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2006年11月10日 (金)

コナン・ドイル伝(2)

第1章 ケルト人
〔父親のチャールズは、本書ではわざと曖昧に書いているが、アルコール中毒で家庭を顧みなかったから、生活は苦しかった。ドイルは11歳のときイエズス会経営のパブリック・スクール、ストーニーハースト校の寄宿生となった。ここで彼は自分でこしらえた冒険譚を学友たちに話して聞かせて人気を集めた。16歳で大学入学資格試験に合格し、オーストリアのイエズス会の学校、フェルトキルヒ校に一年間留学し、1876年にエディンバラに戻った。〕

第2章 苦学生
 ドイルはエディンバラの貧窮の暮しに戻った。父親はまだ絵を描き続け、まだ雲の中にいて、まだ子供を作り続けていた。年収は240ポンドのままだった。アーサーが勤勉に時間を空費している間に一男一女が生まれ、さらに女の子がもう一人が生まれようとしていた。上の姉はポルトガルから家庭教師の給料を仕送りしてきていた。下の姉と妹*も近々同じコースを取るはずだったが、それで家計が楽になる見込みはなかった。問題はアーサーをどうするかだった。母親が並の女性ならば、息子にすぐに金を稼がせたかも知れない。アーサーの体格があれば石炭積みか家具運びで安定した給料が見込めるはずだった。しかし母親はもっと目標が高く先のことを考えていた。エディンバラは医学で定評があるのだから、アーサーは大学にやって医者にすべきだ。帰郷の一月ほどあとに各種の奨学生の選抜試験があったので、彼は古典を猛勉強してその一つに挑んだ。間もなくグリアソン奨学金の資格を得たという知らせが届いた。2年間で40ポンドが支給されるのだ。ギリシャ語とラテン語に費やした時間も無駄ではなかったことになる。ドイル家は喜びに包まれた。ところが、いざ給付を申し込んでみると、事務手続の間違いがあったことが分かった。グリアソン奨学金は文科の学生だけが対象だったというのだ。それならば医学生向けの次善の奨学金をまわして貰えるはずだと思ったが、「それはもう候補の学生に給付してしまった」と言われた。彼の立場は微妙だった。裁判になれば勝てるはずだ。しかし、これから入学する大学を相手に訴訟を起こすのが得策だとは思えない。ドイルは憤懣を抑えて7ポンドの涙金を受け取った。

*下の姉と妹(訳注) 原文はtwo other sisters。ドイルが長男であったことは確かだが、第何子かについては説が分かれている。ジョン・ディクスン・カーの伝記では第4子。ジュリアン・シモンズは第2子としている。The Arthur Coan Doyle Societyのサイトでは第3子となっている。多分これが正しいのでしょう。しかし西洋ではどうやら姉と妹の区別はあまり重視されないらしい。

 1876年の10月にエディンバラ大学に入学すると、自伝によれば「長く退屈な勉強が始まった。植物学、化学、解剖学、生理学など必修科目はむやみに多く、その大部分は治療の技術とは無関係だった」。ここで味気ない課程の詳細を述べる必要はないだろう。退屈な学科の勉強とは無縁の読書が唯一の慰めだった。彼は医学書よりも、サッカレーの『ヘンリー・エズモンド』、メレディスの『リチャード・フェヴァレルの試練』、ワシントン・アーヴィングの『グラナダの征服』などに読みふけった。ささやかな蔵書が少しずつ増えていった。どれも昼飯を犠牲にしてもとめたものだった。大学へ通う途中に古本屋街があった。これは本好きなら足を止めずにはいられない魅力があり、彼は毎日そのうちの一軒をのぞくのだった。ドアの外の大きな樽にぼろぼろになった3ペンス均一本が詰まっていた。3ペンスといえばドイルが昼のサンドイッチとビールに使うことができる金額である。文学か昼飯かを選ばなければならなかった。この樽に近づくたびに、若い肉体の食欲と精神の渇望の間に戦いが起こった。6度に5度は肉体が勝ったが、精神が勝利することもあった。そういうときは5分ほどかけて楽しみながら、年鑑や教科書やスコットランド神学の本などをかき分けて好みの一冊を選び出すのだった。収穫はゴードン訳のタキトゥス、ポープ訳のホメロス、アディソンの評論、クラレンドンの『イングランド反乱史』、スウィフトの『桶物語』、ルサージュの『ジル・ブラース物語』、テンプルのエッセイ、チャーチルやバッキンガムの詩集など、いずれも彼に知的慰めを与えてくれるものだった。
 ドイルは大学に入ってから新しい作家を知った。『朝の食卓の独裁者』に始まり『朝の食卓の詩人』『朝の食卓の教授』と続くオリヴァー・ウェンデル・ホームズの随筆集が彼を魅了した。「私はホームズに私淑していた。一度は面会したいというのが長年の宿望であったが、運命の皮肉と言うべきか、彼の生地を訪れたのはその新しい墓石に花輪を捧げるためであった」。ホームズの随筆の魅力は科学、特に医学の香りにあった。ドイルにはホームズの方がチャールズ・ラムよりも好ましかった。ホームズには「人生の問題を実地に知り尽くしているという感じがあって、これは妖精のようなロンドン人[ラム]にはないものだった」からである。ドイルがのちに一番有名な登場人物にこのアメリカの随筆家の名前をつけることになるのも偶然ではないだろう。ドイルの性格の際立った特徴は、単純朴訥なことであった。単純な男は得てして該博な知識に感じ入ってしまうものだが、ドイルも例外ではなかった。自分でどこまで意識していたかはともかく、ドイルにとってウォルター・スコットやチャールズ・リードの小説の魅力はこの博識という面にあった。のちにその歴史小説に影響を与えたのも同じ面だった。マコーリーとエドガー・アラン・ポーに負うところが大きいというのも同じことである。自分の人生を左右した書物は何かと問われれば、まずマコーリーのエッセイ、次にポーの小説を挙げねばならない、とドイルは語ったことがある。マコーリーは何でも知っているし、ポーに書けないことはないと彼は思った。前者の博覧強記が深遠な思想であり、後者の奇想が想像力であると、ドイルは誤解していたのである。
 このような男がエディンバラ大学の教授たちに感銘を受けたのも驚くにあたらない。彼はそのうちの2人を小説のモデルにし、そのほかにも自分の小説に登場する学者にはいずれも恐るべき知力を与えている。よほど単純で信じやすい男でなければ、大学教授などを超人的電撃的な力を持つ英雄のモデルにはしないだろう。ところがドイルの小説に登場する教授は神に近いか、さもなくば悪魔に近いのである。彼が多くの作品で詳しく描くことになる2人の学者、ベル博士(シャーロック・ホームズ)とラザフォード教授(チャレンジャー)についてはのちに述べることにして、ここでは良い教授と悪い教授の素描を一つずつ見てみよう。前者は晩年の小説『マラコット海淵』に登場するマラコット教授である。彼は「知的にはふつうの人間が近寄り難い高山の頂に住んでいる」。ところがふだんは文字通り上の空の教授が、状況次第で俄然行動の人になる。「彼はたちまち船と乗組員を掌握し、すべてを自分の意志に従わせてしまった。無味乾燥でタガの緩んだ放心家の学者は突然消え失せて、代わりに現れたのは人間の姿をした電力機械であった。生気がみなぎり、内部で激しい力が鼓動していた。眼鏡の奥の眼はカンテラの火のように輝いた」。ほかの者がうろたえ挫けてしまう危機が来ると教授は本領を発揮する。「物静かな学者は影を潜めた。今や彼は人類を意のままにしかねない超人、統率者、支配者であった。……これほど力強い人間の顔を私は見たことがない」。反対に悪魔的な学者の例は、『最後の事件』に登場するモリアーティ教授である。彼は「驚くべき数学の天才」に恵まれ、21歳のときに「2項定理に関する論文を書いて全欧州に名声を博した」。ホームズによれば、モリアーティはヨーロッパで一番頭の切れる悪人、史上最大の策略家、諸国の命運を左右する頭脳を持つ教授であり、「ワトソン、あいつは犯罪界のナポレオンだ。ロンドンの悪事の半分、迷宮入り事件のほとんどは、教授が黒幕なのだ。彼は天才で哲学者で抽象的思考に長けている。頭脳は第一級だ。本人はクモの巣の中心に坐って動かない。しかし至るところに張り巡らされたクモの糸がかすかに震えると、すぐに彼に伝わるのだ」ということになる。モリアーティ、マラコット、チャレンジャー、ホームズを創り出した人物に、エディンバラ大学の教授たちはよほど強烈な印象を与えたものと見える。

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 ドイルは当然のごとく時代の科学的風潮に感化されて、不可知論者となった。彼の気質は何か信ずるものを必要とした。気質に適うものはまず手に入るのであり、ドイルもやがて求めるものを得ることになる。しかし単純で感じやすい彼は、まず最近ダーウィンやハクスリーがもたらした新知識に圧倒された。そのすべてが、聖書の天地創造物語はとうてい科学的とは言えないこと、そしてカトリックの教える地獄はペテンであることを証明してくれたのである。イエズス会の教育の後では、これは大きな救いだった。神父の一人などは、ローマ教会に属さぬ者は永劫の地獄に堕ちるのだと言い放ってドイルを驚愕させていたからである。彼は同胞に対してもっと思いやりがあったから、そんな残忍な神を信じることはできなかった。しかしカトリックの信仰を捨てても、彼は無神論者にはならなかった。信じやすく純朴で敬虔なドイルは、宇宙の背後には善の力があるはずだという考えに傾いていたが、一方ハクスリーたちの影響で信じる前に証明を求めるようになっていた。彼は「宗教の禍害は、すべて証明できぬものを信じるところから生じる」と考え、唯物論者を自称していたが、その理由はと言えば奇妙に素朴なもので、死後に霊魂が残るとは思えないからというのだった。
 たしかに彼は霊的には見えなかった。21歳のドイルは身長6フィートをこえ、髪は茶色、眼はグレーで、肩幅が広く、胸囲は43インチあった。体重は「素裸で16ストーン[102キロ]をこえ」、力は雄牛のように強かった。彼はこの時期の自分の姿を出版された最初の長編小説『ガードルストーン商会』でおそらく無意識に描いている。「長く引き締まった脚と筋肉質の太い首の上の丸く力強い頭部は、アテネの彫刻家には恰好のモデルとなっただろう。しかし顔には整った東方の美はなかった。純朴そうな離れた眼といい、生えかかった口髭といい、これはあくまでアングロサクソンの目鼻立ちであった。……内気ではあるが力強く、整ってはいないが感じがよく、いかにも寡黙で口下手な男の顔であった。しかし世界地図を英国領の赤に染めてきたのは、能弁家などではなくこのような男だったのだ」。このような男はもちろんスポーツマンだった。ドイルは相手さえあればボクシングをする機会を逃さず、それに一時は大学のラグビー・チームでフォワードを務めた。時間があるときはずいぶん勉強もしたはずだが、グローブをはめて一勝負する機会があれば医学書などは放り出したようである。「私は少しでも面白いことは逃してなるものかと思っていたし、また大いに楽しむ能力があった。本はたくさん読んだ。スポーツはできるかぎり何でもした。ダンスもしたし、ポケットに6ペンスあれば天井桟敷で芝居を見た」。ドイルはヘンリー・アーヴィングのファンになり、『ハムレット』や『リヨンの密使』など彼の主演する芝居をよく見に行った。当時は観劇でさえも危険が伴ったので、あるとき彼の力と勇気が試されることになった。天井桟敷のドアの外で開演を待つ客がひしめいているとき、一人の兵隊が少女を壁に押し付けて悲鳴を上げさせた。ドイルがこの男をとがめると、相手は彼の脇腹を殴ってきた。二発目が来る前にドイルは兵隊の顔に左右のパンチを見舞った。兵隊は彼をドアの角に押し付けて蹴ろうとしたが、ドイルは相手を掴まえて放さなかった。そのうちに状況が緊迫してきた。兵隊の仲間が敵対行動を開始し、一人がステッキでドイルの頭に一撃を加えて帽子を叩きつぶしたのである。幸いにもこのときドアが開いたので、彼は相手を中に突き飛ばした。自分も中に入るのは少々剣呑だと思ったので、6ペンスは次の機会に取っておくことにして、彼はそのまま家に帰った。

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