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2006年9月29日 (金)

高名な?依頼人(2)

 エドワード7世は皇太子時代にもホームズ譚に登場している。The Adventure of the Beryl Cononetである。ワトソンは年月日を記していないが、ベアリング=グールドによると1890年12月のことだという。

 きのうの朝のことでした。銀行の重役室におりますと書記が名刺を一枚取り次いできましたが、その名前をみて私はびっくりしました。それこそ誰ありましょう――いや、あなたにもこれだけは、このおかたのお名前が世界中の人の日常語になっているとだけしか申しあげないほうがよろしい。ともかくわが国最高の、最も尊いお身分のかたなのです。(延原謙訳)

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 用件はというと

「ホールダ君、きみは人に金子を用立てると聞いたが?」

 というのである。一度こういう金の借り方をしてみたいものですね。それはともかく、いくら偉い人でも担保が必要だということになって、Beryl Coronetを担保にした。
 このBeryl Coronetですが、延原謙氏は『緑玉の宝冠』と訳している。最新の光文社文庫版では『緑柱石の宝冠』である。
 緑柱石って何だ? 私は知らなかった。広辞苑で見てみよう。

りょくちゅう‐せき【緑柱石】ベリリウムとアルミニウムを主成分とする珪酸塩鉱物。六方晶系、六角柱状の結晶。塊状・粒状でも産出。純粋のものは無色。多くは緑色または淡青色で、やや透明、ガラス光沢がある。深緑色のエメラルド、青色のアクアマリンはその一種。
 
 平凡社世界大百科事典で「エメラルド」を見ると

ベリル(緑柱石)のうち,微量なクロムの含有によって鮮やかな緑色を示すものをいう。和名は翠玉。最古の宝石取引市場として知られるバビロンには,紀元前4000年の当時,すでにエメラルドが現れていたと伝えられる。女王クレオパトラもこの宝石を愛好し,彼女が所有していたといわれる鉱山の遺跡がある。鮮やかな緑色は新緑の候を思わせ,5月の誕生石となり,希望と幸福の象徴でもある。南アメリカのアンデス山中で大部分を産出し,とくにコロンビア産が品質・量ともに世界第1位。それに次ぐのがブラジルで,新産地の発見により良質石の産出が増加している。古い産地としてはソ連(現,ロシア)のウラル山中やインドが知られているが,現在の量はわずかである。アフリカでは,タンザニア,ジンバブウェのほかザンビア,モザンビークが知られている。エメラルドの合成は1940年代にアメリカで成功し,フランス,ドイツ,オーストリア,ソ連(現,ロシア),日本などでも盛んに行われている。      近山 晶

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 これはどうも『エメラルドの宝冠』なのではないだろうか? 「緑柱石」は鉱物の名前で、宝石としてはエメラルドなのだから。ベリルを別の片仮名のエメラルドにしてしまうのは変だ?
 しかし、Blue Carbuncleの先例があります。かつての延原訳では『青い紅玉』となっていたけれども、シャーロック・ホームズ・クラブの会員からいかにも変だという意見が出て『青いガーネット』に改めたのだそうだ。

 延原氏が『緑玉の宝冠』としたのは根拠があってのことだ。平凡社世界大百科事典のエメラルドの項目に澁澤龍彦氏が書いている。

聖書の《ヨハネの黙示録》4章3節に〈その座したまうものの状は碧玉,赤メノウのごとく,かつ御座のまわりには緑玉のごとき虹ありき〉とある〈緑玉〉も,エメラルドのことにほかならぬ。

 そもそもThe Adventure of the Illustrious Clientの話であったが、また横道に逸れてしまった。続きはまた。

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2006年9月27日 (水)

高名な?依頼人(1)

「もう弊害はあるまいよ」
 というのがシャーロック・ホームズのそのときの意見だったが、私はこの十年ばかりの間に十回くらいも、これから話す事件を公表する許しを求めて、やっと承諾を得たわけなのである。こうしてようやく私は、ある意味では彼の生涯の最高の時期ともいうべきこの事件の発表を許されたのである。(延原謙訳)

 The Adventure of the Illusrious Clientの冒頭第一節である。
 これは1902年9月3日に始まった事件だった。この一編がアーサー・コナン・ドイル名義で発表されたのはストランド・マガジンの1925年2月3月号である。事件から20年以上を経てようやく公表が許されたのだ。
 これだけ配慮を払う必要があったのは、事件がド・メルヴィル将軍令嬢ヴァイオレットに関わるものだったこともある。しかし、それ以上に依頼人の問題が大きかったのである。

 事件がようやく終局を迎えたとき、馬車の紋章をちらりと見たワトソンが

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「依頼人の正体が分かったよ。依頼人は……」
 と一大ニュースを伝えようとすると、ホームズは手を挙げてそれを制した。
「忠実にして侠気ある紳士さ。いまはそれだけにしておこう。将来だってそれでたくさんじゃないか」
 
 1925年の時点でも、ワトソンは依頼人を名指ししていない。
 しかし、もう百年以上たっているのであるから、我々ははっきり書いても「もう弊害はあるまいよ」と思う。
 ホームズの時代から現代までのイギリスの王位はどうなっているかというと(括弧内は在位期間)

ヴィクトリア女王(1837-1901)
エドワード7世(1901-10)
ジョージ5世(1910-36)
エドワード8世(1936年1月-12月)(シンプソン夫人と結婚してウィンザー公になった人)
ジョージ6世(1936-1952)
エリザベス2世(1952-)

 ワトソンが見たライオンとユニコーンの紋章はエドワード7世のものだった。この人は1841年にヴィクトリア女王の長男として生まれ、皇太子時代が長かった。ずいぶん捌けた人で、だからこそ、こういう微妙な事件の依頼人となったのである。
 なかなか本題に入れません。続きはまた。

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2006年9月26日 (火)

柔道か柔術か(7)--バリツの起源

 柔道/柔術が英国に伝わっていたことは、これまで見てきたとおりである。ホームズがこれを学んだことはほぼ確実だろう。問題は
(1)いつどこで誰から習ったのか?(2)なぜジュージツではなくバリツなのか? 
 である。
 
(1)については残念ながら現段階では不明である。
(2)について、一つ有力な手がかりを発見したのでご紹介する。
 半世紀以上前、1950年2月26日のサンデー・タイムズ紙に東京特派員リチャード・ヒューズ氏が書いた記事である。

 当時日本は連合国の占領下にあった。首相は吉田茂(1878-1967)である。訳文中、牧野伯爵とあるのは、牧野伸顕(1861-1949)である。牧野伸顕は大久保利通(1830-1878)の次男、吉田茂の岳父、吉田健一(1912-1977)の祖父である。文相、農相、外相、宮内大臣、内大臣を歴任し、記事でも触れているが二・二六事件で襲撃されたが難を逃れた。

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BARITSU IN BAKER STREET  ベーカー街のバリツ
By Richard Hughes        リチャード・ヒューズ

 世界中のシャーロック・ホームズ・ファンは、ベーカーストリート・イレギュラーズの最初の東洋支部の誕生を聞いて興奮するだろう。このたび占領下の東京でイレギュラーズのバリツ支部が発足したのである。

 この日本支部には指導的な日本人のメンバーが含まれるので、ベイカー街の名探偵の頌徳が、平和条約の締結如何に関わらず、日本の国際社会への復帰の第一歩となることが期待される。
 故牧野伯爵は日本政界の元老であり、ベルサイユ講和会議には次席全権を務めた。14年前の今日(1936年2月26日)、陸軍が反乱を起こした事件では、危うく難を逃れ、最近バリツ支部の創立者の一人となったのである。故伯爵はホームズとワトソンの記録に造詣が深かった。令孫の吉田健一氏は現首相の子息でもあるが、ケンブリッジの卒業生であり、バリツ支部の会員となっている。吉田氏によれば、故伯爵は最近の西洋探偵小説には我慢がならんともらされ、もっぱらホームズ譚の再読で無聊を慰めておられたよしである。
 伯爵は昨年物故されたが、病床にあってバリツ支部発会式のために論文を執筆しておられた。これはホームズ研究者ならば誰もが疑問に思う「バリツ」の語(東京支部の名称もこれから取られたのである)の由来を明らかにするものであった。周知のようにホームズは『空き家の冒険』でこの語を用いたとされている。奇跡的な生還の理由をワトソンに説明する際に、モリーティ教授の魔手を逃れ得たのは「バリツ、すなわち日本式レスリングの心得」があったからだとホームズは言う。探偵はこの技を用いて大悪党をライヘンバッハの滝壺に投げ込んだのである。
 従来研究者はこのバリツの語を漠然と日本語の「柔術」の意味に取っていた。しかし、伯爵も指摘されるように、日本語には「バリツ」という単語はない。伯爵の論文では、ホームズ譚にこの語が現れたのは、例によって記録者ワトソンの聞き間違いである、という説が提示されている。
「ホームズが実際になんと言ったかを考えてみる必要がある」と伯爵は書いておられる。ホームズの言葉は「僕は日本式レスリングを含むブジツ*の心得がある」だったというのである。ブジツ(武術)とは軍事技術を指す日本語であり、柔術のほかに弓術、剣術、槍術、投げ槍術*、築城術、砲術(大砲、鉄砲、短筒)を含んでいる。
 

武術家としてのホームズ
「シャーロック・ホームズがこのいずれにも通暁していたことはよく知られている。彼は拳銃を用いて部屋の壁を愛国的な頭文字で飾ることを好んだ。空気銃の知識はセバスチャン・モラン大佐に勝るとも劣らなかった。またホームズが投げ槍術に熟達していたことは『ブラック・ピーター』からも窺うことができる。彼はアラダイス肉店の奥で天井からぶら下がった豚肉の塊を銛で突き刺そうとしたのである。また彼が『木刀術*を少々心得ている』ことも我々は知っている。初期の冒険で中世城郭の壕や櫓や跳ね橋などに遭遇したことから築城術の研究に向かったであろうことも容易に想像できる」
 牧野伯爵は結論として「これらの諸芸が一つの総合的な武術に統合されているのは日本においてのみである。西洋人でこれらすべてに秀でていたのはシャーロック・ホームズのみである。今日このベーカーストリート・イレギュラーズ東京支部の名称として『武術』を用いることができるのは、我々日本人にとって大きな喜びである。武術なかりせば、西洋人と東洋人にとって等しく英雄である人物とその後期の冒険の数々もまたなかったのである」と述べている。

東と西
 バリツ支部のそのほかの会員には、日本の指導的な探偵小説作家である江戸川乱歩氏、故東条英機将軍の弁護人であったジョージ・F・ブルーイット氏、シカゴ・トリビューン紙特派員ウォルター・シモンズ氏、それに不肖本特派員がいる。

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 シャーロック・ホームズは96歳を迎えた今もなお壮健であり、サセックスで蜜蜂の巣に囲まれて隠棲生活を送っているが、ホームズこそ、人種や政治的信条にかかわらず東と西の和解を導いたのである。現下の国際情勢を観察する者がはなはだ遺憾とするのは、今なおベイカーストリート・イレギュラーズのモスクワ支部がないことであり、ヨシフ・スターリン氏がシャーロック・ホームズの冒険を読むことを頑として拒んでいることである。

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*ブジツ(訳注) bujitsu。柔術はジュージツ、武術はブジツが旧式の発音であって、英語にはこちらの方が伝わっているらしい。

*投げ槍術(訳注) 日本では投げ槍が武器として用いられたことはない。牧野伸顕の論文の原稿が残っていないので確定的なことは言えないが、記者の聞き間違いだろう。ヒューズ氏はローマ帝国時代に広く用いられた投げ槍pilumのような武器が日本にもあったと想像したのであろう。

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*木刀術(訳注) ホームズは『高貴な依頼人』で"I'm a bit of a single-stick expert."と言っている。これは従来は棒術と訳されているが、少々違うようだ。日本語の「棒術」はふつう六尺棒を使う武術である。single-stickは日本式に言えば「鍔の付いた木刀」であって、サーベルのような「斬る刀」の練習用に用いられた。辞書でsinglestickを引くと「かご柄のフェンシング用の木刀」とある。かご柄というのは、写真のようなものらしい。これなら小手は完全に保護できるけれど、防具も着けないで木刀で叩き合うのだろうか? どうも変なものですね。

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2006年9月19日 (火)

柔道か柔術か(6)

 漱石は一種のプロレスを見せられて退屈したらしい。面白いはずがない。当時はまだプロレスのルール(無ルール)は発明されていない。アマチュア式にやったから、なかなか勝負が付かなかったのだ。
 12時までかかったというのは、3分間のラウンドを何十ラウンドもやったのでしょうね。当時はボクシングも15ラウンドの制限はなくて、勝負が付くまでやった。
「西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ」というほかない。
 しかし、日本人の柔道家がレスラーと戦うようになると、様相は一変した。寝技で関節を決めるというやり方を持ち込んだからである――というのは私の推測であるが、だいたい当たっていると思う。手間さえ厭わなければ検証できる仮説だと思う。
 漱石は「日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負」だと聞いてわざわざ出掛けたのである。こういう客が多くて大入り満員になったのだろう。
「肝心の日本対英吉利の相撲はどう方がついたかというと、時間が遅れてやるひまがないというので、とうとうお流れになってしまった」というのは、ちょっと怪しい。初めから日本人は出る予定はなかったのだろう。「日本人出場!」と広告しておけば客が集まるからだろう。
 とすると、これ以前に、日本人の柔道家/柔術使がレスラーを相手に勝負して評判になった試合が(たぶん複数)あったはずだ――私が検証できるというのは、このことである。

 漱石が見た試合の結果は「翌日起きて新聞を見ると、夕十二時までかかった勝負がチャンとかいてあるには驚いた。こっちの新聞なんて物はエライ物だね」というのである。
 とすれば、それ以前の試合の記録もあるはずだ。「ジュージツという不思議な業を使う日本人が出場し、何ラウンドに何某からギブアップを奪った」というような記事があるに違いない。
 漱石が1901年12月に英国の下宿で取っていたのは何という新聞か? これは調べれば分かる。たとえばデイリー・テレグラフであるとすると、この新聞のバックナンバーを遡って調べるのですね。
 どなたか、漱石学者で格闘技にも興味があるという人がやってくれませんか? ブリティッシュ・ミュージアムに行って100年以上前の新聞のバックナンバーを調べれよろしい。何年の何月何日に日本人の柔道家誰々が何というレスラーと戦ったか、記録があるはずだ。
 講道館出身の柔道家が渡英していたに違いない。彼が自分の業を「柔術」と呼んでいたのは、ブラジルへ行ったコンデ・コマこと前田光世の場合と同じだろう。

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2006年9月18日 (月)

柔道か柔術か(5)

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「午後からセント・ジェームジズ・ホールでサラサーテの演奏がある。どうだろうワトソン、患者の方は、二、三時間待たせておいても大丈夫だろう?」
「今日は体が空いている。仕事はそう忙しくはないのだ」
「じゃ帽子をかぶりたまえ。行こう。まずシティへ寄って行く。途中で昼食をとろう。プログラムにはドイツの曲が多いが、これはイタリアやフランスの音楽より僕の好みに合う。ドイツものは内省的だが、僕はいま大いに内省したいと思っているのだ。さあ行こう」

          1887(明治20)年10月29日(土) 赤毛連盟

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……先達「セント、ジェームス、ホール」で日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負があって二百五十円懸賞相撲だというから早速出掛て見た。五十銭の席が売切れて這入れないから一円二十五銭奮発して入場仕ったが、それでも日本の聾桟敷見たような処で向の正面でやって居る人間の顔などはとても分からん。五、六円出さないと顔のはっきり分かる処までは行かれない。頗る高いじゃないか。相撲だから我慢するが美人でも見に来たのなら壱円二十五銭返してもらって出て行く方がいいと思う。ソンナシミタレタ事は休題として肝心の日本対英吉利の相撲はどう方がついたかというと、時間が遅れてやるひまがないというので、とうとうお流れになってしまった。その代わり瑞西のチャンピヨンと英吉利のチャンピヨンの勝負を見た。西洋の相撲なんて頗る間の抜けたものだよ。膝をついても横になっても逆立をしても両肩がピタリと土俵の上へついてしかも、一、二と行事が勘定する間このピタリの体度を保っていなければ負でないっていうんだから大に埒のあかない訳さ。蛙のようにヘタバッテ居る奴を後ろから抱いて倒そうとする。倒されまいとする。坐り相撲の子分見たような真似をして居る。御陰に十二時頃までかかった。ありがたき仕合である。翌日起きて新聞を見ると、夕十二時までかかった勝負がチャンとかいてあるには驚いた。こっちの新聞なんて物はエライ物だね。……

   1901(明治34)年12月18日(水) 夏目金之助より正岡常規へ

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 St. James's Hallは、現在も音楽会やスポーツの興業に使われているようだ。一円二十五銭の中等席でも「向の正面でやって居る人間の顔などはとても分からん」というのだから、かなり大きな会場らしい。しかし武道館ほどではないと思う。サラサーテのバイオリン独奏はビートルズの公演じゃないんだから。

 漱石は「日本の柔術使」と書いていますね。『坊ちゃん』でも『三四郎』でも柔道ではなく柔術だった(柔道か柔術か(1)参照)。柔道という呼び方が定着したのは昭和になって学校体育に採り入れられてからではないだろうか? 

 漱石が見たのはどうも一種のプロレス興業の走りのようですね。この辺はもう少し詳しく明日。

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2006年9月16日 (土)

オウムのこと

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 麻原彰晃の死刑が確定した。
 地下鉄サリン事件は1995年3月20日だったが、私は記憶がない。急病(サリンとは無関係)で入院し、集中治療室にいたからだ。
 麻原の逮捕は5月16日だった。これは病室のテレビで見た覚えがある。
 そのとき「ひょっとしたらあれがそうだったのかも知れない」と思い出したことがある。
 1984年ごろ(だったと思う)、妙な経験をしたのである。
 そのころ、私は東京の文京区立体育館のトレーニングルームに通っていた。昼間にトレーニングに行くと、来ているのは、学生のほか、定年退職者、自営業者、フリーターといった人たちである。その中に、妙なことをする若い男がいた。
 トレーニング中に水分を補給する必要があるのだが、そのための「特殊な水」を作っているのである。
 水道の水を薬缶に汲んでくる。薬缶をテーブルの上に置き、ふたを開けて、その上に小さなラジカセをスピーカーを下向きにして置く。ラジカセのテープで「オウム、オウム、オウム、オウム、……」という呪文を大音量で鳴らせて、呪文を水に「聞かせる」のである。
「何をしているのだ?」と聞くと、「こうやって聖水を作っているのです。これは○○さんのお声です」と答えた。
「○○さん」のところは、「麻原さん」と言ったのか、「松本さん」だったのか、あるいは「尊師」だったのか、私は覚えていない。
 オウム真理教が宗教法人として認証されたのは1989年のことだというが、それ以前からヨーガ研究会として活動していたはずだ。あんな変なことをするのは「オウムの前身」以外にあり得ないと思う。
「オウム」という言葉自体は私も知っていた。呪文だからといって一概に馬鹿にするつもりはない。ラジカセが変なのである。

 リーダーズ+プラス英和辞典でaumを引いてみると、omを見よとある。omは

【インド哲学・仏教】 オーム, X(おん) 《ヴェーダ聖典を誦読する前後, あるいは真言 (mantra) や祈りの開始の際に唱えられる神聖な音; aum ともいう; 宇宙の根源たる Brahman を表わす聖音とされ, また それ自体が念想の対象とされる; a, u, m の 3 音からなるものと解され, それぞれ万物の発生・維持・終滅を表わし, 全体で Brahm, Vishnu, Siva の三神一体 (Trimurti) を表わすともされた》.[Skt]

 X (おん)のXは、パソコンにない特殊漢字である。末尾の[Skt]は、サンスクリットということである。
OEDでomを見てみると

In Hinduism and Buddhism, an utterance of assent used in prayer and meditation. Also as n., an instance or example of this assent, and as v. intr., to utter the assent. (See also quot. 1917.)

1917 A. B. Keith in Encycl. Relig. & Ethics IX. 490/2 The first evidence of this important position of the word is to be found in the Aitareya Brahmana (v. 32) in which it is declared that om is the world of heaven and the sun, and where it is resolved into the three letters a, u, and m.

 要するに「オウム」はヒンドゥー教や仏教で昔から使われていた由緒ある言葉なのである。

 突き詰めて考えれば自分は唯物論者ではないかと思う。オウムだろうがインコだろうが、呪文などに効き目はなかろう。
 しかし、「呪文に効き目はない」と断言できるかというと、そうも言い切れないような気もする。今年のお盆には、坊さんに来てもらって、「ハンニャーハラーミータ……ギャーテーギャーテー……」と「短いけれど効き目のあるところ」を一つやってもらったのだが、あれだって呪文の一種である。断固拒否しなかったのは、田舎住まいだから変人扱いされては困るということもあるが、それだけではない。
 神主の祝詞、坊さんのお経、ムスリムのコーラン朗唱、キリスト教のミサなど、世界中で似たようなことをやっているのは、何か人間存在の根本に関わるものがあるからだろう。よく分からないが何かあるのかも知れない――という考え方は「不可知論」というのかな?

 お経ならお経でも、特に坊さんに詠んでもらうことに意義がある、という考え方はまず理解できる。とすれば、「オウム」という呪文も「尊師」に称えてもらってこそありがたいという考え方もあるだろう。ありがたいから、それで「聖水」ができるというところまで信ずるのはどうかと思うが、そう信じる人がいてもよい。
 決定的に変なのは、ラジカセである。尊師の称える言葉を録音したもの、電子的処理を加えたものにオリジナルと同じ効力があるのか? 
「オウム」という言葉の元になったヴェーダ聖典ができたのは、紀元前1500年前後のことだという。もちろんラジカセなんかなかった時代である。
 科学技術というものをそれこそ物神化して、宗教と接合してしまう。オウム真理教はチベット仏教を手本にしたのだというが、本物と偽物の決定的な違いは、ここにあるのだろう。

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2006年9月13日 (水)

名前について

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 新親王殿下のお名前が「悠仁」に決まった。おめでたい。しかし、必ず「○仁」の形にしなければならないらしいから、大変ですね。そのうちに仁の上に付ける字がなくなるんじゃなかろうか? 
 漢学者に「佳字」を選ばせるらしい。下々のように親の好みで勝手な名前を付けては困ることがあるからね。  
 むかし、知人で女の子に「留奈」と名付けた人がいた。「いい響きでしょう。外国へ行っても通用する」と自慢していたが、Lunaと言えば、どうしたってlunaticなんて言葉を連想しますね。「キ印という意味ですよ。瘋癲の留奈ちゃんなんてね」などと言えば殴られるから黙っていましたが。
 
 秋篠宮殿下のお名前は「文仁」であるが、これについても思い出すことがある。以前、ある式典での某大企業会長の挨拶を英語に翻訳したことがある。原稿を見て仰天しましたね。「本日は、文仁親王殿下ご夫妻にお出で頂き……」とあるではないか。
 もちろんこれは「秋篠宮両殿下のご臨席を賜り」と書かなければならない。「ご臨席を賜り」は「お出で頂き」と簡略化してもまあ構わないかも知れない。しかし「文仁親王殿下ご夫妻」は絶対いけません。大企業の総務部員ともあろうものが、これくらいのことが分からなくては困る。
 皇族のお名前を直接呼ぶのは(しかもこの場合ご本人が目の前にいらっしゃるのだ)「不敬」である。少なくとも失礼である。
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 ふつうの人だって、「山田課長」とか「山田さん」とか呼ぶだろう。「太郎さん」なんて呼べば怒る。
 女性週刊誌が「雅子様」「紀子様」「愛子様」などと書くのは仕方がない。こういう呼び方は今の天皇皇后陛下のご成婚のときのミッチー・ブーム以来だろう。我が家は親戚に字は違うが「ミチコさん」がいるので、家族で話していると「どっちのミチコさん?」と聞くことになったものだ。
 お名前を直接呼ぶのは、淵源を遡れば敗戦後に外国メディアが天皇をヒロヒトと呼ぶのに接して以来だろう。しかし、これは敗戦国の元首だから「呼び捨て」にしたというわけでもない。外国と日本では名前に対する感覚が違うのである。英国ではエリザベス、チャールズ、ダイアナなどと平気で呼んでいる。
 しかし、英国皇太子にチャールズと名付ける感覚は分からないね。今の皇太子が即位すればチャールズ3世になるわけだが、チャールズ1世と言えば1649年に首をチョン切られた人ではないか。縁起が悪いとは思わないのだろうか。

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 名前を呼ぶといえば、テレビの時代劇で「信長様」とか「一豊様」とかいうのもおかしいね。「上様」「お屋形様」に決まっているではないか。その前は源義経だったけ? あれも、たとえば梶原景時が「義経殿」と呼びかければ、それだけで喧嘩をふっかけたことになる。「判官殿」とか「御曹司殿」とか呼んだはずだ。
 今でも、たとえば全然知らない奴が電話をかけてきて「タナカイチロウさんいらっしゃいますか?」などと言うと、こちらはムッとする。向こうにしてみれば電話に出たのが本人か、息子か父親か分からないのだから仕方がないようなものだが。
 なるべく名前では呼ばないというのは、大昔のタブー意識の名残でしょう。未開人は、自分の名前を他人に知られてその名前で呼ばれると、魔法をかけられたみたいに自分の身に害が及ぶと考えたらしい。
 日本は外国に比べて遅れているのか? そんなことはない。遠慮があるのが文明というものだ。英国だって、女王様が目の前にいらっしゃる場合は、まさかElisabethとは言わない。YouやSheもなるべく使わないで代わりにYour MajestyやHer Majestyを使いますね。

 シャーロック・ホームズとドクター・ワトソンの場合は、長年の親友だから「シャーロック」「ジョン」と呼び合うかと思えば、そうはしない。「ホームズ」「ワトソン」と苗字の方で呼び合っている。あれはどういう感覚でしょうね?

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2006年9月11日 (月)

シャーロック・ホームズ、チベットへ行く(5)

 シャーロック・ホームズは、1891年、ラサに入り、チベットの支配者であるダライ・ラマ13世に謁見し、英国首相(保守党のソールズベリー)からの書簡を渡すことができた。ダライ・ラマ13世、本名トゥプテン・ギャツォはこのとき15歳だったが、きわめて聡明であった。(現在残っている13世の写真は、このときより10年ほど後のものと思われる。)

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 チベットの「近代化」を援助したいという英国の申し出はことわったが、ダライ・ラマはホームズが気に入り、三日間宮殿にとどめて英国の風物や探偵業の話を聞いた。
 ホームズはダライ・ラマの玉璽の押された通行証を与えられ、ノルウェー人シゲルソンとしてチベット国内を自由に通行できるようになった。
 海抜3000メートルを越える高地でも、ホームズの頭脳の働きはいささかも衰えなかった。彼は密室事件を解決し、雪男の謎を解く。ラサの三大寺院の一つであるセラ寺では、修道士の殺人事件を解決した。『薔薇の名前』のウィリアム・オブ・バスカヴィルを思わせる活躍だった。

 ダライ・ラマを暗殺しようという企てがあった。ホームズはセバスチャン・モラン大佐をはじめ国際的に名の通った遠距離射撃の名手5人をリストアップして、所在を確認させた。
 その中に「ゴルゴ12」と呼ばれる日本人がいたという。しかし結局この人物は登場しなかったので、我々の知っている別のスナイパーとどういう関係にあったのかは不明のままである。(しかし、これが書いてないと苦情を言うのは筋違いだろう。いくらホームズでもまだ生まれていない人物のことまでは分からない。)

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 ホームズは2年間チベットに滞在した。1893年、ホームズが去った後のチベットはどうなったか? 1933年、ダライ・ラマ13世は死去し、1935年に、二歳の少年テンジン・ギャツォが13世の生まれ変わりとしてダライ・ラマ14世に認定された。

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 ダライ・ラマ14世は1959年3月に中国の迫害を逃れてインドに亡命した。インドにチベット亡命政府を樹立し、1989年にはノーベル平和賞を受賞している。詳しくはダライ・ラマ法王日本代表部事務所のサイトで。14世は2006年11月に来日する予定である。

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シャーロック・ホームズ、チベットへ行く(4)

 ホームズはノルウェー人の探検家シゲルソンとしてチベットの首都ラサに入り、ダライ・ラマ13世(1876-1933)と数日を過ごした。
 チベットには17世紀以来イエスズ会の宣教師が訪れて布教を試みていたが、外国人の入国はきわめて困難であった。平凡社世界大百科事典の「チベット探検」の項目によると

 19世紀は清朝のチベット進駐により,チベットに入るのがもっとも難しい時代だった。イギリスのインド政庁は,パンディット(カシミールのヒンドゥー教徒)を訓練し,秘密裡にチベットの測量を行わせた。そのころチベット北部には,あいついでロシアの探検家が潜入したが,その中心人物は N. プルジェワリスキーだった。そのほか19世紀末には,W. W. ロックヒル,デュトルイユ・ド・ラン,グルナール,リトルデール夫妻,シュラーギントウェイト兄弟らが次々にチベットを探検したが,とくに大きな業積をあげたのは S. ヘディンだった。彼は1900年と1906‐08年の2回にわたってチベットを探検し,トランス・ヒマラヤを発見したが,ラサには入れなかった。ところがこの聖都ラサには,日本の河口慧海が1901年3月,単独潜入に成功し,同年末,成田安輝もラサ入りに成功した。 (長澤 和俊)

 以下ウィキペディアなどを参考にして記す。
 河口慧海(1866-1945)は黄檗宗の僧侶であったが、漢訳仏典に疑問を覚え、インドの仏典の原初形態をとどめているというチベット語訳仏典(直訳が多い)を求めて、チベットに潜入した。

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 1900年、ダラウギリ山を越えて鎖国中のチベット北西部に入った。あるときは支那人、あるときはチベット人に化け(日本人だと分かれば殺されるおそれがあった)、チベット全土を踏破し、1901年ラサに入ってダライ・ラマ13世とも何度か会っている。彼はセラ寺で修業していたが素性がばれそうになり、1902年にチベットを脱出した。
 1904年に『西蔵旅行記』を刊行した。現在は『チベット旅行記』の書名で入手可能であるが、あまりに凄い内容なので、出版当時はチベット入国自体が作り話なのではないかと疑われたほどだった。同書を河口師自身が英訳した"Three Years in Tibet"が1909年にロンドンの出版社から刊行された。

 ホームズのチベット入国は河口慧海よりも10年早かったことになり、『シャーロック・ホームズ、チベットへ行く』の意義は大きい。

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2006年9月 9日 (土)

シャーロック・ホームズ、チベットへ行く(3)

 1891年5月、ホームズはノルウェー人シゲルソンの変名で泊まっていたフィレンツェのホテルを引き払い、ナポリ港からインドへ旅立った。
 チベット国境に近いテライ地区で茶の大農園を経営しているヴィクター・トレヴァーを訪ねた。『グロリア・スコット』事件以来、17年ぶりの再会である。
 ここからラサに潜入しようというのである。当時は清朝の勢力がチベットに及び、西洋人の入国は固く禁じられていた。ホームズはインド人に化けることにした。
 ヴィクター・トレヴァーがラサ行きに同行するチベット人を紹介してくれた。ノルサン・サンボという男だ。
 水野雅士氏による原文の翻訳を見てみよう。『シャーロック・ホームズ、チベットへ行く』の25頁である。

「ひょっとして、サンボさん、あなたは衣類のご商売をしておられるのではないですか?」
「はい。反物と衣類を扱っております。トレヴァーさんからお聞きになったのですね?」
「ぼくはそんなことは言ってないよ、ノルサン」
「じゃ、どうしておわかりになったのですか?」
 彼の髪はぼさぼさで、無精髭を生やし、身なりにはほとんどかまった形跡がなかった。それにもかかわらず、衣類だけは生地のいいものを着ていたので彼は生地の良し悪しには目がきくが、みずからの衣装には頓着しない紺屋の白袴で、おまけに衣類のすそには別の種類の糸くずが、二、三本くっついていたことから衣類関係の仕事をしていることは明らかだった。……

 インドの奥地でもホームズの推理は冴えわたっている。ロンドンにいるのと変わらない。
 それにしても水野氏の翻訳は見事ですね。ぎこちない「翻訳調」は少しもない。まるで初めから日本語で書いたような自然な文章である。「紺屋の白袴」なんて、原文はどうなっているのだろう? like the shoemaker's wife who goes barefootのような英語が書いてあるのを、水野氏はきれいに意訳されたのだろう。翻訳家の端くれとして私も見習わなければ。
 
 このノルサン・サンボのほかに、英陸軍少尉ピーター・ニールセン、インド人キシェン・シンを伴って、ホームズは国境に向かう。彼は無事にラサにたどり着くことができただろうか? ポタラ宮を見ることができただろうか? 

(写真をクリックすると拡大します。)

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2006年9月 8日 (金)

シャーロック・ホームズ、チベットへ行く(2)

水野雅士氏による訳者あとがき
 故ジョン・H・ワトスン氏の遺稿のなかでも、もっとも貴重なものの一つは、大空白時代といわれるシャーロック・ホームズ氏の三年間の失踪期間における彼の行状の記録でしょう。ところがこのたび、そのうちの約二年間を占めるチベット旅行の体験談をホームズ氏自身の口から直接聞き取ったワトスン氏の記録が手に入るという、ほとんど信じられないような幸運が訳者の上に舞い降りてきたのであります。ただし、事情あって、その翻訳には現行の提供者を匿名とする条件がついていたため、ここで入手の経緯を公開できないのが残念であり、そしてそのことにより原稿の真贋に関する信憑性が貶められるのはやむを得ませんが、むしろここは、この貴重な原稿が提供された幸運を素直に喜び、信じていただける方々にだけ信じていただくよりほかはないと割りきって、これを一日も早くみなさまにご紹介することが訳者としての義務であると心得て翻訳に取り組んだのであります。いま翻訳を終えてほっとするとともに、二十一世紀になってやっと明らかになった十九世紀末の謎を、欧米に先駆けてみなさまにお届けできることを心からうれしく思います。

 2004年青弓社から刊行された翻訳には、次のような著作権表示がある。

SHERLOCK HOLMES IN TIBET
By John H. Watson
Copyright (c) John H. Watson, 1925
Japanese translation rights arranged with
A.C. Doyle Agency Inc., London

 ワトソンの未発表原稿は私も翻訳したことがあるが(トスカ枢機卿の死)、これは断片で数頁しかなかった。
 シャーロキアンとして長い経歴を持つ水野氏は、翻訳では246頁になる完全な原稿を入手されたのである。まったく「ほとんど信じられないような幸運」である。うらやましい。
『空き家の冒険』でワトソンの前に現れたホームズは何を語ったか? 

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2006年9月 6日 (水)

シャーロック・ホームズ、チベットへ行く(1)

 1891年(明治24年)5月4日月曜日、シャーロック・ホームズはモリアーティ教授と取っ組み合ったままライヘンバッハの滝壺に転落したと報じられた。しかし、実は生きていたのだった。

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「そこでぼくは二年間チベットを旅し 、ラサを訪ねてダライ・ラマと数日を過ごした。君はシゲルソンという名前のノルウェー人の驚くべき探検の記事を読んだことがあるかも知れない。しかし、あれがぼくのことだとは、夢にも思わなかっただろう」
     『空き家の冒険』(1894年4月5日木曜日)

「ぼくは最初からチベットへ行こうと考えていたわけではないんだよ、ワトスン。…………マイクロフトから『ところで、お前はこれからどうするつもりなのだ』との問い合わせがきたので、ぼくは『しばらくロンドンに戻るつもりはないが、その間どこで過ごすかはいま検討中だ』と返事を出した。すると、それからしばらくして、マイクロフトから分厚い封書が届いた。開いてみると、それは『ご苦労だが、チベットへ極秘裏に潜入し、イギリス政府の親書をチベットの支配者ダライ・ラマ十三世に届けるという任務を引き受けてはくれまいか』という依頼だった。そして『これは誰にでも頼める仕事ではなく、極めて高い能力と不屈の精神をようする苛酷な任務だが、ぼくはお前ならできると思う。もし受けてくれるなら、政府としてできる限りバックアップする』という添え書きとともに、チベットに関する様々な参考資料が同封されていた。……」
     John H. Watson, Sherlock Holmes in Tibet
    水野雅士訳『シャーロック・ホームズ、チベットへ行く』

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