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2006年11月13日 (月)

コナン・ドイル伝(6)

第3章 ドクター・バッド

 バッドは大学を終えるとエディンバラから姿を消して手紙ひとつ寄越さなかったから、ドイルは何ヶ月か彼の消息を知らなかった。ところが1881年春のある日、ブリストルから電報が届いた。「スグコイ至急オマエガ必要バッド」。ドイルはバッドの父親がブリストルで有数の開業医だったことを思い出し、彼が亡父の跡を継いで開業しているのだと思った。ドイルはそのころバーミンガムで働いていたが、すぐにブリストルに向けて発った。バッドが仕事を紹介してくれるのだと思ったのである。駅のプラットフォームにバッドが出迎えた。例によって帽子をあみだにかぶり、チョッキのボタンは外したままだったが、珍しいことに首にはカラーを付けていた。彼は大声でよく来たなと言うとドイルを客車から引っ張り出し、鞄をひったくって通りを急がせた。その間ありとあらゆることをまくし立てたが、電報を打った理由だけは言わない。話がフットボールから自分の最近の発明に飛ぶと、バッドはたちまち興奮して身振り手振りの邪魔になる鞄をドイルに返して寄越した。
「おい、ドイル、鎧が使われなくなったのは、なぜだと思う? 知らんだろう。教えてやろう。立っている人間の体をぜんぶ鉄で覆うのでは重すぎて動けんからだ。しかし最近は戦争も立ってはしなくなった。歩兵はみんな腹這いになる。だからそう大げさなものは要らんはずだ。それに鉄も進歩したんだ。冷硬鋼とかベッセマー鋼とかは知っているな。さて、ドイル、歩兵一人覆うのに鉄がどれだけ要ると思う? 14インチに12インチの鉄板を2枚、V字型に張り合わせたものがあればいいのだ。敵が撃ってきても弾はみんな斜めに当たって逸れてしまう。片方の鉄板にはライフル射撃用の穴を開けておく。これでバッド式携帯防弾盾が一丁出来上がりだ。重さか? 16ポンドだ。ちゃんと計算したんだ。中隊ごとにこの防弾盾を荷車に積んでおく。いざ戦闘となれば一人ずつに配ればいい。射撃のうまい兵隊を2万人も俺に預けてみろ、カレーから上陸してたちまち北京まで行ってみせるぞ。おい、士気を考えてみろ。こちらの撃つ弾は百発百中だ。ところが相手がいくら撃ってきても弾は鉄板をかすめるだけだ。無敵の軍隊ができあがるぞ。一国が先にこれを採用すれば、たちまち他の国を駆逐してしまう。だからヨーロッパ中の国が採用せざるを得ない。さて、いくらになるか、ちょっと計算してみろ。兵隊の数は、そうだな、戦時編制でまず800万といったところだろう。そのうちの半分がこれを採用するとする。半分というのは、あくまで内輪に見積もってのことだ。それでも400万人分だぞ。卸しで1セット4シリングの特許料を取るとする。いくらになると思う、ドイル。ほぼ75万ポンドだぞ。どうだ」
 これはのちにドイル自身が展開することになるアイデアであった。バッドはときどき間を取り、ささやき声になるかと思えば急に声を張り上げ、ドイルの背中をどやしつけ、肩をすくめ、大声で笑い、芝居気たっぷりに語ったのである。
 やがて庭つきの大きな家に着くと、膝丈の赤いビロードのズボンをはいた召使がドアを開けた。これは金には不自由していないらしいとドイルは思った。バッド夫人は青白い顔でやや疲れているように見えた。造作はいかにも由緒ありげだった。三人は騒々しい夕食を取り、ドイルは食料品店の二階の夜を思い出した。食事中は、ドイルをブリストルまで呼び寄せた「至急」の用件には誰も触れなかった。食後三人は狭い居間に移り、男二人はパイプ、バッド夫人はシガレットに火をつけ、しばらく黙って煙草をふかしていた。すると突然バッドが立ち上がりドアに駆け寄って開け放ち、立ち聞きしている者がいないことを確かめるとドアを閉めて椅子に戻った。彼はひどく疑り深く、他人が陰謀を巡らせスパイを働いているに違いないと信じ込んでいた。ひとまず懸念を払拭してしまうと、彼はドイルに秘密を打ち明け始めた。
「ドイル、お前に言いたかったことがある。俺はもう破産だ。一文無しで、お先真っ暗で、もう取り返しがつかんのだ」
 ドイルは椅子を後に傾けてのんびりと坐っていたが、転げ落ちそうになった。
「がっかりしたか。まさかこんなことを聞くとは思わなかっただろう」
「いや、驚いたよ」ドイルは口ごもった。「何しろ……」
「うん、家を見ても、召使を見ても、家具を見ても、まさかと思うだろう。ところが問題はそこなんだ。そういうものに金を使い過ぎてスッカラカンになったのだ。俺はもうだめだ。もっとも……もっとも誰か友達が名前を貸してくれて、印紙を貼った紙にちょっとサインしてくれれば……」
「それはできないよ、バッド。友達の頼みを断るなんてひどいとは思う。俺だって金さえあれば……」
「誰が金を貸せと言った」とバッドは怒鳴った。眼は敵意に光っている。「それに、お前、金はないし入る見込みもないんだろう。じゃ、お前の名前なんぞ書いてもらっても何の役に立たんじゃないか」
「俺もそう思う」とドイルはつぶやいたが、それでも少々悔しかった。
「おい、あのテーブルの左の方に手紙がたくさんあるだろう」
「うん」
「あれはみんな督促状だ。右側にも書類があるだろう。あれは郡裁判所の召喚状だ。それから、これはどうだ」と言って彼は帳簿を取り出した。初めのページに3人ばかり名前が書いてあった。「俺の患者はこれで全部だ」バッドは額に血管が浮き出るまで笑い、バッド夫人が同感を示すように笑いに加わった。やがて気を取り直したバッドは、こう続けた。「つまり、こういうことだ、ドイル。お前も聞いていると思うが、いや確かお前には話したはずだったな、親父はブリストルで一番流行る開業医だった。俺から見ると親父はかなりのヤブだったが、それでも立派にやっていた。しかし死んでもう7年になるから、縄張りはすっかり荒らされている。それでも、卒業したときに俺は考えたね。ここに戻って来て昔の患者をもう一度集められたら、それが一番いいんじゃないか。バッドという名前にはまだ価値があるはずだと思ったのだ。しかし、やるとなったら中途半端ではだめだ。何でも徹底的にやらなくちゃならん。親父の患者はみんな金持ちだから、立派な家構えにお仕着せの召使がいなくちゃだめだ。張出窓付きの年40ポンドの貸家で、みっともない顔の女中にドアを開けさせるなんてことをしてみろ、誰も寄りつかなくなる。それで俺がどうしたと思う? 親父の昔使っていた家が空いていたのを借りたんだ。年に5000ポンドからの上がりがあった場所だぞ。準備は万端整えた。最後の一文まで家具調度につぎ込んだ。ところが、全然だめだった。もうこれ以上は持ちこたえられん。怪我人が二人、てんかんが一人、合計で22ポンド8シリング6ペンス、これで全部だ」
「それで、どうするつもりだ」
「そこだよ、お前のアドバイスが聞きたいのは。だから電報を打ったんだ。俺は昔からお前の意見を頼りにしてきた。今こそお前に聞くべき時だと思ったんだ」
 こう言われて悪い気はしなかったが、今となってはアドバイスも手遅れではないか。
「本当にもう、ここでは持ちこたえられないのか」
「俺の失敗を他山の石にしろということだ、ドイル。お前はまだこれから始めるんだからな。一つ大切なことを教えてやる。いいか、誰もお前のことなんか知らない土地へ行け。知らない人間ならすぐに信用してくれる。ところが、こちらがまだ半ズボンのガキだったころを知っている連中は困る。スモモを盗んでヘアブラシでお尻を叩かれていたことなんぞを覚えているから、俺に命を預けようという気にはならんのだ。口先では友情だとか縁だとかきれいごとを言うが、いざ腹でも痛いとなったら誰だってそんなものには洟も引っ掛けない。『患者が欲しければ初めての土地へ行け』と教室の壁に金文字で書いておくべきだ。いや、大学の門に彫り込んでおくべきだ。ここではもうだめだ。だから、もう少しがんばれなどと言ってもむだだ」
 バッドの債務が総計700ポンドになること、家賃が200ポンドであること、家具にもかなりの金をつぎ込んでいること、そして現金は全部で10ポンドしかないことを確かめると、ドイルは、債権者を集めて洗いざらい打ち明けたらどうかと勧めた。「お前は若くてエネルギーがあるから、遅かれ早かれ必ず成功する、これは連中にも分かるはずだ。今ここでお前を追いつめてしまえば一文も回収できない。このことをよく分からせるんだ。よそで新規まき直しに成功すれば、全員に借りただけのものを完済できるじゃないか。それ以外に道はないと思うよ」
 バッドもどうやら同じ意見のようだった。「お前ならそう言うと思っていた。実は俺もそのつもりだったのだ。よし、じゃ、それで決まりだ。お前のアドバイスは実にありがたいと思っている。今夜はもうこの話はおしまいだ。俺は勝負に出て失敗した。この次は必ず成功する。それもそんなに先のことじゃない」
 二三分後には、バッドはウィスキーを飲みながら督促状や召喚状のことなどすっかり忘れたようにしゃべり始めた。ところが何杯か飲むと、例によってアルコールの効き目が出てきた。バッド夫人が席を外すとバッドは話題をボクシングに向け、3ラウンドばかりどうかねと言い出した。ドイルはボクシングとなるとどうしても誘惑に勝てず、グローブをはめた。二人はテーブルを部屋の隅に片付けランプを棚に上げておいて向かい合った。ドイルはすぐに自分の間違いを悟った。バッドの眼の凶悪な光が言葉よりも雄弁に語っていたのは、連帯保証人を断られたのを根に持っていることだった。ドイルは友達同士軽くスパーリングをするつもりでいたが、バッドは猛烈な勢いで突進してきた。強烈な左右のパンチでドイルをぐらつかせてドアに追いつめると、激しい連打を浴びせかけてきた。ものすごい右が来て、当たれば勝負がついてしまうところだったが、ドイルは何とかかわして間合いを取った。
「おい、これじゃ、まるで喧嘩じゃないか」
「うん、俺のパンチは強いからな。どうだ」バッドは平気な顔で言った。
「そっちが突っかかってくるなら、俺もやり返すぞ。おい、軽くやろうじゃないか」
 言い終わらないうちにバッドはまた突進してきた。サイドステップで避けたが、すぐに回り込んでまた激しく打ちかかってきた。バランスを崩したところに耳とボディーに一発ずつ食らった。椅子につまずいて体勢が崩れ、耳にもう一発パンチを受けた。耳鳴りがした。
「どうだ、参ったか」とバッドは得意そうに言った。 
 参ったどころか、ドイルはお返しをしてやるつもりだった。今度は攻撃に備えていたから、出てくる相手の鼻に左を喰らわせておいて顎に右ストレートをたたき込むと、バッドは床にひっくり返った。
「この野郎」バッドは怒鳴った。顔は憤怒に引きつっている。「おい、グローブを外せ。素手で来い」
「馬鹿野郎」ドイルは上機嫌で答えた。「喧嘩かなんかする理由がないだろう」
「おい、ドイル」バッドはわめいてグローブを投げ捨てた。「お前がどうでも、俺は素手で行くぞ」
「ソーダ水でも飲め」とドイルは言った。
「俺が怖いのか」バッドはあざけった。「怖じ気づいているんだ」
 ドイルはグローブを外した。そのときバッド夫人が入ってきた。
「ジョージ!」バッドは鼻血で顔の下半分が血まみれになっている。彼女は振り向いて叫んだ。「これはどういうことですか、ドイルさん」目には憎しみが浮かんでいたが、ドイルは思わず抱き寄せてキスした。
「ちょっとスパーリングをしただけです。ご主人が最近運動不足だとこぼすのでね」
「いいから、いいから」とバッドは言って上着を着た。「何も騒ぐことはない。召使はもう寝ただろうな。台所へ行って洗面器に水を汲んできてくれないか。坐ってパイプをやろう、ドイル。話したいことが山ほどある」
 例によって変わり身の早いバッドは、二人の友情を脅かすことなど何も起きなかったかのように、またしゃべり始めた。その晩は平和のうちに更けた。
 翌朝、二人の顔は昨夜の一戦の名残をとどめていたが、バッドは上機嫌だった。どうすれば大金が儲かるか、思いつく限りのアイデアを述べ立てるのだった。そのうちのいくつかはドイルの小説の読者にはおなじみのものである。まず大事なのは新聞に名前を載せることだ、とバッドは言った。なあに、簡単なことだよ。ドイル、お前、俺の家の前の道路で気絶しろ。人が集まってきて中に運び入れるから、召使を新聞社まで走らせて知らせてやる。いや、ひょっとすると向かいの商売敵の方へ運び込んでしまうかな。となると別の手を考える必要がある。そうだ、お前、我が家の玄関で卒倒してくれないか。変装して何度でも発作を起こせばいいんだ。一回ひっくり返るごとに記事が出る。そのうちに卒倒ぐらいではニュースバリューがなくなるかな。そのときはドイル、お前が適当な場所で死んでくれれば、俺が生き返らせてやる。全国に俺の名声がとどろくぞ。
 バッドが世に出るための企みを述べ立ててドイルが笑い転げている間にも、道路を隔てた向かいの医者には次々と患者が来ていた。バッドはときどき熱弁をとめて商売敵とその患者たちを罵るのだった。新しい患者が現れるごとに立ち上がって部屋の中を歩き回り、わめき散らして歯がみした。
「おい、あれを見ろ。足を引きずっている男だ。毎朝来やがる。半月板損傷、全治3ヶ月だ。一週間で35シリングにはなるぞ」しばらくするとまたおしゃべりを止めて怒鳴るのだった。「おい、見ろ、あのリウマチ性関節炎の婆さんだ。そのうちに車椅子でまた来るに決まっている。あんなもの俺ならすぐ治してやる。よりにもよってあんな男のところが大繁盛だなんて、どういうことだ。お前はあいつを知らんから平気でおれるんだ。おい、何がおかしい、ドイル」
 ブリストルを発つころには、ドイルは笑いすぎてへとへとになっていた。

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