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2006年11月11日 (土)

コナン・ドイル伝(3)

 その6ペンスは自分で捻出しなければならなかった。それに家計を助ける必要もあったので、彼は医者の助手の仕事を探した。このために1年分の単位を半年で取り、空いた時間で助手をすることにして求職の広告を出した。まだ知識も足りないし経験を積む必要もあると思ったから初めは無給で働くことにしたが、最初にドイルを雇った医者は彼の働きをただ以下と評価したようである。1878年、シェフィールド市の貧民階級の間で3週間を過ごしてから、彼はロンドンに出てメイダヴェールのクリフトン・ガーデンズにある親戚の家に泊めてもらった。彼は数週間一文無しでロンドンをうろつき、よく港に行って荷卸しを見物し、世界中を旅してきた水夫たちと話した。彼は冒険にあこがれていた。母の苦労を思わなかったら、トラファルガー広場で彼の体格を見込んだ新兵徴募係の軍曹に勧誘されるまま、「女王の1シリング」を受け取って〔兵役契約の印として1シリング貨を志願者に与えた〕陸軍に入っていただろう。それにドイルはこの年「露土戦争中のトルコに派遣される英国救急隊に外科助手として志願した」のであるが、これはまもなくトルコが負けてしまったので実現しなかった。彼は小遣い銭がないことに屈辱を感じていた。「つまらぬことで色々と差し障りがある。貧しい男が何かしてくれても心付けもやれないから、しみったれと思われてしまう。女の子に花一つ買ってやれないから、無粋な男と思われても仕方がない。恥じる必要はないはずだ。自分の落ち度ではないのだから。実際、恥じているなどと人には悟らせないが、それでもひどく自尊心が傷つく」。若い男には体の発育に心の成長がついて行かない時期があるものだが、ドイルもそういうやっかいな段階にあった。「ひどく内気になって尻込みするかと思えば、反動でむやみに大胆になる。親しい友情にあこがれる。侮辱を受けたと思いこんで苦しむこともある。異常な性的不安を覚え、ありもせぬ病気を怖がる。女すべてに対して何かやるせない気持がするし、一人一人の女にはおびえの混じったときめきを覚える。臆病になってたまるかと思うからむやみに攻撃的になり、突然憂鬱になって深い自己不信に陥る」
 次の仕事は、シュロップシャー州のライトン・オブ・ジ・イレブンタウンズという小さな村だった。ここには4ヶ月いたが、ほとんどすることはなく、大部分の時間を読書で過ごした。しかし彼の医術はここで初めて試された。村の屋敷の庭で祝い事の最中に古い大砲が破裂して、そばに立っていた男の頭に破片が突き刺さったのである。半狂乱になった村人が知らせに来たとき医者は不在だったから、ドイルは一人で現場に駆けつけた。彼は驚きを隠して男の頭から鉄片を摘出した。白い頭蓋骨が見え、傷は脳には達してはいないと分かってほっとした。「私はすぐに傷を縫合し止血して包帯してやったから、ようやく医者が来たときにはもうすることがなかった。この出来事で私は自信を持ったが、それよりも大事なことは村人の信頼を得たことだった」
 このあと、ようやく「本当に金になる仕事」があった。長時間の重労働だった。バーミンガム市アストンの最貧階級の患者のために処方箋に従って調剤する仕事で、これは果てしなく続くように思えたが、収入は月に2ポンドほどになった。「まず大した間違いはしでかさなかった。もっとも、薬箱の表に服用法を詳しく書いておいて、中身は空っぽのまま患者に持たせてやったこともあるが」。医者とその妻はこの助手が気に入って息子のように扱ってくれた。彼はその後も2度ここで助手を務めて下層階級の生活を知った。彼は調剤を一人でこなし、やがてお産を手がけ、全科診療としては比較的重症の患者も引き受けるようになった。
 バーミンガムにいる間にドイルは小説を書き始めた。もともと書きたいという気持ちは強かったのである。彼の手紙の生き生きとしているのに感心した友人が小説を書いてみたらどうかと勧めてくれたので、ドイルは『ササッサ渓谷の謎』という冒険物を書き上げ、『チェインバーズ・ジャーナル』誌に送ってみた。そして驚いたことに3ポンド3シリングの原稿料を受け取ったのである。続けて同じ雑誌に何度か送った原稿は没になったが、彼は挫けなかった。彼は「一度はうまくいったのだからまた出来るはずだと自分を励ました」。二編目の小説『アメリカ人の話』は、1879年に『ロンドン・ソサイアティ』誌に載った。わずかでも原稿料が貰えたのはありがたかったが、これで作家になれるという気はしなかった。自分に「本格的な文章が書ける」とはとうてい思えなかったのである。
 しかし家計は相変わらずだったから、処方箋を出す資格を得るまでは、ともかく何か書く必要があった。父親がとうとう療養所*に入ってしまったので(彼はここで1893年まで生きた)、ドイルは20歳で貧困に喘ぐ大家族の家長となった。姉2人と妹はそれぞれ乏しい給料を切り詰めて仕送りして来ていた。彼も自活するためにできる限りのことをしたが、家計を支えるにはこれだけでは足らない。ところが1880年の初め、偶然にうまい話が舞い込んだ。ある日の午後、彼がエディンバラの自室で「医学生の生活に暗い影を落とす試験の一つ」に備えて勉強していると、カリーという知り合いの医学生が訪ねてきた。捕鯨船の船医をやってみる気はないかというのだった。月給は2ポンド10シリングで鯨油1トンにつき3シリングの歩合がつくという。カリーはいったんこの仕事を引き受けたのだが、間際になって行けなくなったので誰か代わりを探していたのである。ドイルはためらわなかった。カリーの道具一式を譲り受けて2週間後にはピーターヘッドの港に行き、2月28日に200トンの捕鯨船ホープ号に乗り組んで出航した。航海は7ヶ月にわたったが、その間医者として腕をふるう機会はほとんどなく、ドイルの仕事は主に船長のお相手をして刻み煙草がなくなれば補充してやることだった。実に気楽な生活だった。あるとき、料理人がラム酒で酔っぱらって3度続けてひどい食事を出した。腹を立てた船員が真鍮のシチュー鍋で彼の頭を殴りつけると、底が抜けて鍋の縁が襟巻のように首の回りを飾ることになった。ここではドイルのボクシングの腕が役に立ち、彼は人気者になった。航海第一夜に彼は司厨長のジャック・ラムと手合わせしたが、ジャックはあとで一等航海士のコリン・マクリーンにこう報告した。「今度の船医のドイルは最高だぜ。俺の眼にあざを付けやがったんだからな」。彼がジャックにしてやったことはこれだけではなかった。一等航海士がヘマをして逃がしてしまった鯨のことにジャックが触れるたびに(もちろん二人とも酔っていた)、ドイルが流血の惨事を防いだのである。酒が入ると航海士は凶暴になり、ジャックは議論好きになった。ジャックが「あの鯨は……」と言いかけるとコリンが襲いかかった。ドイルが何とか二人を引き分けて話題を変えようとするのだが、ジャックは一息つくとまた始めた。「よう、コリン、別に悪気はねえんだが、あんたがもうちょいとすばしこかったら、あいつ……」その先はなかった。「あいつ」まで来ると決まって航海士が相手の喉頸に掴みかかったからである。ドイルがすぐさま航海士の腰にしがみつき、三人とも疲労困憊して動けなくなるまでもみ合いが続いた。ジャックはきれいなテノールの声を持っていて、配膳室でナイフや鍋を洗いながら女を主題にした感傷的な歌を歌った。これはドイルを「甘い何か満たされない気持」にした。ジャックはその後もう少し穏やかな暮しに入った。彼はヴィクトリア女王専属のパン屋になって、ときどきドイルに「わが親愛なる旧友へ」で始まる手紙をよこした。

*療養所(訳注) ドイルの父はアルコール中毒で精神科の療養所に入ったのだが、もちろんまだ遺族が存命の1943年の時点でこれをはっきり書くわけには行かなかった。ディクスン・カーのドイル伝(1949年)でもアルコール中毒のエピソードは省いてある。ジュリアン・シモンズのドイル伝(1979年)には、「チャールズ・ドイルは癲癇持ちで、アルコール中毒であったといい、40代後半で土木庁の仕事を辞したあとは、1893年に亡くなるまで、ほとんどの期間をアルコール中毒の療養所と精神病院で過ごしている」とある(創元推理文庫版pp.39-40)。

 4月初めにアザラシ狩りが始まった。ドイルはこれがいやだった。「残酷な仕事だった。考えてみれば、国では毎日食卓に出るものを供給するのに同じ残酷な仕事が行われているのだが。それにしても、白く輝く氷の上、北極の静謐な青空の下に、真っ赤な血の池ができるのである。これは実に恐ろしい光景だった」。ある日、海はうねりが強く氷がぶつかり合っていた。ドイルは船長から、君はまだ慣れていないのだから船に残っていろと言われていた。臍を曲げた彼は舷側から足を垂らして坐っていたが、大波が来て船が大きく傾くと、海に落ちて氷塊の間に姿を消した。海面に浮かび上がった彼は何とか甲板に這い上がった。これを見た船長は、どうせ落ちるのなら「船にいても氷の上にいても同じことだ」と言った。彼はその日のうちにさらに2度海に落ち、不漁を嘆いていた船長を大いに楽しませた。ドイルはその後も氷から落ちて、一度は危うく死ぬところだった。アザラシの皮剥ぎをしていて何気なく一歩後退すると、そこは海だったのである。このときは仲間と離れていたから誰も気づいてくれなかった。「氷の表面はつるつるで、体を引き上げようにも手がかりがない。凍るほど冷たい海水でたちまち全身が麻痺し始めた。しかしようやくアザラシの死体の後ろビレに手が届いた。悪夢のような綱引きが始まった。アザラシを海に引きずり込んでしまうか、這い上がれるかだ。しかしついに氷の縁に片膝が乗り、これを支点に氷の上に転がった。船に着いたとき服はかちんかちんに凍ってまるで鎧だったから、着替えるにはノコギリで挽き切らねばならなかった」
 6月になると船は鯨を追ってさらに北上した。獲物は3ヶ月で4頭しかなかったが、ドイルは鯨獲りに大変な手腕を発揮したので、船長は、来年もホープ号に乗ってくれるなら今度は銛打ち兼船医として二人分の給料を払うと申し出た。 Harpooner_2_1
冒険は好むところだったし北極の「この世のものとも思えない感じ」は魅力だったが、これは断らねばならなかった。しかし北極での経験は生涯忘れられないものになった。まばゆく輝く氷、濃紺の海、淡青色の空が心に焼き付いた。空気は冷たく澄んで爽快だった。北極はずっと白夜だったから、船が南下してきて久しぶりに見た星の瞬きも忘れられなかった。無数の海鳥が鳴き、アザラシが人間みたいな唸り声を上げた。見渡す限りの氷原に胡椒粒をまいたようにアザラシが散らばっていた。白熊がのしのしと歩き回った。鯨が鉛色の巨体を輝かせて海面から跳び上がった。ほとんど頭上に浮かんだ鯨の巨大なヒレを見て、あれで一打ちされたらボートは海底に沈むのだと思うと身震いがした。 未知の世界の縁に立っているのだという気がした。スコットランドの北の沖まで戻って来て、半年ぶりに見た女の姿も忘れられなかった。灯台のそばに立っていたのは、短いスカートに防水長靴姿の50過ぎの女だったのだが。ドイルは健康ではち切れんばかりになって帰ってきた。50枚の1ポンド金貨は、「母が探して楽しめるように」あちこちのポケットに隠していた。

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コメント

お久しぶりです。ピアソン『ドイル伝』の連載楽しみです。
情報を一点。

Georgina Doyle"Out of the Shadows"Calabash Press(2004)掲載のドイル家系図によるとコナン・ドイルは第三子
です。

 アネッテ(1856-1890)
キャサリン(1858-1858)
アーサー(1859-1930)
※以下略。

ジョージナ・ドイルはコナン・ドイルの甥ジョンの未亡人。
"Out of Shadows"はドイルの長女メアリに焦点を当てた
ドイル家の伝記。チャールズのアルコール症による入院に
ついてもそれなりに頁を割いています。以上ご参考まで。

投稿: 熊谷 彰(えふてぃ改め) | 2006年11月11日 (土) 13時12分

ありがとうございます。クリスティーズで売り立てがあった資料を使ってまた新規にコナン・ドイル伝を書く人が出てくると思います。

投稿: 三十郎 | 2006年11月11日 (土) 17時41分

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