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2006年11月14日 (火)

コナン・ドイル伝(7)

 それから数ヶ月して、ドイルは西アフリカに向かった。戻ってから人づてに聞いたところでは、バッドは債権者を一堂に集めていかに逆境と闘っているかを事細かに語り、聞き手の中にはもらい泣きする者もいたという。彼らは請求の無期限延期を快諾し、全員がバッドを信頼すると言い、もう少しで奉加帳を回して餞別をくれるところだったという。 
 アフリカから戻ったドイルは独立して開業に踏み切るべきかどうか迷っていたが、1882年の春の終わりころ、バッドから電報が来た。「去年7月当地プリマスデ開業大成功。俺ノヤリ方デ医業ヲ革新スル。大儲ケシテイル。数百万ノ価値ノ発明アリ海軍省ガ採用セネバブラジルガ世界一ノ海軍国ニナル。電報見次第汽車デ来イ。オ前ノ仕事多シ」ドイルはバーミンガムに戻っていたが、バッドを信用しきれなかったから勧めに従う気はなかった。彼は手紙を書いて、まずまずやっているから今の仕事を辞めるつもりはない、そちらで本格的な仕事があるなら別だが、と言ってやった。10日ばかり返事がなかったが、バッドはまた電報を寄越した。「手紙見タ俺ヲ嘘ツキト言ウカ。去年1年デ患者3万人収入4000ポンド以上。患者ハ全部俺ニ来ル大混雑。往診外科産科ハ全部任セル稼ギ放題。初年度300ポンド保証スル」ドイルは助手を務めていた医者と相談してから、プリマスに発った。
 今度もバッドはプラットフォームに出迎え、大声でドイルを歓迎して背中をどやしつけた。
「おい、ドイル、二人でこの町を征服しよう」バッドは早速まくし立てた。「町中の医者を一掃してやろうじゃないか。今のところ奴らもかつかつ食えているが、俺たちが協力して仕事を始めたらすぐに干上がってしまうぜ。いいか、この町には12万からの人間がいて、みんな医者に診てもらいたがっているのに、まともな医者がいないと来ている。患者は集め放題だぞ。黙って坐っておれば金は唸るほど入ってくる」
「しかし、どういうことなんだ?」ドイルは腑に落ちなかった。「そんなに医者の数が少ないのか?」
「少ないどころか」とバッドは叫んだ。「町中医者だらけだ。石を投げれば医者に当たるくらいだぜ。ところが、そいつらが揃いも揃って……まあ、お前が自分で見れば分かる。ところで、ブリストルでは家まで歩いたな。プリマスでは友達を歩かせるなんてことはしないぞ。どうだ」
 ここで、明らかに予め手筈を整えておいた一場の喜劇が演じられた。見事な黒馬二頭が引く豪華な馬車が二人を待っていた。御者がぺこぺこして「今日はどちらのお屋敷に参りましょうか」と尋ねた。狙い通りドイルが感心しているのを見て満足したバッドは、夕食の準備も整っただろうから「町の屋敷へやれ」と命じた。馬車の中でドイルが驚いたと言うと、バッドは今のところは町の屋敷と田舎の屋敷と仕事場の三つだけなのだと答えた。
「仕事場というのは、診察室と待合室だな?」とドイルは尋ねた。
「全然分かっておらんな」とバッドは言った。「お前みたいに想像力の乏しいやつも珍しい。手紙にも書いたし電報も打ったじゃないか。俺が二間きりでやっていると思うのか。そのうちに町の広場を借り切るぞ。それでも狭くて困るくらいだ。いいか、大きな家で、どの部屋もぎっしり満員で、地下室まで人が重なって坐りこんでいる。これがふだんの俺の仕事場だ。患者は50マイルも離れた田舎から出てきて、管理人が来たときに一番に入れて貰えるように戸口に坐りこんでパンなんぞを食ってるんだ。混み過ぎだというので保健所から注意されたくらいだ。馬小屋も患者で一杯で、まぐさ桶のそばや馬の腹の下にまで坐っている。もちろん、患者の一部はお前にまわしてやる。そのときになって驚くなよ」
 馬車は交差点に面した大きなホテルのような建物の前で止まった。ドイルが後で知ったところでは、ここは一流のクラブだったが家賃が高すぎて維持できなかったのだという。通りから玄関まで堂々たる階段が続き、5階か6階建ての建物の上には尖塔と旗竿が立っていた。30室以上もある寝室には家具がなかったが、一階の各部屋とホールは壮大なものだった。「狭いところだが」と謙遜してみせてから、バッドはドイルを上の階に案内した。ドイルの寝室には、小さな鉄製のベッドと荷物箱の上に置いた洗面器があるだけだった。バッドはドアから飛び出ている釘を打ち込みながら説明した。「間に合わせに40ポンドの家具なんぞを入れてみろ、全部窓から放り出さなきゃ、100ポンドのものは入れられない。それも馬鹿馬鹿しいだろう、ドイル。ここの内装は、どこよりも豪華にするつもりだ。100マイルも離れたところから見物に来るくらいにしてやる。しかし、まあ一部屋ずつやらないとな」
 バッド夫人はドイルを温かく歓迎した。夕食は、食堂の家具や絨毯やカーテンによってかき立てられた期待を裏切らないものだった。バッドは自分がどれだけ莫大な金を支払ったかを夢中になって述べ立て、スープが冷めるのも構わず部屋中の椅子やカーテンを見せてまわった。給仕しているメイドの腕をつかまえて振り回し、「どうだ、こんなきれいな子はなかなかいないぞ」と言うのだった。食事の途中で部屋から飛び出して行ったと思うと、現金が詰まった袋を持ってきてテーブルクロースの上にぶちまけた。「今日一日の稼ぎだ」と彼は説明した。数えてみると31ポンド8シリングあった。これだけ稼いでいると聞けばブリストルの債権者たちもさぞ喜ぶだろうとドイルが言うと、上機嫌は一瞬に消えて陰険な顔に変わった。バッド夫人はメイドを部屋から出て行かせた。
「何ということを言うんだ」とバッドは叫んだ。「俺があの借金をせっせと返し続けて何年も不自由な思いをすると思うのか」
「そうすると約束したはずだが。むろん俺が口出しすることではないが」
「むろん口出しなんぞ無用だ。いいか、商人に損得は付きものだ。貸し倒れにはちゃんと引当金を積んでいる。俺だって払えるものなら払ったさ。あのときは払えなかった。だから帳消しにした。せっかくプリマスで稼いだものをブリストルの商人にやってしまうなんて、正気の人間が考えることか」
「払えと言ってきたらどうする」
「そのときはそのときさ。今は何でも現金払いだ。この家の中にあるものだけで、もう400ポンドは使った」
 そのときドアを叩く音がして、金ボタンのお仕着せを着たボーイが入ってきた。「先生、ダンカンさんがお見えになりました」
「ダンカンさんか、そうだな、とっとと失せろ糞野郎と言ってやれ」
「まあ、ジョージ」と夫人が叫んだ。
「お食事中だ。ヨーロッパ中の王様が揃ってホールで待っていても俺はここを動かんと言ってやれ」
 しばらくしてボーイがまた戻ってきた。
「先生、ダンカンさんはお帰りになりません」
「お帰りにならん? どういうことだ、このガキ。何をぐずぐずしとるんだ」
「お勘定をと言っておられます」
「お勘定だって?」バッドの額の血管が膨れあがった。「おい、いいか」時計を取り出してテーブルの上に置いた。「今、8時2分前だ。8時きっかりに俺はホールに出て行く。そのときあの男がまだいたら、八つ裂きにして通りにばらまいてやる。細切れにして教区中にまき散らすと言え。二分あれば命が助かる。しかし一分はもう過ぎた」
 数秒後、玄関のドアがばたんと閉まる音がした。バッドは大声で笑いだし、しばらく笑いが止まらなかった。「あいつ、そのうちに気が狂うぞ」彼は涙を拭きながら言った。「気の弱い臆病なやつで、俺がにらんでやると青くなるんだ。あいつの店の前を通るときはちょっと立ち寄って顔を見てやる。何も言わずに黙って顔を見るだけだが、すくんでしまいやがる」この男はバッドに食料品を売っていたが、一二度彼を騙したことがあった。それでこのような取り扱いを受けることになったのである。しかしバッドは、明日にでもあいつに20ポンド払ってやれと妻に命じた。
 夕食が終わると三人はバッドの実験室に入った。ピストルが数挺と弾丸、カラス撃ち銃が一挺、蓄電池、それに大きな磁石が一つあった。ドイルがこれは何に使うのだと尋ねると、バッドは妻の顔を見て同じ問いを繰り返した。「制海権獲得装置」と彼女は忠実に答えた。
「その通り、制海権獲得装置だ」とバッドは得意げに言った。「お前の目の前にあるのがそれだ。おい、ドイル、俺はな、明日にでもスイスへ行ってこう言ってやってもいいんだ。『あいにくお国には海も港もありませんが、船一艘にスイス国旗を掲げさせていただければもう大丈夫です。世界中の海をスイスのものにして差し上げます』俺は世界の海を掃討してマッチ箱一つ浮かばんようにしてやる。株式会社にして役員になるんだ。海という海は俺の手中に入る。笑いたければ笑え。配当が入って来たときにどんな顔をするか見たいよ。おい、あの磁石はいくらの値打ちがあると思う?」
「1ポンドかな」
「100万ポンドだ。ビタ一文まけないぞ。それでも捨て値みたいなものだ。がんばればその10倍だって取れるが、まあ100万にしておくつもりだ。1週間か2週間したら海軍大臣の所へ持って行く。大臣が礼儀をわきまえた男だったら取り引きしてやる。おい、ドイル、大西洋と太平洋を両脇に抱えた男が海軍省に現れるなんて、そうそうあることじゃないぞ」
 ドイルはしばらく懸命に我慢していたが、吹き出してしまった。バッドは大いに憤慨したが、やがて自分も笑い出した。
「馬鹿馬鹿しいと思っているんだろう」と言って、彼は部屋中を歩き回り両腕を振り回した。「まあ、こんな工夫をしましたなんて他人が言い出せば、俺だってそう思うな。じゃ、見せてやろう。しかしお前もよっぽど疑り深いやつだな。興味があるような顔をして内心では笑っているな。第一に、詳しいことは教えられんが、俺は磁石の磁力を百倍にする方法を発見した。ここまでは分かるな?」
「うん」
「よろしい。次に、現代の砲弾は鉄でできているか、鉄の被甲をかぶせてあることも知っているな。磁石が鉄を引きつけることも、たぶんご存じであろうな。それでは、ちょっとした実験をお見せしよう」こう言うとバッドは装置の上にかがみ込んだ。パチという音がして電気が入った。「これは」とバッドは言って箱から取り出したものを見せた。「射的用のピストルだ。20世紀にはこいつが博物館に飾られる。新時代の幕を切って落とした武器としてな。遊底を引く。狭窄弾を一発込めるぞ。実験用に特別に鉄で作らせたのだ。壁のあの赤い封蝋の塊を狙う。磁石の4インチ上だ。俺の射撃の腕は確かだ。ほら、撃つぞ。それじゃ、前に進んでよーく見てくれ。弾は磁石に当たってひしゃげているだろう。笑ったことを謝るんだな」
 ドイルが見てみると、確かにバッドの言う通りだった。
「おい、もう一つ実験をしよう」とバッドは言った。「今度は家内の帽子の中に磁石を入れるから、お前、顔を狙って6発撃ってみろ。これならどうだ。撃たせてやってくれるね?」
 バッド夫人はそうしてもよいと言ったが、これはドイルの方で断った。
「あとは規模の問題だ」とバッドは続けた。「未来の軍艦は船首と船尾に磁石を装備する。砲弾はこの弾の何倍も大きいから、それだけ磁石を大きくすればよいのだ。いや、別に筏を作って俺の装置を載せる方がいいかな。船が作戦行動に入る。するとどうなると思う、ドイル。相手が何発撃ってきても全部磁石に引き寄せられてぴしゃりとくっついてしまう。筏の下には回収装置を付けておいて、電気回路を切ればくっついた鉄が下に落ちるようにしておく。作戦が終われば屑鉄に売ってあがりは乗組員で山分けだ。いや、そんなことよりも、俺の装置を搭載した船には絶対に敵弾は当たらんのだぞ。そのうえコストが安い。装甲なんか要らない。何にも要らんのだ。この装置さえ搭載すれば、水に浮かぶ船は全部不死身になる。未来の軍艦は一隻7ポンド10シリングもあればできる。また笑ってやがるな。磁石とトロール船と七ポンド砲が一門、これだけでどんな戦艦とも渡り合えるんだぞ」
「しかし、どこかに欠陥があるはずだ」とドイルは言った。「もし磁石がそんなに強いのなら、片舷斉射が全部ブーメランみたいに戻って来るじゃないか」
「そんなことはない。大きな違いがある。打ち出した弾はものすごい初速で飛び出して行く。ところが、飛んでくる弾はちょっと偏向させれば磁石にくっついてしまう。それに回路さえ切れば、磁石を無効にして片舷斉射ができる。終われば回路を入れてたちまち不死身になる」
「ボルトやスクリューなんかはどうなる?」
「未来の軍艦は全部木で作るんだ」
 あとになってドイルは、バッドが自分の発明の決定的重要性を当局に理解させられなかったことを知った。「俺はお国のために残念に思う」とバッドは嘆いた。「しかしこれで英国の制海権はなくなった。この装置はドイツ人が手に入れることになるが、俺が悪いんじゃないぞ。破滅が来ても俺を非難しないで欲しいね。海軍省の連中に見せて、小学生でも分かるように説明してやった。ところが連中の寄越した手紙ときたら、ドイル、ひどいもんだ。戦争になって俺があの手紙を公開したら絞首刑になるやつが出るね。これが疑問、あれが疑問とうるさく聞いてきやがった。磁石は何に固定するのかと聞くから、俺は答えてやったよ。何でも固くて貫通できないものなら結構、たとえば海軍省のお役人の石頭なんかどうだろうとね。それで全部おしまいだ。まことに残念ですがと言って送り返してきた。俺もまことに残念ですが地獄へでも行って下さいと返事してやった。これが一大歴史的事件の終わりだ。どうだ、ドイル」

訳者付記 『マスグレーブ家の儀式』によれば、ホームズは「……アームチェアに坐り、向かいの壁をVRという愛国的文字の弾痕で飾る」ことがあったそうです。しかし室内射撃を趣味にしていたのはホームズだけでないことが分かります。この部分には翻訳上の問題が一つあるのですが、後日別に考察します。

Vr

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