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2006年2月 9日 (木)

原文が間違っている!

 翻訳すべき原文が間違っていることがありますね。そういう場合、翻訳者の皆さん、どうしていますか?
  私が手がけた『ガンディーと使徒たち』の翻訳では、著者の記憶違いで年号が間違っている箇所があった。これはもちろん黙って正しい年号に直しておきました。

  村上春樹の『羊をめぐる冒険』の英訳A Wild Sheep Chase(translated by Alfred Birnbaum)は、かなり省略があって少々乱暴な訳です。誤訳もある。自動車の「セリカ」をわざわざNissan Celicaと訳しているのなどは、まあご愛敬でしょうが。
 しかしBirnbaumさんが村上さんの間違いを訂正している箇所もあります。

「一九三四年に羊博士は東京に呼び戻され、陸軍の若い将官に引き合わされた。将官は来るべき中国大陸北部における軍の大規模な展開に向けて羊毛の自給自足体制を確立していただきたい、と言った。」
 
 どこが間違いか、分かりますか? はい、「若い将官」が間違いですね。将官というのは、もちろん大将、中将、少将を言う。五十歳くらいにならないと大日本帝国陸軍の少将にはなれなかったはず。若い「将校」のつもりでうっかり「将官」と書いてしまったのでしょう。後にノモンハン事件を調べて『ねじ巻き鳥クロニクル』を書くことになる村上さんも、このころはまだ若くて昔の軍隊のことなどよく知らなかったらしい。
 英訳は
In 1934, the Sheep Professor was called back to Tokyo and was introduced to a young army officer. For the big, immiment North China campaign, the Sheep Profesor was asked to establish a self-sufficiency program based on sheep.

  a young army officerとなっています。将官をそのまま訳せばgeneralになるところ。なお、羊博士をSheep Professorと訳してあるのは誤訳ではありません。英語のDoctorはそんなに偉くないので、ここはProfessorでなければならない。
「羊毛の自給自足体制を確立」をto establish a self-sufficiency program based on sheepは、微妙にずれているような気もする。少なくとも私には書けない英語だ。これが英語らしい英語なのだろうか? 英米人にはもう一人の翻訳者Jay RubinよりもBirnbaumの文章の方がよいという人もいるようだけど、どんなものだろう?

今度は同じ箇所を、ドイツ語訳 Wilde Schafsjagdで見てみましょう。

1934 wurde er nach Tokyo zurueckbeordert und einem jungen Armeegeneral vorgestellt. Angesichts des bevorstehenden grossangelegten Vormarschs der Armee nach Nordchina beauftragte der General ihn mit der Plannung und Durchfuerung eines Selbstversorgunssystems fuer Schafwolle.  (ウムラウトをeで置き換えた。)

「将官」の訳語は、ArmeegeneralとGeneralになっています。ドイツ語の訳者はJuergen Stalphという人ですが、この人に限らず、ドイツ人は律儀に直訳する傾向がある。「来るべき中国大陸北部における軍の大規模な展開に向けて」など、Angesichts以下できちんと訳してあります。しかし、原文の間違いには気がつかなかった。
 なぜ気がつかなかったかというと、無理もない事情があるのです。ドイツ国防軍では「若い将官」は特に珍しくなかったからです。日本の場合、昇進は徹頭徹尾、年功序列だったけれども、ドイツでは、特にヒトラーが総統になって以降は、三十代前半で少将に抜擢されるケースがかなりあったようです。
 ドイツの「若い将官」ならば、「羊毛の自給自足体制確立」というような実務にも自分で取り組んだでしょう。しかし旧日本軍では、将軍は閣下として祭り上げられていて、何でも佐官クラスが取り仕切っていた。ノモンハン事件(1939年)も、少佐参謀だった辻正信が主導権を握って関東軍を引き回して起こしたらしい。
 1934年に羊博士と接触したという若い「将校」も、せいぜい少佐くらいでしょう。ひょっとしたら辻正信本人だったかも知れない。まだ大尉か中尉くらいだったでしょうが。
 この辺の事情は、なかなか外国人には分からない。英訳者のBirnbaumさんはあまり細かいことにこだわらずに勢いで訳してしまうので、ときどき間違いもあるのだけれど、この場合は怪我の功名だったのでしょう。

 産業翻訳、特に日本語から英語への翻訳では、原文の間違いは毎回のようにありますね。
 翻訳者にも「守秘義務」があるので、むやみに例を挙げられませんが、sourceが特定できないものなら構わないでしょう。

 某大企業の会長の挨拶の原稿ですが、どこが間違いか分かりますか?

「本日はXXXXの開会式に、文仁親王・同妃、両殿下のご臨席を賜り……」

 もちろん「文仁親王・同妃、両殿下」がおかしいのです。昔なら不敬罪ものだ。皇族のお名前をむやみに呼ぶものではない。ましてや、この場合はご本人が目の前においでになるのだ。当然「秋篠宮両殿下」でなければならない。
 女性週刊誌やテレビで「雅子様」「紀子様」「愛子様」などと言うのは仕方がない。しかし、大企業の総務部員ともあろうものが、これくらいの常識がなくては困る。右翼の街宣車が来たらどうするつもりだ。普通の人だって、たとえば「山田課長」の代わりに「太郎さん」なんて呼ばれればムッとするでしょう――というような話をして、原文を直してもらいました。

 ところで、一昨日のニュースによれば「秋篠宮妃殿下紀子様はご懐妊なさった」そうですね。おめでとうございます。
 

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コメント

三十郎さん、

コメントありがとうございます。

この『原文が間違っている!』は参考になりました。この前、シンガポールに出張した際に、Ngee Ang Cityの紀伊國屋で村上春樹の翻訳物を8冊、娘用に(日本語を教えていません)買ってまいりました。娘にプレゼントしてしまったので、私は通読しておりませんが、今度読んで比較してみたいと思います。

"to establish a self-sufficiency program based on sheep"は、私は技術者なので、この訳はスッと納得できます。原文の「羊毛の自給自足体制を確立」という工学的な用法を訳すとこうなるのかな?固い部分は文語的に訳したのだろうか?と思ってしまいます。

ではでは。

投稿: FRANK LLOYD | 2006年12月13日 (水) 11時07分

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