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2006年4月17日 (月)

自転車嬢の危難

 一八九四年から一九〇一年までの八年間は、シャーロック・ホームズは、とても多忙な身であった。
 この八年間に、公の事件で重大なものは、一つとしてホームズのところに、持って来られなかったものはなかったし、またその外に私的の事件で扱ったものは、無数で、その中でも、実に錯綜した難問題で、颯爽たる役目をやったものもたくさんあった。この雑多の仕事の中では、もちろんその大部分は、赫々たる成功を収めているのであったが、しかしまたその二三のものでは、全く避けがたい、不可能な失敗に終ったものもあった。こうして無数の興味ある事件の記録を、私は山積するほどたくわえてあるし、またその中の大部分には、私自身も関与しているので、まずどれから読者諸君の前に提供しようかと云うことは、私にとってはとても心迷いがされて、容易に決断のつかないことは想像してもらいたい。しかし私はやはり、以前からの習慣を踏襲して、事件の選択方針としては、事件が残忍で興味があったと云うことよりも、むしろその解決方法が実に巧妙で劇的であったと云う見地からしてみたいと思う。
 こう云う理由から私はまず読者諸君の前にチャーリントンの、一人歩きの自転車乗り嬢であった、ヴァイオレット・スミス嬢の事件を、持ち出そうと思う。この事件は我々の探査が、意外から意外へと外れて、更に全く思いももうけなかった、悲劇のクライマックスを示した、全く意想外の興味ある事件だったものである。私の友人の有名を成さしめた事柄については、毎度お断りする通り、詳細に発表することは許されない事情にあるが、しかし私の浩翰な犯罪秘記の中でも、こうした小さな物語を書く上から云って、この事件は一段と際立った出色の点があると思われるのである。

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 ちょっと珍品を見ましょう。青空文庫から、三上於菟吉訳『自転車嬢の危難』の初めの部分を引用させていただく。(京都大学電子テクスト研究会に感謝します。)底本は平凡社の世界探偵小説全集第4巻シヤーロツク・ホームズの帰還、1929年初版である。
 ドイルは1930年まで存命であった。戦前は翻訳の著作権についてやかましいことは言わなかった、要するに訳し放題だったらしい。
 三上於菟吉とはどういう人かというと、平凡社世界大百科事典

三上於菟吉 1891‐1944(明治24‐昭和19)
小説家。埼玉県に生まれた。早稲田大学英文科中退。粕壁中学在学中から《文章世界》などの投書家として知られ,1915年《春光の下に》を自費出版した。この小説は朝鮮独立運動を題材としたため発禁,翌年《悪魔の恋》で通俗小説畑にはいった。出世作は《敵討日月双紙》(1925)で,これは外国小説の翻案になる時代物であり,同趣向の作品に《元禄若衆》(ワイルドの《ドリアン・グレーの肖像》による),《戦国英雄》(ユゴーの《エルナニ》による)がある。そのほか好評の作品に《白鬼》《雪之丞変化》《日輪》などがある。大衆性のなかに近代批評精神をのぞかせている点が特色である。妻は女流作家長谷川時雨(しぐれ)。  長谷川 泉
(c) 1998 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

「私の友人の有名を成さしめた事柄については、毎度お断りする通り、詳細に発表することは許されない事情にあるが」のところは、もちろん誤訳です。原文を見ないでも間違いと分かるはず。謎を「詳細に発表することは許されない」といって説明しないで残したのでは、探偵小説が成立しない。プライヴァシーを守るためなら登場人物を仮名にすればよいのだ。
 原文は

It is true that the circumstance did not admit of any striking illustration of those powers for which my friend was famous, but there were some points about the case which made it stand out in those long records of crime from which I gather the material for these little narratives.

 結構むつかしい。戦前は、旧制高校の英語の教科書としてホームズをよく使ったらしい。例文を挙げたりして丁寧に説明すれば、この一文だけで30分近くかかりますね。
 ちくま文庫の井村氏訳は正解。延原氏訳は残念ながら間違い。

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コメント

こんにちわ^^トラックバックありがとうございます!
毛玉のようなおバカなレビューばかりのところにトラバなんて・・^^;畏れ多いでゴザイマス^^;

すごいですね!翻訳!(アタシには無理~)
勉強なる~^^

投稿: 毛玉 | 2006年4月18日 (火) 22時52分

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