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2006年11月27日 (月)

A Case of Identityの訳題

同一人物

「ねえ君」とシャーロック・ホームズは言った。私たちはベーカー街の彼の下宿の暖炉を間にして座っていた。「人生は人間の頭が創り出せるどんなものよりもはるかに不思議だね。僕たちの思ってもみないことが現にまったくありふれたものとして存在しているんだからねえ。もしも僕たちがその窓から手を携えて飛び立ち、この大都会の上空に浮かび、そっと家々の屋根を取り去り、中をのぞき込むと、そこでは変わったことが起こっている、奇妙な偶然の一致、さまざまな計画、行き違い、不思議な出来事の連鎖、それらは何世代にもわたって生じきて、きわめて突飛な結果をもたらす、それを見れば因習的で結末が見越せる小説などみんなひどく古くさくて無益なものになってしまうさ。」
 「でも私にはそうとばかりは思えないな」と私は答えた。「新聞で明るみに出る事件は、概して、まったくあからさまだし、まったく俗悪だ。警察の調書では極限ぎりぎりまでリアリズムが押し進められるが、でもその結果は、実のところ、魅惑的でも芸術的でもない。」
 「現実的な効果を生み出すには一定の選択と裁量が必要なんだ」とホームズは言った。「それが警察調書には欠けているんだ。たぶん、観察者にとって事件全体のきわめて重要な本質を含んでいる細部よりも、裁判官の使う決まり文句が強調されるからだね。間違いないよ、平凡なものくらい異常なものはないんだ。」
 私は微笑み、首を振った。「君がそう考えているのはよくわかったよ」と私は言った。「もちろん君は、三大陸の至る所、私的にすべての困り果てている人の相談に乗り、力を貸すと言う立場で、あらゆる不思議なこと、奇怪なことに接している。しかしほら」-私は床の朝刊を拾った-「それを実地に試してみようじゃないか。じゃあ、最初に私の目に付いた見出しだ。『夫の妻に対する虐待。』この欄の半分に印刷されているが、私には読まなくてももうすっかりなじみのものだとわかるよ。もちろん、ほかの女、酒、突く、殴る、打ち身、同情する姉やおかみさん、だ。よほど露骨な記者じゃなければこれ以上露骨なものは考えつくまい。」
 「まったくねえ、君の挙げた例は君の主張にはあいにくだなあ」とホームズは、新聞を手に取り、そこにチラと目を落としながら言った。「これはダンダスの別居の件だが、たまたま僕はね、これに関係したいくつかの小さな問題を解決する仕事をしたんだ。ご亭主は禁酒主義者で、ほかに女なんかいない、で、不満の元になったふるまいというのがいつの間にか出来上がったその男の習慣さ、それが食事の終わりのたんびに入れ歯をはずして女房に投げつけるというもので、これなんかどうだい、並みの作家の想像の及ぶところではなさそうな行為だろう。嗅ぎ煙草を一服やりたまえ、博士、そして君の例で僕が勝ったことを認めたまえ。」

原題:A Case of Identity
著者:Conan Doyle
訳者:coderati[coderati@msn.com]
2006年9月1日公開
Copyright(C)2006 coderati
 
 A Case of Identityは『花婿失踪事件』では困るし、まさか『正体の事件』とも訳せまいし、どうすればいいのかなあと思っていましたが、同一人物とすればよいのだ。coderatiさんの案に全面的に賛成。
 翻訳の全文はここ
 訳文については、賛成しかねる箇所もある。しかし、仮に私が『同一人物』を翻訳してインターネットで公開したとすれば(そんな余裕はありませんが)、賛成できんという人はたくさんいるでしょうね。
 coderati氏は地下室の本棚というサイトで、ホームズだけでなく、ジョイス、ディケンズ、ドストエフスキー、ロレンスなどの訳を公開している。
 The Return of Sherlock Holmesは「帰ってきたシャーロック・ホームズ」である。「帰ってきた渡り鳥」は小林旭であった。

 ホームズの訳をインターネットで公開している人は、ほかに大久保ゆう氏(『赤毛連盟』など)がある。こちらも一見の価値はあるでしょう。

Liv217c

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コメント

coderatiです。ご紹介くださりありがとうございます。『同一人物』というタイトルに賛成が得られるとは、実に嬉しい限りです。なにしろ訳文を公開していてもまったく反応がないので・・・とりあえず、お礼を。

投稿: coderati | 2006年11月28日 (火) 10時05分

「同一人物」には賛成しかねます。ネタばれの最たるものでしょう。a case of mistaken identity(人違い)という英語の慣用句のもじりであることがうまく訳出できればベストですね。

投稿: 土屋朋之 | 2006年11月28日 (火) 21時06分

そうか、ネタバレですか? もう一度考えてみます。

coderatiさん、陰ながら応援しています。頑張れ。

投稿: 三十郎 | 2006年11月29日 (水) 10時56分

スパムが多いので、コメント、トラックバックとも「公開承認制」にしました。

投稿: 三十郎 | 2006年11月29日 (水) 11時00分

ネタバレというご批判は覚悟しておりました。将棋でも易しい三手詰ってのがあるでしょう。で、思い切ってそういうのもいいかと思ったのですが。しかし、この題名の危ういところはネタバレと指摘されたとたんに存在しえなくなることだと今になって気がつきました。考えなければなりますまい。花婿失踪事件に戻すのはいかにも悔しいので、何か思いつかれたらご教示いただけませんか。よろしくお願いします。

投稿: coderati | 2006年11月30日 (木) 14時09分

タイトルは本文中の"the identity of the disappearing bridegroom"から来ているのでしょうから、この時点のワトスンからすると「同一人物」は訳しすぎかもしれないですが、原題も二段オチぐらいでネタばれではないか、と。identityの翻訳を避けて「消えた花婿」の方を訳した歴代の翻訳はさすがですね。
私なら「花婿は何者か」とするか…?「花婿」をつけた方が読者としてはidentifyしやすいのですが、もし著者に伏せたい意図があるとすれば「尋ね人」みたいな題にしてしまいますかね…難しい~!

投稿: ぐうたらぅ | 2007年2月11日 (日) 20時24分

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