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2006年4月27日 (木)

モリアーティ元教授の職業(5)

土屋朋之氏によればジャック・トレーシーの「シャーロック・ホームズ事典」にarmy coachの記述があるというのだ。その本なら私は原著の方を持っている。
Jack Tracy, The Encyclopaedia Sherlockiana, Doubleday & Company, Inc., 1977

Army coach, a private tutor who prepares men for entrance examinations into the officer corps, and officers themselves for examinations for promotion. Moriaty set up in London as an Army coach. (Final Problem)

アーミー・コーチ 下士官(menというのは将校以外の「下士官と兵」という意味である。officers and menで「将兵」)に将校への昇格試験の準備をさせ、あるいは将校に昇進試験の準備をさせる個人教師。モリアーティはロンドンでアーミー・コーチになった。

 というのだが、はて?

 これはトレーシー氏の間違いである。私はarmy coachは「当たり前すぎるから」辞書に書いてないのだと言ったが、そうではなかった。
 トレーシー氏はほかにも多くの著書のある有名なシャーロキアンである。それが間違うのだから恐ろしい。

 日本人に明治時代のことが分からないように、現代の英米人にはヴィクトリア朝のことが分からなくなっている場合がある。

 19世紀末の英国で陸海軍の将校になるには、どういう条件が必要だったか?
 第一に身分的に中流より上の階級であること、第二に金銭的には陸海軍からの俸給に頼らずに暮らせる余裕があることである。
 ウィンストン・チャーチルは1893年に3回目の受験で合格したが、第一志望の歩兵科には入れず騎兵科にまわされたので、父親から「厳しいお小言の手紙が来た」という。歩兵ならば従卒を一人、自前で雇えばよい。ところが騎兵では軍馬を揃えて馬丁を雇わねばならない。それだけ余計に金がかかるのである。もちろん歩兵でも騎兵でも俸給だけでは足りない。チャーチルは軽騎兵第四連隊という貴族的な連隊に入ったので、1896年に少尉としてインドにいたときには、年に500ポンドの仕送りを受けていた。
 俸給だけでやって行けないのは海軍も同じである。
『緋色の研究』を見てみよう。
 なぜE・J・ドレッバーを追い出さなかったのかと、レストレードが下宿屋の女将に質問すると、彼女は顔を赤らめてこう答えた。
「はい、最初の日にそう言ってお断りすればよかったのです。でも、とてもできませんでした。この不景気なときに、お一人一日一ポンド、週に十四ポンドもお支払いくださったのです。私は寡婦暮らしでございますし、海軍におります息子にもずいぶんとお金がかかります。……」
「海軍におります息子」とは海軍中尉アーサー・シャルパンティエである。この人物をレストレードはドレッバー殺しの容疑者として逮捕したのだった。
 海軍中尉の給料で母親と妹を養うのは無理で、逆にお金がかかるから、母親が下宿屋をやっていたのである。
 コナン・ドイル(1859-1930)は、自宅からエディンバラ大学医学部に通い、在学中から船医などのアルバイトをしなければならなかった。もちろん軍人を目指すような余裕はなかった。1891年になってストランド・マガジンに載せたシャーロック・ホームズの短編が大当たりしたので、弟のイネスを陸軍士官学校にやることができた。イネスは第一次世界大戦時には准将にまで昇進していたが、1919年に戦病死している。前年の1918年には、24歳の陸軍大尉だった長男のキングズレーが同じように戦傷が元で病死した。(この二人の死のショックでドイルは心霊術に凝るようになった。)
 
 陸軍の将校になるには難しい条件をクリアしなければならなかった。しかし、それでも志望者は多く、士官学校の定員はチャーチルが入学した1893年で1学年150人しかなかったから、競争率は高かった。
 チャーチルを教えたジェイムズ大尉、オウエン・ウィングレイブの先生のスペンサー・コイル氏、そしてモリアーティ教授などの「アーミー・コーチ」が活躍する余地があったのだ。

 ジャック・トレーシー氏の言うように下士官から将校に昇格する人もいないわけではなかったが、あくまでも例外だった。

『背の曲がった男』は、ロイヤル・マロウズ連隊の連隊長、ジェイムズ・バークリー大佐が変死した事件であった。バークリー大佐は一兵卒から身を起こして、インド大反乱(1857-59)で立てた武勲で将校に昇進し、かつては自分が小銃を担いでいた連隊の指揮官にまでなった人物だった。バークリー大佐は軍曹時代に結婚した。夫人のナンシーは旧姓をデヴォイといい、同じ連隊の軍旗護衛軍曹の娘だった。だから、当時まだ若かったこの夫婦が、新しく将校の社会に入っていったときには、交際の面で少々やっかいなことがあった。
 
 どう「やっかい」だったのか、ワトソンは具体的に説明しないが、将校と下士官の間には大きな懸隔があった。『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が例を挙げている。

「英国のある兵営で連隊の士官が大勢して一人の下士官を御馳走した事がある。御馳走が済んで手を洗う水を硝子鉢へ入れて出したら、この下士官は宴会になれんと見えて、硝子鉢を口へあてて中の水をぐうと飲んでしまった。すると連隊長が突然下士官の健康を祝すと云いながら、やはりフィンガー・ボールの水を一息に飲み干したそうだ。そこで並みいる士官も我劣らじと水盃を挙げて下士官の健康を祝したと云うぜ。」

 紳士というのは単に「品格があって礼儀にあつい人」(広辞苑)などではなく、一つの階級だったことが分かる。

 バークリー大佐はインド大反乱で立てた武勲で出世したのであるが、ペーパーテストを全然受けなかったわけではないだろう。下士官にはない、将校特有の仕事があるとすれば、それは書類を扱うことだ。戦場や教練で兵士を動かすのは熟練した下士官にはたやすいことだが、書類の読み書きが難しいのである。だから、下士官を抜擢して将校に昇進させる場合には、筆記試験をしたに違いない。もちろん数学などの試験をする必要はなく、たとえば歩兵操典を暗記させるくらいでよかったはずだ。
 そのような試験の準備を手伝う人を、あるいは「アーミー・コーチ」と呼ぶことがあったかもしれない。しかし、下士官から将校への昇進自体が非常にまれなことであったから、そのようなコーチが商売として成り立つはずがない。

 モリアーティ教授の履歴を説明するのに、ホームズがset up asという語句を使っていることに注目しよう。

He set up as a baker/lawyer/doctor. パン屋/弁護士/医者を開業した。
 のように、asのあとには商売らしい商売が来るのである。
 モリアーティ教授は

---eventually he was compelled to resign his chair and to come down to London, where he set up as an amy coach.
とうとう辞職せざるを得なくなって、ロンドンに出て来て、陸軍士官学校受験予備校の教師になった。

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コメント

なるほど、エリート選抜受験のための予備校ですかー
それなら犯罪者の隠れ蓑というのもうなずけます
すがるように通う生徒やその親から見れば得がたい優秀な教師ということもあるし
これからの人生を賭けた受験を手伝ってくれる教師が仮に犯罪者だと
いうことになってもなかなかそれを認められない、人情というものが
必ず先にたちますしねー

すさまじい狡猾ぶりですね、モリアーティ
当時の紳士たちの恥の感情を逆手にとるとは実におそろしき…

投稿: yseru | 2009年5月31日 (日) 22時03分

yseruさん、ブログ休止中で失礼しました。モリアーティの職業のほかにも、正典には「百年の誤読」がまだまだあります。暇を見て書いて行きます。

投稿: 三十郎 | 2009年6月 2日 (火) 09時16分

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