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2006年3月10日 (金)

crisisはいつも「危機」と訳してよいか

 crisisという語にぶつかると、たいがいの人は「危機」と訳す。もちろん「危機」の意味はあるし、辞書によってはこの訳語しか書いてないものもあるくらいだから、無理もない。しかし、いつもいつもそう訳されては困るのである。日本語の「危機」とは、「危険なとき」とか「危険な状態」であるのに、crisisは必ずしもこの意味ではないからである。
 この語はギリシャ語のクリシスに起源を持ち、ラテン語(crisis)を通ってフランス語(crise)に入り、次いでドイツ語(Krisis, Krise)や英語(crisis)になったもので、もともとは医学上の用語なのだから、まず医学用語の意味を検討しておかなければならない。……

 続きが読みたくありませんか? 
 それでは続きを書きましょう――と言いたいところだが、残念ながら上の文章は私が書いたものではない。

増田冨壽『誤訳と誤解』 早稲田大学出版部 昭和60年刊
 の5頁以下にある。

 この本の見出しから面白そうなところをピックアップしてみる。

・British EmpireやBritish Museumが「大英帝国」や「大英博物館」と訳された事由
・Charlemagneは「シャルルマーニュ大帝」か「カール大帝」か
・「ダス・ハイスト」(das heisst)はいつも「すなわち」でよいか
・フランス人は面と向かわなければ「マダム」と呼ばない
・スープ(soupe)はなぜ食べるというのか
・ソビエトでは「キャビア」も「イクラ」という
・衣冠束帯とは「衣冠と束帯」の意味か、「衣冠または束帯」のことか

 どれも読んでみれば「なるほど、そういうことだったのか」と膝を打つはずである。英・独・仏・希・羅・露語を駆使した考証がすごい。
 増田先生の専門はロシア経済史であるから、当方にはとうてい歯が立たない問題もある。
・「占有マニュ」か「農奴占有マニュ」か
・「アトラボートカ」の訳は「雇役」でいいのか
 と言われてもさっぱり分かりません。

 上記の見出しの中では、「シャルルマーニュ大帝」がおかしいことくらい、私だって分かるのに、専門家が間違えていたらしい。

……中世文学についての解説文を書いた、フランス語にやかましいといわれる某大家は、くり返し「シャルルマーニュ大帝」と記している。……クラウン仏和に「シャルルマーニュ(カール)大帝」とあっても仕方がないのかも知れない。――と増田氏は書いている。
 正しくは「ラテン語でカロルス・マグヌス、つまりカール大帝とよんだものが、フランス語になまったものである」――これは橋口倫介氏の説明を増田氏から孫引きするので、信用していただいてよい。

 蛇足を付け加えれば、シャルルマーニュの「マーニュ」の部分が「大」なのだから、「シャルルマーニュ大帝」は「シャルル大大帝」と言うのと同じで滑稽だというのである。
 増田先生の指摘(昭和60年)を受けて、その後このような誤用はなくなっているはずである。

 英語の辞書はどうなっているだろうか?
Charlemagne  シャルルマーニュ, カール大帝 (Charles the Great) (742-814) 《フランク王 (768-814), 西ローマ帝国皇帝 (800-814); 神聖ローマ帝国皇帝 Charles 1 世ともみなされる》――リーダーズ英和辞典
(ドイツ語ではKarl der Grosseである)

 さらに蛇足。
 いまの英国皇太子はチャールズさんであるが、フランス語ならシャルル、ドイツ語でカール、スペイン語でカルロスになる。実際にチャールズ皇太子がスペインを訪問すれば、スペインの新聞が「カルロス皇太子がお出でになった」と報道するかどうかは寡聞にして知らない。しかし、英国の学校で歴史を教えるときには、「カール大帝」のことを「チャールズ・ザ・グレート」と言うのだろうと思う。

 増田先生の博識には及びもつかないが、私もいささか「考証」を試みたのが「柔道か柔術か」「牧師か神父か」である。動機は二つある。一つは面白いから。もう一つは、やや大げさかも知れないが「公共の福祉のため」である。牧師と神父が混同されたままでは困るではありませんか?

3月12日追記 せっかくコメントをいただいたのにメールの具合がおかしくて返事を差し上げられない。

ガーター亭亭主さん 大英はおっしゃるとおり「ブルターニュ地方と区別するため」だそうです。でも「大きな英国」の意味で使ってしまいますね。

Missaさん ありがとうございます。フランスはいいなあ。僕も行きたいものだ。

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コメント

こんにちは。

TBをたどってきました。今住んでいるのはフランスなので、記述もフランス式に「シャルルマーニュ」としていますが、日本では「カール大帝」と訳されることが多いですね。

訳語と原語がいろいろ異なることは私も何回か書いております。人名の翻訳は大変ですよね。
http://bretagne.air-nifty.com/anne_de_bretagne/2005/04/post_4c33.html

「シャルルマーニュ」のついてもどこかのコメント欄に書いたことはあるのですが・・・

投稿: Missa | 2006年3月10日 (金) 20時12分

TBありがとうございました。

確かに、この方の本、面白そうですね。
大英はブルターニュ地方と区別するためでしょうか、もともとは。

そうそう、ウズベキスタンに行ったとき、キャビアを買おうとしたら実際に「イクラ」と言われたことがあります。

投稿: ガーター亭亭主 | 2006年3月11日 (土) 05時01分

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