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2006年10月20日 (金)

ホームズの学生生活(4)

 (承前)ところがケンブリッジでは方式が違う。新入生はふつう大学町の下宿で一年目を過ごし、場合により(カレッジ内に空き部屋がなければ)二年目もそのままということがある。この場合、オックスフォード式と違って、孤独癖のある内気な人間には同級生と友だちになる機会が少ない。だからホームズもケンブリッジでの最初の二年間は友だちがいなかった――という蓋然性が高い。彼がワトソンに実際に言った言葉は、「トレヴァーは僕がケンブリッジの最初の二年間で作った唯一の友人だった。カレッジの外に住んでいたからね」くらいだったはずだ。これをワトソンが聞き違えたのだ。あるいはOnly friend-2 yrs. out collegeとメモしておいて、あとでoutをatと読み違えたのかも知れない。こうして紛れが生じ、後生の研究者を戸惑わせることになった。あるいは、atが実はinの間違いで(during the two years I was in college.)、カレッジ構内に居住して友人なしの状態が二年続いたという可能性も面白いが、やはりこれはあり得ないだろう。友人がいなかったのは最初の二年間であり、最後の二年間ではない。さらに、カレッジの構内で最初の二年間を過ごしたとすれば、大学はオックスフォードということになるが、この仮説はブルテリアの一件からも採用できないことはすでに述べた。
 しかし仮にホームズの言葉を正確に写したのだとしても、ここで言ったことと『マスグレイヴ家の儀式』で言ったことは明らかに矛盾する。この点については、ホームズの学業を調べるときに再検討しよう。重要なのは、ホームズがトレヴァーと知り合ったころの方が「最後の二年間」よりも友だちが少なかったことである。それに友だちなしの時期がすなわちカレッジ外居住の時期だということである。彼がいたのはケンブリッジであってオックスフォードではなかったことになる。
(B)さて次はホームズがケンブリッジに何年いたのかという問題である。二年間しか在学しなかったという説は、ブレイクニー氏が『グロリア・スコット』の一節を根拠にとなえているものだが、『マスグレイヴ家の儀式』の「大学での最後の二年間my last years at the University」という言葉と矛盾する。この二つに折り合いを付けることができるかどうかを検討しなければならない。

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2006年10月18日 (水)

高名な?依頼人(5)

 そもそもillustriousという英語はどういう意味なのか? OEDを見てみよう。

illustrious, a.
1.Lighted up, having lustre or brilliancy; luminous, shining, bright, lustrous. Obs.

2. Clearly manifest, evident, or obvious. Obs.

要するに「明るい」というのが原義である。次に「明白だ」という意味がある。しかしこの二つはもうobsoleteである。今ではほとんど使われない。

3. Possessing lustre by reason of high birth or rank, noble or lofty action or qualities; distinguished, eminent; renowned, famous.

 この3.が現在の意味である。どうも「生まれがよい」とか「身分が高い」とかいうのが基本的な意味らしい。distinguished以下4語はあくまで言い換えであって、定義ではない。illustriousの代わりにたとえばfamousを使っても差し支えない場合があるが、illustrious=famousということではありません。

 リーダーズ+プラス英和辞典では
illustrious
_a 傑出した, 秀抜な, 高名な, 著名な; 輝かしい, はなばなしい〈功績など〉; 《古》 光り輝く, 明るい; 《古》 明らかな.

 定義が不備だと苦情を言うのは筋違いでしょう。この辞書は英文を読むときに当方が知りたいことが痒いところに手が届くみたいに書いてある。誰だったか「僕が王様ならこの辞書の編者に勲章をあげる」と言った人がいるけれど、賛成ですね。ふつうの単語については、ほかの辞書と照らし合わせるなど、使う方が気をつければいいのだ。

 斎藤秀三郎の和英大辞典(初版1928年)で「有名」を引いてみると

ゆうめい〔有名〕〈形〉Noted, famed, famous, renowned, celebrated, well-known (for something):(注意すべきの意味を兼ねれば)notable:(貴きの意味を兼ねれば)illustrious:(譬になっているの意味に兼ねれば)proverbial:(悪しき意味にて有名なるは)notorious 

 さすがに斎藤先生だ。illustrious=有名+貴き とずばり指摘している。もう一つillustriousの例を正典からあげておくと

  When our illustrious visitors had departed Holmes lit his pipe in silence and sat for some time lost in the deepest thought.

 このour illustrious visitorsというのは、首相のベリンジャー卿と外相(ワトソンは欧州問題相と書いている)のトレローニー・ホープ氏だった。『第二の汚点』の事件。

 illustriousという単語に「高名」という訳語を当ててピッタリ来る場合は少ないのだ。
 それでは逆に「高名」という日本語をillustriousという英語に訳すことはできるだろうか?

平山郁夫氏は高名な画家である。
?(1) Mr. Ikuo Hirayama is an illustrious painter.
(2) Mr.Ikuo Hirayama is a famous painter.

(2)は問題ない。famousの代わりに斎藤和英大辞典があげている別の単語を当ててもよい。しかし(1)は疑問だと私は思う。
"famous painter"と"illustrious painter"という単語の組み合わせはどれくらいの頻度で使われるか? これはそれぞれのフレーズをGoogleの検索窓に打ち込んでみれば分かる。
"famous painter"と入力すると、このフレーズは23万8千件ほど使われていることが分かる。ごくふつうの英語である。
"illustrious painter"は、わずか710件しかない。珍しい言い方なのだ。トップに来たサイトを見てみると、

Da Vinci is remembered mostly as an illustrious painter.

  レオナルド・ダ・ヴィンチならillustriousという形容詞を使う値打ちがあるだろう。しかし平山画伯程度では不足だと思う。ただ、これはあくまで私の評価である。「いや平山画伯はillustriousだ」と言い張る人もいるだろう。
illustriousの意味は
(1)有名+貴き、一語で言うなら「高貴な
(2)高貴でない場合は、単に高名/有名ではなく、「超高名/超有名
 ということだと思う。
   高貴が基本だから、たとえば"illustrious servant"という組み合わせはないだろう。ところが調べてみると327件ありました。たいていはillustrious servant of Godという形であって、モーゼ、ルター、イグナティウス・ロヨラなどを指す。ものすごく偉い「神の僕」である。
 illustriousと絶対に組み合わせられない名詞は何か? 色々フレーズ検索を試してみると"illustrious beggar"はさすがに0件でした。

  しかし、エドワード7世陛下と「嫁入り前の若い娘(伯爵の婚約者ではあるけれど)」とでは差がありすぎないか? どちらもillustrious clientだというのでは、ちょっと言葉の使い方が大まかすぎないか。 
 実はもっぱら陛下や殿下に使う形容詞があるのだ。augustである。正典では2回使われている。

(3)The august person who employs me wishes his agent to be unknown to you, and I may confess at once that the title by which I have just called myself is not exactly my own.

(4)He said no more, but I fancy that I could guess at that lady's august name, and I have little doubt that the emerald pin will forever recall to my friend's memory the adventure of the Bruce-Partington plans.

 (3)のaugust personは、カッセル・フェルシュタイン大公にしてボヘミア国歴代の王であるヴィルヘルム・ゴッツライヒ・ジギスモンド・フォン・オルムシュタイン陛下のことである。陛下はフォン・クラム伯爵に化けているから、自分のことをaugust personと呼んでいる。
(4)の『ブルース・パーティントン設計書』では、事件が解決してしばらくしてから、ホームズはどうやらウィンザー城で一日を過ごしたらしい。帰ってきたときはエメラルドのタイピンを着けていた。さるやんごとないレディから頂いたのだという。

Queen_victoria_bw_1

そのレディのaugust nameはワトソンにも見当がつくというのである。この名前、Victoria Reginaの頭文字をホームズは拳銃で壁に描いたこともある。
 
  このaugustという単語はだいたい「かしこし」に当たるのでしょう。首相にillustriousは使えるがaugustは使えない。
『高貴な依頼人』も本来ならThe Adventure of the August Clientとするべきところだ。しかしそれでは依頼人の正体を明かすことになるから、わざと一格下のillustriousを使ったのだ。この事件の締めくくりではsufficiently illustriousの使い方が絶妙である。

Sherlock Holmes was threatened with a prosecution for burglary, but when an object is good and a client is sufficiently illustrious, even the rigid British law becomes human and elastic. My friend has not yet stood in the dock.

シャーロック・ホームズは家宅侵入罪で告訴すると脅かされたが、目的が正しく依頼人がある程度高貴な人である場合は、峻厳な英国法も人間味と弾力性を発揮するようである。我が友はいまだに被告人席につかずに済んでいる。

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2006年10月11日 (水)

高名な?依頼人(4)

 正典にはillustrious clientという言葉がこの1902年の事件のほかに三度使われている。何という作品か当ててみて下さい。

(1) He opened the case, and there, imbedded in soft, flesh-coloured velvet, lay the magnificent piece of jewellery which he had named. 'There are thirty-nine enormous beryls,' said he, 'and the price of the gold chasing is incalculable. The lowest estimate would put the worth of the coronet at double the sum which I have asked. I am prepared to leave it with you as my security.'
  I took the precious case into my hands and looked in some perplexity from it to my illustrious client.

(2)  I have never known my friend to be in better form, both mental and physical, than in the year '95. His increasing fame had brought with it an immense practice, and I should be guilty of an indiscretion if I were even to hint at the identity of some of the illustrious clients who crossed our humble threshold in Baker Street.

(3)  "And why is he here?"
  "Because an illustrious client has placed her piteous case in my hands. It is the Lady Eva Blackwell, the most beautiful debutante of last season. She is to be married in a fortnight to the Earl of Dovercourt. This fiend has several imprudent letters -- imprudent, Watson, nothing worse -- which were written to an impecunious young squire in the country. They would suffice to break off the match. Milverton will send the letters to the Earl unless a large sum of money is paid him. I have been commissioned to meet him, and -- to make the best terms I can." 

 これくらい分からなくちゃ、ホームズ・ファンを名乗る資格はないでしょう。

(1)『エメラルドの宝冠』ですね。my illustrious clientはもちろんエドワード7世(ただしこのときはまだ皇太子)。途方もなく大きいエメラルドが39個ついた宝冠を担保にして5万ポンドを借りたのだ。何に使ったのだろう?

(2)『ブラック・ピーター』の書き出し部分。1895年の事件で正典に記録があるのは『三人の学生』『孤独な自転車乗り』『ブラック・ピーター』『ノーウッドの建築業者』『ブルース・パーティントン設計書』の5件だけ。いずれの依頼人もillustriousではない。ベアリング=グールドの考証によれば、有名な『トスカ枢機卿の死』の事件はこの年の5月か6月のことだという。依頼人はローマ法王レオ13世であったから、申し分なくillustriousである。ほかのillustriousな依頼人についても、ワトソンはメモくらいは残していると思う。探せばあるはずだ。

(3)『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』である。 レディー・イーヴァ・ブラックウェルはこれから伯爵と結婚しようという貴婦人である。こういう人がまさにillustriousなのだ。ここでもan illustrious clientを「高名な依頼人」と訳するのは駄目でしょうね。

Chas01_1

 高名=有名+偉い と定式化できると言った。しかしそれだけでは足らないようだ。
 平山郁夫画伯が「高名」なのは日本画における業績によってである。レディー・イーヴァ・ブラックウェルは別に業績などない。生まれつき偉いのである。
 こういう場合を日本語では何と言うか? どの英和辞典にも出ていないが「高貴な」で一応訳したことになるのではないか。(1)(2)(3)のいずれも「高貴な依頼人」と訳しておけば間違いないでしょう。
 しかし、そもそもillustriousという英語はどういう意味なのか? (続く)

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2006年10月 6日 (金)

高名な?依頼人(3)

 1902年の事件の依頼人は英国国王エドワード7世陛下であったが、ワトソンは憚って名指ししていない。事件名もThe Illustrious Clientとしたのであるが、これを『高名な依頼人』と訳すのは、何だか変だと思いませんか? 「高名な」という言葉はこういう場合に使うものだろうか。

 たとえば、192X年の帝都東京、明智探偵事務所の前に止まった自動車についている御紋章を見て

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「明智先生、依頼人の正体が分かりましたよ。依頼人は……」
「小林君、それは言わないでおこう」

 というような対話があったとして、江戸川乱歩先生がこの事件を『高名な依頼人』という題で発表するだろうか。
 陛下や殿下のことを「高名な」などと言うか?
 高名というのは有名と似ているけれど、どう違うか? (筑摩文庫版ホームズは『有名な依頼人』という題になっている。)

(1)平山郁夫氏は高名な日本画家である。
(2)*北島三郎氏は高名な演歌歌手である。

 (1)はよろしい。(2)は日本語の間違いでしょうね。北島さんは有名だけれど高名とは言えない。平山さんのように文化勲章をもらう位じゃなければ駄目だ。紫綬褒章くらいでは不足でしょう。
 高名=有名+偉いということらしい。
 陛下や殿下なら物凄く有名で物凄く偉いから高名と言ってよいかというと、それはちょっと変だ。「高貴」ではあるが、高名はおかしい。あるいは「畏れおおい」「かしこい」などの形容詞を使うべきでしょう。
 戦前は、ラジオで皇室のことを報じるには、アナウンサーが荘重な口調で「かしこきあたりにおかせられましては……」と言ったそうだ(母に聞きました)。「かしこし」は漢字では「畏し」と書くことが多いが、「賢し」と書いても別に構わない。宮中に「賢所」というのがある。「おそれ多くもったいない所」である。

 ここまではあくまで日本語の問題です。
 次は翻訳の問題。ワトソンが英語でillustriousと書いているから、辞書で引いてみると確かに「高名な」という訳語がある。それで皆さん『高名な依頼人』とお訳しになったらしい。それくらいなら高校生でもできる。プロの翻訳家なら、もうちょっと考えなくっちゃ。 
 ワトソンは何故ここでillustriousという単語を使ったのか? その辺から考える必要があるでしょう。

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