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2006年11月29日 (水)

敬愛なる?ベートーヴェン

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 第九誕生の裏に、耳の聞こえないベートーヴェンを支えた女性がいた。敬愛なるベートーヴェンというのですが。

 変だ。「敬愛するベートーヴェン」なら分かるけど。
 これは北朝鮮から始まった言い方でしょう。たとえば

南朝鮮のマスコミは、米国の核策動と関連して、問題解決の根本的な鍵が平壌にあり、米国の戦争遂行能力を一瞬のうちに麻痺させられる軍事戦略と領軍術、高度な対米戦略を体現される敬愛なる将軍様がいらっしゃる限り、朝鮮半島でいついかなることが起きて驚かされるかわからないので、心の準備をしっかりとしておくこと

全てのイルクンは、歴史的な6・15共同宣言を準備して下さり、祖国統一の転換的局面を開いて下さった敬愛なる将軍様の偉大さをよく理解し、将軍様の先軍領導を受け、祖国統一の歴史的偉業を成し遂げる闘争において、自己の全戦力と知恵を捧げなければならない

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 ものすごい。戦略情報研究所のXファイルという文書です。2006年5月31日付。詳しくはここ
 北朝鮮は漢字を廃止した。ところが大和言葉に当たる「コリア言葉」では用が足りないらしい。どうしても「漢語」(あるいは日本語)が必要なのだけれど、漢字の支えがないから使い方が滅茶苦茶になってしまったのだ。

 しかし朝鮮を笑ってばかりはおれないと思う。手紙の書き出しに使うDearの訳語に「親愛なる」というのがありますね。あれはちょっと怪しい。
 Dear Marylynなら「かわいい/いとしいマリリン」くらいでよろしいが、別にかわいくもいとしくもない場合もあるから仕方なく「親愛なる」という訳語をでっち上げたのでしょう。いつ頃から使い始めたのだろう?
 塩谷温の新字鑑を引いてみると親愛は「したしみいつくしむ」とあって「大学」から例文を引いている。明らかに動詞である。親愛スルは言えるだろうが親愛ナルはどうもインチキである。親密ナルならよろしい。敬愛や親愛だけでなく、○愛の形ではほとんど動詞になるはずである。遺愛 渇愛 割愛 求愛 溺愛 盲愛など。
 このあたりは漢文を引いて縦横に論じたいところだが、そんな教養はないのが遺憾である。
 ついでに、いつも気になっていることをもう一つ。
 Nondisclosureを何と訳しますか? 「不開示」か「非開示」か? 多数決では後者が多いと思うが、開示は動詞のはずである。「開示せず」である。「開示にあらず」なんてナンセンスだと思うのだけれど。
   こういう問題は高島俊男先生に質問してみたいものだが、週刊文春の連載も終わってしまったし、お元気にしておられるだろうか? 
 

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2006年11月27日 (月)

A Case of Identityの訳題

同一人物

「ねえ君」とシャーロック・ホームズは言った。私たちはベーカー街の彼の下宿の暖炉を間にして座っていた。「人生は人間の頭が創り出せるどんなものよりもはるかに不思議だね。僕たちの思ってもみないことが現にまったくありふれたものとして存在しているんだからねえ。もしも僕たちがその窓から手を携えて飛び立ち、この大都会の上空に浮かび、そっと家々の屋根を取り去り、中をのぞき込むと、そこでは変わったことが起こっている、奇妙な偶然の一致、さまざまな計画、行き違い、不思議な出来事の連鎖、それらは何世代にもわたって生じきて、きわめて突飛な結果をもたらす、それを見れば因習的で結末が見越せる小説などみんなひどく古くさくて無益なものになってしまうさ。」
 「でも私にはそうとばかりは思えないな」と私は答えた。「新聞で明るみに出る事件は、概して、まったくあからさまだし、まったく俗悪だ。警察の調書では極限ぎりぎりまでリアリズムが押し進められるが、でもその結果は、実のところ、魅惑的でも芸術的でもない。」
 「現実的な効果を生み出すには一定の選択と裁量が必要なんだ」とホームズは言った。「それが警察調書には欠けているんだ。たぶん、観察者にとって事件全体のきわめて重要な本質を含んでいる細部よりも、裁判官の使う決まり文句が強調されるからだね。間違いないよ、平凡なものくらい異常なものはないんだ。」
 私は微笑み、首を振った。「君がそう考えているのはよくわかったよ」と私は言った。「もちろん君は、三大陸の至る所、私的にすべての困り果てている人の相談に乗り、力を貸すと言う立場で、あらゆる不思議なこと、奇怪なことに接している。しかしほら」-私は床の朝刊を拾った-「それを実地に試してみようじゃないか。じゃあ、最初に私の目に付いた見出しだ。『夫の妻に対する虐待。』この欄の半分に印刷されているが、私には読まなくてももうすっかりなじみのものだとわかるよ。もちろん、ほかの女、酒、突く、殴る、打ち身、同情する姉やおかみさん、だ。よほど露骨な記者じゃなければこれ以上露骨なものは考えつくまい。」
 「まったくねえ、君の挙げた例は君の主張にはあいにくだなあ」とホームズは、新聞を手に取り、そこにチラと目を落としながら言った。「これはダンダスの別居の件だが、たまたま僕はね、これに関係したいくつかの小さな問題を解決する仕事をしたんだ。ご亭主は禁酒主義者で、ほかに女なんかいない、で、不満の元になったふるまいというのがいつの間にか出来上がったその男の習慣さ、それが食事の終わりのたんびに入れ歯をはずして女房に投げつけるというもので、これなんかどうだい、並みの作家の想像の及ぶところではなさそうな行為だろう。嗅ぎ煙草を一服やりたまえ、博士、そして君の例で僕が勝ったことを認めたまえ。」

原題:A Case of Identity
著者:Conan Doyle
訳者:coderati[coderati@msn.com]
2006年9月1日公開
Copyright(C)2006 coderati
 
 A Case of Identityは『花婿失踪事件』では困るし、まさか『正体の事件』とも訳せまいし、どうすればいいのかなあと思っていましたが、同一人物とすればよいのだ。coderatiさんの案に全面的に賛成。
 翻訳の全文はここ
 訳文については、賛成しかねる箇所もある。しかし、仮に私が『同一人物』を翻訳してインターネットで公開したとすれば(そんな余裕はありませんが)、賛成できんという人はたくさんいるでしょうね。
 coderati氏は地下室の本棚というサイトで、ホームズだけでなく、ジョイス、ディケンズ、ドストエフスキー、ロレンスなどの訳を公開している。
 The Return of Sherlock Holmesは「帰ってきたシャーロック・ホームズ」である。「帰ってきた渡り鳥」は小林旭であった。

 ホームズの訳をインターネットで公開している人は、ほかに大久保ゆう氏(『赤毛連盟』など)がある。こちらも一見の価値はあるでしょう。

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2006年11月24日 (金)

正典の61編目?

昨日の答え。
 The Man Who Was Wantedという作品です。全文(英語)はこちら
 ホームズの正典は御存じのように長短合わせて60編ですが、一時はこれが61編目として扱われていた。つまりコナン・ドイルの作品とされていた。
 1952年月曜書房から刊行された「シャーロック・ホームズ全集第13巻」(延原謙訳)には、這う男、獅子の鬣、覆面の下宿人、ショスコム荘、隠居絵具師とともに本編が『求むる男』として収録されていた。
 しかし、現在では、ワトソン/ドイルによるものではない、正典ではなく外典であるということになっている。

 1943年、コナン・ドイル伝を書くために調査していたヘスキス・ピアソンは、The Man Who Was Wantedという標題のホームズの短編を発見した。タイプで打ったものである。ドイルの原稿はすべて手書きだったが、秘書にタイプで清書させたと考えればおかしくない。ピアソンはこの原稿の内容を慎重に検討し、ドイルが書いたものだと判断した。
 伝記では次のように書いている。

「……この主人公をかくも長きにわたって維持することができたのは、また読者も最近のホームズ譚が初期作品に比べて遜色がないと見てくれているのは、私が無理に話を作りはしなかったからである」とドイルは書いている。この主張の裏付けとしては、私が彼の書類の調査中に発見したホームズ短編の完成稿をあげればよいだろう。未発表のこの原稿はThe Man Who Was Wantedと題されている。確かに全体として水準には達していないが、冒頭の部分だけはドイルの名に恥じぬものであり、引用に値すると思う。
(以下、ピアソンは、書き出しの部分だけを、ただし拙訳部分よりもう少し長く引用する。)

 ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝が評判になると、この「ドイルの未発表原稿」を読みたいという要望が高まった。
 1948年、The Man Who Was Wantedはアメリカのコスモポリタン誌8月号に「長らく失われていたシャーロック・ホームズ譚」として発表された。英国ではサンデイ・ディスパッチ誌49年1月号に掲載された。いずれもコナン・ドイルの作品としてである。

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 ところが、アーサー・ウィテカーという人物が、実は自分が書いたものだと名乗り出た。彼はタイプ原稿のカーボンコピーとドイルからの「貴君のプロットを買い取りたい」という手紙を持っていた。
 どうやら、ウィテカーはこの作品を書き上げ、共作の形で出版したいと考えてドイルに送ったらしい。ドイルは共作を断り、代わりに10ギニーでプロットを買い取ると返事したものと見られる。
 エイドリアンとしては、いったんドイル名義で発表してしまったので、はじめはウィテカーの主張を認めるのを拒んでいたが、歴とした証拠があるのだから仕方がない。The Man Who Was WantedCanonではなくApocryphaに属するものと見なされるようになった。この間、エイドリアンとウィテカーの間にかなりゴタゴタがあったらしい。しかし1952年になっても日本でドイルの作品扱いしていたというのは、どうも解せないところである。
 ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝のペーパーバック(1987年版)には、The Man Who Was Wantedに触れた箇所に「ピアソンは現在ならばこうは書かなかったであろう」と脚注がついている。
 なかなかよくできたパスティッシュだと思う。私自身、ずっと昔に日本語で読んだような記憶がある。あれは延原謙訳だったのだろうか?
 英語版は無料で読めます。日本語で読みたい方は日暮雅通氏の訳『指名手配の男』が各務三郎編『ホームズ贋作展覧会』に収録されているはず。

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2006年11月23日 (木)

シャーロック・ホームズの事件簿から

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 1895年の晩秋、私は幸運にもシャーロック・ホームズの極めて興味深い事件の一つに係わる機会を得た。このころ妻はしばらく体調がすぐれなかったので、同窓生だったケイト・ウィットニーと一緒にスイスで休養を取らせることにした。(ケイトの名は『唇のねじれた男』の標題で記録した事件との関連で読者の記憶にあると思う。)私は診療の規模が拡大して何カ月もの間懸命に働いていたから、自身休養を取る必要を大いに感じていた。しかし、アルプスへ行くほど長期間は休めそうにない。妻には自分も何とか一週間か十日ほど休みを取ると約束して、ようやくスイス行き(妻にはこれが是非とも必要だと私は考えた)に同意させたのである。このころ一番大切な患者の病勢が危機にあったが、八月も終わるころようやく峠を越え回復の兆しを示し始めた。どうやら代診の手に委ねても差し支えあるまいと思われたから、転地を兼ねて休養を取るとすればどこがよいか考え始めた。
 すぐに頭に浮かんだのは、旧友シャーロック・ホームズをたずねることであった。もう何カ月も会っていなかったのである。何か重要な事件を手がけているのでなければ、一緒に来るよう誘えばよい。
 こう決めてから半時間もたたぬうちに、私はベーカー街の懐かしい部屋の戸口に立っていた。
 ホームズはこちらに背を向けて長椅子に横になっていた。おなじみのガウンと古いブライアーのパイプは昔のままである。
「入り給え、ワトソン」向こう向きのまま声をあげた。「よく来てくれた。でも、どういう風の吹き回しだい?」
「相変わらず耳がいいね、ホームズ。僕はとうてい君の足音を聞き分けられんよ」
「僕だって聞き分けられないさ。ただ、あかりの暗い階段を二段ずつ上がってきたから、勝手知ったる下宿人かな、とは思った。それでもまだ断定はできなかったが、ドアの外のマットにつまずいた。三月ばかり前に置いたものだ。それでもう名乗ってもらわなくとも分かったのだ」

 何という作品でしょうか?

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2006年11月22日 (水)

コナン・ドイル伝の邦訳

・ジョン・ディクスン・カー『コナン・ドイル』早川書房1962(原著1949)
・ジュリアン・シモンズ『コナン・ドイル』東京創元社1984(原著1979)
・ロナルド・ピアソール『シャーロック・ホームズの生まれた家』新潮社1983(原著1977)

 ジョン・ディクスン・カーの『コナン・ドイル』の書き出しは

 一八六九年の夏のある午後、エディンバラ市サイエンス・ヒル・プレース三番地の家で、台所のとなりの荒いみがかれた小さな食堂に、ひとりの中年ちかい紳士が、自分のかいた水彩画に向かって腰をおろしていた。彼は過去二十年の歳月を回想していたのである。
 背が高く、絹のような顎髭がチョッキにまでたれて、濃い髪の毛は額を横切って渦まいていたが、そのような異彩をはなつ容貌の人物にしては、態度が隠棲的で、気弱そうだった。身につけている衣服は、見すぼらしいながらも、妻が精いっぱい努力して、世間へ出ても体面がたもてるだけのものにしていた。ただ、ちらと横目で台所のほうを見やった彼の目には、独自の性格と、はるか戸外を見とおす洞察力とがひらめいていた。

「中年ちかい紳士」というのは、ドイルの父チャールズである。小説仕立てにしたわけである。

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 ディクスン・カーが『コナン・ドイル』を書くことになったのは、ドイルの三男エイドリアンと伝記作家ヘスキス・ピアソンが喧嘩したからである。だから彼はピアソンの二番煎じだけは避けなければならなかった。
 わざと『スターク・マンローの手紙』や『わが思い出と冒険』を利用せず、書き方を工夫して新味を出そうとした。しかし、どうもこれはグレアム・グリーンのいわゆる「伝記作家が興奮してしまっては、読者は信じられなくなる」ケースだったようだ。
 エイドリアンに遠慮しすぎたということもある。心霊学について、ディクスン・カーは次のように言う。

「心霊学に関しては、われわれは同調しても、同調しなくても、どちらでもよい。だが均衡の観念だけはもっていたいものである。この人のなかには、なにか、すこしばかり現実生活を超越したある資質、分析を超越したある閃きがあった。われわれはそれを感じとることができる。ほとんどそれに触れることができる。しかしそれは、あまりにも泥くさい凡俗の(この伝記作家のような)人間には、言葉に表現することができないのである。」

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 ヘスキス・ピアソンは、第12章「晩年」の冒頭で
「伝記作家の関心は現世にあって、来世はあずかり知るところではない。したがって私がドイルの心霊学への帰依を扱うのは、あくまで彼の性情がそこに行き着かざるを得なかったからに過ぎない。」
と言う。心霊学が馬鹿馬鹿しいことは読者にはよく分かっているので、糾弾したり嘲笑したりする必要はない。冷静に分析すればよいのであるが、その分析が息子エイドリアンを怒らせたのである。
 ピアソンによれば、ドイルはごく単純な男であって、カトリックの信仰を捨てたあと何か信ずるものが必要なので心霊術に凝るようになったのだという。あるいは、ドイルの恐怖小説を取り上げて、その欠点はグロテスクではあるが少しも怖くないことだという。なぜ怖くないかというと、ドイル自身が想像力に欠けるために実生活で一度も恐怖を感じたことがなかったからだという。しかしピアソンの筆致はあたたかく、読み終わって感じるのはドイルが70年の生涯を立派に生き抜いたことである。これで腹を立てたのは、エイドリアンがよほど熱烈な父親贔屓だったからだろう。

 ジュリアン・シモンズのドイル伝は、1979年の刊行時にすでに13冊のドイル伝が出ていたので、「ドイルの生涯を今日一般に見られているのとは異なる角度からながめ、あわせて、新しい世代のために、その業績を要約してみる」(著者はしがき)ことが目的であり、「シャーロック・ホームズの創造者」(第1章)としてのドイルに焦点を置いている。青年時代などは先行の伝記に任せるという方針らしく、悪友のバッド医師については3頁ほどの記述があるだけである(創元推理文庫で全176頁)。
 ヘスキス・ピアソンの場合は、祖父のジョン・ドイルが1815年にアイルランドからロンドンに出て来たところから語り始める。カトリックの学校でひどい体罰を受けている少年、アルバイトに励む医学生、流行らない医者がのちにホームズ譚の作者になることはまだ分かっていないので、ホームズの先取りをせずドイル本人に寄り添って叙述を進める。シモンズのものが「評伝」であるとすれば、ピアソンのものは英国式の本格的な伝記であると言える。

 ロナルド・ピアソールの『シャーロック・ホームズの生まれた家』(原著1977、新潮選書1982)は、ドイル伝とヴィクトリア朝時代史の研究を兼ねたものである。翻訳では、ドイルの父親の年収240ポンドは288万円というように、一々1980年代の日本円に換算してある。なるほど、子供が10人もいて年収288万円では苦しかっただろう。『ボヘミアの醜聞』の原稿料30ギニーは37万円である。『青いガーネット』から『ぶな屋敷』までは1編50ギニーすなわち63万円、6編で378万円だったという(換算率はどうやって算定したのだろう)。
 ただ、著者が現代の視点からドイルを裁くのに急で、どうも一昔前の左翼文芸批評の「……という限界があった」という口調を連想させるのが難点である。
「芸術の分野で、普通でないものを極端に嫌った中産階級の偏見をかつぐ代表者が、ドイルだといってよかった。」
「ドイルにとっては、悪いことは悪いと初めから決まっていたから、女性が参政権を持つことも悪いことでしかなかった。」等々
 ヘスキス・ピアソンは、ドイルが大英帝国主義のチャンピオンだったことや女性参政権など言語道断と考えていたことは十分承知しているけれども、淡々と事実を述べて評価は読者に任せるという態度を取っている。

 こうして見てくると、日本語で読めるふつうのドイル伝は「まだない」ことが分かる。
  ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝の抜粋は、

コナン・ドイル伝(1)再録~(8)。または
 カテゴリーのコナン・ドイル
をご覧下さい。

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2006年11月21日 (火)

ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝

Hesketh Pearson: Conan Doyle, His Life and Art
初版 Methuen & Co., Ltd, 1943
ペーパーバック Unwin Paperback, 1987(全188頁、索引5頁、写真8頁)

 アーサー・コナン・ドイルは、1859年に生まれ、1930年(昭和5年、満州事変の前年)に71歳で亡くなった。
 本書は、1943年に書かれた初の本格的伝記である。以後現在までに20冊以上のドイル伝が書かれている。
 1931年、ジョン・ラモンドという人がArthur Conan Doyle, A Memoirという伝記を出している。これは1972年に出た再版がアメリカのアマゾンならば入手できるようだ。著者はドイルが晩年に凝っていた心霊術の仲間らしい。

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 写真は1922年、ニューヨークでのドイル一家である。このときドイル夫人ジーンは48歳、次男デニス、三男エイドリアン、次女リーナ・ジーンがそれぞれ13歳、12歳、10歳であった。(先妻のもうけた長女メアリー・ルイーズは成人し、長男キングズレーは1918年に戦病死した。)
 このときからほぼ20年たって、遺族たちは、ドイルの死後に残された膨大な資料(この一部が2004年にクリスティーズでオークションにかけられた)をヘスキス・ピアソンに提供して伝記を書いてもらうことにした。

 ヘスキス・ピアソン(1887-1964)は、英国の有名な伝記作家である。船舶会社勤務後、1911年に演劇界に入り、俳優兼演出家となった。1920年代から文筆にも手を染めたが、1930年『ドクター・ダーウィン』(チャールズ・ダーウィンの祖父エラスムスの伝記)を刊行し、以後ピアソンの書く伝記はほとんどがベストセラーになった。
 主な伝記に『ギルバートとサリバン』(1935)、『トマス・ペイン』(1937)、『シェイクスピア』(1942)、『バーナード・ショー』(1942)、『コナン・ドイル』(1943)、『オスカー・ワイルド』(1946)、『ディケンズ』(1949)、『ディズレーリ』(1951)、『ホイッスラー』(1952)、『ウォルター・スコット』(1955)、『ジョンソンとボズウェル』(1958)、『チャールズ2世』(1960)、『アンリ4世』(1963)などがある。1965年、つまり死後に自伝Hesketh Pearson by Himselfが刊行された。

 ピアソンは、『スターク・マンローの手紙』と『わが思い出と冒険』を大いに利用したが、残された書類も徹底的に調査し、未刊のシャーロック・ホームズ譚、すなわち正典の61編目を「発見」した(これについては別稿で)。
 ヘスキス・ピアソンは本書の献辞で
「デニス・コナン・ドイル氏とエイドリアン・コナン・ドイル氏に感謝する。私はいわゆる心霊主義者ではなく、サー・アーサーの歴史小説については両氏と意見を異にする。それにもかかわらず、お二人は私が父君の残された書類を自由に閲覧し作品と書簡を引用することを許された」
と書いている。
 バーナード・ショー、ロナルド・ノックス、A・E・W・メイソン、イーデン・フィルポッツ、ラファエル・サバティーニなどがまだ存命であったから、彼らにも取材している。
 1943年に初版が刊行されると、グレアム・グリーンが絶賛した(序文参照)のをはじめ、オブザーバー紙では「この秀逸な伝記に新たなものを付け加えない限り、もはやコナン・ドイルについて本を書く余地はない」と評されるなど好評であった。
 しかし、遺族、特に父親を熱烈に尊敬していたエイドリアンは本書が気に入らなかった。グレアム・グリーンの言うように「実に壮快な伝記」「ドイルは生涯を通じてまことに実直で好感の持てる男であった」というのが多くの読者の反応であった。しかし、エイドリアンとしては、ドイルを頭が単純で精神的に未発達な男として描いたのが許せなかったらしい。
 エイドリアンは1945年にThe True Conan Doyleというパンフレットを刊行して本書に反論した。1955年になって、BBCラジオがホームズ生誕100年祭記念プログラムの一部としてヘスキス・ピアソンに講演を依頼すると、「ピアソンに出演させるなら、今後ホームズのドラマ化は許さない」と言って妨害した。
 遺族は改めてジョン・ディクスン・カーに資料を提供し、カーは2年間かかりきりになって1949年にドイル伝を上梓した。これは早川版で568頁の大冊である。こちらの方は気に入ったらしく、エイドリアンはカーと共著で1954年に The Exploits of Sherlock Holmes (『シャーロック・ホームズの功績』早川書房1958)を出している。(カーによるドイル伝については、また別に述べる。)
 そのほかにも2000年までに20余冊のコナン・ドイル伝が出ている。その中では1964年にフランス人ピエール・ノルドンが書いた
Sir Arthur Conan Doyle: L'Homme et L'Oeuvre
 の評判がいいようだ。私は英訳版を持っているが、何しろ大部なので全部は読んでいない。(しかし、この伝記の標題は妙ですね。「人と作品」というのはごくふつうの言い方ではある。しかし、ホームズはフロベールのジョルジュ・サンド宛て書簡を引用したことがあるはずだ。L'homme c'est rien ― l' oeuvre c'est tout.)

 2004年のクリスティーズの売り立ての結果、資料の大部分は大英図書館に収まったので、これを使って新しい伝記を書く人が出てくるだろう。
 ドイル伝がこれほど繰り返して書かれるのは、コナン・ドイルという人の生涯が波瀾万丈で面白いということもあるが、もう一つはイギリスでは伝記というジャンルの格が高いということもある。
 我々はむかし『野口英世伝』や『エジソン伝』の類を読まされ過ぎたせいだろう。伝記というと子供向けのもののように錯覚しているところがある。BiographyLifeなどの語は「伝記」と訳すべきものだが、「評伝」と訳してしまうことが多いようだ。
 たとえばペンギンブックスにPenguin Livesという叢書がある。仏陀や聖アウグスチヌスやナポレオンから、マーロン・ブランドやエルヴィス・プレスリーまで、伝記が揃っている。この翻訳が岩波から出始めているが、「ペンギン評伝叢書」というシリーズ名なのである。

「評伝」というのは「批評プラス伝記」であって意味が違うはずだが、何となく「伝記」よりも高級そうな響きがあるので使っているらしい。

 イギリスでは、小説より伝記の方がはるかに格が高い。たとえばジョンソン博士は、小説も一冊だけ書いたが、辞書の編纂のほか、伝記を書き伝記に書かれたために尊敬されているのである。
 ヘスキス・ピアソンという人は、日本で言えば司馬遼太郎が『国盗り物語』や『坂の上の雲』の代わりに『織田信長伝』や『秋山真之伝』を書いてベストセラーになったようなものだろう。あるいは日本がイギリスなら(というのも妙な仮定であるが)、一流作家の書いた吉川英治伝が何種類も出ているはずだ。
 

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2006年11月17日 (金)

わが思い出と冒険――コナン・ドイル自伝

第5章 西アフリカの航海
 …………
 アフリカの死のような印象はますます強くなってきた。現在の食事と習慣をもつ白人は侵入者だと人は感じる。はじめから来る気なんかなかったのだ。むっつりと色の黒いこの大陸は、それをしらみでもつぶすように殺してしまった。私は日記の一端にこう書きつけている――
   おおアフリカ、賢い人が見たという
   お前のよいところはどこに?
   こんな恐ろしいところで暮らすより
   喜捨をうけてでもイギリスにいたい。
 それでも船上の生活は気楽で、ある意味ではぜいたくでさえあった――生涯の方向を定めようとしている若者にとっては、あまりにぜいたくといえた。早すぎる安楽には、人を無気力にする恐ろしさがある。思いおこすが、将来のことを考え――そのとき私は猛烈な雷雨のなかを船尾楼に立っていたのだが――こんな航海をもう一度か二度したら、私の簡素な習慣を忘れ去ってしまい、何ごとに成功するにも必要なはげしい苦闘に耐えられなくなってしまうと思った。文学で成功するなどという考えは毛頭おこらなかった。考えることはやっぱり医学だけであったが、バーミンガムの経験から、何らの信望もなくまたそれに類するものを買い取る資力もないものにとって、前途がいかに険しく遠いものであるかを十分知っていた。そこのその場でこれ以上踏み迷ってはならないと神に誓ったが、これが生涯の分岐点になったことはたしかだ。一度は修業のため放浪するのもよいが、二度となると破滅を意味するだけだ――だがそれをやめるのはむずかしい。有益な黙想をしたこの同じ日に、私はあとの航海中酒を断つ決心をした。わが生涯のうちこの頃はかなり気ままに飲んだもので、頭脳的にも体力的にも十分それに耐えてきたのであるが、考えてみると西アフリカの際限のないカクテルは危険だと思ったので、少しの努力でこれを断ってしまった。節欲そのものには名状しがたい喜びがたしかにあるが、社交的な面に危険があるのだ。もとよりわれわれが真のマホメット教徒のように、みんな禁酒家であったら、失敗するものは一人もありはしない。
(コナン・ドイル『わが思い出と冒険』新潮文庫版pp.68-69)

 同じ箇所をヘスキス・ピアソンはどう書いているか。もう一度見てみよう。

 ある日、激しい雷雨の中で船尾甲板に立っているとき、ドイルはこの航海を最初で最後にするのだと決意した。船の生活は若く野心のある男には快適すぎる。もう一度航海すれば気楽な船医暮しから一生抜け出せなくなる。医者で身を立てるにはこれから大奮闘しなければならない。遍歴も1年なら結構だが2年となると致命的だ。こう思ったので船医は辞めることに決め、航海中もう蒸留酒は飲まないことにした。アフリカの危険も船の贅沢もうんざりだった。彼は日記に詩を書きつけた。

  アフリカよ、汝が顔に賢者の見たる
  妖しき魅力、今いずこ
  怖しき彼の地に長者たらんより
  懐かしき家郷にありて物乞いせん

 ピアソンが『スターク・マンローの手紙』とともに『わが思い出と冒険』を上手に利用したことが分かる。ドイルの記述が少々ごちゃごちゃしているのを簡潔にまとめている。
 ドイルの延原訳では「私はあとの航海中を断つ決心をした」という箇所が、ピアソンの拙訳では「航海中もう蒸留酒は飲まないことにした」となっている。
 どちらが正しいのか?
 ピアソンの原文は--he made up his mind to stop drinking spirits for the rest of the voyage.
 ドイルの原文がどうなっているかは、Memoirs and Adventuresを買って確かめればよいのだけれど、古書価が6万5000円では高すぎる。(1万8000円は抜粋を録音したカセットの値段らしい。)
 多分
I made up my mind to stop drinking spirtits for the rest of the voyage.
だろうと思います。ピアソンはI→he, my→hisと変えただけでしょう。
 spiritsというのはもちろウイスキー、ブランデー、ラム、ジンなどの「蒸留酒」のことです。ビールなどは酒のうちに入らないのだとすれば、「酒を断つ」という訳し方もありでしょうね。
 ドイルはエディンバラ大学医学部へ通っていたとき、毎日昼飯に3ペンスでサンドイッチとビールを買ったと第2章「苦学生」の初めの方に書いてあった。昼にビールを飲んで大丈夫なんだろうか、午後の授業はなかったのだろうか、と思ったのだけれど、大丈夫だったらしい。
 第1章「ケルト人」では、ストーニーハースト校で午後のお茶の時間に「ビールと称するものが出た」が、これはひどい代物で、ドイツのフェルトキルヒ校では本物のビールを飲ませてもらってうれしかったとある。イエズス会の学校で高校生に飲ませるくらいだから、当時の西洋ではビールなど酒のうちに入らなかったのだろう。
『わが思い出と冒険』の引用部分の最後でドイルが
「もとよりわれわれが真のマホメット教徒のように、みんな禁酒家であったら、失敗するものは一人もありはしない」
と、少々分かりにくいことを書いているのは、父親のアルコール中毒のことが念頭にあったからでしょうね。
 ヘスキス・ピアソンはドイル家の委嘱で伝記を書いたのだから、こういう危ないところには触れないようにしたのである。
 それでも遺族、特に息子のエイドリアンには気に入らなかった。改めてジョン・ディクスン・カーが依頼を受け、カーは2年間かかりきりになって『コナン・ドイル』(1949年)を書いた。カーは新機軸を出す必要があったから、西アフリカ航海の話も別の書き方をしている。しかし、この辺についてはまた稿を改めて。

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2006年11月16日 (木)

コナン・ドイル年譜

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1859 アーサー・イグナシウス・コナン・ドイル生まれる。父はチャールズ・アルタモント・ドイル、母はメアリ(旧姓フォリー)。10人兄弟の第3子で長男。両親はカトリックだった。

1868-75 ドイル、イエズス会の小学校ホッダー校に2年、次いでイエズス会のパブリックスクール、ストーニーハースト校に5年在学する。同級生に自分でこしらえた冒険譚を語って人気者になる。

1875-76 大学入学資格試験に合格。オーストリアのイエズス会の学校、フェルトキルヒ校に1年間留学する。

1876 エディンバラ大学医学部入学。ドイル家に下宿していた医師ブライアン・チャールズ・ウォーラーのアドバイスによる。

1877 ブライアン・チャールズ・ウォラー、エディンバラ市内に診療所兼住宅を構え、ドイルの家族はウォーラーと同居する。ドイルはエディンバラ大学に通学。80年までの間にシェフィールド、シュロップシャー、バーミンガムで医者の助手を務める。

1879 父チャールズ、アルコール中毒で精神病院に入院。ドイル、小説処女作『ササッサ渓谷の謎』をチェインバーズ・ジャーナル誌9月号に発表。初論文Gelseminum as a Poisonをブリティッシュ・メディカル・ジャーナル9月号に発表。

1880 2月-9月、捕鯨船ホープ号の船医を務める。

1881 エディンバラ大学医学部卒業。医学士。

1881-2 10月-1月、アフリカ航路貨客船マユンバ号の船医を務める。

1882 プリマスで友人バッド医師のパートナーとなるが喧嘩別れし、6月ポーツマスに移り独立開業する。医業の傍ら小説を書く。

1882-3 ドイル家離散。父は入院。母メアリはヨークシャーのブライアン・チャールズ・ウォーラー家の地所に住む。弟イネス(1873年生まれ)はドイルと同居し学業の傍ら医院の受付を務める。

1885 8月、ルイーズ・ホーキンズ嬢と結婚する。

1887 『緋色の研究』、ビートンズ・クリスマス・アニュアル誌に掲載。

1889 歴史小説『マイカ・クラーク』刊行。長女メアリ・ルイーズ生まれる。米国リッピンコット社編集者、ドイルおよびオスカー・ワイルドと食事し、『四人の署名』と『ドリアン・グレイの肖像』を書かせる約束を取り付ける。

1891 ハーレー街で眼科専門医として開業するが成功せず。ストランド・マガジン7月号に『ボ ヘミアの醜聞』を載せ、12月号の『唇のねじれた男』まで『冒険』の最初の6編が大成功を収める。

1892 1月-6月、『冒険』の残り6編をストランド・マガジンに連載。10月『シャーロック・ホ ームズの冒険』ニューアンズ社より刊行。長男キングズレー生まれる。

1893 ストランド・マガジン12月号の『最後の問題』でシャーロック・ホームズ死亡。『シャーロック・ホームズの思い出』刊行。妻ルイーズの肺結核発病。スイスへ転地する。

1895 ストランド・マガジンに『ジェラール准将の功績』連載。

1897 ジーン・レッキー嬢(24歳)と会い、プラトニックな関係が始まる。

1900 ボーア戦争に野戦病院の篤志監督として従軍。エディンバラで自由統一党候補として下院議員選挙に出るが落選。

1901 ストランド・マガジン8月号に『バスカヴィル家の犬』連載開始。

1902 ボーア戦争で英軍が残虐行為を行ったという誤解を解くべく『南アフリカにおける戦争:その原因と処理』刊行。功績によりナイトに叙せられる。(同年、ホームズはナイトを断る。)

1903 ストランド・マガジン10月号に『空き家の冒険』掲載され、ホームズ復活。

1905 『シャーロック・ホームズの帰還』刊行。

1906 7月、妻ルイーズ死す。インド人弁護士ジョージ・エダルジの冤罪を晴らす戦いを始める。エダルジは翌年釈放される。

1907 9月、ジーン・レッキー嬢(33歳)と結婚。

1909 次男デニス誕生。

1910 三男エイドリアン誕生。

1912 ストランド・マガジン4-11月号に『失われた世界』連載。4月、タイタニック号沈没。船長と乗組員の責任について、ジョージ・バーナード・ショーと論争する。10月、ユダヤ人オスカー・スレイターの冤罪を晴らすため『オスカー・スレイター事件』を刊行。スレイターは1927年に釈放。

1914 5月から7月、北米講演旅行。8月4日、英国はドイツに宣戦布告、第一次世界大戦始まる。

1915 『恐怖の谷』刊行。

1917 ストランド・マガジン9月号『最後の挨拶』

1918 4月、心霊学の本『新たなる啓示』刊行。長男キングズレー(陸軍大尉)、戦傷でインフ ルエンザが悪化して死亡。

1919 2月、弟イネス(陸軍准将)、肺炎で死亡。

1920-30 ドイル、世界各地で講演し、心霊学の大規模なキャンペーンに乗り出す。

1927 ストランド・マガジン4月号『ショスコム・オールド・プレース』。最後のホームズ譚。6月、マレー社より『シャーロック・ホームズの事件簿』刊行。

1929 6月、『マラコット海淵』刊行。ドイル最後の小説。

1930 7月7日、コナン・ドイル死去。

 
・ヘスキス・ピアソンのドイル伝には、ジョージ・エダルジ事件とオスカー・スレイター事件でのドイルの活躍やタイタニック号の沈没をめぐるジョージ・バーナード・ショーとの論争について詳しい記述がある。

・ドイルの父親のアルコール中毒のことはピアソンは触れていない。

・ドイルに大きな影響を与えたブライアン・チャールズ・ウォーラーについては、ピアソンは言及していない。ウォーラーについては小林司・東山あかね氏が独自の説をとなえておられる。この説はちとどうかと思われるが、これについてはまた別の機会に。

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2006年11月15日 (水)

コナン・ドイル伝(8)

 ドイルはその晩ベッドに入ってから、バッドが医者としてどうやって成功したのかを説明せず、二人の共同事業のことは切り出しもしなかったことに気づいた。翌朝彼はバッドに起こされた。バッドはガウン姿で部屋に飛び込んできて、ベッドの足元の鉄枠をつかんでくるりと宙返りした。靴のかかとがドイルの枕に当たった。彼はまったく別の話題を切り出した。
「おい、ドイル、俺がこれから何をすると思う? 自分の新聞を持つんだ。俺とお前で週刊新聞を始めようぜ。フランスの政治家なら誰でもやっているように、自分の機関誌を持つんだ。俺たちに刃向かうやつがいたら、生まれてこなかった方がよかったと思わせてやる。え、どう思う? どうしても読みたくなる気の利いた記事と、ひりひりする痛烈な批評を載せるんだ。俺たちならできるだろう」
「どういう方針でやるんだ?」
「方針なんぞ、どうでもいい。ともかく何でもかでもやっつければいいんだ。新聞の名前はスコーピオンにしよう。市長も市議会もどんどんやっつける。全員集まって首吊りしなきゃならんようにしてやる。俺がぴりっとした記事を書く。お前は小説と詩を書け。ゆうべ考えたんだ。家内はもうマードックに印刷の見積りをさせている。来週の今日、創刊号を出そう」
「おい、バッド」ドイルは驚いた。
「お前、すぐに長編小説を書き始めろ。初めのうちはそんなに患者は来ないだろうから、時間は十分あるだろう」
「しかし俺は今まで長編なんて書いたことがないぜ」
「まともな人間なら誰でも、こうと思い立ったことはやれるはずだ。どんな能力でも自分の中にある。ただそれを発揮する意志さえあればいいのだ」
「お前自身はどうだ? 小説が書けるか」
「むろん書ける。読者が第1章を読んだら第2章が待ちきれなくて唸るような小説が書けるさ。次はどうなるのか知りたくて、みんな俺の部屋の外に詰めかけるさ。さあ、始めるぞ」
 もう一度宙返りすると、バッドは出て行った。
 バッドは言うことも態度も突拍子がなかったが、彼の警句にもドイルは驚かされた。たとえば「ナポレオン・ボナパルトの最大の記念碑は英国の国債である」とか「大英帝国から合衆国への主要な輸出品は合衆国である」などという警句を、ドイルはできればその場でノートに書きとめておきたいと思った。もっとも、彼はかなり記憶力がよかった。 
 朝食後、三人は馬車でバッドの仕事場に向かった。これは白塗りの四角い建物で、ドアには巨大な文字で「ドクター・バッド」と彫り込んだ真鍮板を貼り付け、その下に「10時から4時まで無料診察」と書いてあった。ホールは患者で一杯だった。
「ここには何人いる?」とバッドは聞いた。
「140人です、先生」とボーイが答えた。
「待合室は満員だな?」
「はい、先生」
「庭は満員だな?」
「はい、先生」
「馬小屋は満員だな?」
「はい、先生」
「馬車小屋は満員だな?」
「馬車小屋にはまだ空きがあります、先生」
「そうか、あいにく今日は大入りの日じゃないんだ。まあ、そういつも思い通りになるとは限らん。さあ、さあ、ちょっと道を空けろ」とバッドは患者に怒鳴った。「こっちへ来て俺の待合室を見てくれ。うーん、なんたる空気だ。お前ら窓も自分で開けられんのか。ドイル、この部屋には30人からの人間がいるのに、気が利かない奴ばかりだ。窒息したくなければ窓くらい開けたらいいじゃないか」
「開けようとしたのですが、窓枠にネジ釘が刺さっているんです、先生」と患者の一人が言った。
「お前さん、窓枠が動かないからって窓一つ開けられんようでは、とうてい出世はできんよ」とバッドは言って、男の手から傘をひったくるとガラスを2枚叩き割った。「こうやるんだ。おい、ボーイ、ネジ釘を抜いておけよ。さあ、ドイル、仕事に取りかかろうぜ」
 二人は最上階まで階段を登って行った。途中の部屋はどれも患者で満員だった。広い部屋に入った。家具はテーブルが一つと木の椅子が二脚だけで、テーブルの上には本が二冊と聴診器が一つ置いてある。
「これが俺の診察室だ。年に四千も五千も稼ぐようには見えんだろう。まったく同じ部屋が向こうにもう一つあるから、お前が使え。しかし、今日のところは一緒にいて俺のやり方を見学しろ」
「うん、そうする」とドイルは言った。
「さて、患者を扱うには、一つか二つ、絶対に守らねばならんルールがある」とバッドは言って、テーブルに腰掛けて足をぶらぶらさせた。「まず、これは分かり切ったことだが、患者に来てもらいたいなんてことは、絶対に悟らせてはいかん。診てやるのはあくまでこちらの好意ということだ。さんざん苦労してやっと診てもらえるから、それだけ有り難がるんだ。患者は初めに馴らしてしまえ。服従させろ。致命的な間違いは、患者に丁寧にすることだ。とかく若い医者はこの間違いで駄目になるのだ。いいか、俺のやり方を見ろ」彼は戸口に駆け寄って階下に向けて怒鳴った。「おい、下のやつら、ぺちゃくちゃとうるさいぞ。ここはニワトリ小屋か」患者たちは静まりかえった。「ほら、こうするんだ。これで尊敬される」
「腹を立てないだろうか?」
「立てないね。俺はこういう医者だともう定評ができている。だから、奴らもこれで当たり前だと思っている。それに、患者を怒らせてやる、徹底的に侮辱してやるのは、何よりも宣伝になるんだ。女の患者だったら友達にしゃべりまくるから、たちまちこちらの名前が知れわたる。友達は一応同情はしてみせるが、みんな内心では俺のことをよほど見立ての確かな医者だと思うんだ。これは男の患者だが、胆管のことで俺と喧嘩になった奴がいる。俺はこいつを階段から突き落としてやったね。で、どうなったと思う? そいつは俺のことを言い触らしたから、村中の老若男女が俺のところに押し寄せてきた。4半世紀も村にいて患者をおだてていた田舎医者は飯の食い上げになった。いいか、ドイル、これが人情の機微というものだ。安売りすればそれだけ安くふまれる。高値を付ければ額面通りに買ってくれる。俺が明日にでもハーレー街で開業するとする。立派な設備を整えて、診察時間は10時から3時までだ。患者が来ると思うか? 初めは食えんかも知れん。じゃ、どうすればいいか。俺なら、診察時間は真夜中から午前2時まで、禿頭の奴は倍額ということにするね。こうすれば絶対に話の種になる。好奇心を刺激するからだ。4ヶ月もすれば一晩中患者でごった返すようになるさ。要はあくまで自分流で行けということだ。これが俺の主義だ。朝ここへ来てから、今から田舎へ行くと言って患者を全部帰してしまうこともある。40ポンドからの収入を捨てるわけだが、宣伝としては400ポンドの価値があるんだ」
「しかし、表には診療は無料と書いてあったが」
「無料だよ。しかし薬代は払ってもらう。それに順番待ちがいやな患者は半クラウン払えば先に診てやる。何時間も待つよりは金を払うというのが毎日20人はいる。しかしドイル、間違えないで欲しいのは、実質が伴わなければ何にもならんということだ。俺は病気を治すことができる。これが大事な点だ。俺はほかの医者が見放した患者を引き受けてすぐに治してやる。あとはどうやってここに来させるかだけだ。いったん来れば俺の腕で引き止めておくことができる。医者としての腕がなければ、何をしたって一時限りだ。さあ、今度は家内の仕事を見てやってくれ」
 廊下の突き当たりでは、バッド夫人が楽しそうに調剤の仕事をしていた。
「世界一の薬剤師だ」とバッドは言って彼女の肩をたたいた。「やり方は分かるだろう、ドイル。俺がラベルに処方を書く。いくら取るかも秘密のしるしで書く。患者は廊下を歩いてきて窓口でラベルを出す。家内が調剤して薬を渡し料金を受け取る。さあ、それじゃ、患者を片付けようぜ」
 それからドイルは想像を絶する光景を目にすることになった。次々と患者が入ってきて、処方箋を受け取って出て行った。バッドの道化ぶりはまったく見物であった。彼はわめき、がなり、悪態をついた。患者をこづき、ひっぱたき、突っつき回し、壁に押しつけ、引っ張り込み、診察が済むと放り出した。ときどきは踊り場に出て、階下で待っている患者たちに怒鳴った。入ってきた患者に一言も口をきかせないこともあった。「シッ」と声をかけて黙らせておいて、胸を叩き心音を聴くと、すぐさまラベルに処方を書いて、ドアの外へ追い出すのだった。ある老女は診察室に入るやいなや「お茶の飲み過ぎ。あんたはお茶中毒だ」と怒鳴られてすくんでしまった。バッドは、びっくりして声も出ない老女の黒い外套をつかむとテーブルまで引きずってきて、テイラーの『法医学』を鼻先に突きつけた。「この本に手を置け」とバッドは怒鳴った。「14日間、ココアしか飲まないと誓いなさい」彼女は目を上げて誓いの言葉を述べると、すぐに薬局へ追いやられた。太った男が重々しく入ってきて症状を述べ立てようとすると、バッドは男のチョッキのアームホールをつかんで後ろ向きに廊下に押し出し、そのまま階段を降りて表に放り出した。そしてこう叫んで通行人をびっくりさせた。「あんたは食べ過ぎ、飲み過ぎ、眠り過ぎだ。巡査を一人殴り倒して、釈放されたら、またおいで」「気分が沈む」と訴える女には、薬を処方してからこう言った。「この薬が効かなければコルクを飲みなさい。沈むときはコルクに限るよ」
 一部始終を見ていたドイルは笑いすぎて気が変になるくらいだったが、バッドが診断にかけてはなかなかの腕前であり、相当な心理的洞察力を備えていることは認めざるを得なかった。もっともバッドの薬の処方は大胆を極めていて怖しいくらいだった。だいたい医者はみんな臆病すぎる、患者に毒を盛るのを怖がるようではだめだ、というのがバッドの考え方だった。そもそも医術とは程よく毒を盛ることであって「殺すか治すか」に帰着するというのである。多くの患者に対してバッドは持ち前の磁力を発揮した。彼の自信が患者に自信を与え、彼の活力が患者の活力を回復させた。彼は若い女の患者の両肩をつかんで、自分の鼻を相手の鼻から3インチのところまで近づけると、こう言うのだった。「明日の朝10時15分前になれば、気分がよくなってくるよ。10時20分には、今までで最高の気分になる。明日は朝からじっと時計を見ていなさい。私の言うとおりだと分かるからね」そして、こういう手がまずたいていの患者には効くのだった。
 一日の終わりに、バッドの稼ぎは32ポンド8シリング6ペンスになった。バッドはこの金をズックの袋にしまい込み、腕を伸ばして見せびらかすように袋を持ってじゃらじゃら鳴らしながら、妻とドイルをミサの侍者みたいに両脇に従えて通りを歩いて帰るのだった。ドイルは実にきまりが悪かった。
「俺はいつも医者が集まっている通りを歩くことにしている」とバッドは言った。「この辺がそうだ。奴ら、窓から見て俺が通り過ぎるまで歯ぎしりして地団駄踏むんだ」
 そんなことをするのは品がないし、むやみに敵意をあおるだけだとドイルは思ったから、そう言った。バッド夫人も同じ意見だった。バッドは「家内はほかの医者の細君連中がお茶に来てくれないのが不満なんだ」と答えた。彼は金の袋を揺すって見せた。「ねえ、お前、頭の悪い女どもが来て居間でぺちゃくちゃおしゃべりするより、こっちの方がずっといいじゃないか。ドイル、俺はね、大きなカードを一枚作らせてあるんだ。『私どもはこれ以上知人の輪を広げるつもりはございません』と書いてある。怪しい奴が来たらこのカードを見せるように、メイドに命令してある」
「金は金で大いに稼いでおいて、医者仲間とも仲良くやって行けばいいじゃないか」とドイルは言った。「お前の話を聞いていると、この二つは両立しないみたいに聞こえる」
「両立しないね。おい、はっきり言っていいぜ。俺のやり方は職業倫理に反すると言いたいのだろう。実際、俺は医者仲間の仁義なんて、はなから無視しているからね。今日お前が見た様子を医師会の連中に見せたら仰天するだろう」
「なぜ医者の不文律に逆らうんだ?」
「俺はカラクリを知っているからさ。おい、俺は医者の息子だぜ。この世界のことは内側から全部見て、裏の裏まで知っている。職業倫理なんて偉そうなことを言うのは、年寄りが仕事を独占するためだ。若い者を抑え込んで抜け駆けさせないためだ。親父がそう言うのを何度も聞いた。親父はブリストルでは一番流行る医者だったが、頭はてんで駄目だったね。うまくやったのは年功序列のためだ。割り込みはいけません、ちゃんと並びなさい、というわけだ。自分が先頭にいるのなら、これで大いに結構だ。しかし列の尻尾についているときはどうだ? 俺が最上段まで上ってしまえば、下を見下ろして『諸君、我々医師は厳格な職業倫理を守ろうではありませんか。お若い方々はゆっくりと上ってきていただきたい。私の安穏な地位を脅かさないでいただきたい』と言ってやる。もちろん、俺の言うことを聞くような奴がいたら、そいつはどうしようもない馬鹿だ。ドイル、どう思う?」
 ドイルは、その意見には全く賛成できないと言った。
「そうか、賛成できないのか。そんならそれで構わんがね、俺と一緒にやって行くつもりなら、職業倫理なんかドブに捨てろ」
「そんなことは出来ん」
「ふん、良心がとがめると言うのか。それじゃ、手を引いてもらおう。無理やり引き止めるわけにもいかんだろう」
 ドイルは黙っていたが、帰るとすぐに自分の部屋に行ってトランクに荷物を詰め始めた。その晩のうちにバーミンガムに帰るつもりだった。荷造りしている間にバッドが入ってきた。彼は平謝りに謝ってようやくドイルをなだめた。
 夕食のあとで奇妙な出来事があった。二人は奥の間で空気銃に鉄のダーツを込めて撃って遊んでいた。バッドがドイルに「半ペニー銅貨を指でつまんでかざしてくれないか。俺が撃ち落とすから」と言った。半ペニー銅貨がなかったので、バッドが青銅のメダルを取りだし、これをドイルがかざした。ポンと空気銃の音がして、メダルは落ちた。
「見事真ん中に命中したぞ」とバッドが言った。
「とんでもない」とドイルは答えた。「外れだよ」
「外れだって? ちゃんと当たったぞ」
「いいや、当たってないね」
「じゃあダーツはどこだ?」
「ここだ」とドイルは言って、血の出ている人差し指を見せた。ダーツが突き刺さっていた。
 バッドは仰天して、まことに済まなかったと大いに恐縮したので、ドイルも笑って済ませるほかはなかった。指に刺さったダーツを抜き、バッドも気を取り直したところで、ドイルはメダルを拾い上げてみた。メダルには「ジョージ・バッドの勇敢なる人命救助を称える。1879年1月」と彫り込んであった。
「おい、この話は聞いてないぞ」ドイルは言った。
「ああ、メダルのことか」バッドは答えた。「お前は持ってないのか。誰でも一つくらい貰っているものだと思ったが。お前は選り好みしたんだな。俺の場合は小さい男の子でね。その子を落とすには大汗をかいたよ」
「落とすとはどういうことだ? 引き上げたのだろう?」
「分かっとらんな。子供一人海から引き上げるくらい、誰にでも出来る。落とすのが難儀なんだ。まったく、メダルを貰うくらいの値打ちはあるね。もちろん証人だって揃えなくちゃならん。1日4シリング払った上に夕方にはビールを1クォートおごらせられた。その辺の子供を適当に掴まえてきて埠頭から放り込むわけにも行かんだろう。そんなことをしてみろ、親と揉めて大変なことになる。チャンスが来るまで辛抱強く待たなくちゃならんのだ。埠頭を行ったり来たりしているうちに扁桃腺炎にかかりそうになった。やっと見つけたのが、ぼんやりしたデブのガキでね。水際に坐って釣りをしていた。後から腰を蹴ってやったら、びっくりするぐらい遠くまで飛んだ。釣糸が俺の足に二重に絡みついて、引き上げるのに少々骨を折ったが、最後にはすべてうまく行った。何しろ証人はしっかりしていたからね。子供は次の日に礼に来て、腰に打撲傷があるほかはどこも悪くないと言った。両親は今でもクリスマスになると七面鳥を送ってくるよ」
 バッドは席を立った。煙草を取りに2階に上っていく途中で、彼が大声で笑うのが聞こえてきた。ドイルはじっとメダルを見つめた。これはダーツの的としてずいぶん使っているらしい。バッド夫人は「真に受けないで下さいね。あの人、いつも出任せばかり言うんですから」と言って、証拠として新聞の切り抜きをドイルに見せた。バッドが助けたのは氷が割れておぼれた子供で、危うく自分の命を落とすところだったのだ。
 ドイルは自分の仕事を始めたが、実りは多くなかった。彼は自分の名前を大きな文字で書いた表札を出し、バッドの向かいに自分の診察室を構えたが、ドイルのやり方は患者を引きつける刺激に欠けていた。はじめの3日間、彼は何もせずに診察室に坐っていた。廊下を隔てた向かいの診察室では、パートナーがふざけ散らして患者ともみ合い、踊り場に出てきて下で待っている患者に怒鳴っていた。4日目になって、退役した下士官が来て鼻の腫瘍を見せた。いつも粘土の短いパイプを使っていたので煙草の熱でできたものだった。ドイルは、その日は患者を家に帰しておいて、2日後にバッドの馬車に乗って手術に出かけた。これはドイルには初めての手術だったが、幸い患者の方はそんなことは知らなかった。びくびくしているのはドイルの方だった。しかし結果は大成功で、下士官は手術で鼻の形が上品になったと大喜びだった。その後はぼつぼつと患者が来るようになり、貧乏人ばかりが相手だったが収入は徐々に増えてきた。最初の週は1ポンド17シリング6ペンスだったが、第2週には2ポンドになり、第3週は2ポンド5シリング、第4週は2ポンド18シリングであった。
 
〔ドイルの母はバッドとの付き合いに反対で、「そんな下品な友だちとは即刻縁を切りなさい」という手紙を何度も寄越していた。これをバッド夫婦が盗み読みしていたため、二人の仲は険悪になってきた。ドイルは独立して開業する決心をした。しばらくの間毎週1ポンドずつ送金してやるというバッドの嘘を真に受けて、ドイルはポーツマスに出発した。資金は6ポンドしかなかった。――第3章終わり。〕

 訳文があるのはここまで。原書全188ページの47ページまで。
 ジョン・ディクスン・カーの『コナン・ドイル』は早川書房のハードカバーで568ページですが、本書なら全部訳してもページ数は半分に満たないでしょう。しかし、本書の方が内容ははるかに充実していて面白いと思う。
 ここまで読んでくると、友人ジョージ・バッドがいなければドイルは作家にならなかっただろう、ホームズもチャレンジャー教授もいなかっただろう、ということが分かります。
 そのバッドについて、ジョン・ディクスン・カーはどう書いているか。

 興行師的な経営法と、インチキ療法と、純粋な医学的手練を合わせ用いて、じっさいにバッドはサーカスじみた繁盛ぶりを見せていた。待合室にも、階段にも、前庭にも、馬車置き場にも、患者たちが、いっぱいつめかけ、彼はそれらの患者たちの上に君臨していた。彼は患者たちをどなりつけたり、ふつうどんな医者でも髪の毛を逆立てるような方式で薬品を処方したりしていた。一日の診療がすむと、彼は、その日に稼いだ金銀を入れた袋をぐっと前へ突き出すようにして持ちながら、繁華街をゆっくりと歩いて行った。そして、その両側には、彼の妻と共同者とが、司祭を補佐する侍僧のように、ついて行った。
「おれは医者どもがたくさん巣くっている当たりを通って行くことにきめているのだ」とバッドは説明した。「おれたちはいま、そういう地点を通過しているのだ。おれの姿が見えなくなるまで、奴らはみな窓にとりついて歯ぎしりして地団駄ふんでいるのだよ」
 それから数ヶ月にわたる狂想的行状を詳記するのは、この伝記の役目ではない。それはコナン・ドイル自身が『スターク・マンローの手紙』(The Stark Munro Letters)のなかでやっている。この本の内容は、少数の出来事をのぞけば、だいたい自伝的なものである。これを利用して書けば、わが文学史上でも最も見事な滑稽な場面を、幾ページにもわたってくりかえすにすぎないことになろう。だがその結末(『スターク・マンロー』だけでなく、そのとき書かれた手紙からたどりつかれる結末)は、少しも滑稽ではない。(早川書房版pp.69-70)

  1949年にこの伝記を書いたディクスン・カーは1943年のヘスキス・ピアソンによる伝記を批判しているのです。しかし、スターク・マンローの手紙を「くりかえすにすぎない」と言ってバッドの行状記を省いてしまったのはもったいない。ピアソンがスターク・マンローの手紙を利用していることは確かだけれど、独自の調査で多くの新発見をしています。半世紀以上前に書かれたものだから、アップデートすることは必要だけれど――しかし、この辺はまた稿を改めて。

 

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2006年11月14日 (火)

コナン・ドイル伝(7)

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 それから数ヶ月して、ドイルは西アフリカに向かった。戻ってから人づてに聞いたところでは、バッドは債権者を一堂に集めていかに逆境と闘っているかを事細かに語り、聞き手の中にはもらい泣きする者もいたという。彼らは請求の無期限延期を快諾し、全員がバッドを信頼すると言い、もう少しで奉加帳を回して餞別をくれるところだったという。 
 アフリカから戻ったドイルは独立して開業に踏み切るべきかどうか迷っていたが、1882年の春の終わりころ、バッドから電報が来た。「去年7月当地プリマスデ開業大成功。俺ノヤリ方デ医業ヲ革新スル。大儲ケシテイル。数百万ノ価値ノ発明アリ海軍省ガ採用セネバブラジルガ世界一ノ海軍国ニナル。電報見次第汽車デ来イ。オ前ノ仕事多シ」ドイルはバーミンガムに戻っていたが、バッドを信用しきれなかったから勧めに従う気はなかった。彼は手紙を書いて、まずまずやっているから今の仕事を辞めるつもりはない、そちらで本格的な仕事があるなら別だが、と言ってやった。10日ばかり返事がなかったが、バッドはまた電報を寄越した。「手紙見タ俺ヲ嘘ツキト言ウカ。去年1年デ患者3万人収入4000ポンド以上。患者ハ全部俺ニ来ル大混雑。往診外科産科ハ全部任セル稼ギ放題。初年度300ポンド保証スル」ドイルは助手を務めていた医者と相談してから、プリマスに発った。
 今度もバッドはプラットフォームに出迎え、大声でドイルを歓迎して背中をどやしつけた。
「おい、ドイル、二人でこの町を征服しよう」バッドは早速まくし立てた。「町中の医者を一掃してやろうじゃないか。今のところ奴らもかつかつ食えているが、俺たちが協力して仕事を始めたらすぐに干上がってしまうぜ。いいか、この町には12万からの人間がいて、みんな医者に診てもらいたがっているのに、まともな医者がいないと来ている。患者は集め放題だぞ。黙って坐っておれば金は唸るほど入ってくる」
「しかし、どういうことなんだ?」ドイルは腑に落ちなかった。「そんなに医者の数が少ないのか?」
「少ないどころか」とバッドは叫んだ。「町中医者だらけだ。石を投げれば医者に当たるくらいだぜ。ところが、そいつらが揃いも揃って……まあ、お前が自分で見れば分かる。ところで、ブリストルでは家まで歩いたな。プリマスでは友達を歩かせるなんてことはしないぞ。どうだ」
 ここで、明らかに予め手筈を整えておいた一場の喜劇が演じられた。見事な黒馬二頭が引く豪華な馬車が二人を待っていた。御者がぺこぺこして「今日はどちらのお屋敷に参りましょうか」と尋ねた。狙い通りドイルが感心しているのを見て満足したバッドは、夕食の準備も整っただろうから「町の屋敷へやれ」と命じた。馬車の中でドイルが驚いたと言うと、バッドは今のところは町の屋敷と田舎の屋敷と仕事場の三つだけなのだと答えた。
「仕事場というのは、診察室と待合室だな?」とドイルは尋ねた。
「全然分かっておらんな」とバッドは言った。「お前みたいに想像力の乏しいやつも珍しい。手紙にも書いたし電報も打ったじゃないか。俺が二間きりでやっていると思うのか。そのうちに町の広場を借り切るぞ。それでも狭くて困るくらいだ。いいか、大きな家で、どの部屋もぎっしり満員で、地下室まで人が重なって坐りこんでいる。これがふだんの俺の仕事場だ。患者は50マイルも離れた田舎から出てきて、管理人が来たときに一番に入れて貰えるように戸口に坐りこんでパンなんぞを食ってるんだ。混み過ぎだというので保健所から注意されたくらいだ。馬小屋も患者で一杯で、まぐさ桶のそばや馬の腹の下にまで坐っている。もちろん、患者の一部はお前にまわしてやる。そのときになって驚くなよ」
 馬車は交差点に面した大きなホテルのような建物の前で止まった。ドイルが後で知ったところでは、ここは一流のクラブだったが家賃が高すぎて維持できなかったのだという。通りから玄関まで堂々たる階段が続き、5階か6階建ての建物の上には尖塔と旗竿が立っていた。30室以上もある寝室には家具がなかったが、一階の各部屋とホールは壮大なものだった。「狭いところだが」と謙遜してみせてから、バッドはドイルを上の階に案内した。ドイルの寝室には、小さな鉄製のベッドと荷物箱の上に置いた洗面器があるだけだった。バッドはドアから飛び出ている釘を打ち込みながら説明した。「間に合わせに40ポンドの家具なんぞを入れてみろ、全部窓から放り出さなきゃ、100ポンドのものは入れられない。それも馬鹿馬鹿しいだろう、ドイル。ここの内装は、どこよりも豪華にするつもりだ。100マイルも離れたところから見物に来るくらいにしてやる。しかし、まあ一部屋ずつやらないとな」
 バッド夫人はドイルを温かく歓迎した。夕食は、食堂の家具や絨毯やカーテンによってかき立てられた期待を裏切らないものだった。バッドは自分がどれだけ莫大な金を支払ったかを夢中になって述べ立て、スープが冷めるのも構わず部屋中の椅子やカーテンを見せてまわった。給仕しているメイドの腕をつかまえて振り回し、「どうだ、こんなきれいな子はなかなかいないぞ」と言うのだった。食事の途中で部屋から飛び出して行ったと思うと、現金が詰まった袋を持ってきてテーブルクロースの上にぶちまけた。「今日一日の稼ぎだ」と彼は説明した。数えてみると31ポンド8シリングあった。これだけ稼いでいると聞けばブリストルの債権者たちもさぞ喜ぶだろうとドイルが言うと、上機嫌は一瞬に消えて陰険な顔に変わった。バッド夫人はメイドを部屋から出て行かせた。
「何ということを言うんだ」とバッドは叫んだ。「俺があの借金をせっせと返し続けて何年も不自由な思いをすると思うのか」
「そうすると約束したはずだが。むろん俺が口出しすることではないが」
「むろん口出しなんぞ無用だ。いいか、商人に損得は付きものだ。貸し倒れにはちゃんと引当金を積んでいる。俺だって払えるものなら払ったさ。あのときは払えなかった。だから帳消しにした。せっかくプリマスで稼いだものをブリストルの商人にやってしまうなんて、正気の人間が考えることか」
「払えと言ってきたらどうする」
「そのときはそのときさ。今は何でも現金払いだ。この家の中にあるものだけで、もう400ポンドは使った」
 そのときドアを叩く音がして、金ボタンのお仕着せを着たボーイが入ってきた。「先生、ダンカンさんがお見えになりました」
「ダンカンさんか、そうだな、とっとと失せろ糞野郎と言ってやれ」
「まあ、ジョージ」と夫人が叫んだ。
「お食事中だ。ヨーロッパ中の王様が揃ってホールで待っていても俺はここを動かんと言ってやれ」
 しばらくしてボーイがまた戻ってきた。
「先生、ダンカンさんはお帰りになりません」
「お帰りにならん? どういうことだ、このガキ。何をぐずぐずしとるんだ」
「お勘定をと言っておられます」
「お勘定だって?」バッドの額の血管が膨れあがった。「おい、いいか」時計を取り出してテーブルの上に置いた。「今、8時2分前だ。8時きっかりに俺はホールに出て行く。そのときあの男がまだいたら、八つ裂きにして通りにばらまいてやる。細切れにして教区中にまき散らすと言え。二分あれば命が助かる。しかし一分はもう過ぎた」
 数秒後、玄関のドアがばたんと閉まる音がした。バッドは大声で笑いだし、しばらく笑いが止まらなかった。「あいつ、そのうちに気が狂うぞ」彼は涙を拭きながら言った。「気の弱い臆病なやつで、俺がにらんでやると青くなるんだ。あいつの店の前を通るときはちょっと立ち寄って顔を見てやる。何も言わずに黙って顔を見るだけだが、すくんでしまいやがる」この男はバッドに食料品を売っていたが、一二度彼を騙したことがあった。それでこのような取り扱いを受けることになったのである。しかしバッドは、明日にでもあいつに20ポンド払ってやれと妻に命じた。
 夕食が終わると三人はバッドの実験室に入った。ピストルが数挺と弾丸、カラス撃ち銃が一挺、蓄電池、それに大きな磁石が一つあった。ドイルがこれは何に使うのだと尋ねると、バッドは妻の顔を見て同じ問いを繰り返した。「制海権獲得装置」と彼女は忠実に答えた。
「その通り、制海権獲得装置だ」とバッドは得意げに言った。「お前の目の前にあるのがそれだ。おい、ドイル、俺はな、明日にでもスイスへ行ってこう言ってやってもいいんだ。『あいにくお国には海も港もありませんが、船一艘にスイス国旗を掲げさせていただければもう大丈夫です。世界中の海をスイスのものにして差し上げます』俺は世界の海を掃討してマッチ箱一つ浮かばんようにしてやる。株式会社にして役員になるんだ。海という海は俺の手中に入る。笑いたければ笑え。配当が入って来たときにどんな顔をするか見たいよ。おい、あの磁石はいくらの値打ちがあると思う?」
「1ポンドかな」
「100万ポンドだ。ビタ一文まけないぞ。それでも捨て値みたいなものだ。がんばればその10倍だって取れるが、まあ100万にしておくつもりだ。1週間か2週間したら海軍大臣の所へ持って行く。大臣が礼儀をわきまえた男だったら取り引きしてやる。おい、ドイル、大西洋と太平洋を両脇に抱えた男が海軍省に現れるなんて、そうそうあることじゃないぞ」
 ドイルはしばらく懸命に我慢していたが、吹き出してしまった。バッドは大いに憤慨したが、やがて自分も笑い出した。
「馬鹿馬鹿しいと思っているんだろう」と言って、彼は部屋中を歩き回り両腕を振り回した。「まあ、こんな工夫をしましたなんて他人が言い出せば、俺だってそう思うな。じゃ、見せてやろう。しかしお前もよっぽど疑り深いやつだな。興味があるような顔をして内心では笑っているな。第一に、詳しいことは教えられんが、俺は磁石の磁力を百倍にする方法を発見した。ここまでは分かるな?」
「うん」
「よろしい。次に、現代の砲弾は鉄でできているか、鉄の被甲をかぶせてあることも知っているな。磁石が鉄を引きつけることも、たぶんご存じであろうな。それでは、ちょっとした実験をお見せしよう」こう言うとバッドは装置の上にかがみ込んだ。パチという音がして電気が入った。「これは」とバッドは言って箱から取り出したものを見せた。「射的用のピストルだ。20世紀にはこいつが博物館に飾られる。新時代の幕を切って落とした武器としてな。遊底を引く。狭窄弾を一発込めるぞ。実験用に特別に鉄で作らせたのだ。壁のあの赤い封蝋の塊を狙う。磁石の4インチ上だ。俺の射撃の腕は確かだ。ほら、撃つぞ。それじゃ、前に進んでよーく見てくれ。弾は磁石に当たってひしゃげているだろう。笑ったことを謝るんだな」
 ドイルが見てみると、確かにバッドの言う通りだった。
「おい、もう一つ実験をしよう」とバッドは言った。「今度は家内の帽子の中に磁石を入れるから、お前、顔を狙って6発撃ってみろ。これならどうだ。撃たせてやってくれるね?」
 バッド夫人はそうしてもよいと言ったが、これはドイルの方で断った。
「あとは規模の問題だ」とバッドは続けた。「未来の軍艦は船首と船尾に磁石を装備する。砲弾はこの弾の何倍も大きいから、それだけ磁石を大きくすればよいのだ。いや、別に筏を作って俺の装置を載せる方がいいかな。船が作戦行動に入る。するとどうなると思う、ドイル。相手が何発撃ってきても全部磁石に引き寄せられてぴしゃりとくっついてしまう。筏の下には回収装置を付けておいて、電気回路を切ればくっついた鉄が下に落ちるようにしておく。作戦が終われば屑鉄に売ってあがりは乗組員で山分けだ。いや、そんなことよりも、俺の装置を搭載した船には絶対に敵弾は当たらんのだぞ。そのうえコストが安い。装甲なんか要らない。何にも要らんのだ。この装置さえ搭載すれば、水に浮かぶ船は全部不死身になる。未来の軍艦は一隻7ポンド10シリングもあればできる。また笑ってやがるな。磁石とトロール船と七ポンド砲が一門、これだけでどんな戦艦とも渡り合えるんだぞ」
「しかし、どこかに欠陥があるはずだ」とドイルは言った。「もし磁石がそんなに強いのなら、片舷斉射が全部ブーメランみたいに戻って来るじゃないか」
「そんなことはない。大きな違いがある。打ち出した弾はものすごい初速で飛び出して行く。ところが、飛んでくる弾はちょっと偏向させれば磁石にくっついてしまう。それに回路さえ切れば、磁石を無効にして片舷斉射ができる。終われば回路を入れてたちまち不死身になる」
「ボルトやスクリューなんかはどうなる?」
「未来の軍艦は全部木で作るんだ」
 あとになってドイルは、バッドが自分の発明の決定的重要性を当局に理解させられなかったことを知った。「俺はお国のために残念に思う」とバッドは嘆いた。「しかしこれで英国の制海権はなくなった。この装置はドイツ人が手に入れることになるが、俺が悪いんじゃないぞ。破滅が来ても俺を非難しないで欲しいね。海軍省の連中に見せて、小学生でも分かるように説明してやった。ところが連中の寄越した手紙ときたら、ドイル、ひどいもんだ。戦争になって俺があの手紙を公開したら絞首刑になるやつが出るね。これが疑問、あれが疑問とうるさく聞いてきやがった。磁石は何に固定するのかと聞くから、俺は答えてやったよ。何でも固くて貫通できないものなら結構、たとえば海軍省のお役人の石頭なんかどうだろうとね。それで全部おしまいだ。まことに残念ですがと言って送り返してきた。俺もまことに残念ですが地獄へでも行って下さいと返事してやった。これが一大歴史的事件の終わりだ。どうだ、ドイル」

訳者付記 『マスグレーブ家の儀式』によれば、ホームズは「……アームチェアに坐り、向かいの壁をVRという愛国的文字の弾痕で飾る」ことがあったそうです。しかし室内射撃を趣味にしていたのはホームズだけでないことが分かります。この部分には翻訳上の問題が一つあるのですが、後日別に考察します。

Vr

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2006年11月13日 (月)

コナン・ドイル伝(6)

第3章 ドクター・バッド

 バッドは大学を終えるとエディンバラから姿を消して手紙ひとつ寄越さなかったから、ドイルは何ヶ月か彼の消息を知らなかった。ところが1881年春のある日、ブリストルから電報が届いた。「スグコイ至急オマエガ必要バッド」。ドイルはバッドの父親がブリストルで有数の開業医だったことを思い出し、彼が亡父の跡を継いで開業しているのだと思った。ドイルはそのころバーミンガムで働いていたが、すぐにブリストルに向けて発った。バッドが仕事を紹介してくれるのだと思ったのである。駅のプラットフォームにバッドが出迎えた。例によって帽子をあみだにかぶり、チョッキのボタンは外したままだったが、珍しいことに首にはカラーを付けていた。彼は大声でよく来たなと言うとドイルを客車から引っ張り出し、鞄をひったくって通りを急がせた。その間ありとあらゆることをまくし立てたが、電報を打った理由だけは言わない。話がフットボールから自分の最近の発明に飛ぶと、バッドはたちまち興奮して身振り手振りの邪魔になる鞄をドイルに返して寄越した。
「おい、ドイル、鎧が使われなくなったのは、なぜだと思う? 知らんだろう。教えてやろう。立っている人間の体をぜんぶ鉄で覆うのでは重すぎて動けんからだ。しかし最近は戦争も立ってはしなくなった。歩兵はみんな腹這いになる。だからそう大げさなものは要らんはずだ。それに鉄も進歩したんだ。冷硬鋼とかベッセマー鋼とかは知っているな。さて、ドイル、歩兵一人覆うのに鉄がどれだけ要ると思う? 14インチに12インチの鉄板を2枚、V字型に張り合わせたものがあればいいのだ。敵が撃ってきても弾はみんな斜めに当たって逸れてしまう。片方の鉄板にはライフル射撃用の穴を開けておく。これでバッド式携帯防弾盾が一丁出来上がりだ。重さか? 16ポンドだ。ちゃんと計算したんだ。中隊ごとにこの防弾盾を荷車に積んでおく。いざ戦闘となれば一人ずつに配ればいい。射撃のうまい兵隊を2万人も俺に預けてみろ、カレーから上陸してたちまち北京まで行ってみせるぞ。おい、士気を考えてみろ。こちらの撃つ弾