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2006年4月13日 (木)

赤毛のでぶ(1)

  昨年秋のある日のこと、わが友シャーロック・ホームズを訪ねてみると、年輩の紳士と何やら熱心に話し込んでいた。相手の男はがっしりした体格で赤ら顔、しかも燃えるように赤い髪をしている。
               日暮雅通訳 光文社文庫 2006年

去年の秋のある日のこと、訪ねてみるとシャーロック・ホームズは、非常に体つきのがっしりしたあから顔の、髪の毛の燃えるように赤い年輩の紳士と、何事か熱心に対談中であった。
               延原謙訳 新潮文庫初版 1953年

I had called upon my friend, Mr. Sherlock Holmes, one day in the autumn of last year and found him in deep conversation with a very stout, florid-faced, elderly gentleman with fiery red hair.
             Arthur Conan Doyle  Strand Magazine 1891

 有名な『赤毛連盟』の冒頭部分である。
 光文社文庫版にも新潮文庫版にも誤訳があることは、すぐに分かると思う。

 stoutという単語を「がっしりした体格で」「体つきのがっしりした」と訳しているのが、誤訳である。
 これは、「太った」「デブの」「肥満体の」「恰幅のよい」「でっぷりした」などでなければならない。「がっしり」ではありません。
 さて、どう説明すればよいか?
 まず、シドニー・パジェットの挿絵を見よう。

Redh21_2

 この絵はうまいですね。やせたホームズとデブのウィルソン氏の対照がよく分かる。
「いや、シドニー・バジェットがどんな絵を描こうが、がっしりだ」と頑張らないでください。冒頭の引用部分は光文社文庫では57頁ですが、59頁になると次のような描写がある。

恰幅のいい依頼人は、いささか得意そうに胸を張ると、大外套の内ポケットから汚れてしわだらけになった一枚の新聞を取りだした。
The portly client puffed out his chest with an appearance of some little pride and pulled a dirty and wrinkled newspaper from the inside pocket of his greatcoat.

この訪問客はどう見たところで、でっぷり太った、尊大な態度で鈍重な感じの、どこにでもいるありふれた英国商人にすぎない。
Our visitor bore every mark of being an average commonplace British tradesman, obese, pompous, and slow.

 同じウィルソン氏をはじめはstoutと描写し、次にportly、その次にobeseという形容詞を使っている。
 つまり、こういうことだ。
 太っていることを表す一番普通の言葉はfatである。上の三つの文では、どれもfatを使ってもよいはずだ。

・----a very fat, florid-faced, elderly gentleman with fiery red hair.
・The fat client puffed out his chest----
・----an average commonplace British tradesman, fat, pompous, and slow.

  しかしこれではあまりに芸がないので、fatの類義語stout, portly, obeseを使ったのだろう。類義語としてはほかに、corpulent, overweight, chubby,plump などがある。ただ、chubbyやplumpは少しニュアンスが違って、ウィルソン氏には使えないかも知れない。――というようなことは当たり前で説明の必要もないと思っていたのだが……

 辞書を引いてみましょう。OED(Oxford English Dictionary)にはどう書いてあるか。

 stoutの語義の1番目はProud, haughty, arrogant.である。Often coupled with proud.(proudと併用することが多い)と書き添えてある。ただし、この用法はobsoleteである。現代では使われていない。OEDは語義を頻度順ではなく、古い順に本質的な語義を先頭に並べている。例文はたくさんあるが、たとえば1593年の例として、シェイクスピアのヘンリー6世から
As stout and proud as he were Lord of all.

 stoutの語義をずーっと見て行くと、6番目に「がっしり」にあたる意味が出てくる。
Strong in body; of powerful build
ただしNow only U.S. dial. (今では米国の方言のみで使う)と書き添えてある。
 これも例文がたくさんあるが、1882年のマーク・トゥウェインのStolen White Elephantという小説
Your word  'stout' means 'fleshy'; our word 'stout' usually means strong.
あなた方がstoutというのは「太った」という意味だが、同じ言葉が我々の方では「がっしり」という意味だ。
というようなことでしょう。原本に当たってみないと分からないが、たぶんアメリカ人とイギリス人がstoutの語義を論じているのだと思う。
 いずれにせよ、「がっしり」という意味では、現在は普通には使わないことがはっきりしたはずだ。

 さらに下の方まで見て行くと、ようやく12番目になってデブが出てきた。
Of persons: Thick in the body, not lean or slender; usually in unfavourable sense, inclined to corpulence; often euphemistically = corpulent, fat.

 要するにstoutとは太っていることだ。in unfavourable senseというのだから、デブというような響きである。fatを使った方がよく分かるが、少し遠慮して、本来の意味はproudであり、昔は「がっしり」の意味にも使われたstoutを使う。これがeuphemistically(婉曲に)ということである。これも例文を見れば、stoutが「がっしり」の意味ではないことが納得できるはずだ。

1899 Lady M. Verney Verney Mem.
His military bearing is giving way to a slouching gait as he grows older and stouter. 
昔はいかにも軍人らしい物腰だったのに、年を取って太ってくると前屈みのだらしない姿勢で歩くようになる――というような意味でしょう。

 昔は英和辞典にstoutの意味として「がっしり」だけしか書いてなかったのだろう。だからそう訳したのも無理からぬところがある。
 しかし今ではわざわざOEDを見るまでもない。高校生用の英和辞典にもstout=デブは書いてあるのだ。三省堂のグローバル英和辞典。

stout
(1) 頑丈な, がっしりした, 丈夫な, 強固な.
a ~ wall 頑丈な壁.
a ~ ship がっしりした船.
~ laborers 屈強な労働者たち.
(2) (婉曲)太った, でっぷりした,([類語]中年太りなどを遠回しに表す語;→fat)
"You're getting a little ~,” the wife told her husband. 「あなた少し太目になってきたわね」と妻が夫に言った.

 物語の冒頭に「がっしりした赤毛の……」と書いてあれば、はじめて読む読者ならば、たとえばニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜選手(身長185センチ、体重100キロ弱、まさにがっしりしている)を思い浮かべ、まず彼を外人にし、それから赤毛にし、次に年寄りにしてみるかも知れない。
 ところがしばらく読んで行くと、まず「恰幅のいい依頼人」とあり、次に「でっぷり太った」と書いてあるので、頭の中のイメージを修正しなければならない。これが困るのである。

 stoutを「がっしり」と訳するのはやはり誤訳だろう。神父と牧師を混同する(「牧師か神父か」)ほど致命的な間違いではないが、誤訳であることに変わりはない。
 赤毛連盟が書かれたのは100年以上の昔である。明治時代に日本語に訳されたはずで、それ以後、何十種類も翻訳が出ているだろう。1950年代に延原氏が間違えて、さらに半世紀以上たってまだ間違っていては、新訳を出す意味がないではないか。(続く)

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コメント

小うるさいことを言うつもりはありませんが、このイラストはシドニー・パジェットの描いたものではありませんよ。

投稿: 土屋朋之 | 2006年4月13日 (木) 21時05分

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