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2006年5月23日 (火)

ホームズの学生生活(2)

(A)学問の基礎は単純な二分法であるから、我々がまず問わなければならないのは次のような問いである。ホームズは(a)オックスフォードまたはケンブリッジ、それとも(b)それ以外の大学、のどちらに行ったのか? 少なくともこの点に関しては、ある程度確実なことが言える。彼がオックスフォードかケンブリッジのいずれかの大学に在籍したのは疑いない。レジナルド・マスグレイヴ(彼を見るとホームズは灰色の石のアーチや仕切窓やその他中世の城館の古びた廃墟などを思い出さずにはおれなかったという)が1870年代に地方大学に行くなどはもちろん考えられない。この点に関しては、すべての研究者の見解が一致している。

 しかし、ブラックニー氏はその『シャーロック・ホームズ 事実かフィクションか』と題する好著の中で興味深い示唆をしている。ホームズはケンブリッジで二年間を過ごした後に、「ロンドンに出て、そこで学生生活を送った」というのである。この主張の基礎となるのは次の事実であるという。ホームズは(1)「カレッジに二年間しかいなかった」(2)『グロリア・スコット』の事件のあったときはすでにロンドンに部屋を借りていた(3)(ケンブリッジの)夏期休暇中にロンドンで化学の実験をしていた(4)1881年になっても聖バーソロミュー病院の実験室を利用していた (5)「無秩序な勉強」にはオックスブリッジよりもロンドンの方が都合がよかった(6)『マスグレイヴ家の儀式』ではロンドンに出てきたのをcome upという言葉で表現している(When I first came up to London I had rooms in Montague Street,……)ことである。

 この説は一見魅力的ではあるが、成り立たないのである。ブレイクニー説のポイントを一つずつ取り上げてみよう。(1)は、ホームズによる二つの言明の間の食い違いという大きな問題を提起する。すなわち、『グロリア・スコット』では、自分は二年間しかカレッジにいなかったと言った。しかるに『マスグレイヴ家の儀式』では、大学での「最後の二年間」を云々する。ブレイクニー説はこの二つの間の矛盾に折り合いを付けるためにとなえられたようだ。しかし、(すぐに分かるが)折り合いなんか付かないので、その故にこの説はほとんど存在理由がない。(2)からは、ホームズがロンドン大学に転校したのは『グロリア・スコット』事件の年の十月だということになる(そうでなければ、この(2)は大学問題と無関係ということになる)。この仮定は年代学上深刻な問題を惹起する。しかし、当面は、ケンブリッジの学生が長期休暇中にロンドンに部屋を借りて独自の研究をするのは別に差し支えないはずだと考えておけばよろしい。それにホームズの口振りでは、長期休暇が終わればロンドンから大学に帰るつもりであったと見るのが自然だろう。こう考えると(3)も自ずと説明がつく。(4)は問題にあまり関係がない。実験室を利用する許可は、別の大学で一定の資格を得た者にも与えられたはずだから。(5)はなかなか重みがある。ホームズがロンドンで何らかの卒業後研修*を行ったというのは考えられないことではない。しかし時期としては1876年か77年くらいであって、ブレイクニー氏の言うような早い時期ではなかろう。

 *何らかの卒業後研修(訳注) some kind of post-graduate course「大学院」と訳するのは不適当だろう。この時代の英国にはまだ大学院制度は整っていない。コナン・ドイルは1881年エジンバラ大学で医学士号を取り、1885年、26歳の時に医学博士号を得ている。この4年間、ドイルはまずアフリカ航路の貨客船の船医となり、友人バッドのパートナーとしてプリマスで開業したが喧嘩別れし、ポーツマス市で流行らない医業の傍らせっせと小説を書き、ルイーズ・ホーキンズ嬢と出会って婚約している。仮に大学院があったとしても忙しくて通う暇などなかった。どうやら論文を出して学位を得たらしいが、論文の題目は残っていない。審査は形式的なものだったのだろう。この時代は万事世知辛くなくてのんびりしていたのである。たとえばスコットランドの一部の大学では文学士号を得て5年を経過すると自動的に哲学博士号をもらえた。ワトソンがロンドン大学から医学博士号を得たのは1878年であったが、同じようなものだったろう。 大学院と結びついた博士の制度はドイツで発達して、20世紀になってから英国にも輸入されたのだと考えておいてよいと思う。(詳しいことは調べる必要があるが、医学以外では、古いタイプの博士号をD.Phil.といい、新式の研究と論文による博士号をPh.D.というようだ。)したがって、レジナルド・マスグレイヴについてHe was not generally popular among the undergraduates.と書いてあるのを「学部学生の間ではあまり人気がなかった」などと訳するのは、ちょっとおかしい。大学院学生はいなかったのである。undergraduateは文字通り「卒業前の者」という意味である。「オックスフォードかケンブリッジか(4)」でも触れたが、ロナルド・ノックスは学部を1910年に優等で卒業して直ちに講師になっている。

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コメント

引き続き楽しく拝読しています。

オックスフォード全集『思い出』《入院患者》注釈によると
ドイルが博士号取得のため提出した論文タイトルは次の通り。

'An Essay upon the Vasomoter Changes in
  Tabes Dorsalis'
 「脊髄癆における血管運動神経の変化に関する試論」

 邦題は河出全集『思い出』からの引用(p499),訳注によれば
「脊髄癆」とは「梅毒感染後、数年から十数年後に発症する脊髄の変性疾患」とのこと。

またD・スタシャワーによるドイル伝"Teller of Tales" penguin books (2000)によると論文提出後の1885年7月、ドイルはエジンバラまで出かけ、口頭試問(oral exam)を受けて博士号をゲットしたそうです。以上、ご参考まで。

投稿: えふてぃ | 2006年5月26日 (金) 13時10分

楽しく拝読しております。オックスフォード大学に留学中に聞いた話ですが、オックスフォード大学でもらう博士号がD.Philでそれ以外の大学でもらうのがPh.Dだそうです。最初に博士号を作ったのがオックスフォードでD.Philと略称し、そのあと博士号を作ったケンブリッジが同じじゃ芸がないと思ってPh.Dとしたのが始まりで、D.Philといえば世界中でオックスフォードで取った博士号だとわかるのだと、オックスフォードの院生が言ってました。自慢好きのイギリス人だったから真偽のほどはわかりかねますが、確かに僕のボスたちはみなD.Philだったような気がします。

投稿: のっちん | 2006年9月 5日 (火) 23時37分

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