« オックスフォードかケンブリッジか(2) | トップページ | オックスフォードかケンブリッジか(4) »

2006年5月14日 (日)

オックスフォードかケンブリッジか(3)

 シャーロック・ホームズは1854年に生まれ、1872年、18歳で大学に入学した。
 この大学がオックスフォードかケンブリッジかについては、ロナルド・ノックスが1911年に問題を取り上げて以来、専門家の間で論争があるようだ。
 ノックスはAnd at which University? と書いているだけだが、これは単に「どの大学か?」と訳したのでは駄目である。「オックスフォードとケンブリッジのどちらなのか?」と訳さなければならない。
『グロリア・スコット』を読めば、ホームズの大学がオックスフォード、ケンブリッジのいずれかであることは明らかだろう。あるいは、古すぎて意味不明になった『マスグレーブ家の儀式』を伝えているような貴族的な家柄の友人ができるのは、どちらかの大学でなければならない。
 ホームズがたとえばエジンバラ大学に行ったなどということは考えられない。

 アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)は1876年にエジンバラ大学に入学している。

Edinburgh_university_1827

ドイルの場合は、年収240ポンドの下級官吏の長男(十人兄弟)だったから、オックスフォードやケンブリッジに行くことなど問題外だった。
「先ず普通四百ポンド乃至五百ポンドを費やす有様である」(漱石)というのは1901年のことで、25年前にはもう少し安く上がったかもしれない。しかしドイル家にはとうてい無理だった。ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝によれば、ドイルはドイツのイエズス会の学校で1年間勉強してきて1876年に帰郷した。

 ドイルはエジンバラの貧窮の暮しに戻った。父親はまだ絵を描き続け、まだ雲の中にいて、まだ子供を作り続けていた。年収は二百四十ポンドのままだった。アーサーが勤勉に時間を空費している間に一男一女が生まれ、さらに女の子がもう一人が生まれようとしていた。上の姉はポルトガルから家庭教師の給料を仕送りしてきていた。下の姉と妹も近々同じコースを取るはずだったが、それで家計が楽になる見込みはなかった。問題はアーサーをどうするかだった。母親が並の女性ならば、息子にすぐに金を稼がせたかも知れない。アーサーの体格があれば石炭積みか家具運びで安定した給料が見込めるはずだった。しかし母親はもっと目標が高く先のことを考えていた。エジンバラは医学で定評があるのだから、アーサーは大学にやって医者にすべきだ。帰郷の一月ほどあとに各種の奨学生の選抜試験があったので、彼は古典を猛勉強してその一つに挑んだ。間もなくグリアソン奨学金の資格を得たという知らせが届いた。二年間で四十ポンドが支給されるのだ。ギリシャ語とラテン語に費やした時間も無駄ではなかったことになる。ドイル家は喜びに包まれた。ところが、いざ給付を申し込んでみると、事務手続の間違いがあったことが分かった。グリアソン奨学金は文科の学生だけが対象だったというのだ。それならば医学生向けの次善の奨学金をまわして貰えるはずだと思ったが、「それはもう候補の学生に給付してしまった」と言われた。彼の立場は微妙だった。裁判になれば勝てるはずだ。しかし、これから入学する大学を相手に訴訟を起こすのが得策だとは思えない。ドイルは憤懣を抑えて七ポンドの涙金を受け取った。
 
 ホームズ家は代々の地主であったから、マイクロフトとシャーロックの兄弟二人をオックスフォードかケンブリッジにやることができた。
 どちらだったのか? 手がかりは正典にあるはずだ。(続く)

|

« オックスフォードかケンブリッジか(2) | トップページ | オックスフォードかケンブリッジか(4) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/21109/1792466

この記事へのトラックバック一覧です: オックスフォードかケンブリッジか(3) :

« オックスフォードかケンブリッジか(2) | トップページ | オックスフォードかケンブリッジか(4) »