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2006年5月30日 (火)

ホームズの学生生活(3)

(6)はそれ自体に矛盾が含まれている。ブレイクニー氏は、ホームズがロンドンに出てきた(came up)のは「どうやら大学('Varsityすなわちオックスフォードかケンブリッジかのいずれか)を去ってかららしい」と認めている。ロンドンで仕事をはじめたが「それまでは主に別の場所にいたことは明らかだ」というのである。つまり、ホームズがロンドンに出てきたのと仕事をはじめたのは同時で、これが『グロリア・スコット』の年だったというのである。ブレイクニー氏によれば、この事件は「『マスグレイヴ家の儀式』より少なくとも四年は前」のことであり、あるいは五年前だったかも知れないという。彼は1874年だったとするが、これはH・W・ベル氏の『マスグレイヴ家の儀式』が1878年9月のことだという推定とも合致する。とすると、ホームズは(まだ学校に籍を置いたまま)モンタギュー街で「有り余るほどの時間」を使っていろいろ研究しながら仕事がやって来るのを待ち、その四年間に実際に手がけた事件は二件しかないということになる。この長い待ち時間を後で振り返って「何ヶ月も無為に過ごして云々」と言うのだが、少々言葉遣いが控え目すぎるだろう。十二ヶ月、あるいは十八ヶ月くらいでも「何ヶ月」と言うかもしれない。しかし、本当に四年も待たされたのなら四年と言わなければおかしい。この仮説はやはり成り立たない。ホームズがロンドンに出てきたのは、いくら早くても1876年になってからだろう。これでロンドン大学の学生という説は崩れた。came upという表現は「上京した」ということであって、ここでは大学に入ったことを言うのではない。ホームズの学生生活が何年間だったかという問題は未解決のまま残るのである。

 これはなかなか大変な問題である。ホームズ自身の言葉とされているものがあいまいである。そればかりか、年代学上のやっかいな問題があることは、もう少しあとになれば更によく分かるだろう。

 ここではホームズのロンドン生活の問題は一時棚上げにして、オックスフォードかケンブリッジか、どちらだったのかという問題を考えよう。ヴィクター・トレヴァーと友だちになったのはこのどちらかの大学であってロンドン大学ではない――これは本文を読んだだけで分かると思う。ブルテリア、チャペルでの礼拝、それに大学生の主要な関心事がスポーツであるというのは、すべてこの結論を指している。それに今や「治安判事で地主」になっているトレヴァー氏は、若いころ自分が得られなかった社会的地位と教育上の利点を息子には与えてやりたかったはずだ。当時これはオックスフォードかケンブリッジでしか得られなかった。

 また、トレヴァーとの交友はマスグレイヴの場合より時期が早いらしい。『グロリア・スコット』ではまだほとんど友人がいなかったのに、『マスグレイヴ家の儀式』の頃になるとホームズは周囲に強い印象を与え推理の方法が評判になった。

『グロリア・スコット』で決定的に重要なのは、明らかにブルテリアの一件である。ノックス神父は、犬はカレッジの構内に入れてはならないはずだと言われる。内部事情に通じた人だけにさすがに説得力があるが、ブレイクニー氏に言わせれば、これは別に乗り越えがたい反対というわけではない。ホームズはおそらくカレッジ外に下宿していて街路で噛まれたのだろうという。仮に大学がオックスフォードであって、ホームズが二年しか在学しなかったか、あるいはトレヴァーと知り合ったのが最初の二年のうちだったとすれば、これはまったくあり得ない状況ということになる。オックスフォードでは、新入生は必ずカレッジ内に部屋を割り当てられるからである。最初の二年間はカレッジ内に住み、在学三年目になってはじめて町の下宿に移るのである。従って、オックスフォードならば、ホームズがチャペルまで大学町の街路を歩いて行く途中で犬に噛まれるという事件は三年目にならなければ起きないのだ。*もっとも、「ある朝、チャペルへ行く途中」の「朝」がワトソンの間違いであって、ホームズが随意の夕べの礼拝に出るほど信心家だったと仮定するならば別であるが、これは彼の性癖からはまずあり得ないことだ。

(訳注) このブルテリアの一件が「決定的に重要」だというのだが、その肝心のところが分からないので困る。「三年目にならなければ起きないのだ」までで終わっていて「もっとも」以下の但し書き(英語ではunless以下)がなければ、話が通っている。

At Oxford, therefore, the biting of Holmes while on his way to chapel through the streets of the town could not possibly have occurred before his third year――unless, indeed, we are to suppose that the word "morning" is a slip of Watson's , and that Holmes was so piously minded as to attend voluntary evening chapels, which from his habits of mind and thought appears unlikely.

  カレッジ内に犬は入れることができないから、外の下宿からカレッジ内のチャペルまで街路を歩いてくる途中で噛まれたに違いない――ここまではよく分かる。グロリア・スコットの本文に"a slip of Watson's"があったとするとどうして話が別になるのか? これは、次の『グロリア・スコット』の本文のmorningをeveningに変えるということだが。

Trevor was the only man I knew, and that only through the accident of his bull terrier freezing on to my ankle one morning as I went down to chapel.

 朝と夕べでは別の場所で礼拝を行ったのだろうか? そもそもchapelという単語は「礼拝堂」とそこで行われる「礼拝」の両方を意味するのだと思うが? 朝のチャペルと夕べのチャペルではどこがどう違うのだろう? どなたか分かる人はお教え下さい。

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2006年5月28日 (日)

博士号について

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 二月二十一日に学位を辞退してから、二カ月近くの今日に至るまで、当局者と余とは何らの交渉もなく打過ぎた。ところが四月十一日に至って、余は図らずも上田万年、芳賀矢一二博士から好意的の訪問を受けた。二博士が余の意見を当局に伝えたる結果として、同日午後に、余はまた福原専門学務局長の来訪を受けた。局長は余に文部省の意志を告げ、余はまた局長に余の所見を繰返して、相互の見解の相互に異なるを遺憾とする旨を述べ合って別れた。
 翌十二日に至って、福原局長は文部省の意志を公けにするため、余に左の書翰を送った。実は二カ月前に、余が局長に差出した辞退の申し出に対する返事なのである。
「復啓二月二十一日付を以て学位授与の儀御辞退相成たき趣御申出相成候処已に発令済につき今更御辞退の途もこれなく候間御了知相成たく大臣の命により別紙学位記御返付かたがたこの段申進候敬具」
 余もまた余の所見を公けにするため、翌十三日付を以て、下に掲ぐる書面を福原局長に致した。
「拝啓学位辞退の儀は既に発令後の申出にかかる故、小生の希望通り取計らいかぬる旨の御返事を領し、再応の御答を致します。
「小生は学位授与の御通知に接したる故に、辞退の儀を申し出でたのであります。それより以前に辞退する必要もなく、また辞退する能力もないものと御考えにならん事を希望致します。
「学位令の解釈上、学位は辞退し得べしとの判断を下すべき余地あるにもかかわらず、毫も小生の意志を眼中に置く事なく、一図に辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。
「文部大臣が文部大臣の意見として、小生を学位あるものと御認めになるのはやむをえぬ事とするも、小生は学位令の解釈上、小生の意思に逆って、御受をする義務を有せざる事を茲に言明致します。
「最後に小生は目下我邦における学問文芸の両界に通ずる趨勢に鑒みて、現今の博士制度の功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します。
「右大臣に御伝えを願います。学位記は再応御手許まで御返付致します。敬具」
 要するに文部大臣は授与を取り消さぬといい、余は辞退を取り消さぬというだけである。世間が余の辞退を認むるか、または文部大臣の授与を認むるかは、世間の常識と、世間が学位令に向って施す解釈に依って極まるのである。ただし余は文部省の如何と、世間の如何とにかかわらず、余自身を余の思い通に認むるの自由を有している。
 余が進んで文部省に取消を求めざる限り、また文部省が余に意志の屈従を強いざる限りは、この問題はこれより以上に纏まるはずがない。従って落ち付かざる所に落ち着いて、歳月をこのままに流れて行くかも知れない。解決の出来ぬように解釈された一種の事件として統一家、徹底家の心を悩ます例となるかも分らない。
 博士制度は学問奨励の具として、政府から見れば有効に違いない。けれどもというような気風を養成したり、またはそう思われるほどにも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れている。余は博士制度を破壊しなければならんとまでは考えない。しかし博士でなければ学者でないように、世間を思わせるほど博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く一般から閑却されるの結果として、厭うべき弊害の続出せん事を余は切に憂うるものである。余はこの意味において仏蘭西にアカデミーのある事すらも快よく思っておらぬ。
 従って余の博士を辞退したのは徹頭徹尾主義の問題である。この事件の成行を公けにすると共に、余はこの一句だけを最後に付け加えて置く。

夏目漱石「博士問題の成行」
――明治四四、四、一五『東京朝日新聞』――

 このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作ら れました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。(コピーさせてい  ただきました。お礼を申し上げます。ただし、ルビはすべて省きました。)

 漱石の博士号問題のあったのは明治44年、1911年である。もう「末は博士か大臣か」という時代ではなくなっていたけれども、まだ学位の権威は高く、漱石の辞退は大騒ぎになった。

 英国では、そんなに大した研究はしなかったらしいワトソンもドイルもずっと前に博士号をもらっている。
 ホームズの学生生活(2)の訳注で「論文の題目は残っていない」と書いたが、あれは私の間違い。エフティさんのご指摘があった。

 オックスフォード全集『思い出』《入院患者》注釈によると
 ドイルが博士号取得のため提出した論文タイトルは次の通り。
 'An Essay upon the Vasomoter Changes in Tabes Dorsalis'
 「脊髄癆における血管運動神経の変化に関する試論」
 またD・スタシャワーによるドイル伝 "Teller of Tales" penguin  books (2000)によると論文提出後の1885年7月、ドイルはエジンバラまで出かけ、口頭試問(oral exam)を受けて博士号をゲットしたそうです。

 読んでコメントを下さる方がいるのはありがたい。最新のドイル伝まで読んでおられるのですね。どうも畏るべき人がいるものだ。このドイル伝は私も読んでみなくては。

 しかし、博士はそう大したものではなかったらしいというのは、大筋で正しいと思う。
 これに比べるとドイツの学位制度は大変だった。社会学者マックス・ウェーバー(1864-1920)は1889年にベルリン大学で博士号を取得した。夫人マリアンネによる伝記(みすず書房)では

 彼のゴールドシュミットに捧げられた大部の学位請求論文『中世商事会社史序論』は……すでに立派な学問的著作たるの実を挙げ、その成果をウェーバーは彼の最後の社会学上の著述のなかにも組み入れたのである。「そのためには私は数百冊ものイタリアやスペインの法規集を通読しなければならず、それよりもまずそれらの書物を或る程度理解できるくらいに両国語を習得しなければならなかったが、……」(学位審査ではテオドール・モムゼン(1817-1903)がウェーバーと徹底的に討論した。)……(モムゼンは言った)「しかしいよいよ自分が墓場へ向かわなければならないとき、<息子よ、私の槍を持て、私の腕にはもうそれは重すぎる>と誰にもまして私が言いたいのは、私の高く評価するマックス・ウェーバーに向かってであろう」……

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 ドイツの博士号は学者になるための必要条件で、このあと更に教授資格論文を書いて、ウェーバーは1894年、29歳でハイデルベルグ大学教授になる。
 もちろんドイツの大学でも一般学生はそれほど熱心に勉強したわけではない。ビールを飲んで楽しく過ごしていたらしい。
 しかしドイツ式の博士制度は、英国のジェントルマン流の学問と比べて大きな成果をあげた。英語や英文学研究でもドイツの方が進んでいたくらいだった。漱石が個人教授を受けたクレイグ先生は、ドイツのシュミットが1874年に出版したShakespeare Lexiconを越えるものを作ろうとしていたが、遂に完成を見ずに亡くなった。シュミットの辞典は今でもシェイクスピアを読むには欠かせないらしい。

 このドイツ式の博士制度を輸入したのがアメリカである。博士号が学者になるための必要条件であるというのは変わらないが、現代では博士は大量に作られるから、玉石混合で、ノーベル賞クラスの研究もあれば、かなりいい加減なのもあるらしい。会社員や役人で博士号を持っている人も随分いるという。
 
 日本の場合は、文科系ではまだ博士の方が教授より偉い場合が多いらしい。少し前の話になるが、1975年、すでに慶應大学教授になっていた文芸評論家江藤淳が『漱石とアーサー王伝説』で文学博士号を受けたときは、論敵の大岡昇平が「漱石で博士号をもらうなんて」と冷やかした。
 理科系では、所定の課程を終えて論文を書けば(レフリーのいる雑誌に英語で書くのだから簡単ではないが)博士号は得られるので、大分アメリカ式に近づいてきているらしい。

 今では文科でも理科でも少なくとも「学問は少数の博士の専有物となって、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至る」という大層なものではないようだ。
 それはそれとして、漱石の啖呵は痛快ですね。
「それより以前に辞退する必要もなく、また辞退する能力もないものと御考えにならん事を希望致します。」というのは、英語で言えば
Please note that I had had neither need nor ability to decline the offer before that.というようなことになりますか。ともかく英語式、非日本的発想ですね。

『ホームズの学生生活』の続きですが、肝心のところで疑問点が出てしまった。当方はオックスフォードやケンブリッジに留学したことがないので、よく分からないところがある。もう少し調べます。
 お金をいただいている(「薄謝」なのが遺憾)翻訳なら徹底的に調べます。編集者に調べてもらうという手もある。しかしこの場合は趣味ですから、最終的に分からなければそのまま訳して「分かる方教えてください」ということにするつもり。

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2006年5月23日 (火)

ホームズの学生生活(2)

(A)学問の基礎は単純な二分法であるから、我々がまず問わなければならないのは次のような問いである。ホームズは(a)オックスフォードまたはケンブリッジ、それとも(b)それ以外の大学、のどちらに行ったのか? 少なくともこの点に関しては、ある程度確実なことが言える。彼がオックスフォードかケンブリッジのいずれかの大学に在籍したのは疑いない。レジナルド・マスグレイヴ(彼を見るとホームズは灰色の石のアーチや仕切窓やその他中世の城館の古びた廃墟などを思い出さずにはおれなかったという)が1870年代に地方大学に行くなどはもちろん考えられない。この点に関しては、すべての研究者の見解が一致している。

 しかし、ブラックニー氏はその『シャーロック・ホームズ 事実かフィクションか』と題する好著の中で興味深い示唆をしている。ホームズはケンブリッジで二年間を過ごした後に、「ロンドンに出て、そこで学生生活を送った」というのである。この主張の基礎となるのは次の事実であるという。ホームズは(1)「カレッジに二年間しかいなかった」(2)『グロリア・スコット』の事件のあったときはすでにロンドンに部屋を借りていた(3)(ケンブリッジの)夏期休暇中にロンドンで化学の実験をしていた(4)1881年になっても聖バーソロミュー病院の実験室を利用していた (5)「無秩序な勉強」にはオックスブリッジよりもロンドンの方が都合がよかった(6)『マスグレイヴ家の儀式』ではロンドンに出てきたのをcome upという言葉で表現している(When I first came up to London I had rooms in Montague Street,……)ことである。

 この説は一見魅力的ではあるが、成り立たないのである。ブレイクニー説のポイントを一つずつ取り上げてみよう。(1)は、ホームズによる二つの言明の間の食い違いという大きな問題を提起する。すなわち、『グロリア・スコット』では、自分は二年間しかカレッジにいなかったと言った。しかるに『マスグレイヴ家の儀式』では、大学での「最後の二年間」を云々する。ブレイクニー説はこの二つの間の矛盾に折り合いを付けるためにとなえられたようだ。しかし、(すぐに分かるが)折り合いなんか付かないので、その故にこの説はほとんど存在理由がない。(2)からは、ホームズがロンドン大学に転校したのは『グロリア・スコット』事件の年の十月だということになる(そうでなければ、この(2)は大学問題と無関係ということになる)。この仮定は年代学上深刻な問題を惹起する。しかし、当面は、ケンブリッジの学生が長期休暇中にロンドンに部屋を借りて独自の研究をするのは別に差し支えないはずだと考えておけばよろしい。それにホームズの口振りでは、長期休暇が終わればロンドンから大学に帰るつもりであったと見るのが自然だろう。こう考えると(3)も自ずと説明がつく。(4)は問題にあまり関係がない。実験室を利用する許可は、別の大学で一定の資格を得た者にも与えられたはずだから。(5)はなかなか重みがある。ホームズがロンドンで何らかの卒業後研修*を行ったというのは考えられないことではない。しかし時期としては1876年か77年くらいであって、ブレイクニー氏の言うような早い時期ではなかろう。

 *何らかの卒業後研修(訳注) some kind of post-graduate course「大学院」と訳するのは不適当だろう。この時代の英国にはまだ大学院制度は整っていない。コナン・ドイルは1881年エジンバラ大学で医学士号を取り、1885年、26歳の時に医学博士号を得ている。この4年間、ドイルはまずアフリカ航路の貨客船の船医となり、友人バッドのパートナーとしてプリマスで開業したが喧嘩別れし、ポーツマス市で流行らない医業の傍らせっせと小説を書き、ルイーズ・ホーキンズ嬢と出会って婚約している。仮に大学院があったとしても忙しくて通う暇などなかった。どうやら論文を出して学位を得たらしいが、論文の題目は残っていない。審査は形式的なものだったのだろう。この時代は万事世知辛くなくてのんびりしていたのである。たとえばスコットランドの一部の大学では文学士号を得て5年を経過すると自動的に哲学博士号をもらえた。ワトソンがロンドン大学から医学博士号を得たのは1878年であったが、同じようなものだったろう。 大学院と結びついた博士の制度はドイツで発達して、20世紀になってから英国にも輸入されたのだと考えておいてよいと思う。(詳しいことは調べる必要があるが、医学以外では、古いタイプの博士号をD.Phil.といい、新式の研究と論文による博士号をPh.D.というようだ。)したがって、レジナルド・マスグレイヴについてHe was not generally popular among the undergraduates.と書いてあるのを「学部学生の間ではあまり人気がなかった」などと訳するのは、ちょっとおかしい。大学院学生はいなかったのである。undergraduateは文字通り「卒業前の者」という意味である。「オックスフォードかケンブリッジか(4)」でも触れたが、ロナルド・ノックスは学部を1910年に優等で卒業して直ちに講師になっている。

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2006年5月22日 (月)

ホームズの学生生活(1)

                              ドロシー・セイヤーズ

 ホームズの学生生活については、『グロリア・スコット』と『マスグレイヴ家の儀式』にそれぞれごく簡略な記述があるだけだ。この二つは短いが明らかな矛盾を複数ふくみ、研究者にはきわめて興味深い問題を提起する。
『グロリア・スコット』の一節を見てみよう。

「(ヴィクター・トレヴァー)は僕がカレッジにいた二年間に作った唯一の友人だ。僕は人付き合いのいい方じゃなくて、いつも部屋にくすぶって自分の考えにふけっている方が好きだった。だから同級生ともあまり交際しなかった。フェンシングとボクシングを除いて、スポーツもほとんどやらなかったし、ほかの連中とは研究の方面が違っていたから、接点がなかった。知っている学生はトレヴァーだけでね。それもまったく偶然に知り合ったのだ。ある朝、チャペルへ行く途中、彼のブルテリアが僕の足首にかみついたからさ。」

『マスグレイヴ家の儀式』の一節も、同じくホームズ自身の言葉である。

「僕はロンドンに出てきて、モンタギュー街の大英博物館のすぐ角を曲がったところに部屋を借りた。時間は有り余るほどあったから、将来役に立ちそうなあらゆる分野の科学を研究しながら、ひたすら待った。ときどき持ち込まれる事件は、主として以前の同級生が紹介してくれたものだった。というのも、大学での最後の二年間*には、僕と僕の推理方法がかなり評判になっていたからだ。こういう事件の三番目*がマスグレイヴ家の儀式だったのだ。……レジナルド・マスグレイヴは僕と同じカレッジにいたから、多少の面識はあった。……いかにも貴族的な風貌で、鼻は高く薄く、目が大きくて物憂げで上品な物腰だった。実際、彼はイギリスでもっとも歴史の古い一族の末裔だった。……彼とはときどき話をしたが、僕の観察と推理の方法に強い関心を示してくれたことも一再ではなかった。……それから四年間会わなかったのだが、ある朝、モンタギュー街の僕の部屋に彼がやってきた。」

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 内容が乏しいのは遺憾であるが、この二つの節はきわめて重要である。我々の偉大な探偵の学歴ばかりか生年についても、決め手はほとんどこれだけなのだから。これらを詳細に検討すれば、次のような疑問に手がかりを得ることができるだろう。

(A) ホームズの大学(university)はどこか?
(B) 学生生活は何年間だったのか?
(C) 入学の年は?*
(D) 生まれた年は?
(E) 専攻科目は?
(F) カレッジは?
(G) カレッジを出たすぐ後には何をしたのか?   (続く)

*大学での最後の二年間(訳注) 原文はduring my last years at the universityと複数を使っている。当時大学は三年制だったから、二年目と三年目ということになる。あるいは、たとえば三年間数学を勉強してから、さらに一年間哲学をやるというようなこともできた。この場合ならば三年目と四年目である。いずれにせよ、『グロリア・スコット』の「僕がカレッジにいた二年間during the two years I was at college.」とは矛盾する。(この点は『シャーロック・ホームズ文献の研究』の訳注でも触れた。)

*こういう事件の三番目(原注) これが「僕の三番目の事件」という意味なのか、それとも「このように紹介された事件としては三番目」というのか、どちらなのかは明らかではない。研究者の多くは前者であると解釈しているようだが、後者もあり得るはずで、こちらの方がホームズ年代学の研究において解釈に幅を持たせることができる。

*入学の年は?(訳注)  『オックスフォードかケンブリッジか』では「シャーロック・ホームズは1854年に生まれ、1872年、18歳で大学に入学した」と書いたが、これはベアリング=グールドの説に従ったもの。ドロシー・セイヤーズはまた別の説を採っている。

Holmes' College Career, Dorothy Sayers, Unpopular Opinions, pp. 134-147, Victor Gollancz Ltd, 1946 (first appeared in 104. BAKER STREET STUDIES, edited by H. W. Bell. London, Constable, 1934. )

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 セイヤーズ女史についてはミステリー・推理小説データベースをご覧下さい。行き届いた紹介があります。(このサイトはどういう人が作っているのだろう?)

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2006年5月15日 (月)

オックスフォードかケンブリッジか(4)

 正典で大学が出てくるのは5作品であるが、これは三つのグループに分けることができる。
(1)『グロリア・スコット』『マスグレーブ家の儀式』
(2)『スリークォーターの失踪』
(3)『三人の学生』『這う男』

(1)の2作品に出てくるのはホームズの母校だが、オックスフォードかケンブリッジかが分からない。(2)の大学はケンブリッジであるが、ホームズの母校かどうかが分からない。(3)の大学については、いずれの点も不明である。

 ロナルド・ノックスは、グロリア・スコット(1874年)とマスグレーブ家の儀式(1879年)の二つの事件から、オックスフォードのクライストチャーチ・カレッジではなかったかと推定するが、確証がないとも言う。

……more and more I incline to the opinion that he was up at the House. But we have no sure evidence.

大文字でthe Houseというのは単に「学生寮」という意味ではない。クライストチャーチ・カレッジのことをこう言うというのは英和辞典にも書いてあります。

Christ Church College, Oxford (University) オックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジ
Trinity College, Cambridge (University) ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ

 などというのである。「総合大学だったかもしれない」とか「学生寮に住んでいたのではないか」とか、訳の分からんことを書く人がいては非常に迷惑である。

 英国の大学制度について少々解説が必要なようだ。インターネット百科事典ウィキペディアの「オックスフォード大学」と「ケンブリッジ大学」の項目がよくできているので、両方から大幅に借用する。(一部付け足したり改変したりします。悪しからず)

 オックスフォード大学は、イギリスのオックスフォードにある、英語圏では最古の大学で、創立は1117年とされる。
 ケンブリッジ大学は、ここから1209年に枝分かれしたものである。ふたつ合わせて、オックスブリッジという言い方もある。
 これら2校はイギリスで最も伝統のある大学であり、永年に渉り、互いに対抗意識を燃やしてきた。(だから、それぞれの大学の卒業生がシャーロック・ホームズを自校の出身者だと主張して、激しい論争になっている。英国紳士録Who's Whoのホームズの項目の筆者は、ケンブリッジ出身だったのだろう。)
 オックスフォード大学、ケンブリッジ大学という単独の大学は存在しない。三十以上の「カレッジ」の集合体をオックスフォード大学、ケンブリッジ大学という。
 カレッジは、「学寮」とも訳し、今日の日本の短大や単科大学が英語表記で college と称する場合とは全く異なっている。
 教師と学生が寝食を共にし、同じ建物に住み、共に学ぶという修道院形式が基本である。ホームズのころはもちろん教員も学生も男ばかりだった。19世紀の半ばまで、教員は英国国教会徒であること、生涯独身であることなどが義務付けられていた。その後の大学改革でこうした義務は緩和され、現在ではカレッジ内に実際に住んでいる教員は多くない。
 講義ではなく個別指導が中心の教育形態で、ことに学部生はカレッジごとに、1対1か5人ぐらいの少数のグループでの教育を受ける。個別指導を行う教員をチューターtutorという。講義は個別指導の補助的な位置づけである。
 ホームズについて、ノックスはHe lived in a College.と書いている。『三人の学生』でホームズに捜査を依頼した「聖ルカ・カレッジ」のチューターで講師のヒルトン・ソームズ氏は、カレッジ内の一室に住んでいて、そこでギリシャ語の試験問題を作っていた。
 オックスフォードとケンブリッジを比べると、現在のトニー・ブレア首相やサッチャー元首相など歴代首相はオックスフォード出身者が多く、ノーベル賞受賞者はケンブリッジ出身が多い。
 ケンブリッジが自然科学に強いというのはノックスの言うとおりで、同大学トリニティ・カレッジ出身のアイザック・ニュートン(1642-1727)以来の伝統である。
 ただ、19世紀末には自然科学の研究ではドイツの方がはるかに進んでいたようだ。ケンブリッジでもオックスフォードでも最も重んじられたのは、古典研究(ギリシャ語とラテン語)である。
 ノックスは、If he was an Oxford man, he was not a Greats' man.と書いているが、これはもちろん「貴族の出ではなかったであろう」なんて意味ではありません。ホームズ家は代々の田舎地主country squireだというのは分かり切っている。
 オックスフォードで古典語(ギリシャ語とラテン語)を中心とした卒業試験を受けて合格した人をa Greats' manという。当時はこれが一番偉いと思われていて、優秀な頭脳がこのコースに集まった。
 ロナルド・ノックス(1888-1957)自身も、父親が英国国教会の聖職者であったから、当然のごとくオックスフォード大学のこのコースに進み、1910年に優等で卒業して講師になった。講演「シャーロック・ホームズ文献の研究」を行ったのは1911年、23歳の時である。聞き手はオックスフォードの学生や教員ばかりだから、ラテン語でもギリシャ語でも訳を付けずにどんどん引用している。(どなたかギリシャ語の訳を教えてください。)
 この講演のときはまだ英国国教会に属していたが、1917年にカトリックに改宗し、その後大学礼拝堂付き司祭となって、その功績に対してMonsignorの称号を受けた。この講演の原文のページにMonsignor Ronald A. Knox  1911と書いてあるのはそのためである。(厳密にはアナクロニズムですね。)
 ノックスのことを「枢機卿となった」と書いている本があるが、間違いです。枢機卿にはなっていない。枢機卿とは、ローマ法王(正式には教皇)の選挙権・被選挙権を持つ最高位の聖職者で、この時代なら全世界で百人に満たなかったはずだ。(だから、「トスカ枢機卿の死」は大騒ぎになって、ローマからホームズに捜査依頼が来た。)同じように英国国教会からカトリックに改宗したニューマン枢機卿(1801-90)と混同しているのではないか。
 このニューマン枢機卿はJohn Henry Newmanという名前だった。ワトソンはこの人の名前をもらってJohn Henry Watsonと名付けられたという説もあるが、ドロシー・セイヤーズは「ドクター・ワトソンのクリスチャン・ネーム」でこれに反対している。

 なかなか話が進みません。続きはまた。 

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2006年5月14日 (日)

オックスフォードかケンブリッジか(3)

 シャーロック・ホームズは1854年に生まれ、1872年、18歳で大学に入学した。
 この大学がオックスフォードかケンブリッジかについては、ロナルド・ノックスが1911年に問題を取り上げて以来、専門家の間で論争があるようだ。
 ノックスはAnd at which University? と書いているだけだが、これは単に「どの大学か?」と訳したのでは駄目である。「オックスフォードとケンブリッジのどちらなのか?」と訳さなければならない。
『グロリア・スコット』を読めば、ホームズの大学がオックスフォード、ケンブリッジのいずれかであることは明らかだろう。あるいは、古すぎて意味不明になった『マスグレーブ家の儀式』を伝えているような貴族的な家柄の友人ができるのは、どちらかの大学でなければならない。
 ホームズがたとえばエジンバラ大学に行ったなどということは考えられない。

 アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)は1876年にエジンバラ大学に入学している。

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ドイルの場合は、年収240ポンドの下級官吏の長男(十人兄弟)だったから、オックスフォードやケンブリッジに行くことなど問題外だった。
「先ず普通四百ポンド乃至五百ポンドを費やす有様である」(漱石)というのは1901年のことで、25年前にはもう少し安く上がったかもしれない。しかしドイル家にはとうてい無理だった。ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝によれば、ドイルはドイツのイエズス会の学校で1年間勉強してきて1876年に帰郷した。

 ドイルはエジンバラの貧窮の暮しに戻った。父親はまだ絵を描き続け、まだ雲の中にいて、まだ子供を作り続けていた。年収は二百四十ポンドのままだった。アーサーが勤勉に時間を空費している間に一男一女が生まれ、さらに女の子がもう一人が生まれようとしていた。上の姉はポルトガルから家庭教師の給料を仕送りしてきていた。下の姉と妹も近々同じコースを取るはずだったが、それで家計が楽になる見込みはなかった。問題はアーサーをどうするかだった。母親が並の女性ならば、息子にすぐに金を稼がせたかも知れない。アーサーの体格があれば石炭積みか家具運びで安定した給料が見込めるはずだった。しかし母親はもっと目標が高く先のことを考えていた。エジンバラは医学で定評があるのだから、アーサーは大学にやって医者にすべきだ。帰郷の一月ほどあとに各種の奨学生の選抜試験があったので、彼は古典を猛勉強してその一つに挑んだ。間もなくグリアソン奨学金の資格を得たという知らせが届いた。二年間で四十ポンドが支給されるのだ。ギリシャ語とラテン語に費やした時間も無駄ではなかったことになる。ドイル家は喜びに包まれた。ところが、いざ給付を申し込んでみると、事務手続の間違いがあったことが分かった。グリアソン奨学金は文科の学生だけが対象だったというのだ。それならば医学生向けの次善の奨学金をまわして貰えるはずだと思ったが、「それはもう候補の学生に給付してしまった」と言われた。彼の立場は微妙だった。裁判になれば勝てるはずだ。しかし、これから入学する大学を相手に訴訟を起こすのが得策だとは思えない。ドイルは憤懣を抑えて七ポンドの涙金を受け取った。
 
 ホームズ家は代々の地主であったから、マイクロフトとシャーロックの兄弟二人をオックスフォードかケンブリッジにやることができた。
 どちらだったのか? 手がかりは正典にあるはずだ。(続く)

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2006年5月13日 (土)

オックスフォードかケンブリッジか(2)

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……さて、これから留学地選定の件を方付けねばならぬ。ケンブリッジかオックスフォードか乃至エジンバラかロンドンか、と色々思案をしたが幸い或る西洋人の紹介を持っていたから一先ケンブリッジに行って様子を見て来ようと思うて出掛て見た。これが英国内の旅行の最初である。ケンブリッジへつくと驚いたのは書生が運動シャツと運動靴で町の内をゾロゾロ歩いている。これは船を漕いだり丸を抛げたりまたは自転車へ乗る先生方であって、そして大学生の大部分はこの先生方である。それから段々大学の様子を聴て見ると先ず普通四百ポンド乃至五百ポンドを費やす有様である。この位使わないと交際などできないそうだ。尤もやり方でもっと安くも出来るが世間がそういう風だから衣服その他これに相応して高い。月謝も高い。留学生の費用では少々無理である。無理にやるとしたところが交際もせず書物も買えず、下宿に閉じ籠もっているなら何もケンブリッジに限った事はない。少しでも楽な処に行くが善いと判断した。ここにおいてケンブリッジもオックスフォードも御已めにして、この度はエジンバラかロンドンかと考え出した。……
――夏目漱石書簡 1901年2月9日 鹿野亨吉・大塚保治・管虎雄・山川真二郎宛

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2006年5月12日 (金)

オックスフォードかケンブリッジか(1)

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……ホームズの大学時代についてはこれよりもよく分かっている。彼は内気な性質で、スポーツはボクシングとフェンシングしかやらなかったから、友だちは少なかった。友だちの一人ヴィクター・トレバーは、オーストラリアの金鉱で一財産作ったという前科者の息子である。もう一人のレジナルド・マスグレーブの祖先は1066年に征服王ウィリアムについて来たのだというから、これは正真正銘の貴族である。ホームズは 「僕がカレッジにいたときに云々」 というが、どのカレッジだろう? それよりもまずオックスフォードとケンブリッジのどちらなのか。科学ならケンブリッジだと言う向きもあろうが、これはおかしい。科学者になりたいのなら二年でやめるはずがない。友だちが二人とも大金持ちで、一人は貴族、もう一人もかなり派手な暮らしをしていたこと、それにホームズほどの才能が目立たなかったことを考えると、オックスフォードのクライストチャーチ・カレッジだったのではないかという気もする。しかしこれには確証がない。
 ホームズがオックスフォードに行ったとしても、「グレイツ」 の課程 (古典語、哲学、古代史) を取ったのではない。……
――ロナルド・ノックス『シャーロック・ホームズ文献の研究』(全文はここ

 
 ……Of Holmes’s student days our knowledge is much fuller; he was reserved by nature, and his recreations--boxing and fencing--did not make him many acquaintances.  One of his friends was Percy Trevor, son of an ex-convict, who had made his money in the Australian goldfields; another Reginald Musgrave, whose ancestors went back to the Conquest--quite the last word in aristocracy.  He lived in a College, but what College?  And at which University?  The argument that his scientific bent would have naturally taken him to Cambridge defeats itself, for why should he have been only up two years if he wanted a proper scientific training?  More and more as I consider the wealth of his two friends, the exclusive aristocracy of the one, and the doggy tendencies of the other, together with the isolation which put even so brilliant a light as Holmes’s under a bushel--more and more I incline to the opinion that he was up at the House.  But we have no sure evidence.
  If he was an Oxford man, he was not a Greats' man.……
――Ronald A. Knox, Studies in the Literature of Sherlock Holmes (全文はここ

……ホームズの学生時代についてはもう少し詳しくわかっている。彼は生まれつき内気な性格で、彼の気晴らし――ボクシングやフェンシングのような――も多くの友人をつくらなかった。友人のひとりにヴィクター・トレヴァーという前科者の息子がおり、その父はオーストラリアの金鉱で財産をつくった。また別のひとりはレジノード・マスグレーヴで、祖先はノルマン人の英国征服のころまでさかのぼることができる貴族の出身であった。彼といっしょに学んだのは一体どこのカレッジだったのだろうか? あるいは総合大学だったかもしれない。彼の科学に対する興味が自ずとケンブリッジ入学へ導いたという説もあるが、これは誤りである。十分な科学的教育を受けたいと考えるならなぜ二年間しか通わなかったのであろうか? 二人の友人の財力を考えると納得がいかない。つまり一般人には近寄りがたい貴族の出である友人がいるかと思うと、もうひとりは犬が大好きときている。またホームズのように才能のあるものが孤独でいるというようなこと、これらのことを考えると、彼は学生寮に住んでいたのではないかと思われる。しかしこれについてはたしかな証拠はない。もしオックスフォード出身だとしても貴族の出ではなかったであろう。……
――「ホームズ物語」についての文学的研究 河出文庫『シャーロック・ホームズ17の愉しみ』p.74

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2006年5月 4日 (木)

鴎外・漱石・子規

……鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き申訳も無之、これも小子嗜好の下等なる故と只管慚愧致をり候。元来同人の作は僅かに二短編を見たるまでにて全体を窺ふ事かたく候得ども、当世の文人中にては先づ一角ある者と存じをり候ひし。試みに彼が作を評し候はんに結構を泰西に得、思想をその学問に得、行文は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候。右等の諸分子相聚つて小子の目には一種沈鬱奇雅の特色あるやうに思はれ候。尤も人の嗜好は行き掛りの教育にて(仮令ひ文学中にても)種々なる者故己れは公平の批評と存候ても他人には極めて偏屈な議論に見ゆる者に候得ば、小生自身は洋書に心酔致候心持はなくとも大兄より見ればさやうに見ゆるも御尤もの事に御座候。……
…………
 時下炎暑のみぎり御道体精々御いとひ可被成候。拝具。
    八月三日                 平凸凹拝
 のぼるさま

 明治24(1891)年、夏目漱石から正岡子規に宛てた手紙である。二人とも25歳。漱石は9月に帝大英文科2年に進学する。子規は翌年帝国大学を退学し日本新聞社に入社する。
 鴎外の「二短編」とは、『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』のうちの二つである。舞姫が処女作で明治23年1月に発表。この三編をドイツ土産三部作という。――以上、岩波文庫和田茂樹氏の注による。

Souseki

(学生時代の漱石)

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2006年5月 2日 (火)

先生と私

 私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。

 I always called him "Sensei". I shall therefore refer to him simply as "Sensei", and not by his real name. It is not because I consider it more discreet, but because I find it more natural to do so. Whenever the memory of him comes back to me now, I find that I think of him as "Sensei" still. And with pen in hand, I cannot bring myself to write of him in any other way.

 エドウィン・マクレラン氏の訳である。Senseiには、次のように脚注を付けている。
*The English word "teacher" which comes closest in meaning to the Japanese word sensei is not satisfactory here. The French word maitre would express better what is meant by sensei.

 先生という日本語は英語に訳せないらしい。

 ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』は映画館で見た。猛龍伝説というサイトによると日本公開は1974年7月だそうだ。もう30年以上もたったのか。

 ブルース・リー演ずる中国人青年の老先生が悪い日本人の柔道家に殺される。リー青年が先生の遺体に取りすがって泣く。ブルース・リーは"Teacher! Teacher!"と号泣して、「先生! 先生!」と字幕が出たように覚えている。
 まず北京語版を作ったらしい。英語版に翻訳するときに手間と金をけちったに違いない。
 ただ、例の「アチョー」だけは吹き替えではなく、ブルース・リー本人の声なのだそうだ。

Brucelee

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2006年5月 1日 (月)

ガンジーと肉食

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〔17歳のガンジー。左は長兄ラクシュミダース〕

学校では、クラスメートがよく戯れ歌を歌った。

  イギリス人は力持ち
  力あるからちっぽけな
  インドの人を支配する
  イギリス人は肉喰らい
  肉を食うから大きくて
  身の丈何と八フィート
  
 メータブはムスリムなので肉食をしていた。ガンディーは正統派のヒンドゥー教徒だったから菜食だった。メータブはガンディーに、カルサンダースには何度もこっそり肉を食わせたことがあるのだと言った。学校の先生や生徒の多くも肉を食べていて、肉食のおかげで強くたくましくなっているのだ。インド人がみんな彼らのように肉を食えば弱い体も丈夫になって、英国人支配者を追い払うことができるというのである。メータブは町外れのアジ川岸の人が来ない場所にガンディーを連れ出した。彼は山羊の肉とパンを持ってきた。パンは英国人の食べるような酵母入りのものだった。メータブはガンディーにパンと肉を渡して、これを食えと言った。肉は革みたいに固かったが、ガンディーは頑張って噛み、吐きそうになった。その晩はほとんど眠れなかった。「私は怖ろしい悪夢に襲われた」と彼は書いている。「ウトウトしかけると、体の中でメエメエと山羊が鳴いた。私は悔恨に苛まれて飛び起きた」ガンディー家では肉食は厳禁で、ほとんど人肉食に等しい犯罪だった。カーティヤーワールのヒンドゥー教徒はジャイナ教の影響を強く受けていたからである。ジャイナ教は紀元前六世紀から五世紀にヒンドゥー教のバラモン偏重に対する反動として始まった宗教改革運動に起源を発しているが、数世紀を経る間にヒンドゥー教自体よりもさらに峻厳で保守的になっていた。ジャイナ教徒は、人間や動物だけでなく、昆虫、植物、土、火、水、風など、あらゆる分子と原子に霊魂が宿ると信じていた。涅槃に達するためには、ジャイナ教徒は人間に可能な限りの努力を払って生類を害することを避けねばならない。人は山羊や昆虫に転生すると信じられているから、何物も殺してはならない。このためジャイナ教徒は、虫を吸い込まぬように口には白いマスクをつけ、虫を踏みつぶさぬように夜は外出しない。黴菌を殺すのを恐れて歯を磨かず衣服の洗濯をしない者もいる。さらに厳格な一派になると一切衣服を纏わない。ジャイナ教徒にとっては、どこで食事をするかが大きな問題だった。異教徒の家は肉に汚染されている恐れがあるからだ。しかし彼らもガンディー家では安心して振舞いを受けた。ヴァイシュナヴァ派のグジャラート人はジャイナ教徒と同じように肉食を忌み嫌うことで有名だったからである。また、ガンディー家では母親が虫を殺させないこともよく知られていた。
 しかしラージコートにも学校教育とともに新思想が入って来ていた。ガンディーもメータブに唆されて、やがて肉食を楽しむようになった。アジ川の岸で初めて肉を食べてから一年ばかりの間、ガンディーはときどきラージコートの議事堂でメータブたち肉食の友人と会食した。彼らは手の込んだ料理を注文した。肉は食べ慣れた野菜などで口当たりよく味付けして、一見肉には見えないように調理してあった。これを指を使って、ただし英国人のように椅子に坐ってテーブルで食べた。会食から帰ると、親の手前を取り繕うのが大変だった。「食事時になっても私が食べたがらないので、母はどうしたのと聞く。私は『今日は食欲がありません。胃の調子がよくないから』と言うのだった」息子が肉を食べていると知れば母がどれほどショックを受けるかは分かっていた。嘘をつくのは良心がとがめたので、肉食は延期しようと思った。親がいなくなって好きなことができるまで待つのだ。
 しかし、カルサンダースはメータブと肉食を続け、その結果二十五ルピーの借財をこしらえてしまった。彼とガンディーは、カルサンダースの金の腕輪の一部を切り取って借金を返すことにした。両親は腕輪が欠けていることに気づいたが、二人は何も知らない、夜の間に盗まれたのだろう、と言い張った。しかしガンディーは後悔し、盗みを告白しようと思った。彼は告白を紙に書いて震えながら父親に渡した。「父は黙って読んだ。涙が頬を伝って落ち、紙を濡らした。父は目を閉じ、紙を引き裂いた。……私も泣いた」

『ガンディーと使徒たち』pp.118-120  カテゴリーの「ガンジー」に本書の他の箇所も抜粋あり。

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