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2006年3月27日 (月)

官僚も松下政経塾も信用できないが――政治家の資質について

 どういう人が政治家としてふさわしいのだろうか? 
 今回の永田議員や西澤孝をめぐる騒動であらためてこれを考えた。(永田君、決闘しよう 参照)
 といっても、私自身、政治にそれほど関心があるわけではない。自分で政治家になろうなんて、もちろん考えたことがないし、政治家の知り合いもいない。

 政治家というのは普通の人では駄目だろうと思う。
 むかし、京極純一教授の政治学の講義を聴いたことを思い出す。

 京極先生はたしかこうおっしゃったと思う。
「諸君の大部分は政治家にはなれない。私(京極)も政治家にはなれない」
 なぜ政治家になれないかというと、まず第一に
「政治家というのは、モノ疲れ、コト疲れ、ヒト疲れしない人間でなければいけない。たいていの人はこの点で政治家失格である」

 政治家というのは、まず異常にタフでなければやって行けない。
 普通の人なら、一日に何十人もの人と名刺交換したり握手したりする生活をすれば、すぐ神経が参ってしまうだろう。そういうことが平気である、むしろ快感であるという体質が、政治家の資質としてはsine qua nonである。
 
 その上で、さらにどのような資質が必要か。そのような資質は、どのような経歴を積むことによってはぐくまれるのか。
 
 というようなことを考えるために、今回問題になっている方々の経歴を見てみよう。インターネット上で利用できるフリー百科辞典、ウィキペディアの記事を引用する。
 どなたがお書きになったのか、なかなかよくできている。筆が立つ人はいるものだ。
 まず永田議員。以下ウィキペディアの記述です。とびとびに引用する。

永田 寿康(ながた ひさやす、男性、昭和44年(1969年)9月2日 - )は、平成期の日本の政治家。衆議院議員(3期)。愛知県名古屋市出身。

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衆議院議員 永田 寿康
生年月日 昭和44年(1969年)9月2日
出身地 愛知県名古屋市
最終学歴 東京大学工学部
学位 工学士
前職 衆議院議員秘書
国家公務員(大蔵省)
現職 衆・
世襲の有無 無
選挙区 比例南関東ブロック(千葉2区)
当選回数 3回
所属党派 (民主党→)
無所属(党籍停止)
党現職 -
会館号室 衆・第1議員会館435号室
ウェブサイト 民主党 永田ひさやす : オフィシャルサイト

平成の爆弾男
2000年11月20日、国会壇上の松浪健四郎議員(当時)から水を浴びせかけられている。一部では永田が松浪議員に「(扇千景と)何発やったんだ?」と野次を飛ばしたことが原因との情報が流れたが、永田自身は「最前列で森喜朗首相ではだめだと何度かやじり、そのたびに松浪議員からにらまれた」という。

 2005年12月18日、八千代市内での国政報告会で耐震強度偽装問題に触れ、「住民は火をつけたくてしょうがない、阪神大震災では激甚災害指定欲しさに被災者が火をつけてまわった」等と発言。発言内容を完全録音したCD-ROMを入手した東京スポーツの取材に対し、事実を認め謝罪した(東京スポーツ2006年1月8日付1面)。

 ウィキペディアはこう書いているのだが、本当だろうか? あまりにひどいのでちょっと信じられないのだが。何だか、こうしてコピーするだけで私の品位(笑)に関わるような気がする。しかし怪しい「格闘家」西澤孝とコンビを組むにはちょうどいいくらいだという感じもする。

 次は前原誠司さん。これもウィキペディアから

前原 誠司(まえはら せいじ、男性、昭和37年(1962年)4月30日 - )は、平成期における日本の政治家。衆議院議員(5期)。京都府京都市左京区出身。民主党代表。松下政経塾第8期生。

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衆議院議員 前原 誠司
生年月日 昭和37年(1962年)4月30日
出身地 京都府京都市左京区
最終学歴 京都大学法学部卒業
学位 法学士
前職 京都府議会議員
現職 衆・国家基本政策委員会委員
世襲の有無 無
選挙区 京都2区
当選回数 5回
所属党派 民主党(前原グループ)
党現職 代表
京都府総支部連合会常任顧問
会館号室 衆・第1議員会館601号室
ウェブサイト 前原誠司-ホームページ-

 京大受験に失敗し浪人時代に偶然立ち読みした本(高坂正堯 著『国際政治』)により国際政治における"歴史上のプレーヤー"に憧れることになる。師にあたる高坂正堯京大教授の「外交官は京大出身では偉くなれない」「学者になるほど頭はよくない」「大学院に行くつもりで松下政経塾に行ってこい」とのアドバイスで政治家としての道を志すことになる。

 1993年の第40回衆議院議員総選挙で日本新党から立候補して初当選、以後民主の風(院内会派)、新党さきがけ、民主党に在籍する。

 選挙区民の間ではもう少し苦労が必要との声が絶えない。特に平成8年(1996年)の衆議院選挙に比例代表で当選して以来、その声は内なる声として選挙区中に内包されている。平成8年以前の前原が常日頃言っていた事は、「政権政党に入らなければ、自分の政策が実現できない」ということであり、この考え方は彼の根本に根ざしているものである。その時々の世論の動向にあわせて様々な政党を渡り歩いてきたことは、まさにその表れといえよう。ただ、選挙区民の期待として、「もう少し選挙で苦労して、自己の政治的バックボーンを確立する必要がある」という声があるのも事実である。

 前原の代表就任には、民主党が一気に代表を若返らせたことから、読売新聞などの巨大メディアが、“新代表はジャニーズ系”、“永田町の郷ひろみ”と報じ、話題を呼んだ。

 どうも、やれやれという感じですね。

 それでは、もと官僚や松下政経塾でないとすると、どういう経歴があり得るか?
 たとえば、小泉純一郎首相は、これもウィキペディアを引用すると、次のような経歴です。

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 小泉純一郎
生年月日 昭和17年(1942年)1月8日
出身地 神奈川県横須賀市
最終学歴 慶應義塾大学経済学部
学位 経済学士
前職 書生(会社員)
現職 内閣総理大臣
世襲の有無 3世
祖父・小泉又次郎(衆議院議員)
父・小泉純也(衆議院議員)
選挙区 神奈川11区
当選回数 11回
所属党派 自由民主党(無派閥 - 森派)
※党三役は派閥離脱
党現職 総裁
会館号室 衆・第1議員会館327号室
ウェブサイト 首相官邸

1942年1月8日 - 神奈川県横須賀市に小泉純也 芳江の長男としてうまれる。
1960年3月 - 神奈川県立横須賀高等学校を卒業。
1962年4月 - 慶應義塾大学経済学部に入学。
1967年5月 - 同大学を卒業。
1967年 - ロンドン大学へ遊学(1964年からとする説もある)。
1969年 - 父純也の死亡に伴い急遽帰国、衆議院議員選挙に立候補するも落選。福田赳夫の自宅で書生となる。
1972年12月 - 前回の雪辱を果たし衆議院議員に初当選、以後連続当選。厚生大臣、郵政大臣などを歴任する。
~1974年11月 - 会社員(厚生年金にも加入)として勤務。
1979年 - 大蔵政務次官に就任。(大平正芳内閣)
1988年 - 厚生大臣に就任。(竹下登内閣)
1992年 - 郵政大臣に就任。(宮澤喜一内閣)
1995年 - 自民党総裁選に出馬。橋本龍太郎に敗れる。
1996年 - 厚生大臣に就任。(第二次橋本龍太郎内閣)
1998年 - 自民党総裁選に出馬。小渕恵三に敗れる。
         清和会(森派)会長に就任。
2001年4月24日 - 3度目の挑戦で、自民党総裁に選出される。
2001年4月26日 - 高支持率で第87代内閣総理大臣に就任。

  祖父と父が政治家ならば、もちろん松下政経塾などに入る必要はない。無理に東大へ行って官僚になる必要もないだろう。
 しかし世襲ならば安心かというと、無論そんなことはない。祖父と父が政治家であるのは小泉氏の責任ではないが、そういう経歴でなければ政治家になりにくいというのも少し困るだろう。

 昔の政治家はどういう経歴だったか? 日本の初代首相は1885年(明治18年)に就任した伊藤博文(1841-1909)である。
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 経歴はご存じの通り。周防国の百姓の長男として生まれ、松下村塾に学び、攘夷の志士として奔走した。白刃の下をくぐってきたのであって、現代の政治家とは鍛え方が違うだろう。
 女好きで有名で、現代ならかなりの騒ぎになってるだろう。宇野宗佑氏などとは比べものにならない。
 しかし、そんなことはもちろん問題にならない。夏目漱石の前の千円札に肖像が使われるだけの実績は十分に上げているのだから。

 しかし、現代の政治家に伊藤博文のような特別の経歴、特別の資質を求めるわけにも行かない。もう少し、普通の人ではないとしても、普通に近い人でなければいけない。

 どういう人を政治家にすればいいのだろう?

4月1日付記
 前原誠司氏の代表辞任会見を見て驚いたのは、彼の表情だ。普通なら悄然とするものだが、まるで「颯爽としている」と言ってもよいくらいだった。
 小泉首相が「前原さんはまだ若いのだから、これからも大いに活躍してもらわなくては」とお世辞を言った。ひょっとしたら前原さん本人が本気で「これからも大いに活躍」するつもりなのではないか? 恐ろしいことだ。

 普通じゃないのは民主党だけではない。
 橋本龍太郎氏が中国を訪問した。どういうつもりか。
 私が胡錦涛ならどうするか?
 まず「橋本閣下、お友達の村岡さんが無罪になられたそうで、おめでとうございます。これから閣下も大変かも知れませんが、頑張ってください」と激励する。
 橋本さんのことだから、これくらいではあの冷静な顔を崩さないかな。
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 それなら
「その節は私どもの公安部の某が大変お世話になりました。彼女もおかげさまで元気でやっております」と言う。
 この二つは実際に胡錦涛本人じゃなくても中国側としては絶対に言うと思う。

  昔の政治家ならどうだろう? 伊藤博文……………司馬遼太郎…………

 ……の部分はご自分でお考え下さい。私は説教は苦手なので。でも、『坂の上の雲』を読んだ人なら、だいたい同じことを考えるはずだ。
 もしあの時代の政治家が今みたいだったら、このブログもロシア語になっていたかも知れない。 

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2006年3月25日 (土)

一筆書きの技

 ヘスキス・ピアソン(1887-1964)は、コナン・ドイル伝(1943)とオスカー・ワイルド伝(1946)を書き、前者にワイルドを後者にドイルをそれぞれ一節ずつ登場させた。
 
 ドイルやワイルドのような有名人ならば、当然ほかの多くの有名人とのつきあいがあるはずだ。これを一々詳しく書いていては切りがないので、さっと一筆で描き出してみせるというのが、英国の伝統的な伝記の技である。これがきれいに決まると、読者はイナバウアーを見るような快感を感じるのである。
 
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  ピアソンは、コナン・ドイル伝でもこれを駆使している。文学者だけでも、J・M・バリ、ジョージ・メレディス、バーナード・ショー、ウィルキー・コリンズ、ジェローム・K・ジェローム、ラドヤード・キプリングなど、数多くの有名人が顔を見せる。

 ドイルは1892年11月にジョージ・メレディス(1828-1909)を訪問している。メレディスはいつも自宅の庭の小高い丘の上にある四阿で執筆していて、ドイルが訪ねて行ったったときも、そこで話そうと言った。ドイルが先に立って丘を登った。あとからついてくるメレディスが滑って転んだが、助け起こしたりすれば「年寄り扱いするのか!」と激怒することは分かっているので、知らんぷりをしてどんどん登った。四阿に着くとメレディスは書きかけの小説を朗読してくれた。素晴らしいと思ったのでそう言うと、メレディスはそれならぜひ書き上げようと言う。『素晴らしき結婚』が完成したのは、ドイルがメレディスを助け起こさなかったお陰もあるのではないか、とピアソンは言うのである。
 カーライル(1795-1881)亡き後の英国文壇でメレディスが大御所扱いされるようになったのはなぜかというと、文章が難しすぎて読む者がいないので、競争相手になる心配はない、いくら祭り上げても大丈夫だ、と思われたからだという。

 メレディスは僕も少しのぞいてみて、難しいのに仰天したことがある。メレディスの英語はよく分からないのである。
 19世紀の英国人にすでに難しかったと知って安心した。夏目漱石はメレディスを愛読して小説の手本にしたというのだから、よほど読める人だったのだろう。

 この一筆書きの芸は英語の伝記の伝統である。
 僕はそんなにたくさん英語の伝記を読んだわけではないが、たとえば、バートランド・ラッセル(1872-1970)の自伝は実に面白かった。これは全3巻が1967年から69年にかけて出た。90歳を超えたラッセルにはもう恐いものなんかないから、何でもあけすけに書いているのもすごいが、98年の生涯に出会った有名人たちの肖像を一筆で描く芸が冴えている。

Russell

 たとえばケインズ。1914年、英国がドイツに宣戦布告した日、ラッセルが憂鬱な気分でケンブリッジの構内を歩いていると(彼はまもなく反戦運動で禁固刑を受けることになる)、ケインズが忙しげに先へ行く。呼び止めてどこへ行くんだと聞いた。友達のオートバイを借りに行くところだ、という答えである。戦争(まだ「第一次世界大戦」とは呼ばれていない)が始まって、大蔵省から戦時財政についてケインズ先生のご意見を至急お聞きしたい、すぐお出でいただきたい、と呼び出しがかかったというのだ。

 あるいは、ヴィトゲンシュタインについては、哲学史上有名な挿話がありますね。
 ある日、ヴィトゲンシュタインがラッセルの所へやってきて、深刻な顔でこう尋ねた。
ヴ「ラッセル先生、僕が馬鹿かどうか教えてください」
ラ「それを知ってどうする?」
ヴ「馬鹿でなければ哲学をやります。馬鹿ならば航空工学の研究に戻ります」
ラ「それなら、何か短い論文を書いてきたまえ。それを読んで判断しよう」
 一週間後、ヴィトゲンシュタインは論文を書いてきた。ラッセルはその論文の第一センテンスを読んで、言った。
ラ「ヴィトゲンシュタイン君、哲学をやりなさい」

Wittgenstein

 こういう英国式伝記の芸を見事に取り入れているのは、加藤周一の『羊の歌』である。たとえば片山敏彦のことは、平凡社版では129頁半ばから一節で描かれている。

 詩人の片山敏彦教授は、教科書にベルグソンの『形而上学序説』の独訳を用いた。「これは翻訳ですが、内容が実におもしろいのです」と片山教授は少し弁解するようにいった、「疑問を生じたときには、フランス語の原文を参照しましょう」。しかしドイツ語を三ヶ月習っただけの私たちのなかに、フランス語を読める者はひとりもいなかった。片山教授の授業は親切だった。教科書の内容は、私にわかった限りで、たしかにおもしろかった。片山教授は、ベルグソンとその考えを説明するのに、独仏の詩人や哲学者の名前を数限りなく引き合いに出した。その名前の大部分を私は知らなかったから、彼らとベルグソンとの関係が、どれほど密接なのか、どれほど漠然としたものであったのか、私にはわからなかったが、それらの名前は、少し甲高くせきこんだ声に乗って、実に甘美に、遠い理想の国の町の名前のように、私の耳に響いてきた。話す人の愛情――ともしそれをよぶとすれば――は、聞いている側にも伝わらずにはいなかったのであろう。…………(さらに2頁ほど続くが、一節である)

 野間宏が248-249頁に顔を出す。中島健蔵は二、三箇所に出てきたと思うが何頁と何頁だったか? 加藤周一著作集編集部は、第14巻羊の歌に人名索引を付けるべきだったと思う。
 
(ラッセル自伝は、翻訳が出ていて図書館や古書店で入手できるが、お勧めできない。手元に翻訳版がないので具体的には書けないが、要するにひどい出来である。原文を読んだ方がはるかに分かりよいはずである。)

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ガンジーと裸の女の子たち

 マハトマ・ガンジーは78歳で暗殺される直前まで、孫のような年齢の女性たちと裸体でベッドをともにしていた。

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 映画『ガンジー』は、彼の非暴力不服従運動の正確な描写である。まだ見ていない人はぜひご覧下さい。
 でもあの映画がアカデミー賞をもらったとき、英米では「映画には出てこないことがあるのだ。君、知ってる? ガンジーは裸の女の子たちと寝てたんだよ」などとささやく声もあった。
 
 彼らが言及していたのは、ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』という本だった。原著は1977年に出版されたが、ベストセラーにはならなかったから、ちゃんと読まないで語っているのだった。

 読んだのなら、そんな言い方はできなかったはずだ。
 ガンジーはもちろん好色漢などではなかった。彼の非暴力運動の基礎をなすサティヤーグラハ(真理の把持)を実現するために、禁欲の実験を行っていたのだ。
 ガンジーの「実験」は確かに奇妙なものだった。生前から秘密にはしなかったから、厳しい批判を受けた。彼の下を去る弟子たちもいた。

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 この「禁欲の実験」は、ガンジーという人間が抱えていた巨大な矛盾(単純な人間にあれだけの偉業が成せるはずがない)の象徴だった。
 今や核保有国となりIT大国となって、なお極端な貧困と差別を抱えているインドという国の矛盾の象徴でもあるのだ。

 下の『ガンディーと使徒たち』がこの本の翻訳です。カテゴリーの「ガンジー」をクリックすれば、この本の抜粋を見ることができます。

ガンジーの写真とイラストはhttp://www.mahatma.org.in/index.jsp

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永田議員、西澤孝でアクセス急増、御礼

 これに味を占めて政治経済ブログに変身するつもりは、ありません。
 また迂遠な話題ばっかりに戻ります。よろしく。
                             三十郎拝

  しかし、「永田君、決闘しよう」は、ちょっと自慢の記事です。見てください。

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2006年3月23日 (木)

オスカー・ワイルドとコナン・ドイル(2)

……英文学史上まことに奇妙な組み合わせを記録しているのは、コナン・ドイルである。当時、彼は流行らない医者であり、ほとんど無名の作家であった。ドイルは、アメリカの出版社リッピンコット社の編集者と晩餐をともにするためにサウスシーからロンドンに出て来た。相客はギルという名前のアイルランド人の下院議員とオスカー・ワイルドであった。ワイルドはまず『マイカ・クラーク』を絶賛してドイルを寛がせた。ワイルドの会話はドイルに忘れがたい印象を与えた。「彼は我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた。まことに心遣いに富み如才のない男だった。一人でしゃべる男は、いかに頭がよくても、本当の紳士とは言えない。ワイルドは与えかつ取ることを心得ていた。そして彼の与えるのは独自のものだった」。彼は身振りは少なく言葉は簡潔だったが、活き活きと面白い話をすることができた。未来の戦争はどうなるかという話になると、彼は「敵味方それぞれ一人ずつ化学者がつく。この化学者が瓶を一つ持って前線に出てくるのです」と言った。これを真面目くさった顔で言うので、三人の聞き手は噴き出してしまった。ドイルはワイルドが即興でこしらえた短い話を披露している。「友の幸運は我が不愉快である」という人口に膾炙した言葉が話題になると、ワイルドはたとえ話をしてみせた。あるとき、悪魔の手下どもが聖人を怒らせようとした。しかしいくら頑張っても聖人は泰然自若としている。通りかかった悪魔は手下の失敗を見て、ひとつ教訓を与えようとした。「どうも未熟だなあ。わしがちょっと手本を見せてやる」悪魔はこの隠者に近づくとささやいた。「お兄さんがアレクサンドリアの司教になりましたよ」たちまち賢者の顔は嫉妬と怒りでゆがんだ。「こういうふうにやるんだよ」と悪魔は手下どもに教えたというのである。この晩の出会いの結果、ドイルは『四人の署名』を書き、ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』を書いた。

ヘスキス・ピアソン『オスカー・ワイルド伝』より

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ヘスキス・ピアソン(1887-1964)は有名な伝記作家。コナン・ドイル伝を1943年に、オスカー・ワイルド伝を1946年に書いた。その他にギルバートとサリバン、チャールズ2世、ジョンソン博士、シェークスピア、ディズレーリ、バーナード・ショー、ウォルター・スコットなどの伝記を書いている。

A man can be happy with any woman as long as he does not love her.----Oscar Wilde

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2006年3月22日 (水)

なぜ西澤孝の名前を出さないんだ?

 今日、永田議員が国会で「弁明」したらしい。弁明にも何もなっていない、アホらしい、まともに相手にするに足りないことは言うまでもない。常識が通用するような人ではないのだ。

Nagata

 それはいいとして、よく分からないのは、新聞やテレビがいまだに「情報仲介者」などというだけで、西澤孝という実名を出さないことだ。

 西澤孝の名前は、週刊誌が2月中から書いているではないか。
 西澤という名前は知らないような「振りをする」のは何故だ。
 永田議員なり民主党なりがこれを隠そうとするのは理解できる。保身があり党利党略があるのは当然だ。

 私は朝日新聞を取っているが、紙面で西澤孝の名前を見た覚えはない。讀賣や毎日など、ほかの新聞に載っているかというと、そんなことはないようだ。(2月、3月の新聞をすべて調べて確認するつもりはない。もし私の間違いなら、どなたか指摘して欲しい。)

 これはどういうことだ? 仮に週刊誌は見ない、インターネットも一切見ないとしたら、さっぱり分からんではないか。新聞が共謀して、ニュースがあるのに、まるでないような振りをしているのはどういうことだ。
 仮に朝日新聞が世論を一定の方向に誘導しようとして意図的に事実を隠しているのなら、まだ話は分かる。
 しかし、そういうことではないらしい。新聞は報道という使命を放棄したのか。
 というようなことを、何なら朝日の「編集方針」に合わせて西澤孝の実名は省いて書いて投書欄に投稿してみたいのだが、無駄であろう。載るはずがない。
 今日の朝刊の投書欄を見ると、たとえば長野県上田市の無職、池田閨一さん69歳という人が「上を向いて歩こうは私の人生の応援歌であった」という趣旨のことを書いておられる。
 まことに結構な話である。しかし上田さんがお孫さんにお語りになればよいので、なぜ私が読まなければならないか分からない。
 朝日をやめて毎日なり讀賣なりにしたって同じことだろう。
 どうも、こういうのを見ていると、日本人というのは馬鹿なんじゃないかと思うね。

永田君、決闘しよう」も見てください。

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オスカー・ワイルドとコナン・ドイル(1)

……最後の望みをかけてドイルは『マイカ・クラーク』の原稿をロングマン社に送ってみた。幸運にもアンドルー・ラングがこの原稿を読んで、出版すべきだと言ってくれた。1889年2月にこの本が刊行される直前に、ドイルはこう書いている。「この10年、懸命に書き続けてきたが、ペンで稼いだのは平均すると1年に50ポンドにもならない」しかし成功はすぐそこまで来ていた。『緋色の研究』はアメリカで海賊版がよく売れ、批評も好意的だった。リッピンコット社が、英国人の作家に何冊か書かせようと、編集者を派遣してきた。コーンヒル・マガジンの編集長ジェームズ・ペインがドイルに宛てた手紙が残っている。「先日、リッピンコットにあなたを推薦しました。うまく行くとよいのですが。病中、用件のみにて失礼」ドイルは夕食に招待され、一日医業を休んでロンドンに出かけた。相客はアイルランド人が二人だった。ギルという名前の下院議員と、もう一人はオスカー・ワイルドであった。「私には夢のような晩だった。驚いたことにワイルドは『マイカ・クラーク』を読んでいてくれた。しかも大いにほめてくれたから、私は除け者になったように感ぜずに済んだ。彼の会話は私に忘れられない印象を与えた。ワイルドは我々の上に高くそびえ立っていたが、我々の言うことに興味があるという顔をする術を心得ていた」この晩の食事の結果、ワイルドはリッピンコット社のために『ドリアン・グレイの肖像』を書き、ドイルは『四人の署名』を書いた。シャーロック・ホームズが再度登場したのである。

ヘスキス・ピアソン『コナン・ドイル伝』より

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コナン・ドイル(1859-1930)
1887 緋色の研究
1889 マイカ・クラーク
1890 四人の署名
1891  ストランド・マガジン7月号に『ボヘミアの醜聞』
1892 シャーロック・ホームズの冒険
1893 ストランド・マガジン12月号に『最後の事件』、ホームズ死す。
1901 バスカヴィル家の犬
1903  ストランド・マガジン10月号に『空き家の冒険』、ホームズ復活。
1905 シャーロック・ホームズの帰還
1917 シャーロック・ホームズ最後の挨拶
1927  シャーロック・ホームズの事件簿

オスカー・ワイルド(1854-1900)
1881  詩集
1888  幸福の王子
1891  ドリアン・グレイの肖像
1892  ウィンダミア夫人の扇
1893  サロメ
1895  真面目が肝要 (クインズベリ侯爵に対する訴訟で敗訴)
1898  レディング監獄の歌
1905  深淵より(死後出版)

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2006年3月20日 (月)

ご一緒にポテトは

 むかし、忙しくてときどきマクドナルドで昼食を済ませることがあった。
 ハンバーガーとコーヒーを頼むと、必ず「ご一緒にポテトはいかがですか?」と聞かれた。
「ご一緒に」とは何だ! と、まだ若かった僕でも「おじさん的怒り」が爆発しそうになったものだ。
「ご一緒に」なんて、ハンバーガーに対して敬語を使ってどうするんだ? 
 もちろん、マニュアルを作ってその通り言わせているのだから、女の子を非難するわけには行かない。
 たぶん元は
How about potatoes to go with?
 と言うのだろう。

 マクドナルドが何十年前だったか、アメリカからハンバーガーの「システム」を輸入するときに、マニュアルも直輸入したのだ。アメリカでは英語がちゃんと話せない店員もいるから、ぜひ言い方は決めておかなくてはならない。
 ポテトをすすめるのに、How about potatoesだけではなくて、to go withなんて一見余分なものをくっつけるのは、なかなかよく考えてある。これで9音節になるのかな。ともかく、あまり短すぎると相手に聞き取れない。
 日本語ではどうか? 
「ポテトもいかがですか?」「ポテトはいかがですか?」 
 これでどこが悪いんだろう。10音節である。
 英語でto go withと言うからといって、日本語で対応する言葉を宛てなければならないと思うなんて馬鹿正直だ。それで日本語の用法を間違えているんだから世話はない。

 そう言えば、むかし読んだ禁煙法の本の翻訳にこういう箇所があった。
 煙草を吸いたくなったら、次のような言葉をとなえましょうというのだ。
「私は煙草を吸わないようにしよう」

 笑っちゃったね。たぶん元の英語は
I won't smoke.
だろう。これだと3音節である。となえるのに1秒くらいしかかからない。
「吸わない」「吸わないぞ」「禁煙だ」くらいの訳を考える頭がどうしてないんだろう?

 それでは余計なものを切り詰めて短くすればよいかというと、それだけでは済まないのがやっかいなところだ。

To be, or not to be, that is the question.
を日本語にする。 たとえば小田島雄志氏の訳では
「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」
 かなり長い。しかし、むやみに縮めるわけにも行かない。
 だから英語では1時間で済む芝居が、日本語で上演すると1時間半近くかかるという話を聞いたことがある。
 あるいは、英語で早口で演説する人が出てくると、同時通訳が難渋するという話も聞いたことがある。
 どうも困ったものだ。
 

 

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2006年3月15日 (水)

税務署員でさえ

 ようやく確定申告を済ませました。しかし僕は人間ができているから腹なんか立てないんだ。

 それにイエスさまも仰ったではないか。

税務署員でさえ、天国へ行くことができると

 

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2006年3月13日 (月)

コナン・ドイルとボクシング(2)

……二三分後には、バッドはウィスキーを飲みながら督促状や召喚状のことなどすっかり忘れたようにしゃべり始めた。ところが二杯ばかり飲むと、例によってアルコールの効き目が出てきた。バッド夫人が席を外すとバッドは話題をボクシングに向け、二三ラウンドどうかねと言い出した。ドイルはボクシングとなるとどうしても誘惑に勝てず、グローブをはめた。二人はテーブルを部屋の隅に片付け、ランプを棚に上げておいて向かい合った。ドイルはすぐに自分の間違いを悟った。バッドの眼の凶悪な光が言葉よりも雄弁に語っていたのは、連帯保証人を断られたのを根に持っていることだった。ドイルは友達同士軽く二三ラウンドのスパーリングをするつもりでいたが、バッドは猛烈な勢いで突進してきた。強烈な左右のパンチでドイルをぐらつかせてドアに追いつめると、激しい連打を浴びせかけてきた。ものすごい右が来て、当たれば勝負がついてしまうところだったが、ドイルは何とかかわして間合いを取った。
「おい、これじゃ、まるで喧嘩じゃないか」
「うん、俺のパンチは強いからな。どうだ」バッドは平気な顔で言った。
「そっちが突っかかってくるなら、俺もやり返すぞ。おい、軽くやろうじゃないか」
 言い終わらないうちにバッドはまた突進してきた。サイドステップで避けたが、すぐに回り込んでまた激しく打ちかかってきた。バランスを崩したところに耳とボディーに一発ずつ食らった。椅子につまずいて体勢が崩れ、耳にもう一発パンチを受けた。耳鳴りがした。
「どうだ、参ったか」とバッドは得意そうに言った。 
 参ったどころか、ドイルはお返しをしてやるつもりだった。今度は攻撃に備えていたから、出てくる相手の鼻に左を喰らわせておいて顎に右ストレートをたたき込むと、バッドは床にひっくり返った。
「この野郎」バッドは怒鳴った。顔は憤怒に引きつっている。「おい、グローブを外せ。素手で来い」
「馬鹿野郎」ドイルは上機嫌で答えた。「喧嘩かなんかする理由がないだろう」
「おい、ドイル」バッドはわめいてグローブを投げ捨てた。「お前がどうでも、俺は素手で行くぞ」
「ソーダ水でも飲め」とドイルは言った。
「俺が怖いのか」バッドはあざけった。「怖じ気づいているんだ」
 ドイルはグローブを外した。そのときバッド夫人が入ってきた。
「ジョージ!」バッドは鼻血で顔の下半分が血まみれになっている。彼女は振り向いて叫んだ。「これはどういうことですか、ドイルさん」目には憎しみが浮かんでいたが、ドイルは思わず抱き寄せてキスした。
「ちょっとスパーリングをしただけです。ご主人が最近運動不足だとこぼすのでね」
「いいから、いいから」とバッドは言って上着を着た。「何も騒ぐことはない。召使はもう寝ただろうな。台所へ行って洗面器に水を汲んできてくれないか。坐ってパイプをやろう、ドイル。話したいことが山ほどある」
 例によって変わり身の早いバッドは、二人の友情を脅かすことなど何も起きなかったかのように、またしゃべり始めた。その晩は平和のうちに更けた。

ヘスキス・ピアソン『コナン・ドイル伝』より

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2006年3月12日 (日)

コナン・ドイルとボクシング(1)

……21歳のドイルは身長6フィートをこえ、髪は茶色、眼はグレーで、肩幅が広く、胸囲は43インチあった。体重は「素裸で16ストーン[102キロ]をこえ」、力は雄牛のように強かった。彼はこの時期の自分の姿を出版された最初の長編小説『ガードルストーン会社』でおそらく無意識に描いている。「長く引き締まった脚と筋肉質の太い首の上の丸く力強い頭部は、アテネの彫刻家には恰好のモデルとなっただろう。しかし顔には整った東方の美はなかった。純朴そうな離れた眼といい、生えかかった口髭といい、これはあくまでアングロサクソンの目鼻立ちであった。……内気ではあるが力強く、整ってはいないが感じがよく、いかにも寡黙で口下手な男の顔であった。しかし世界地図を英国領の赤に染めてきたのは、能弁家などではなくこのような男だったのだ」。このような男はもちろんスポーツマンだった。ドイルは相手さえあればボクシングをする機会を逃さず、それに一時は大学のラグビー・チームでフォワードを務めた。時間があるときはずいぶん勉強もしたはずだが、グローブをはめて一勝負する機会があれば医学書などは放り出したようである。

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……ところが1880年の初め、偶然にうまい話が舞い込んだ。ある日の午後、彼がエディンバラの自室で「医学生の生活に暗い影を落とす試験の一つ」に備えて勉強していると、カリーという知り合いの医学生が訪ねてきた。捕鯨船の船医をやってみる気はないかというのだった。月給は2ポンド10シリングで鯨油1トンにつき3シリングの歩合がつくという。カリーはいったんこの仕事を引き受けたのだが、間際になって行けなくなったので誰か代わりを探していたのである。ドイルはためらわなかった。カリーの道具一式を譲り受けて二週間後にはピーターヘッドの港に行き、2月28日に200トンの捕鯨船ホープ号に乗り組んで出航した。航海は7ヶ月にわたったが、その間医者として腕をふるう機会はほとんどなく、ドイルの仕事は主に船長のお相手をして刻み煙草がなくなれば補充してやることだった。実に気楽な生活だった。あるとき、料理人がラム酒で酔っぱらって三度続けてひどい食事を出した。腹を立てた船員が真鍮のシチュー鍋で彼の頭を殴りつけると、底が抜けて鍋の縁が襟巻のように首の回りを飾ることになった。ここではドイルのボクシングの腕が役に立ち、彼は人気者になった。航海第一夜に彼は料理人のジャック・ラムと手合わせしたが、ジャックはあとで一等航海士のコリン・マクリーンにこう報告した。「今度の船医のドイルは最高だぜ。俺の眼にあざを付けやがったんだからな」

ヘスキス・ピアソン『コナン・ドイル伝』より

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2006年3月10日 (金)

crisisはいつも「危機」と訳してよいか

 crisisという語にぶつかると、たいがいの人は「危機」と訳す。もちろん「危機」の意味はあるし、辞書によってはこの訳語しか書いてないものもあるくらいだから、無理もない。しかし、いつもいつもそう訳されては困るのである。日本語の「危機」とは、「危険なとき」とか「危険な状態」であるのに、crisisは必ずしもこの意味ではないからである。
 この語はギリシャ語のクリシスに起源を持ち、ラテン語(crisis)を通ってフランス語(crise)に入り、次いでドイツ語(Krisis, Krise)や英語(crisis)になったもので、もともとは医学上の用語なのだから、まず医学用語の意味を検討しておかなければならない。……

 続きが読みたくありませんか? 
 それでは続きを書きましょう――と言いたいところだが、残念ながら上の文章は私が書いたものではない。

増田冨壽『誤訳と誤解』 早稲田大学出版部 昭和60年刊
 の5頁以下にある。

 この本の見出しから面白そうなところをピックアップしてみる。

・British EmpireやBritish Museumが「大英帝国」や「大英博物館」と訳された事由
・Charlemagneは「シャルルマーニュ大帝」か「カール大帝」か
・「ダス・ハイスト」(das heisst)はいつも「すなわち」でよいか
・フランス人は面と向かわなければ「マダム」と呼ばない
・スープ(soupe)はなぜ食べるというのか
・ソビエトでは「キャビア」も「イクラ」という
・衣冠束帯とは「衣冠と束帯」の意味か、「衣冠または束帯」のことか

 どれも読んでみれば「なるほど、そういうことだったのか」と膝を打つはずである。英・独・仏・希・羅・露語を駆使した考証がすごい。
 増田先生の専門はロシア経済史であるから、当方にはとうてい歯が立たない問題もある。
・「占有マニュ」か「農奴占有マニュ」か
・「アトラボートカ」の訳は「雇役」でいいのか
 と言われてもさっぱり分かりません。

 上記の見出しの中では、「シャルルマーニュ大帝」がおかしいことくらい、私だって分かるのに、専門家が間違えていたらしい。

……中世文学についての解説文を書いた、フランス語にやかましいといわれる某大家は、くり返し「シャルルマーニュ大帝」と記している。……クラウン仏和に「シャルルマーニュ(カール)大帝」とあっても仕方がないのかも知れない。――と増田氏は書いている。
 正しくは「ラテン語でカロルス・マグヌス、つまりカール大帝とよんだものが、フランス語になまったものである」――これは橋口倫介氏の説明を増田氏から孫引きするので、信用していただいてよい。

 蛇足を付け加えれば、シャルルマーニュの「マーニュ」の部分が「大」なのだから、「シャルルマーニュ大帝」は「シャルル大大帝」と言うのと同じで滑稽だというのである。
 増田先生の指摘(昭和60年)を受けて、その後このような誤用はなくなっているはずである。

 英語の辞書はどうなっているだろうか?
Charlemagne  シャルルマーニュ, カール大帝 (Charles the Great) (742-814) 《フランク王 (768-814), 西ローマ帝国皇帝 (800-814); 神聖ローマ帝国皇帝 Charles 1 世ともみなされる》――リーダーズ英和辞典
(ドイツ語ではKarl der Grosseである)

 さらに蛇足。
 いまの英国皇太子はチャールズさんであるが、フランス語ならシャルル、ドイツ語でカール、スペイン語でカルロスになる。実際にチャールズ皇太子がスペインを訪問すれば、スペインの新聞が「カルロス皇太子がお出でになった」と報道するかどうかは寡聞にして知らない。しかし、英国の学校で歴史を教えるときには、「カール大帝」のことを「チャールズ・ザ・グレート」と言うのだろうと思う。

 増田先生の博識には及びもつかないが、私もいささか「考証」を試みたのが「柔道か柔術か」「牧師か神父か」である。動機は二つある。一つは面白いから。もう一つは、やや大げさかも知れないが「公共の福祉のため」である。牧師と神父が混同されたままでは困るではありませんか?

3月12日追記 せっかくコメントをいただいたのにメールの具合がおかしくて返事を差し上げられない。

ガーター亭亭主さん 大英はおっしゃるとおり「ブルターニュ地方と区別するため」だそうです。でも「大きな英国」の意味で使ってしまいますね。

Missaさん ありがとうございます。フランスはいいなあ。僕も行きたいものだ。

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2006年3月 7日 (火)

牧師か神父か(2)

(承前)シャーロック・ホームズ『最後の事件』の新潮文庫の翻訳では、カトリックの神父を間違えて(プロテスタントの)牧師と訳してしまっている。
 シャーロック・ホームズにはほかにも翻訳があるが、どうなっているだろうか?

ちくま文庫
イタリア人の老牧師が片言の英語で、荷物はパリまでチッキにしたいということを赤帽にわからせようとしていたので、その手助けで二、三分つぶしてしまった。

ハヤカワ文庫
イタリア人の老牧師が、怪しげな英語で、荷物をパリまで通しでチッキにしたいということを赤帽にのみこませようと苦労していたので、それを手助けするあいだに二、三分すぎた。

創元推理文庫
イタリア人の老牧師が、かたことの英語で、荷物をパリまで通しでチッキにしたいのだという意味を、荷物運搬夫にわからせようと骨折っていたので、これに口を出して二、三分すごしてしまった。

 いけません。延原こけたらみなこけたか。どうも困ったね。特に創元推理文庫には驚いた。訳者は阿部知二ですよ。「冬の宿」知ってます? 細川たかしの歌じゃないよ。岩波文庫に入っています。

学生である主人公はある家の2階を借りてひと冬をすごすが,いつしかその家族の憂鬱な生活にひきずりこまれてゆく.昭和10年前後の思想弾圧の時代を背景として,貧しさのなかではてしなくつづく夫婦の葛藤と青年たちの暗い青春を描いた阿部知二(1903‐1973)の代表作.知識人の問題を捉えたものとして,その後の文学に重大な影響を及ぼした――岩波書店のサイトより

 翻訳はもう一種類あった。河出書房から出ているシャーロック・ホームズ全集です。「イタリア人の神父」となっている。ああ、よかった。
 この河出の本は挿絵入りです。シドニー・パジェットがストランド・マガジンのために描いた絵を載せている。いかにもよぼよぼのお年寄りが黒いスータン(僧衣)を来て坐っている。

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これを見てまだ「牧師」なんて書く人はいないだろう。

 さらにもう一種類、今度は光文社から新訳シャーロック・ホームズ全集が出ます。『最後の事件』を収める『シャーロック・ホームズの回想』は2006年4月刊行予定とある。牧師になっているか、神父になっているか、楽しみですね。

 4月12日付記。光文社文庫版462頁、「イタリア人の老牧師」「よぼよぼのイタリア人牧師」でした。

 ハムレットの有名な台詞
To be, or not to be, that is the question.
の訳は、訳者によってずいぶん違う。

坪内逍遙 「世に在る、世に在らぬ、それが疑問ぢゃ」
福田恒存 「生か、死か、それが疑問だ」
小田島雄志「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」

 それぞれ解釈が違うが、もちろんどれが正しくどれが間違っているというわけではない。
 ちなみにドイツ語に訳すると
Sein order nicht sein, das ist die Frage.
 一義的に決まってしまう。解釈の余地はない。
 ハムレットにはほかにも松岡和子、大山俊一、木下順二、久米正雄、永川玲二、本田顕彰、横山有策などによる翻訳があって、この台詞の訳も少しずつ異なっているが、どれも間違いではない。ハムレットの翻訳には「誤訳はない」と断定してしまってよいと思う。これほど有名なテキストで注釈も揃っているものを誤訳するような翻訳者はまさかいないだろう。

 ところが、シャーロック・ホームズとなるとそうは行かないのですね。「正典」と呼ばれるほどのテキストなのに、翻訳はどうも間違いが多い。全部調べる時間はないけれど、少なくとも『最後の事件』には、現行の5種類の訳に共通の重大な間違いが二つある。ホームズが眉をしかめて「基本的なことだよ、小林君」と言いそうな間違いです。
 それぞれ一大論説が必要になるので、いずれまた。

シャーロック・ホームズについては書斎の死体もどうぞ。

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2006年3月 6日 (月)

牧師か神父か

 1891年4月24日金曜日の夕方、久しぶりにワトソン博士を訪ねてきたシャーロック・ホームズのようすは、どうも変だった。
 いつもより顔色が悪く痩せているように見えた。
 ホームズが打ち明けた話は驚くべきものだった。
「モリアーティ教授のことは、聞いたことがないだろうね」
「聞いたことがない」
「そう、そこが驚くべきところなのだ。この男はロンドン中に幅をきかせているのに、誰も名前を知らない。だからこそ犯罪史上最大の悪党になることができたのだ。……」
 ホームズの説明によれば、モリアーティ教授は「犯罪界のナポレオン」である。ロンドンの悪事の半分と迷宮入り事件の大部分は、モリアーティが黒幕で、手下に実行させているのだ。……

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 しかし、これでは『最後の事件』を全部翻訳することになってしまう。要するに、悪の巨魁モリアーティ教授とその一味を一網打尽にする絶好のチャンスがおとずれたのだが、ホームズ自身に身の危険があるので、しばらく大陸に身を隠したい、ワトソン、一緒に来ないか? 
 ワトソンは翌朝ヴィクトリア駅発の大陸行き連絡急行の一等車でホームズと落ち合うことにした。以下、新潮文庫の延原謙氏の訳文。

……心配なのはホームズの姿の見えないことである。大時計を見れば、発車まであと7分しかない。……イタリア人の老牧師が、片言の英語で、荷物はパリまでチッキにしたいのだという意味を、赤帽にのみこませようと骨折っているのに、口出ししてやったので二、三分かかった。で、またあたりを見回し、ふと車室の方を見ると、切符も見ないで赤帽は、いまの老イタリア人を私の車室に乗り込ませようとしている。私のイタリア語ときたら、この老牧師の英語以上に怪しげなものであるから、この車室が貸しきりであるのを説明なんかできっこない。仕方がないからあきらめて……

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「おいワトスン君、お早うの挨拶くらいしたらどうだい」という声がしたので、びっくりして振りかえった。ちょうど牧師もこちらへ顔をむけたところだったが、見ると顔じゅうのしわがたちまちなくなり、垂れさがっていた鼻はしゃんと起き、下唇はひっこみ、もぐもぐの口はきちんと結ばれ、どんよりした目はいきいきと冴え、まがった腰はしゃんと立ったのである。ホームズだ!

 いつもながら見事な変装である。きびきびした訳文もなかなかいい。
 しかし、この訳文、少し変なところはないだろうか? はっきり言えば、明らかな誤訳があるのだ。原文と対照しないでも、日本語だけ読んで分かるはずだ。

「イタリア人の老牧師」が間違いです。
 これは「神父」としなければいけません。
 新潮文庫の『シャーロック・ホームズの思い出』は昭和28年に出ていて、私の手元にある版は平成10年発行の第89刷である。その後改訂されたという話は聞かない。
 50年以上にわたって何万人もの読者が読んでいるはずだが、誰も指摘しなかったのだろうか?
 
 当たり前のことを説明する。キリスト教には(ローマ)カトリックとプロテスタントがあって(ほかにギリシャ正教もあるが)、前者の聖職者は司祭あるいは神父、後者の場合は牧師と呼ばれる。英語では司祭はpriest、牧師はふつうpastorである。神父はfatherであるが、これは司祭に対する尊称である。
 ここで原文をあげておこう。

I spent a few minutes in assisting a venerable Italian priest, who was endeavouring to make a porter understand, in his broken English, that his luggage was to be booked through to Paris. Then, having taken another look round, I returned to my carriage, where I found that the porter, in spite of the ticket, had given me my decrepit Italian friend as a travelling companion. It was useless for me to explain to him that his presence was an intrusion, for my Italian was even more limited than his English, so I shrugged my shoulders resignedly, and continued to look out anxiously for my friend. ……
  "My dear Watson," said a voice, "you have not even condescended to say good-morning."

 カトリックの神父とプロテスタントの牧師を混同するなんて、どういうことだ。
 日本人はキリスト教のことをよく知らないから混同するものだけれど、翻訳者が間違ってはいけません。教義上のむつかしい違いはいろいろある。我々素人としては、カトリックの神父は生涯独身だがプロテスタントの牧師はたいてい結婚する、これが大きな違いだ、と考えておけばよい。
 このvenerable Italian priestは牧師ではなく、神父である。priestという英語で牧師を指すことが絶対にないとは言い切れないけれども、ここは「イタリア人のお年寄りの神父さん」でなければおかしい。
 イタリア人なのにプロテスタントの牧師という場合がないとは言えない。しかしあまりに特殊すぎるだろう。「よぼよぼのイタリア人の神父さん」という一つの「典型」をとらえるからこそ、ホームズの変装の才が発揮できるのである。
 ホームズが牧師に変装したことがある。覚えていますか?
 ボヘミアの醜聞です。

 ホームズは寝室に消えたが、数分のうちに、愛想のいい、人の良さそうな非国教会派の牧師(an amiable and simple-minded Nonconformist clergyman)に変装してあらわれた。幅広の黒い帽子にだぶだぶのズボンと白ネクタイ、思いやりのある微笑と慈悲深い表情で人をのぞきこむ、その全体的印象は、名優ジョン・ヘアを除いては匹敵するもののないほど見事な変装ぶりだった。

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 アイリーン・アドラーも騙されるほど見事な変装ができたのは、やはり「典型」をとらえたからでしょう。非国教会派の牧師でいかにも冷酷そうな人だっているかも知れない。しかし、ここでホームズはふつうの人の思い描いている「非国教会派の牧師さん」のイメージを再現してみせたので、これが変装の要諦なのだ。

 外国の宗教のことはなかなか分からないものだ。日本とは事情が違うのだから、そういつも厳密にキリスト教の教義に合わせるわけには行かない場合もある。
 たとえばPopeはふつう「ローマ法王」という。もちろん正しくは「教皇」ですね。「法王」は「法皇」の類推で作った日本語だ。厳密にはおかしい。後白河法皇は「仏法」に帰依する「法」皇なのだから。
 だから「ローマ法王」なんてとんでもない、とカトリック教会が怒るかというと、そんなことはないようだ。「教皇」と言った方がいいけれど、「キョーコー」なんてふつうの日本人には分からないから、ローマ法王でもやむを得ないと考えているようだ。この間、新しくベネディクト16世が即位されたとき、西洋人の神父さんが日本語で「法王さま」と言っているのがテレビに映ったこともある。

 しかし、カトリックの神父とプロテスタントの牧師は区別しなくてはならない。この二つを混同するようでは西洋文学なんか読む意味がないだろう。

 新潮文庫は50年以上混同してきた。ほかの翻訳はどうなっているだろうか? (牧師か神父か(2)に続く

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2006年3月 4日 (土)

エッセイって何だ?

 去年だったか、朝刊を開いてみると、丸谷才一の新しい本が出ている。これはすぐ買おうと思った。午後外出したときに本屋に入る。
 どこにあるだろう。平積みしてあるはずはない。そんなにベストセラーになるような本じゃない。エーと、何という題名だったか。丸谷さんの本はどうも題名が凝っていてすぐに覚えられないのが困る。
 店員に
「今日の新聞の広告に出ていたんだけれど、丸谷才一のエッセイ……」
 と尋ねてみる。
 店員の顔が一瞬空白になる。マルヤサイイチ? 丸野菜位置? 
 しかし、エッセイという言葉は聞き取れたと見えて、先に立って歩き出す。連れて行ってくれた本棚には、むやみにけばけばしい表紙の本ばかり並んでいる。和田誠装丁ではない。
 ここで私はハハアと分かったのである。若い女の店員が「エッセイ」という言葉をどう理解しているかが。
 つまり、エッセイというのは「タレントの書いた本」なんですね。たとえば真鍋かをり。いえいえ、真鍋さんの本が悪いと言っているわけではありません。真鍋さんはかわいい。僕は好きです。誤解のないように。同じココログですから、ときどき見ています。トラックバックは付けたことないけど。
 エッセイと言えばまずモンテーニュか。随筆と訳してしまうといくらかニュアンスが違って、たとえば甲子夜話みたいなもの、という理解では古いらしい。
 ところでお前の書いているのはエッセイか? はい、そのつもりでおります。ただ、ほかのおっさんと違うのは説教はしないということ。ほとんどしません。
 藤原正彦氏の「国家の品格」を読んで感心なさるのは結構。でもそれをネタに説教をぶつのはどうか。僕はその本はまだ読んでませんが、藤原先生のほかの本は読んでいるから、たぶん愛嬌と芸があるのだろうと思う。声高に正論を述べるだけでは、売れない。

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2006年3月 3日 (金)

永田君、決闘しよう

 昔(19世紀前半くらいまで)のイギリスだったら、今回のような問題はどうなっていただろうか? 簡単だ。決闘に決まっている。
 武部さんが永田さんに決闘を申し込む。
 英語ではsatisfactionという字を使うことが多い。
 "I demand satisfaction."と言って、手袋を投げつける。
 しかし日本語では「永田君、決闘しよう」くらいだろう。手袋は省略してもよい。
 永田議員は受けざるを得ない。双方に介添人がついて、決闘の場所と日時が決まる。場所はロンドンならハイド・パークと相場が決まっていたものだが、現代の東京ではどこがいいだろう。むつかしい。まず日比谷公園くらいにしておきますか。
 時間は目立たないように早朝5時くらいがいい。まだ暗いうちである。目立たないようになんて、テレビが放っておかないだろう? それはそうだが、どうせ想像なのでテレビの問題はないものとする。
 警察は決闘のことを知っているが、見て見ぬふりをする。
 早起きして、コーヒーとビスケットで腹ごしらえして、日比谷公園へ行く。
 介添人がいて、同じ拳銃を二丁用意している。決闘用の特殊な拳銃である。回転式拳銃は普通六連発であるが、一発ずつしか込めない。

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 拳銃というものは、普通の軍事・警察・犯罪用のものでも、なかなか命中しない。10メートルも離れると人間大の的でも当たらないことが多い。
 決闘用の拳銃が普通のものと異なるのは、ライフルがないことである。rifleという言葉は、日本語でも英語でも間違った使い方をする人が多い。rifle=小銃だと思っている人が多いが、違います。
 銃身や砲身の内面にほどこした螺旋状の浅い溝がライフルである。この溝で弾丸に回転を与え、まっすぐ飛ばす。これは拳銃から大砲まで同じである。
 決闘用の拳銃は、このライフルがわざと切ってない。当たりにくくするためで、つまり名誉は満足させたいが、できることなら死にたくないというわけである。
 両者がこのような拳銃を手にして背中合わせに立ち、あらかじめ決められた歩数だけ歩き、振り向いて撃つ。
 たいていの場合、10メートル以上の距離になるし、拳銃が拳銃だから、弾はまず当たらない。当たらなくても一発ずつ撃ち合えばsatisfactionは得られたということにして、チャラにする。
 もちろん、たまには当たってしまうことがある。その場合は死ぬが、それは仕方がない。
 
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 こういう決闘を19世紀前半までのイギリスではしていたようだ。
 たとえば、1829年には時の英国首相ウェリントン公爵(1769-1852)がウィンチェルシー伯爵と決闘している。作法通り十数歩離れて拳銃を一発ずつ撃ち合ったが、どちらもわざと狙いを外したという。
 しかし、ウェリントン公爵はものすごく偉い人だったから、大問題になった。
 どれくらい偉かったか? 英国の首相だったのだが、もちろん小泉首相なんかとは比べものにならない。
 何しろ、1815年6月18日、あのワーテルローの合戦でナポレオン(1769-1821)を破った人である。トラファルガーの海戦(1805)のネルソン(1758-1805)とともに救国の英雄である。その人が首相になっているのである。
 そういう偉い人が人殺しをする可能性のある決闘をした、どうもまずいのではないか、ということでイギリスでは以後だんだん決闘が廃れて行った。
 1840年には、滞英中のルイ・ナポレオン、のちのナポレオン三世(1808-73、在位1852-70)がシャルル・レオン伯爵という人とフランス人同士で決闘しようとしたが、警察が二人を逮捕して中止になった。以前は警察も知って知らぬ振りをしたのに「決闘は違法」ということになってきた。
 1845年、チャールズ・ホーキー中尉とアレクサンダー・シートン大尉が決闘して、大尉の方が死んだのがイギリスでは最後の決闘だそうです。中尉は逮捕され、裁判で有罪になった。

 こうして決闘ができなくなると、名誉の問題に決着を付ける方法が必要になってきた。libelとslander、文書誹毀と口頭誹毀である。
 libelやslanderの裁判が決闘の代わりの役割を果たした。
 1878年には、画家ホイスラー(1834-1903)が批評家ラスキン(1819-1900)を訴えた。絵の悪口を言われたからである。原告が勝訴し、損害賠償として一ファージング(四分の一ペニー)の支払いを得た。ホイスラーは自伝の中にこの一ファージング銅貨の原寸大の挿絵をかかげている。
 1895年には、オスカー・ワイルド(1854-1900)が、ホモセクシュアルの関係にあった友人の父親、クインズベリー侯爵を、侮辱を受けたというのでlibelで刑事告訴した。これはやぶ蛇になって、ワイルドが同性愛罪で下獄することになった。

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 日本の名誉毀損はこの誹毀にあたるが実際は機能していない。

刑法230条
公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、3年以下の懲役若しくは禁錮又は50万円以下の罰金に処する。

 今回の場合、国会内の発言は免責されるから、「国会の外で同じことを言ってみろ」といい、名誉毀損で告発すればいいのだが、実際問題として、名誉毀損で懲役3年の実刑になったケースはないでしょう。罰金50万円なんて馬鹿馬鹿しい。
 民事上の不法行為で損害賠償は取れるはずだが、これも数十万円にしかならない。骨折り損である。
 数億円を取って相手を破産させるくらいでないと、決闘の代わりにはならない。何とかならぬものか。

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2006年3月 2日 (木)

ガンディーと使徒たち(5)

ヴェド・メータ『ガンディーと使徒たち――偉大なる魂の神話と真実』新評論 262頁

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  スシーラ・ナーヤル博士はガンディーの主治医だった。彼女は西洋医学の教育を受けていて、一九六二年から六七年まで五年間インドの保健衛生相を務めたが、ガンディーの弟子の中で最も正統派で、禁酒法を支持し産児制限の方法としては禁欲だけが道徳的に認められるという意見である。彼女の家はデリー市周辺部のやや寂しいところにある。彼女は六十歳くらいの背の低い太った丸顔の女性だった。赤みを帯びた黒髪がやや白くなり、しわの寄った白いカーディーの布に黄色で縁取りしたサリーとかすかに緑色の混じった白のカーディーのチョリを着ている。私たちは彼女の居間兼食堂に坐って話した。周囲の壁にはガラス戸の戸棚が並び、陶器や人形、彫像、本など雑多なものが詰め込まれている。隅に古い冷蔵庫があってモーターの音がやかましい。一方の壁にサンダル履きの足の木彫がかかっている。ガンディーの足であろう。至る所にスシーラ自身の写真がある。ガンディーと、ネルーと、仏像と並んで写したものだ。

「私はバプーと同じように、ブラフマチャーリーとして自然の法則に合った生活をしていれば病気にはならないと信じています」と彼女は言う。「それでも病気になったら、まず最初に自然の単純な治療法を試すべきです。自然療法です。高血圧にはよく寝ること、下痢やお腹が張るときは絶食。バプーはこうしていました。重病で単純な自然療法が効かないときは近代医学を試してみるのもいいでしょう。バプーもマラリアになったときはキニーネを飲みました。でもバプーにとって私は医師だけではなかった。マッサージ師で旅行のお供で秘書でした。私がバプーの小屋にいるときにお客があると、会話の記録を取りました。そこにいる秘書全員が記録を取って、あとでバプーが一番正確だと思うのを選んで活字にしました。一度、ボースの記録より私の方を選んだことがあります。そのとき私はまだ学生で、ボースは自分が偉い学者だと思っていましたから、彼は決して私を許さなかった。あらゆる機会を捉えて私のことを『バプーを自分の所有物だと思っているヒステリーの嫉妬深い女』と悪口を言いました」
 ブラフマチャリヤの実験はいつどうやって始まったのか知っていますか、と私は尋ねた。
「バプーの隣に寝るのは何も特別のことではなかったのです。バプー自身の口から聞いたけれど、ノーアカーリーで初めてマヌに一緒に寝てくれと頼んだとき、二人は一つの布団をかぶって服を着たまま寝たのです。初めての夜も、マヌは彼のベッドに入るとすぐにいびきをかき始めたそうです。しばらく経ってからバプーは彼女に言いました。『私たちはいつムスリムに殺されるかも知れない。だから二人とも純潔の究極的なテストをするべきだ。最も純粋な犠牲を捧げなければならない。二人とも裸で寝よう』彼女は『もちろんそうしましょう』と言った。私はバプー自身の口から、彼も彼女も少しも欲情を感じなかったと聞いています。マヌはノーアカーリーでバプーに奉仕したかった。死の危険に満ちた最悪の場所だったから。でも、マヌが来るよりずっと前から私はバプーと一緒に寝ていました。お母さんと寝るのと同じです。彼が『背中が痛い。押して欲しい』というと、私が押すか彼の背中の上に横になって、彼はそのまま寝てしまいます。初めのころはブラフマチャリヤの実験だなんて言わなかった。自然療法の一部なんです。あとになって彼が女性と――マヌやアバーや私と――肉体的接触をしているではないかと言う人が出てきて、それからブラフマチャリヤの実験という考えが出てきたんです。ブラフマチャリヤのことはもう聞かないでくださいね。これ以上言うことはないから。あなたはボースみたいに嫌らしいことばかり考える人じゃないでしょう?」
 一人の男が入ってきた。彼は梨型の頭、がっしりした顎、短い黒い髪で、顎に白い無精ひげをはやしている。白いカーディーのクルタとドーティーを身につけている。
「ラーラジーです」と彼女が言う。「私と一緒に住んでいて電話に出たり家事の手伝いをしてくれます」
 ラーラジーはその通りですというように咳払いするが何も言わない。
 ガンディーのそばで若年を過ごした女性の多くのようにあなたも結婚しなかったのは何故ですか、と私は尋ねた。
「他の人のことは知りませんが、私はダッタトレヤ・カーレルカルの息子と婚約していました」とスシーラは言う。「彼はすぐに結婚したいと言いましたが、私はもう少し待ちたかった。先ずバプーと国のために奉仕したかったのです。ところが彼がとってもひどいことを言ったのです。『君たちはガンディーのお付きになって奉仕だとか何だとか言っているが、ただただご主人様から離れられないだけなんだ。何でもガンディーのお陰様というんだろう。一緒に地獄まで行ったらいいじゃないか』これで婚約はお終いおしまいになりました。それからは他の誰とも結婚しなかったんです」
 ラーラジーが咳払いするが、やはり何も言わない。
「でもバプーは私のすべてでした」とスシーラはラーラジーを無視して続ける。「彼は神でした。私は昔から超自然的なものに惹かれていました」彼女は首にかけている金のロケットに触る。「最近私はサイババに熱中しています」自ら神の化身と名乗るサイババは近ごろ特に上流階級の間で流行している。彼の奇跡の一つに、空中から自分の写真が入った二十四カラットの金のロケットを取り出してみせるというのがある。そのロケットを彼のファンはお守りとして身につけるのだ。

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