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2006年11月12日 (日)

コナン・ドイル伝(5)

 やがてドイルは卒業試験の恐怖を味わうことになった。戦々兢々ではあったが、口頭試問の前の情景はやはり喜劇だった。学生たちは控室で順番を待っていた。「彼らがいかにも自信がある、不安などないというふりをしてみせるのは痛々しかった。天気が気になるとでもいうように空を見上げたり、壁に刻まれた大学の沿革などをさも興味深げに見つめたりするのだ。もっと痛々しいのは、誰かが思いきってつまらぬ冗談を言うと、みんなが一斉にこれ見よがしにしゃべり出したことである。危機にあってもユーモアだけは忘れないぞというつもりなのだ。ところが誰かがちょっと試験のことを口にしたり、あるいは昨日ブラウンなりべーカーなりがこれこれの問題を聞かれたなどと言おうものなら、無頓着の仮面はすぐに剥げ落ちて、全員が黙ってその男を見つめるのだった」。なかには意地の悪い学生がいて、むやみに難しい問題を持ち出してこれが試験官の十八番なのだと言ったりした。たとえば
「おい、カコジルのことは知っているか?」
「カコジルだって? 大昔の爬虫類か何かだろう」
「違うね。有機物だ。爆発性の化合物だよ。カコジルのことを聞かれるぜ」
 こう言いい捨てておいて、まごついている相手を置き去りにするのである。
 ドイルは1881年に卒業試験に合格したが、成績は「まずまずのところで、優等ではなかった」。その年の8月に医学士号、1885年には博士号を得た。彼はまず船医としてスタートするつもりだったが、これは世の中を見ておきたいということが一つ、また開業資金を貯めるつもりもあった。それで客船の船医の口を探したが、2ヶ月ばかり何も手がかりがなかった。いっそ陸軍か海軍かそれともインド政庁にでも入ろうかと思っていると、月給12ポンドでアフリカ蒸気航海社の汽船マユンバ号の船医のポストがあるという電報が届いた。ドイルは1881年10月22日にリバプールから出航し、アフリカ西海岸の港から港へと航海する船に乗って生涯でもっとも惨めな4ヶ月を過ごした。マユンバ号は4000トンの小綺麗な貨客船で、雑多な貨物と20人ほどの乗客を乗せていた。ドイルは初めに乗客と乗組員全員の命を救うという手柄を立てた。船は強い追風を受けて霧の深いアイルランド海を進んでいたが、ドイルは霧の裂け目を通して左舷に灯台が迫っているのに気づいた。海岸からはもっと離れているはずだと思ったが、新米として笑われたくはなかったから、彼はちょっと参考までに聞いてみるという調子で一等航海士に尋ねた。「あそこに灯台が見えるようですが、これでいいんですか?」よくはなかった。航海士は仰天して跳び上がり、船は大騒ぎになった。真っ直ぐ岩に突っ込んで行くところだったのだ。船客には白人の女と黒人の貿易商がいて、黒人どもはお得意さんなので大事にしなければならなかった。彼らは椰子油を売る酋長で金持ちであり、酒と女に金を使っていた。ドイルによれば、そのうちの一人には「リバプールの夜の女の中でも特により抜きの連中が見送りに来ていた」
 航海は初めのうち荒天でみんなが船酔いしたので、ドイルは忙しかった。しかしさらに南下するとずいぶん楽になり、マデイラ諸島やカナリー諸島を楽しむことができた。船はシエラレオーネのフリータウンに寄港した。ここでは白人たちが美しい自然のなかで早死して行くのだった。さらにリベリアの首都に寄り、こうして酷暑の中を白波の立つ平板で単調な果てしなく続く海岸に沿って進んで行った。当時の貿易はかなり乱暴なものだった。「あるとき黒人を100人ほど甲板に乗せたまま出航してしまった。黒人どもが海に飛び込んでカヌーまで泳ぐのを見ているのは面白かった。一人などは、シルクハットと蝙蝠傘と大判のキリストの彩色画を持っていた。これは全部、船員が前部甲板に設けた売店で買い込んだものだった。これだけ邪魔物があっても、この男は無事にボートまで泳ぎ着いた。別の港では時間がなかったので、積んできた樽板を全部海に放り出した。そのうちに岸に流れ着くだろうというのであったが、本当の持ち主がどうやって所有権を確保したのかは分からない」。ラゴスまで来て、船は船医を欠くことになった。ドイルは蚊に刺されてマラリアにかかったのである。彼は船室のベッドに倒れこんで意識を失った。「自分が船医なのだから看病してくれる者などなく、それから数日間、私は死神を相手に狭いリングでセコンドもなく戦うはめになった」。彼が戦っている間にもう一人の乗客も倒れた。しかしドイルは体力があったので持ちこたえ、1週間後には快方に向かった。ナイジェリアのカラバルでは、仲間と二人でカヌーに乗り込んで上流のクリークタウンまでマングローブの沼地を漕いで行った。ここはもう黒人の国だった。酋長は白人が来ていると聞くとすぐに伺候せよと命じたが、二人は来たときよりもはるかに速く船まで漕いで戻った。黒人が海で泳いでいるのを見て白人たる者が負けてたまるかと思ったから、ガーナのケープコースト・カースルでは船の周りを泳いだ。一泳ぎして甲板で体を乾かしていると、サメの大きなヒレが見えた。どうやら水音を聞いてドイルを見に来たらしい。彼は少々寒気を覚えた。
 ある日、激しい雷雨の中で船尾甲板に立っているとき、ドイルはこの航海を最初で最後にするのだと決意した。船の生活は若く野心のある男には快適すぎる。もう一度航海すれば気楽な船医暮しから一生抜け出せなくなる。医者で身を立てるにはこれから大奮闘しなければならない。遍歴も1年なら結構だが2年となると致命的だ。こう思ったので船医は辞めることに決め、航海中もう蒸留酒は飲まないことにした。アフリカの危険も船の贅沢もうんざりだった。彼は日記に詩を書きつけた。

  アフリカよ、汝が顔に賢者の見たる
  妖しき魅力、今いずこ
  怖しき彼の地に長者たらんより
  懐かしき家郷にありて物乞いせん

 帰路は、往路にビーズや蝙蝠傘などをばらまいてきた港々から今度は椰子油や象牙などを積み込んで帰るだけだったが、最後の週に船が火事になって思わぬ活気がもたらされた。初め2,3日の間は誰もが軽く考えていたが、くすぶっていた煙が炎を上げ始めると深刻な事態だと分かった。全員で12時間以上奮闘したが、鉄の舷側が1時間ごとに熱くなり、とうとう赤く焼けてきた。救命ボートで脱出する準備が始まったが、夕刻になって危険は去り、「あちこちに上がっていた煙はようやく消えかかった」。船は1882年1月14日にリバプール港に着いた。
 アフリカ西海岸やマユンバ号の雰囲気は文学を語るにふさわしいものではなく、ドイルは自分が航海中に知的にも精神的にも向上したとは思わなかった。ただ、リベリアの首都モンロビアに寄ったときは、アメリカ領事を務める黒人とモトリーの歴史書を論じたりした。この黒人は、アフリカを旅行するなら武装しないで来てもらいたいと言うのだった。「完全武装の一団がイギリスを押し渡ったりしたら英国人はいやでしょう。アフリカ人だって同じです」。熱病で死にかけていた若いフランス人は診察料の代わりにフラマリオンの『大気圏』をくれた。この二つの挿話を除いては、ドイルは知的栄養を携えてきた書物に、特にそのうちの一冊に求めなければならなかった。4半世紀後に自分の蔵書を見渡して、彼はその一冊の書名を明らかにしている。「あそこに並んでいる本のうちから私が最大の喜びと最大の利益を得た一冊を選ぶとすれば、あの染みの付いたマコーリーの『史論集』ということになるだろう。振り返ってみれば、あの本は私の全生涯と結びついているのだ。学生時代には常に伴侶であったし、酷暑の黄金海岸でも手元にあった。北極洋に捕鯨に出かけたときも忘れずに持って行った。スコットランド人の銛打ち連中にも読ませたものだ。あの油の染みは、二等機関士が『フリードリヒ大王伝』に取り組んでいたときに付けたものだ」

Doyleyoung

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