« 自転車嬢の危難 | トップページ | モリアーティ元教授の職業(2) »

2006年4月19日 (水)

モリアーティ元教授の職業(1)

 ホームズの宿敵モリアーティ教授の経歴は特異なものだった。『最後の事件』でホームズはワトソンにこう説明している。
Fina03_1  
 モリアーティは生まれもよく、立派な教育を受けた。その上、驚くべき数学の才能を天から授かっていた。21歳のときに二項定理に関する論文を書いて全ヨーロッパの評判になった。このおかげでさる地方大学に数学教授の席を得て、どこから見ても前途は洋々だった。ところがこの男には悪魔的な遺伝的性質があったのだ。その血管に流れている犯罪者の血は、並はずれた頭脳によって矯正されるどころかますます助長され、一層危険なものになった。大学町に彼を巡る黒い噂が広まり、とうとう辞職を余儀なくされた。彼はロンドンに出てきて、そこで(where) he set up as an army coach. ここまでは世間にも知られていることだが、これから先は僕が自分で調べ上げた事実だ。

 英語のまま残した部分はどういう意味だろうか? army coachとは何か? 現在入手できる各種の翻訳では

(1) 新潮文庫「……ロンドンへ出て軍人相手の家庭教師をはじめた」
(2) ちくま文庫「……ロンドンに出て陸軍軍人の個人教師となった」
(3) 河出書房「……ロンドンに出て来て、軍人の家庭教師をして身を立てた」
(4) 光文社文庫「……ロンドンで陸軍軍人の個人教師になった」(陸軍軍人の個人教師に「アーミー・コーチ」とルビ)
(5) 東京創元社「……ロンドンへ出てきて軍隊関係の教師になった」
(6) 早川書房「……ロンドンへ出て軍隊関係の学校の教師になった。」

 全部駄目である。大間違いのコンコンチキである。
『最後の事件』は1891年のことである。この時代の英国の陸軍軍人(armyだから陸軍)がどういうものだったかを考えないから、こんなとんでもない間違いをするのだ。
 
 まず(1)から(4)まで。軍人が家庭教師/個人教師について数学を勉強するなんて馬鹿なことがあるか! 
 職業軍人には一定程度以上の頭脳が必要だから、士官学校の入学試験科目に数学がある。しかしそれは入学するまでのことだ。ウィンストン・チャーチル(1874-1965)は、1893年に士官学校の入試に合格すると、数学とは「永久に絶縁した」という。(自伝『わが半生』My Early Life)

2687_1

 チャーチルは騎兵科だった。砲兵科ならば入学後も数学をやらされたかも知れない。弾道の計算に必要だから。
 しかし、卒業して少尉に任官してから家庭教師/個人教師について数学なんか勉強するはずがない。そんな間抜けなやつが軍人では、大英帝国が滅びてしまう。
 軍人は命がけの商売である。数学なんぞできなくて一向に差しつかえない。いざというときに卑怯な振舞をしなければよいのだ。
 日露戦争で機関銃の恐るべき威力が実証される前であるから、チャーチルなどはナポレオン戦争時代と同じようにサーベルを振りかざして騎兵突撃をする訓練ばかり受けたはずだ。

1_1_1

 だから、乗馬の訓練はした。あるいは馬術の個人教師についたかも知れない。しかし、モリアーティ先生が教えることができるのは、もちろん数学しかない。
 それに、家庭教師/個人教師説では説明できないことがある。

Now I have come round to you, and on my way I was attacked by a rough with a bludgeon. I knocked him down, and the police have him in custody; but I can tell you with the most absolute confidence that no possible connection will ever be traced between the gentleman upon whose front teeth I have barked my knuckles and the retiring mathematical coach, who is, I daresay, working out problems upon a black-board ten miles away.
それからこうして君のところへやって来たわけだが、途中で棍棒を持ったチンピラに襲われた。殴り倒して警察に引き渡してやったが、そいつの前歯で僕はこの通り拳固をすりむいたのだ。しかし、そのチンピラと、十マイルも離れたところで黒板に向かって問題を解いている大人しい数学教師との間に、何らかの関係があるなんてことは、絶対に分からない。これは断言できる。

 つまり、十マイル離れたところで「黒板に向かって問題を解いている」のだから、アリバイがある、というのである。家庭教師や個人教師ではなくて、学校の教師なのである。
 新潮文庫は「黒板に向かって問題を解いている家庭教師」と訳している。たしかに生徒一人が相手でも黒板に向かうことが絶対にないとは言い切れない。しかし、これは辞書にcoach=家庭教師と書いてあるのにこだわりすぎた間違いだ。辞書に何と書いてあろうとも、家庭教師などは間違いです。辞書を訂正しておいてください。
 驚いたのは、ほかの本がretiring mathematical coachを「退職した数学教師」などと訳していることだ。とんでもない。退職した数学教師なら、retired mathematical coachである。retiringは(1)内気な、大人しい、引っ込み思案の (2) これからまもなく退職する、のいずれかの意味である。
 過去分詞と現在分詞の意味の違いというのは、基本的なことだよ、ワトソン君。英文法の本を読み直して復習したまえ。

 いや英文法以前の問題だ。日本語だけで間違いは分かる。いま黒板に向かって問題を解いている人がどうして「退職した数学教師」か? 立派な現役の数学教師じゃないか。

 (5)と(6)が残った。
 まずarmyだから陸軍であることは上述の通り。(5)「軍隊関係の教師」はあまりに漠然としている。(6)「軍隊関係の学校」って何だ? 士官学校? しかしここでは上述のように数学はほとんど教えない。何より、黒い噂が立って大学を辞めた人間を陸軍士官学校が雇うはずがない。士官学校ではないが、ともかく「軍隊関係」の学校? そんなのは翻訳とは言いません。試験の答案じゃないんだから。

 それでは、モリアーティ教授はどういう学校の先生になったのか? これは辞書でarmyやcoachを引いても分からないのである。英和辞典で駄目なら、OEDを引けばよいかというと、これも駄目である。OEDはコト典ではなくコトバ典であるから、こういう具体的なことは書いてない。
 ここは辞書を離れて、19世紀末の英国の教育界の事情を具体的に調べなくてはならない。『最後の事件』とほぼ同時代に数学で苦労していたチャーチルのケースを手がかりに考えてみましょう。
 その上で、army coachの訳語が分かるように、英和辞書を「どう訂正すればよいか」を考えておきましょう。これには、文献の証拠を挙げるつもりです。(続く)

|

« 自転車嬢の危難 | トップページ | モリアーティ元教授の職業(2) »

コメント

相変わらずわくわくさせますね。明日は会社から早く帰って続きを読もう。折しもUSA Todayのネット版にこんな記事が載っていました。Army coach Dixon dies at 28.モリアーティと同じ意味のarmy coachでしょうか。

投稿: 土屋朋之 | 2006年4月19日 (水) 22時02分

現代アメリカ人を読者と想定して書かれたホームズの各種注釈本にarmy coachに関する説明が無いのは、彼らにとってarmy coachが自明の理であることを意味しているのでしょう。

投稿: 土屋朋之 | 2006年4月19日 (水) 22時07分

ぶつ切りのコメントですみません。ジャック・トレイシーの「シャーロック・ホームズ事典」に、army coachの説明として「士官試験を受ける兵隊や、昇進試験を受ける士官たちの個人的な受験準備指導教師」(各務三郎監訳)とありましたので付け加えておきます。

投稿: 土屋朋之 | 2006年4月19日 (水) 22時15分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/21109/1465791

この記事へのトラックバック一覧です: モリアーティ元教授の職業(1):

» ダイアナ元皇太子妃とチャーチル元首相の関係 [世界史の授業]
  1997年8月31日、パリで交通事故死したイギリスのダイアナ元皇太子妃(Diana, Princess of Wales)は、第8代スペンサー伯エドワードの先妻の3女(1961年生まれ)。実家のスペンサー伯家は、16世紀に時の国王ヘンリ8世からサーに叙位されたジョン・スペンサーからその家系が明確になっていますが、初代のスペンサー伯に叙位されたのはジョン(1734~83)です。系図を見ると2代目ジョージ、4代目フレデリック、7代目アルバート(ダイアナ妃の祖父)のそれぞれが妻とした女性には、いずれ... [続きを読む]

受信: 2006年4月29日 (土) 20時24分

» シャーロック・ホームズの冒険「ギリシャ語通訳」「ノーウッドの建築業者」「入院患者」「赤髪連盟」「最後の事件」「空き家の怪事件」 [テレビドラマ] [ファビウスの書斎]
シャーロック・ホームズの冒険 完全版 DVD-BOXジェレミー・ブレット デビッ... [続きを読む]

受信: 2006年9月10日 (日) 21時39分

» モリアーティは予備校教師だったのか [世迷い言]
また参照させて頂きますが こちらのブログの記事 [続きを読む]

受信: 2008年3月15日 (土) 19時38分

« 自転車嬢の危難 | トップページ | モリアーティ元教授の職業(2) »