学を主題に『ハエとハエ取り壺』(みすず書房)を書くように奨めたのはショーンで、この本はベストセラーになった。メータは〈流謫の大陸〉の一部として書いたRemembering Mr. Shawn's New Yorker(『ミスター・ショーンのニューヨーカー』一九九八)で、彼の「見えざる編集の業」(副題The Invisible Art of Editing)を偲んでいる。

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2006年2月 4日 (土)

『ガンディーと使徒たち』について

『ガンディーと使徒たち――偉大なる魂の神話と真実』新評論2004は
Ved Mehta "Mahatma Gandhi and His Apostles", Viking Press 1977の翻訳である。(原著は1976年から77年に『ニューヨーカー』誌に連載された。)

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 本書は、インド人のジャーナリストがマハートマ・ガンディーの「使徒たち」数十人にインタビューして書いたガンディー伝である。1970年代には、ガンディーのもとで非暴力の戦いに参加した人々の多くがまだ存命であった。著者は五十代から九十代になっている彼らを訪ねて話を聞いた。
 ガンディー伝は数多いが、対象があまりにも偉大であるため伝記として成功しているものは少ない。あるいはネルーが言うように「ガンディーの本当の伝記を書くことは、ガンディー自身と同じほど偉大な人間でなければ不可能」なのかも知れない。 
 ヴェド・メータは、ガンディーの肉親や弟子たちにインタビューして、周辺からガンディーの実像に迫ろうとする。序言にあるように、本書は「ガンディーの脱神話化」をはかる本である。まず読者に衝撃を与えるのは、ガンディーのブラフマチャリヤ(禁欲)の「実験」の挿話であろう。
 ガンディーの非暴力抵抗運動がヒンドゥー教の伝統的なアヒンサー(不殺生)の思想に基づくものであり、ガンディーが禁欲の生活を送ったことはよく知られている。 
 ガンディーは三十六歳で妻との性的な交わりを絶ったが、これはヒンドゥー教の苦行ブラフマチャリヤの実践であった。完全に性欲を抑制することによって宇宙の最高原理であるブラフマン(梵)の探求を進めることができるというのである。ガンディーにとって、このブラフマチャリヤがサティヤーグラハ(真理の把握)とアヒンサーを、従ってインド独立運動を支える基礎であった。
 しかし性欲を絶つことはガンディーにとって当初は「剣の刃をわたるような」苦行であり、晩年に至るまで「性的純潔」が彼の強迫観念になった。七十八歳で暗殺されるまで、ガンディーは独自の「ブラフマチャリヤの実験」を続けていた。身の回りの世話をする若い女性たちの一人(時期によって異なった)と裸でベッドを共にして、「自分がほんのわずかでも性欲を感じないか、相手の方はどうかを確かめようとした」のである。この奇怪な実験は当然弟子たちの反発を呼んだ。ある弟子は「あなたは有名なマハートマじゃありませんか。こういう見苦しいことをしてまで自分をテストする必要はないでしょう。それに、このテストは若くて元気な男にこそふさわしいと思います」と言ったが、ガンディーは聞き入れなかった。晩年になって彼が長年この実験を続けていたことを公表したとき、これはヒンドゥー教正統派の攻撃の的になった。しかし、彼の死後にはこの問題はタブーとなった。多くのガンディー伝はこの挿話を無視している。日本語で読める文献でこれに触れているのは、後述のエリクソンの本だけである。Po_0024
 本書は第三部第一章「非暴力--ブラフマチャリヤと山羊のミルク」でこれを扱っている。ヴェド・メータは実験の相手となった三人の女性たちにインタビューする。またベンガル語通訳としてガンディーに同行し "My Days with Gandhi"(1953)を出版したニルマール・クマール・ボースからも詳しい話を聞いている。1947年、パキスタン分離独立直前の宗教暴動を鎮めるため東パキスタンの村落に入っていたガンディーは、「六十年間私を支えてきた真理とアヒンサーの誓いが今破れようとしている。……この国は争いに引き裂かれ蛮行が支配するだろう」と感じ、もはや生きる意志を失っていた。しかしガンディーはここでも若い女性と裸で同衾するブラフマチャリヤの実験を続けていた。ボースはこの実験は「ガンディー自身にとっての価値は別として、少なくとも相手の心には傷を残した。彼女たちはガンディーの実験に加わる精神的な必要はなかったからだ」と考えていたから、実験は道徳的に有害ではないかと直言したが容れられず、彼のもとを去った。
 ボースはこの実験の心理的な源泉は、ガンディーが十六歳の時臨終を看取れなかった父親に対する償いとして自らに課した性本能の抑圧にあると分析している。ボースはガンディーへの手紙の中でフロイトの説を挙げて「私たちはしばしば無意識の動機によって全く意識せぬ別の方向に動かされるのです」と書いたが、ガンディーを説得することは出来なかった。
 ブラフマチャリヤの実験の挿話は衝撃的であるが、著者はこのことを暴いてガンディーを貶めようとしているのではない。読者が感じるのは、大きな矛盾を抱えているにもかかわらず、いやむしろその故に、ガンディーは真のマハートマ(偉大なる魂)であった-ということである。精神分析学者エリク・エリクソンは『ガンディーの真理――戦闘的非暴力の起源』(1969、邦訳はみすず書房1973)でボースの分析を引用して、「マハートマの公開された私生活について言えることは、他の男なら必死に隠そうとする自分の性向を深く徹底的に考え抜きその考えを声に出しつつ生きた男がここにいる、ということである。最終的には大きな混乱こそが偉大さの証であるのかも知れない。特にそれが人間存在の逃れがたい葛藤に由来するときは」と述べている。英国の圧倒的な支配に対して揺るぐことなく非暴力を貫いて戦い抜き、遂に独立を勝ち取ったのはこのようなガンディーであった。
 本書はまた、現代のキリストであったガンディーの使徒たちを描く「使徒行伝」でもある。第三部第二章「革命-建設プログラムとそのマハートマたち」では、1970年代にガンディーの遺業を継いでいる使徒たち十数人にインタビューし、「ガンディーのいないインドで貧困に取り組むという絶望的な課題」に彼らがどのように取り組んでいるかを描く。ある者はサイババのファンになり、心霊術や占星術に凝っている者もいる。ガンディーの不在にもひるまずに彼の掲げた理想のために戦い続けている者もいる。
 しかしすでに1970年代に、ある使徒の言うように「インドではガンディー主義は死に絶えた。ガンディーは完全に忘れ去られている」。彼らはまた「政府は、ガンディーが反対した英国のやり方をそのまま受け継いでいる。強大な軍事力を持ち、村落と貧しい人々を無視し、大規模で無感覚で疎遠な官僚機構を維持している」「英国人とその跡を継いだインド人支配者の間に、何の違いもないではないか。独立後二十五年以上を経て貧しい人々の暮らしは以前より悪化している。……ブラフマチャリヤも自由への戦いも、我々がみんな監獄に入ったのも、いったい何のためだったのか」と言う。
 ガンディーが強調したのは工業でなく農業の発展であり、木綿の栽培や糸紡ぎなどの単純な手段で草の根レベルから社会的経済的再生を達成することだった。さらに四半世紀後の今日、インドはパキスタンと共に核保有国になり、ITを初めとする工業化に成功しつつあるように見えるが、ガンディーが生涯をかけて戦った不可触の差別と悲惨な貧困が解消されたわけではない。
 著者は序言で「虐げられた貧しい人々がいる限り彼の思想は有効である。世界一豊かな国でも、マーチン・ルーサー・キングやシーザー・チャベスの例が示すように」と述べているが、これは二十余年後の今日でも言えることであろう。

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