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2006年11月29日 (水)

敬愛なる?ベートーヴェン

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 第九誕生の裏に、耳の聞こえないベートーヴェンを支えた女性がいた。敬愛なるベートーヴェンというのですが。

 変だ。「敬愛するベートーヴェン」なら分かるけど。
 これは北朝鮮から始まった言い方でしょう。たとえば

南朝鮮のマスコミは、米国の核策動と関連して、問題解決の根本的な鍵が平壌にあり、米国の戦争遂行能力を一瞬のうちに麻痺させられる軍事戦略と領軍術、高度な対米戦略を体現される敬愛なる将軍様がいらっしゃる限り、朝鮮半島でいついかなることが起きて驚かされるかわからないので、心の準備をしっかりとしておくこと

全てのイルクンは、歴史的な6・15共同宣言を準備して下さり、祖国統一の転換的局面を開いて下さった敬愛なる将軍様の偉大さをよく理解し、将軍様の先軍領導を受け、祖国統一の歴史的偉業を成し遂げる闘争において、自己の全戦力と知恵を捧げなければならない

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 ものすごい。戦略情報研究所のXファイルという文書です。2006年5月31日付。詳しくはここ
 北朝鮮は漢字を廃止した。ところが大和言葉に当たる「コリア言葉」では用が足りないらしい。どうしても「漢語」(あるいは日本語)が必要なのだけれど、漢字の支えがないから使い方が滅茶苦茶になってしまったのだ。

 しかし朝鮮を笑ってばかりはおれないと思う。手紙の書き出しに使うDearの訳語に「親愛なる」というのがありますね。あれはちょっと怪しい。
 Dear Marylynなら「かわいい/いとしいマリリン」くらいでよろしいが、別にかわいくもいとしくもない場合もあるから仕方なく「親愛なる」という訳語をでっち上げたのでしょう。いつ頃から使い始めたのだろう?
 塩谷温の新字鑑を引いてみると親愛は「したしみいつくしむ」とあって「大学」から例文を引いている。明らかに動詞である。親愛スルは言えるだろうが親愛ナルはどうもインチキである。親密ナルならよろしい。敬愛や親愛だけでなく、○愛の形ではほとんど動詞になるはずである。遺愛 渇愛 割愛 求愛 溺愛 盲愛など。
 このあたりは漢文を引いて縦横に論じたいところだが、そんな教養はないのが遺憾である。
 ついでに、いつも気になっていることをもう一つ。
 Nondisclosureを何と訳しますか? 「不開示」か「非開示」か? 多数決では後者が多いと思うが、開示は動詞のはずである。「開示せず」である。「開示にあらず」なんてナンセンスだと思うのだけれど。
   こういう問題は高島俊男先生に質問してみたいものだが、週刊文春の連載も終わってしまったし、お元気にしておられるだろうか? 
 

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2006年11月27日 (月)

A Case of Identityの訳題

同一人物

「ねえ君」とシャーロック・ホームズは言った。私たちはベーカー街の彼の下宿の暖炉を間にして座っていた。「人生は人間の頭が創り出せるどんなものよりもはるかに不思議だね。僕たちの思ってもみないことが現にまったくありふれたものとして存在しているんだからねえ。もしも僕たちがその窓から手を携えて飛び立ち、この大都会の上空に浮かび、そっと家々の屋根を取り去り、中をのぞき込むと、そこでは変わったことが起こっている、奇妙な偶然の一致、さまざまな計画、行き違い、不思議な出来事の連鎖、それらは何世代にもわたって生じきて、きわめて突飛な結果をもたらす、それを見れば因習的で結末が見越せる小説などみんなひどく古くさくて無益なものになってしまうさ。」
 「でも私にはそうとばかりは思えないな」と私は答えた。「新聞で明るみに出る事件は、概して、まったくあからさまだし、まったく俗悪だ。警察の調書では極限ぎりぎりまでリアリズムが押し進められるが、でもその結果は、実のところ、魅惑的でも芸術的でもない。」
 「現実的な効果を生み出すには一定の選択と裁量が必要なんだ」とホームズは言った。「それが警察調書には欠けているんだ。たぶん、観察者にとって事件全体のきわめて重要な本質を含んでいる細部よりも、裁判官の使う決まり文句が強調されるからだね。間違いないよ、平凡なものくらい異常なものはないんだ。」
 私は微笑み、首を振った。「君がそう考えているのはよくわかったよ」と私は言った。「もちろん君は、三大陸の至る所、私的にすべての困り果てている人の相談に乗り、力を貸すと言う立場で、あらゆる不思議なこと、奇怪なことに接している。しかしほら」-私は床の朝刊を拾った-「それを実地に試してみようじゃないか。じゃあ、最初に私の目に付いた見出しだ。『夫の妻に対する虐待。』この欄の半分に印刷されているが、私には読まなくてももうすっかりなじみのものだとわかるよ。もちろん、ほかの女、酒、突く、殴る、打ち身、同情する姉やおかみさん、だ。よほど露骨な記者じゃなければこれ以上露骨なものは考えつくまい。」
 「まったくねえ、君の挙げた例は君の主張にはあいにくだなあ」とホームズは、新聞を手に取り、そこにチラと目を落としながら言った。「これはダンダスの別居の件だが、たまたま僕はね、これに関係したいくつかの小さな問題を解決する仕事をしたんだ。ご亭主は禁酒主義者で、ほかに女なんかいない、で、不満の元になったふるまいというのがいつの間にか出来上がったその男の習慣さ、それが食事の終わりのたんびに入れ歯をはずして女房に投げつけるというもので、これなんかどうだい、並みの作家の想像の及ぶところではなさそうな行為だろう。嗅ぎ煙草を一服やりたまえ、博士、そして君の例で僕が勝ったことを認めたまえ。」

原題:A Case of Identity
著者:Conan Doyle
訳者:coderati[coderati@msn.com]
2006年9月1日公開
Copyright(C)2006 coderati
 
 A Case of Identityは『花婿失踪事件』では困るし、まさか『正体の事件』とも訳せまいし、どうすればいいのかなあと思っていましたが、同一人物とすればよいのだ。coderatiさんの案に全面的に賛成。
 翻訳の全文はここ
 訳文については、賛成しかねる箇所もある。しかし、仮に私が『同一人物』を翻訳してインターネットで公開したとすれば(そんな余裕はありませんが)、賛成できんという人はたくさんいるでしょうね。
 coderati氏は地下室の本棚というサイトで、ホームズだけでなく、ジョイス、ディケンズ、ドストエフスキー、ロレンスなどの訳を公開している。
 The Return of Sherlock Holmesは「帰ってきたシャーロック・ホームズ」である。「帰ってきた渡り鳥」は小林旭であった。

 ホームズの訳をインターネットで公開している人は、ほかに大久保ゆう氏(『赤毛連盟』など)がある。こちらも一見の価値はあるでしょう。

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2006年11月24日 (金)

正典の61編目?

昨日の答え。
 The Man Who Was Wantedという作品です。全文(英語)はこちら
 ホームズの正典は御存じのように長短合わせて60編ですが、一時はこれが61編目として扱われていた。つまりコナン・ドイルの作品とされていた。
 1952年月曜書房から刊行された「シャーロック・ホームズ全集第13巻」(延原謙訳)には、這う男、獅子の鬣、覆面の下宿人、ショスコム荘、隠居絵具師とともに本編が『求むる男』として収録されていた。
 しかし、現在では、ワトソン/ドイルによるものではない、正典ではなく外典であるということになっている。

 1943年、コナン・ドイル伝を書くために調査していたヘスキス・ピアソンは、The Man Who Was Wantedという標題のホームズの短編を発見した。タイプで打ったものである。ドイルの原稿はすべて手書きだったが、秘書にタイプで清書させたと考えればおかしくない。ピアソンはこの原稿の内容を慎重に検討し、ドイルが書いたものだと判断した。
 伝記では次のように書いている。

「……この主人公をかくも長きにわたって維持することができたのは、また読者も最近のホームズ譚が初期作品に比べて遜色がないと見てくれているのは、私が無理に話を作りはしなかったからである」とドイルは書いている。この主張の裏付けとしては、私が彼の書類の調査中に発見したホームズ短編の完成稿をあげればよいだろう。未発表のこの原稿はThe Man Who Was Wantedと題されている。確かに全体として水準には達していないが、冒頭の部分だけはドイルの名に恥じぬものであり、引用に値すると思う。
(以下、ピアソンは、書き出しの部分だけを、ただし拙訳部分よりもう少し長く引用する。)

 ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝が評判になると、この「ドイルの未発表原稿」を読みたいという要望が高まった。
 1948年、The Man Who Was Wantedはアメリカのコスモポリタン誌8月号に「長らく失われていたシャーロック・ホームズ譚」として発表された。英国ではサンデイ・ディスパッチ誌49年1月号に掲載された。いずれもコナン・ドイルの作品としてである。

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 ところが、アーサー・ウィテカーという人物が、実は自分が書いたものだと名乗り出た。彼はタイプ原稿のカーボンコピーとドイルからの「貴君のプロットを買い取りたい」という手紙を持っていた。
 どうやら、ウィテカーはこの作品を書き上げ、共作の形で出版したいと考えてドイルに送ったらしい。ドイルは共作を断り、代わりに10ギニーでプロットを買い取ると返事したものと見られる。
 エイドリアンとしては、いったんドイル名義で発表してしまったので、はじめはウィテカーの主張を認めるのを拒んでいたが、歴とした証拠があるのだから仕方がない。The Man Who Was WantedCanonではなくApocryphaに属するものと見なされるようになった。この間、エイドリアンとウィテカーの間にかなりゴタゴタがあったらしい。しかし1952年になっても日本でドイルの作品扱いしていたというのは、どうも解せないところである。
 ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝のペーパーバック(1987年版)には、The Man Who Was Wantedに触れた箇所に「ピアソンは現在ならばこうは書かなかったであろう」と脚注がついている。
 なかなかよくできたパスティッシュだと思う。私自身、ずっと昔に日本語で読んだような記憶がある。あれは延原謙訳だったのだろうか?
 英語版は無料で読めます。日本語で読みたい方は日暮雅通氏の訳『指名手配の男』が各務三郎編『ホームズ贋作展覧会』に収録されているはず。

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2006年11月23日 (木)

シャーロック・ホームズの事件簿から

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 1895年の晩秋、私は幸運にもシャーロック・ホームズの極めて興味深い事件の一つに係わる機会を得た。このころ妻はしばらく体調がすぐれなかったので、同窓生だったケイト・ウィットニーと一緒にスイスで休養を取らせることにした。(ケイトの名は『唇のねじれた男』の標題で記録した事件との関連で読者の記憶にあると思う。)私は診療の規模が拡大して何カ月もの間懸命に働いていたから、自身休養を取る必要を大いに感じていた。しかし、アルプスへ行くほど長期間は休めそうにない。妻には自分も何とか一週間か十日ほど休みを取ると約束して、ようやくスイス行き(妻にはこれが是非とも必要だと私は考えた)に同意させたのである。このころ一番大切な患者の病勢が危機にあったが、八月も終わるころようやく峠を越え回復の兆しを示し始めた。どうやら代診の手に委ねても差し支えあるまいと思われたから、転地を兼ねて休養を取るとすればどこがよいか考え始めた。
 すぐに頭に浮かんだのは、旧友シャーロック・ホームズをたずねることであった。もう何カ月も会っていなかったのである。何か重要な事件を手がけているのでなければ、一緒に来るよう誘えばよい。
 こう決めてから半時間もたたぬうちに、私はベーカー街の懐かしい部屋の戸口に立っていた。
 ホームズはこちらに背を向けて長椅子に横になっていた。おなじみのガウンと古いブライアーのパイプは昔のままである。
「入り給え、ワトソン」向こう向きのまま声をあげた。「よく来てくれた。でも、どういう風の吹き回しだい?」
「相変わらず耳がいいね、ホームズ。僕はとうてい君の足音を聞き分けられんよ」
「僕だって聞き分けられないさ。ただ、あかりの暗い階段を二段ずつ上がってきたから、勝手知ったる下宿人かな、とは思った。それでもまだ断定はできなかったが、ドアの外のマットにつまずいた。三月ばかり前に置いたものだ。それでもう名乗ってもらわなくとも分かったのだ」

 何という作品でしょうか?

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2006年11月22日 (水)

コナン・ドイル伝の邦訳

・ジョン・ディクスン・カー『コナン・ドイル』早川書房1962(原著1949)
・ジュリアン・シモンズ『コナン・ドイル』東京創元社1984(原著1979)
・ロナルド・ピアソール『シャーロック・ホームズの生まれた家』新潮社1983(原著1977)

 ジョン・ディクスン・カーの『コナン・ドイル』の書き出しは

 一八六九年の夏のある午後、エディンバラ市サイエンス・ヒル・プレース三番地の家で、台所のとなりの荒いみがかれた小さな食堂に、ひとりの中年ちかい紳士が、自分のかいた水彩画に向かって腰をおろしていた。彼は過去二十年の歳月を回想していたのである。
 背が高く、絹のような顎髭がチョッキにまでたれて、濃い髪の毛は額を横切って渦まいていたが、そのような異彩をはなつ容貌の人物にしては、態度が隠棲的で、気弱そうだった。身につけている衣服は、見すぼらしいながらも、妻が精いっぱい努力して、世間へ出ても体面がたもてるだけのものにしていた。ただ、ちらと横目で台所のほうを見やった彼の目には、独自の性格と、はるか戸外を見とおす洞察力とがひらめいていた。

「中年ちかい紳士」というのは、ドイルの父チャールズである。小説仕立てにしたわけである。

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 ディクスン・カーが『コナン・ドイル』を書くことになったのは、ドイルの三男エイドリアンと伝記作家ヘスキス・ピアソンが喧嘩したからである。だから彼はピアソンの二番煎じだけは避けなければならなかった。
 わざと『スターク・マンローの手紙』や『わが思い出と冒険』を利用せず、書き方を工夫して新味を出そうとした。しかし、どうもこれはグレアム・グリーンのいわゆる「伝記作家が興奮してしまっては、読者は信じられなくなる」ケースだったようだ。
 エイドリアンに遠慮しすぎたということもある。心霊学について、ディクスン・カーは次のように言う。

「心霊学に関しては、われわれは同調しても、同調しなくても、どちらでもよい。だが均衡の観念だけはもっていたいものである。この人のなかには、なにか、すこしばかり現実生活を超越したある資質、分析を超越したある閃きがあった。われわれはそれを感じとることができる。ほとんどそれに触れることができる。しかしそれは、あまりにも泥くさい凡俗の(この伝記作家のような)人間には、言葉に表現することができないのである。」

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 ヘスキス・ピアソンは、第12章「晩年」の冒頭で
「伝記作家の関心は現世にあって、来世はあずかり知るところではない。したがって私がドイルの心霊学への帰依を扱うのは、あくまで彼の性情がそこに行き着かざるを得なかったからに過ぎない。」
と言う。心霊学が馬鹿馬鹿しいことは読者にはよく分かっているので、糾弾したり嘲笑したりする必要はない。冷静に分析すればよいのであるが、その分析が息子エイドリアンを怒らせたのである。
 ピアソンによれば、ドイルはごく単純な男であって、カトリックの信仰を捨てたあと何か信ずるものが必要なので心霊術に凝るようになったのだという。あるいは、ドイルの恐怖小説を取り上げて、その欠点はグロテスクではあるが少しも怖くないことだという。なぜ怖くないかというと、ドイル自身が想像力に欠けるために実生活で一度も恐怖を感じたことがなかったからだという。しかしピアソンの筆致はあたたかく、読み終わって感じるのはドイルが70年の生涯を立派に生き抜いたことである。これで腹を立てたのは、エイドリアンがよほど熱烈な父親贔屓だったからだろう。

 ジュリアン・シモンズのドイル伝は、1979年の刊行時にすでに13冊のドイル伝が出ていたので、「ドイルの生涯を今日一般に見られているのとは異なる角度からながめ、あわせて、新しい世代のために、その業績を要約してみる」(著者はしがき)ことが目的であり、「シャーロック・ホームズの創造者」(第1章)としてのドイルに焦点を置いている。青年時代などは先行の伝記に任せるという方針らしく、悪友のバッド医師については3頁ほどの記述があるだけである(創元推理文庫で全176頁)。
 ヘスキス・ピアソンの場合は、祖父のジョン・ドイルが1815年にアイルランドからロンドンに出て来たところから語り始める。カトリックの学校でひどい体罰を受けている少年、アルバイトに励む医学生、流行らない医者がのちにホームズ譚の作者になることはまだ分かっていないので、ホームズの先取りをせずドイル本人に寄り添って叙述を進める。シモンズのものが「評伝」であるとすれば、ピアソンのものは英国式の本格的な伝記であると言える。

 ロナルド・ピアソールの『シャーロック・ホームズの生まれた家』(原著1977、新潮選書1982)は、ドイル伝とヴィクトリア朝時代史の研究を兼ねたものである。翻訳では、ドイルの父親の年収240ポンドは288万円というように、一々1980年代の日本円に換算してある。なるほど、子供が10人もいて年収288万円では苦しかっただろう。『ボヘミアの醜聞』の原稿料30ギニーは37万円である。『青いガーネット』から『ぶな屋敷』までは1編50ギニーすなわち63万円、6編で378万円だったという(換算率はどうやって算定したのだろう)。
 ただ、著者が現代の視点からドイルを裁くのに急で、どうも一昔前の左翼文芸批評の「……という限界があった」という口調を連想させるのが難点である。
「芸術の分野で、普通でないものを極端に嫌った中産階級の偏見をかつぐ代表者が、ドイルだといってよかった。」
「ドイルにとっては、悪いことは悪いと初めから決まっていたから、女性が参政権を持つことも悪いことでしかなかった。」等々
 ヘスキス・ピアソンは、ドイルが大英帝国主義のチャンピオンだったことや女性参政権など言語道断と考えていたことは十分承知しているけれども、淡々と事実を述べて評価は読者に任せるという態度を取っている。

 こうして見てくると、日本語で読めるふつうのドイル伝は「まだない」ことが分かる。
  ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝の抜粋は、

コナン・ドイル伝(1)再録~(8)。または
 カテゴリーのコナン・ドイル
をご覧下さい。

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2006年11月21日 (火)

ヘスキス・ピアソンのコナン・ドイル伝

Hesketh Pearson: Conan Doyle, His Life and Art
初版 Methuen & Co., Ltd, 1943
ペーパーバック Unwin Paperback, 1987(全188頁、索引5頁、写真8頁)

 アーサー・コナン・ドイルは、1859年に生まれ、1930年(昭和5年、満州事変の前年)に71歳で亡くなった。
 本書は、1943年に書かれた初の本格的伝記である。以後現在までに20冊以上のドイル伝が書かれている。
 1931年、ジョン・ラモンドという人がArthur Conan Doyle, A Memoirという伝記を出している。これは1972年に出た再版がアメリカのアマゾンならば入手できるようだ。著者はドイルが晩年に凝っていた心霊術の仲間らしい。

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 写真は1922年、ニューヨークでのドイル一家である。このときドイル夫人ジーンは48歳、次男デニス、三男エイドリアン、次女リーナ・ジーンがそれぞれ13歳、12歳、10歳であった。(先妻のもうけた長女メアリー・ルイーズは成人し、長男キングズレーは1918年に戦病死した。)
 このときからほぼ20年たって、遺族たちは、ドイルの死後に残された膨大な資料(この一部が2004年にクリスティーズでオークションにかけられた)をヘスキス・ピアソンに提供して伝記を書いてもらうことにした。

 ヘスキス・ピアソン(1887-1964)は、英国の有名な伝記作家である。船舶会社勤務後、1911年に演劇界に入り、俳優兼演出家となった。1920年代から文筆にも手を染めたが、1930年『ドクター・ダーウィン』(チャールズ・ダーウィンの祖父エラスムスの伝記)を刊行し、以後ピアソンの書く伝記はほとんどがベストセラーになった。
 主な伝記に『ギルバートとサリバン』(1935)、『トマス・ペイン』(1937)、『シェイクスピア』(1942)、『バーナード・ショー』(1942)、『コナン・ドイル』(1943)、『オスカー・ワイルド』(1946)、『ディケンズ』(1949)、『ディズレーリ』(1951)、『ホイッスラー』(1952)、『ウォルター・スコット』(1955)、『ジョンソンとボズウェル』(1958)、『チャールズ2世』(1960)、『アンリ4世』(1963)などがある。1965年、つまり死後に自伝Hesketh Pearson by Himselfが刊行された。

 ピアソンは、『スターク・マンローの手紙』と『わが思い出と冒険』を大いに利用したが、残された書類も徹底的に調査し、未刊のシャーロック・ホームズ譚、すなわち正典の61編目を「発見」した(これについては別稿で)。
 ヘスキス・ピアソンは本書の献辞で
「デニス・コナン・ドイル氏とエイドリアン・コナン・ドイル氏に感謝する。私はいわゆる心霊主義者ではなく、サー・アーサーの歴史小説については両氏と意見を異にする。それにもかかわらず、お二人は私が父君の残された書類を自由に閲覧し作品と書簡を引用することを許された」
と書いている。
 バーナード・ショー、ロナルド・ノックス、A・E・W・メイソン、イーデン・フィルポッツ、ラファエル・サバティーニなどがまだ存命であったから、彼らにも取材している。
 1943年に初版が刊行されると、グレアム・グリーンが絶賛した(序文参照)のをはじめ、オブザーバー紙では「この秀逸な伝記に新たなものを付け加えない限り、もはやコナン・ドイルについて本を書く余地はない」と評されるなど好評であった。
 しかし、遺族、特に父親を熱烈に尊敬していたエイドリアンは本書が気に入らなかった。グレアム・グリーンの言うように「実に壮快な伝記」「ドイルは生涯を通じてまことに実直で好感の持てる男であった」というのが多くの読者の反応であった。しかし、エイドリアンとしては、ドイルを頭が単純で精神的に未発達な男として描いたのが許せなかったらしい。
 エイドリアンは1945年にThe True Conan Doyleというパンフレットを刊行して本書に反論した。1955年になって、BBCラジオがホームズ生誕100年祭記念プログラムの一部としてヘスキス・ピアソンに講演を依頼すると、「ピアソンに出演させるなら、今後ホームズのドラマ化は許さない」と言って妨害した。
 遺族は改めてジョン・ディクスン・カーに資料を提供し、カーは2年間かかりきりになって1949年にドイル伝を上梓した。これは早川版で568頁の大冊である。こちらの方は気に入ったらしく、エイドリアンはカーと共著で1954年に The Exploits of Sherlock Holmes (『シャーロック・ホームズの功績』早川書房1958)を出している。(カーによるドイル伝については、また別に述べる。)
 そのほかにも2000年までに20余冊のコナン・ドイル伝が出ている。その中では1964年にフランス人ピエール・ノルドンが書いた
Sir Arthur Conan Doyle: L'Homme et L'Oeuvre
 の評判がいいようだ。私は英訳版を持っているが、何しろ大部なので全部は読んでいない。(しかし、この伝記の標題は妙ですね。「人と作品」というのはごくふつうの言い方ではある。しかし、ホームズはフロベールのジョルジュ・サンド宛て書簡を引用したことがあるはずだ。L'homme c'est rien ― l' oeuvre c'est tout.)

 2004年のクリスティーズの売り立ての結果、資料の大部分は大英図書館に収まったので、これを使って新しい伝記を書く人が出てくるだろう。
 ドイル伝がこれほど繰り返して書かれるのは、コナン・ドイルという人の生涯が波瀾万丈で面白いということもあるが、もう一つはイギリスでは伝記というジャンルの格が高いということもある。
 我々はむかし『野口英世伝』や『エジソン伝』の類を読まされ過ぎたせいだろう。伝記というと子供向けのもののように錯覚しているところがある。BiographyLifeなどの語は「伝記」と訳すべきものだが、「評伝」と訳してしまうことが多いようだ。
 たとえばペンギンブックスにPenguin Livesという叢書がある。仏陀や聖アウグスチヌスやナポレオンから、マーロン・ブランドやエルヴィス・プレスリーまで、伝記が揃っている。この翻訳が岩波から出始めているが、「ペンギン評伝叢書」というシリーズ名なのである。

「評伝」というのは「批評プラス伝記」であって意味が違うはずだが、何となく「伝記」よりも高級そうな響きがあるので使っているらしい。

 イギリスでは、小説より伝記の方がはるかに格が高い。たとえばジョンソン博士は、小説も一冊だけ書いたが、辞書の編纂のほか、伝記を書き伝記に書かれたために尊敬されているのである。
 ヘスキス・ピアソンという人は、日本で言えば司馬遼太郎が『国盗り物語』や『坂の上の雲』の代わりに『織田信長伝』や『秋山真之伝』を書いてベストセラーになったようなものだろう。あるいは日本がイギリスなら(というのも妙な仮定であるが)、一流作家の書いた吉川英治伝が何種類も出ているはずだ。
 

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2006年11月17日 (金)

わが思い出と冒険――コナン・ドイル自伝

第5章 西アフリカの航海
 …………
 アフリカの死のような印象はますます強くなってきた。現在の食事と習慣をもつ白人は侵入者だと人は感じる。はじめから来る気なんかなかったのだ。むっつりと色の黒いこの大陸は、それをしらみでもつぶすように殺してしまった。私は日記の一端にこう書きつけている――
   おおアフリカ、賢い人が見たという
   お前のよいところはどこに?
   こんな恐ろしいところで暮らすより
   喜捨をうけてでもイギリスにいたい。
 それでも船上の生活は気楽で、ある意味ではぜいたくでさえあった――生涯の方向を定めようとしている若者にとっては、あまりにぜいたくといえた。早すぎる安楽には、人を無気力にする恐ろしさがある。思いおこすが、将来のことを考え――そのとき私は猛烈な雷雨のなかを船尾楼に立っていたのだが――こんな航海をもう一度か二度したら、私の簡素な習慣を忘れ去ってしまい、何ごとに成功するにも必要なはげしい苦闘に耐えられなくなってしまうと思った。文学で成功するなどという考えは毛頭おこらなかった。考えることはやっぱり医学だけであったが、バーミンガムの経験から、何らの信望もなくまたそれに類するものを買い取る資力もないものにとって、前途がいかに険しく遠いものであるかを十分知っていた。そこのその場でこれ以上踏み迷ってはならないと神に誓ったが、これが生涯の分岐点になったことはたしかだ。一度は修業のため放浪するのもよいが、二度となると破滅を意味するだけだ――だがそれをやめるのはむずかしい。有益な黙想をしたこの同じ日に、私はあとの航海中酒を断つ決心をした。わが生涯のうちこの頃はかなり気ままに飲んだもので、頭脳的にも体力的にも十分それに耐えてきたのであるが、考えてみると西アフリカの際限のないカクテルは危険だと思ったので、少しの努力でこれを断ってしまった。節欲そのものには名状しがたい喜びがたしかにあるが、社交的な面に危険があるのだ。もとよりわれわれが真のマホメット教徒のように、みんな禁酒家であったら、失敗するものは一人もありはしない。
(コナン・ドイル『わが思い出と冒険』新潮文庫版pp.68-69)

 同じ箇所をヘスキス・ピアソンはどう書いているか。もう一度見てみよう。

 ある日、激しい雷雨の中で船尾甲板に立っているとき、ドイルはこの航海を最初で最後にするのだと決意した。船の生活は若く野心のある男には快適すぎる。もう一度航海すれば気楽な船医暮しから一生抜け出せなくなる。医者で身を立てるにはこれから大奮闘しなければならない。遍歴も1年なら結構だが2年となると致命的だ。こう思ったので船医は辞めることに決め、航海中もう蒸留酒は飲まないことにした。アフリカの危険も船の贅沢もうんざりだった。彼は日記に詩を書きつけた。

  アフリカよ、汝が顔に賢者の見たる
  妖しき魅力、今いずこ
  怖しき彼の地に長者たらんより
  懐かしき家郷にありて物乞いせん

 ピアソンが『スターク・マンローの手紙』とともに『わが思い出と冒険』を上手に利用したことが分かる。ドイルの記述が少々ごちゃごちゃしているのを簡潔にまとめている。
 ドイルの延原訳では「私はあとの航海中を断つ決心をした」という箇所が、ピアソンの拙訳では「航海中もう蒸留酒は飲まないことにした」となっている。
 どちらが正しいのか?
 ピアソンの原文は--he made up his mind to stop drinking spirits for the rest of the voyage.
 ドイルの原文がどうなっているかは、Memoirs and Adventuresを買って確かめればよいのだけれど、古書価が6万5000円では高すぎる。(1万8000円は抜粋を録音したカセットの値段らしい。)
 多分
I made up my mind to stop drinking spirtits for the rest of the voyage.
だろうと思います。ピアソンはI→he, my→hisと変えただけでしょう。
 spiritsというのはもちろウイスキー、ブランデー、ラム、ジンなどの「蒸留酒」のことです。ビールなどは酒のうちに入らないのだとすれば、「酒を断つ」という訳し方もありでしょうね。
 ドイルはエディンバラ大学医学部へ通っていたとき、毎日昼飯に3ペンスでサンドイッチとビールを買ったと第2章「苦学生」の初めの方に書いてあった。昼にビールを飲んで大丈夫なんだろうか、午後の授業はなかったのだろうか、と思ったのだけれど、大丈夫だったらしい。
 第1章「ケルト人」では、ストーニーハースト校で午後のお茶の時間に「ビールと称するものが出た」が、これはひどい代物で、ドイツのフェルトキルヒ校では本物のビールを飲ませてもらってうれしかったとある。イエズス会の学校で高校生に飲ませるくらいだから、当時の西洋ではビールなど酒のうちに入らなかったのだろう。
『わが思い出と冒険』の引用部分の最後でドイルが
「もとよりわれわれが真のマホメット教徒のように、みんな禁酒家であったら、失敗するものは一人もありはしない」
と、少々分かりにくいことを書いているのは、父親のアルコール中毒のことが念頭にあったからでしょうね。
 ヘスキス・ピアソンはドイル家の委嘱で伝記を書いたのだから、こういう危ないところには触れないようにしたのである。
 それでも遺族、特に息子のエイドリアンには気に入らなかった。改めてジョン・ディクスン・カーが依頼を受け、カーは2年間かかりきりになって『コナン・ドイル』(1949年)を書いた。カーは新機軸を出す必要があったから、西アフリカ航海の話も別の書き方をしている。しかし、この辺についてはまた稿を改めて。

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2006年11月16日 (木)

コナン・ドイル年譜

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1859 アーサー・イグナシウス・コナン・ドイル生まれる。父はチャールズ・アルタモント・ドイル、母はメアリ(旧姓フォリー)。10人兄弟の第3子で長男。両親はカトリックだった。

1868-75 ドイル、イエズス会の小学校ホッダー校に2年、次いでイエズス会のパブリックスクール、ストーニーハースト校に5年在学する。同級生に自分でこしらえた冒険譚を語って人気者になる。

1875-76 大学入学資格試験に合格。オーストリアのイエズス会の学校、フェルトキルヒ校に1年間留学する。

1876 エディンバラ大学医学部入学。ドイル家に下宿していた医師ブライアン・チャールズ・ウォーラーのアドバイスによる。

1877 ブライアン・チャールズ・ウォラー、エディンバラ市内に診療所兼住宅を構え、ドイルの家族はウォーラーと同居する。ドイルはエディンバラ大学に通学。80年までの間にシェフィールド、シュロップシャー、バーミンガムで医者の助手を務める。

1879 父チャールズ、アルコール中毒で精神病院に入院。ドイル、小説処女作『ササッサ渓谷の謎』をチェインバーズ・ジャーナル誌9月号に発表。初論文Gelseminum as a Poisonをブリティッシュ・メディカル・ジャーナル9月号に発表。

1880 2月-9月、捕鯨船ホープ号の船医を務める。

1881 エディンバラ大学医学部卒業。医学士。

1881-2 10月-1月、アフリカ航路貨客船マユンバ号の船医を務める。

1882 プリマスで友人バッド医師のパートナーとなるが喧嘩別れし、6月ポーツマスに移り独立開業する。医業の傍ら小説を書く。

1882-3 ドイル家離散。父は入院。母メアリはヨークシャーのブライアン・チャールズ・ウォーラー家の地所に住む。弟イネス(1873年生まれ)はドイルと同居し学業の傍ら医院の受付を務める。

1885 8月、ルイーズ・ホーキンズ嬢と結婚する。

1887 『緋色の研究』、ビートンズ・クリスマス・アニュアル誌に掲載。

1889 歴史小説『マイカ・クラーク』刊行。長女メアリ・ルイーズ生まれる。米国リッピンコット社編集者、ドイルおよびオスカー・ワイルドと食事し、『四人の署名』と『ドリアン・グレイの肖像』を書かせる約束を取り付ける。

1891 ハーレー街で眼科専門医として開業するが成功せず。ストランド・マガジン7月号に『ボ ヘミアの醜聞』を載せ、12月号の『唇のねじれた男』まで『冒険』の最初の6編が大成功を収める。

1892 1月-6月、『冒険』の残り6編をストランド・マガジンに連載。10月『シャーロック・ホ ームズの冒険』ニューアンズ社より刊行。長男キングズレー生まれる。

1893 ストランド・マガジン12月号の『最後の問題』でシャーロック・ホームズ死亡。『シャーロック・ホームズの思い出』刊行。妻ルイーズの肺結核発病。スイスへ転地する。

1895 ストランド・マガジンに『ジェラール准将の功績』連載。

1897 ジーン・レッキー嬢(24歳)と会い、プラトニックな関係が始まる。

1900 ボーア戦争に野戦病院の篤志監督として従軍。エディンバラで自由統一党候補として下院議員選挙に出るが落選。

1901 ストランド・マガジン8月号に『バスカヴィル家の犬』連載開始。

1902 ボーア戦争で英軍が残虐行為を行ったという誤解を解くべく『南アフリカにおける戦争:その原因と処理』刊行。功績によりナイトに叙せられる。(同年、ホームズはナイトを断る。)

1903 ストランド・マガジン10月号に『空き家の冒険』掲載され、ホームズ復活。

1905 『シャーロック・ホームズの帰還』刊行。

1906 7月、妻ルイーズ死す。インド人弁護士ジョージ・エダルジの冤罪を晴らす戦いを始める。エダルジは翌年釈放される。

1907 9月、ジーン・レッキー嬢(33歳)と結婚。

1909 次男デニス誕生。

1910 三男エイドリアン誕生。

1912 ストランド・マガジン4-11月号に『失われた世界』連載。4月、タイタニック号沈没。船長と乗組員の責任について、ジョージ・バーナード・ショーと論争する。10月、ユダヤ人オスカー・スレイターの冤罪を晴らすため『オスカー・スレイター事件』を刊行。スレイターは1927年に釈放。

1914 5月から7月、北米講演旅行。8月4日、英国はドイツに宣戦布告、第一次世界大戦始まる。

1915 『恐怖の谷』刊行。

1917 ストランド・マガジン9月号『最後の挨拶』

1918 4月、心霊学の本『新たなる啓示』刊行。長男キングズレー(陸軍大尉)、戦傷でインフ ルエンザが悪化して死亡。

1919 2月、弟イネス(陸軍准将)、肺炎で死亡。

1920-30 ドイル、世界各地で講演し、心霊学の大規模なキャンペーンに乗り出す。

1927 ストランド・マガジン4月号『ショスコム・オールド・プレース』。最後のホームズ譚。6月、マレー社より『シャーロック・ホームズの事件簿』刊行。

1929 6月、『マラコット海淵』刊行。ドイル最後の小説。

1930 7月7日、コナン・ドイル死去。

 
・ヘスキス・ピアソンのドイル伝には、ジョージ・エダルジ事件とオスカー・スレイター事件でのドイルの活躍やタイタニック号の沈没をめぐるジョージ・バーナード・ショーとの論争について詳しい記述がある。

・ドイルの父親のアルコール中毒のことはピアソンは触れていない。

・ドイルに大きな影響を与えたブライアン・チャールズ・ウォーラーについては、ピアソンは言及していない。ウォーラーについては小林司・東山あかね氏が独自の説をとなえておられる。この説はちとどうかと思われるが、これについてはまた別の機会に。

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2006年11月15日 (水)

コナン・ドイル伝(8)

 ドイルはその晩ベッドに入ってから、バッドが医者としてどうやって成功したのかを説明せず、二人の共同事業のことは切り出しもしなかったことに気づいた。翌朝彼はバッドに起こされた。バッドはガウン姿で部屋に飛び込んできて、ベッドの足元の鉄枠をつかんでくるりと宙返りした。靴のかかとがドイルの枕に当たった。彼はまったく別の話題を切り出した。
「おい、ドイル、俺がこれから何をすると思う? 自分の新聞を持つんだ。俺とお前で週刊新聞を始めようぜ。フランスの政治家なら誰でもやっているように、自分の機関誌を持つんだ。俺たちに刃向かうやつがいたら、生まれてこなかった方がよかったと思わせてやる。え、どう思う? どうしても読みたくなる気の利いた記事と、ひりひりする痛烈な批評を載せるんだ。俺たちならできるだろう」
「どういう方針でやるんだ?」
「方針なんぞ、どうでもいい。ともかく何でもかでもやっつければいいんだ。新聞の名前はスコーピオンにしよう。市長も市議会もどんどんやっつける。全員集まって首吊りしなきゃならんようにしてやる。俺がぴりっとした記事を書く。お前は小説と詩を書け。ゆうべ考えたんだ。家内はもうマードックに印刷の見積りをさせている。来週の今日、創刊号を出そう」
「おい、バッド」ドイルは驚いた。
「お前、すぐに長編小説を書き始めろ。初めのうちはそんなに患者は来ないだろうから、時間は十分あるだろう」
「しかし俺は今まで長編なんて書いたことがないぜ」
「まともな人間なら誰でも、こうと思い立ったことはやれるはずだ。どんな能力でも自分の中にある。ただそれを発揮する意志さえあればいいのだ」
「お前自身はどうだ? 小説が書けるか」
「むろん書ける。読者が第1章を読んだら第2章が待ちきれなくて唸るような小説が書けるさ。次はどうなるのか知りたくて、みんな俺の部屋の外に詰めかけるさ。さあ、始めるぞ」
 もう一度宙返りすると、バッドは出て行った。
 バッドは言うことも態度も突拍子がなかったが、彼の警句にもドイルは驚かされた。たとえば「ナポレオン・ボナパルトの最大の記念碑は英国の国債である」とか「大英帝国から合衆国への主要な輸出品は合衆国である」などという警句を、ドイルはできればその場でノートに書きとめておきたいと思った。もっとも、彼はかなり記憶力がよかった。 
 朝食後、三人は馬車でバッドの仕事場に向かった。これは白塗りの四角い建物で、ドアには巨大な文字で「ドクター・バッド」と彫り込んだ真鍮板を貼り付け、その下に「10時から4時まで無料診察」と書いてあった。ホールは患者で一杯だった。
「ここには何人いる?」とバッドは聞いた。
「140人です、先生」とボーイが答えた。
「待合室は満員だな?」
「はい、先生」
「庭は満員だな?」
「はい、先生」
「馬小屋は満員だな?」
「はい、先生」
「馬車小屋は満員だな?」
「馬車小屋にはまだ空きがあります、先生」
「そうか、あいにく今日は大入りの日じゃないんだ。まあ、そういつも思い通りになるとは限らん。さあ、さあ、ちょっと道を空けろ」とバッドは患者に怒鳴った。「こっちへ来て俺の待合室を見てくれ。うーん、なんたる空気だ。お前ら窓も自分で開けられんのか。ドイル、この部屋には30人からの人間がいるのに、気が利かない奴ばかりだ。窒息したくなければ窓くらい開けたらいいじゃないか」
「開けようとしたのですが、窓枠にネジ釘が刺さっているんです、先生」と患者の一人が言った。
「お前さん、窓枠が動かないからって窓一つ開けられんようでは、とうてい出世はできんよ」とバッドは言って、男の手から傘をひったくるとガラスを2枚叩き割った。「こうやるんだ。おい、ボーイ、ネジ釘を抜いておけよ。さあ、ドイル、仕事に取りかかろうぜ」
 二人は最上階まで階段を登って行った。途中の部屋はどれも患者で満員だった。広い部屋に入った。家具はテーブルが一つと木の椅子が二脚だけで、テーブルの上には本が二冊と聴診器が一つ置いてある。
「これが俺の診察室だ。年に四千も五千も稼ぐようには見えんだろう。まったく同じ部屋が向こうにもう一つあるから、お前が使え。しかし、今日のところは一緒にいて俺のやり方を見学しろ」
「うん、そうする」とドイルは言った。
「さて、患者を扱うには、一つか二つ、絶対に守らねばならんルールがある」とバッドは言って、テーブルに腰掛けて足をぶらぶらさせた。「まず、これは分かり切ったことだが、患者に来てもらいたいなんてことは、絶対に悟らせてはいかん。診てやるのはあくまでこちらの好意ということだ。さんざん苦労してやっと診てもらえるから、それだけ有り難がるんだ。患者は初めに馴らしてしまえ。服従させろ。致命的な間違いは、患者に丁寧にすることだ。とかく若い医者はこの間違いで駄目になるのだ。いいか、俺のやり方を見ろ」彼は戸口に駆け寄って階下に向けて怒鳴った。「おい、下のやつら、ぺちゃくちゃとうるさいぞ。ここはニワトリ小屋か」患者たちは静まりかえった。「ほら、こうするんだ。これで尊敬される」
「腹を立てないだろうか?」
「立てないね。俺はこういう医者だともう定評ができている。だから、奴らもこれで当たり前だと思っている。それに、患者を怒らせてやる、徹底的に侮辱してやるのは、何よりも宣伝になるんだ。女の患者だったら友達にしゃべりまくるから、たちまちこちらの名前が知れわたる。友達は一応同情はしてみせるが、みんな内心では俺のことをよほど見立ての確かな医者だと思うんだ。これは男の患者だが、胆管のことで俺と喧嘩になった奴がいる。俺はこいつを階段から突き落としてやったね。で、どうなったと思う? そいつは俺のことを言い触らしたから、村中の老若男女が俺のところに押し寄せてきた。4半世紀も村にいて患者をおだてていた田舎医者は飯の食い上げになった。いいか、ドイル、これが人情の機微というものだ。安売りすればそれだけ安くふまれる。高値を付ければ額面通りに買ってくれる。俺が明日にでもハーレー街で開業するとする。立派な設備を整えて、診察時間は10時から3時までだ。患者が来ると思うか? 初めは食えんかも知れん。じゃ、どうすればいいか。俺なら、診察時間は真夜中から午前2時まで、禿頭の奴は倍額ということにするね。こうすれば絶対に話の種になる。好奇心を刺激するからだ。4ヶ月もすれば一晩中患者でごった返すようになるさ。要はあくまで自分流で行けということだ。これが俺の主義だ。朝ここへ来てから、今から田舎へ行くと言って患者を全部帰してしまうこともある。40ポンドからの収入を捨てるわけだが、宣伝としては400ポンドの価値があるんだ」
「しかし、表には診療は無料と書いてあったが」
「無料だよ。しかし薬代は払ってもらう。それに順番待ちがいやな患者は半クラウン払えば先に診てやる。何時間も待つよりは金を払うというのが毎日20人はいる。しかしドイル、間違えないで欲しいのは、実質が伴わなければ何にもならんということだ。俺は病気を治すことができる。これが大事な点だ。俺はほかの医者が見放した患者を引き受けてすぐに治してやる。あとはどうやってここに来させるかだけだ。いったん来れば俺の腕で引き止めておくことができる。医者としての腕がなければ、何をしたって一時限りだ。さあ、今度は家内の仕事を見てやってくれ」
 廊下の突き当たりでは、バッド夫人が楽しそうに調剤の仕事をしていた。
「世界一の薬剤師だ」とバッドは言って彼女の肩をたたいた。「やり方は分かるだろう、ドイル。俺がラベルに処方を書く。いくら取るかも秘密のしるしで書く。患者は廊下を歩いてきて窓口でラベルを出す。家内が調剤して薬を渡し料金を受け取る。さあ、それじゃ、患者を片付けようぜ」
 それからドイルは想像を絶する光景を目にすることになった。次々と患者が入ってきて、処方箋を受け取って出て行った。バッドの道化ぶりはまったく見物であった。彼はわめき、がなり、悪態をついた。患者をこづき、ひっぱたき、突っつき回し、壁に押しつけ、引っ張り込み、診察が済むと放り出した。ときどきは踊り場に出て、階下で待っている患者たちに怒鳴った。入ってきた患者に一言も口をきかせないこともあった。「シッ」と声をかけて黙らせておいて、胸を叩き心音を聴くと、すぐさまラベルに処方を書いて、ドアの外へ追い出すのだった。ある老女は診察室に入るやいなや「お茶の飲み過ぎ。あんたはお茶中毒だ」と怒鳴られてすくんでしまった。バッドは、びっくりして声も出ない老女の黒い外套をつかむとテーブルまで引きずってきて、テイラーの『法医学』を鼻先に突きつけた。「この本に手を置け」とバッドは怒鳴った。「14日間、ココアしか飲まないと誓いなさい」彼女は目を上げて誓いの言葉を述べると、すぐに薬局へ追いやられた。太った男が重々しく入ってきて症状を述べ立てようとすると、バッドは男のチョッキのアームホールをつかんで後ろ向きに廊下に押し出し、そのまま階段を降りて表に放り出した。そしてこう叫んで通行人をびっくりさせた。「あんたは食べ過ぎ、飲み過ぎ、眠り過ぎだ。巡査を一人殴り倒して、釈放されたら、またおいで」「気分が沈む」と訴える女には、薬を処方してからこう言った。「この薬が効かなければコルクを飲みなさい。沈むときはコルクに限るよ」
 一部始終を見ていたドイルは笑いすぎて気が変になるくらいだったが、バッドが診断にかけてはなかなかの腕前であり、相当な心理的洞察力を備えていることは認めざるを得なかった。もっともバッドの薬の処方は大胆を極めていて怖しいくらいだった。だいたい医者はみんな臆病すぎる、患者に毒を盛るのを怖がるようではだめだ、というのがバッドの考え方だった。そもそも医術とは程よく毒を盛ることであって「殺すか治すか」に帰着するというのである。多くの患者に対してバッドは持ち前の磁力を発揮した。彼の自信が患者に自信を与え、彼の活力が患者の活力を回復させた。彼は若い女の患者の両肩をつかんで、自分の鼻を相手の鼻から3インチのところまで近づけると、こう言うのだった。「明日の朝10時15分前になれば、気分がよくなってくるよ。10時20分には、今までで最高の気分になる。明日は朝からじっと時計を見ていなさい。私の言うとおりだと分かるからね」そして、こういう手がまずたいていの患者には効くのだった。
 一日の終わりに、バッドの稼ぎは32ポンド8シリング6ペンスになった。バッドはこの金をズックの袋にしまい込み、腕を伸ばして見せびらかすように袋を持ってじゃらじゃら鳴らしながら、妻とドイルをミサの侍者みたいに両脇に従えて通りを歩いて帰るのだった。ドイルは実にきまりが悪かった。
「俺はいつも医者が集まっている通りを歩くことにしている」とバッドは言った。「この辺がそうだ。奴ら、窓から見て俺が通り過ぎるまで歯ぎしりして地団駄踏むんだ」
 そんなことをするのは品がないし、むやみに敵意をあおるだけだとドイルは思ったから、そう言った。バッド夫人も同じ意見だった。バッドは「家内はほかの医者の細君連中がお茶に来てくれないのが不満なんだ」と答えた。彼は金の袋を揺すって見せた。「ねえ、お前、頭の悪い女どもが来て居間でぺちゃくちゃおしゃべりするより、こっちの方がずっといいじゃないか。ドイル、俺はね、大きなカードを一枚作らせてあるんだ。『私どもはこれ以上知人の輪を広げるつもりはございません』と書いてある。怪しい奴が来たらこのカードを見せるように、メイドに命令してある」
「金は金で大いに稼いでおいて、医者仲間とも仲良くやって行けばいいじゃないか」とドイルは言った。「お前の話を聞いていると、この二つは両立しないみたいに聞こえる」
「両立しないね。おい、はっきり言っていいぜ。俺のやり方は職業倫理に反すると言いたいのだろう。実際、俺は医者仲間の仁義なんて、はなから無視しているからね。今日お前が見た様子を医師会の連中に見せたら仰天するだろう」
「なぜ医者の不文律に逆らうんだ?」
「俺はカラクリを知っているからさ。おい、俺は医者の息子だぜ。この世界のことは内側から全部見て、裏の裏まで知っている。職業倫理なんて偉そうなことを言うのは、年寄りが仕事を独占するためだ。若い者を抑え込んで抜け駆けさせないためだ。親父がそう言うのを何度も聞いた。親父はブリストルでは一番流行る医者だったが、頭はてんで駄目だったね。うまくやったのは年功序列のためだ。割り込みはいけません、ちゃんと並びなさい、というわけだ。自分が先頭にいるのなら、これで大いに結構だ。しかし列の尻尾についているときはどうだ? 俺が最上段まで上ってしまえば、下を見下ろして『諸君、我々医師は厳格な職業倫理を守ろうではありませんか。お若い方々はゆっくりと上ってきていただきたい。私の安穏な地位を脅かさないでいただきたい』と言ってやる。もちろん、俺の言うことを聞くような奴がいたら、そいつはどうしようもない馬鹿だ。ドイル、どう思う?」
 ドイルは、その意見には全く賛成できないと言った。
「そうか、賛成できないのか。そんならそれで構わんがね、俺と一緒にやって行くつもりなら、職業倫理なんかドブに捨てろ」
「そんなことは出来ん」
「ふん、良心がとがめると言うのか。それじゃ、手を引いてもらおう。無理やり引き止めるわけにもいかんだろう」
 ドイルは黙っていたが、帰るとすぐに自分の部屋に行ってトランクに荷物を詰め始めた。その晩のうちにバーミンガムに帰るつもりだった。荷造りしている間にバッドが入ってきた。彼は平謝りに謝ってようやくドイルをなだめた。
 夕食のあとで奇妙な出来事があった。二人は奥の間で空気銃に鉄のダーツを込めて撃って遊んでいた。バッドがドイルに「半ペニー銅貨を指でつまんでかざしてくれないか。俺が撃ち落とすから」と言った。半ペニー銅貨がなかったので、バッドが青銅のメダルを取りだし、これをドイルがかざした。ポンと空気銃の音がして、メダルは落ちた。
「見事真ん中に命中したぞ」とバッドが言った。
「とんでもない」とドイルは答えた。「外れだよ」
「外れだって? ちゃんと当たったぞ」
「いいや、当たってないね」
「じゃあダーツはどこだ?」
「ここだ」とドイルは言って、血の出ている人差し指を見せた。ダーツが突き刺さっていた。
 バッドは仰天して、まことに済まなかったと大いに恐縮したので、ドイルも笑って済ませるほかはなかった。指に刺さったダーツを抜き、バッドも気を取り直したところで、ドイルはメダルを拾い上げてみた。メダルには「ジョージ・バッドの勇敢なる人命救助を称える。1879年1月」と彫り込んであった。
「おい、この話は聞いてないぞ」ドイルは言った。
「ああ、メダルのことか」バッドは答えた。「お前は持ってないのか。誰でも一つくらい貰っているものだと思ったが。お前は選り好みしたんだな。俺の場合は小さい男の子でね。その子を落とすには大汗をかいたよ」
「落とすとはどういうことだ? 引き上げたのだろう?」
「分かっとらんな。子供一人海から引き上げるくらい、誰にでも出来る。落とすのが難儀なんだ。まったく、メダルを貰うくらいの値打ちはあるね。もちろん証人だって揃えなくちゃならん。1日4シリング払った上に夕方にはビールを1クォートおごらせられた。その辺の子供を適当に掴まえてきて埠頭から放り込むわけにも行かんだろう。そんなことをしてみろ、親と揉めて大変なことになる。チャンスが来るまで辛抱強く待たなくちゃならんのだ。埠頭を行ったり来たりしているうちに扁桃腺炎にかかりそうになった。やっと見つけたのが、ぼんやりしたデブのガキでね。水際に坐って釣りをしていた。後から腰を蹴ってやったら、びっくりするぐらい遠くまで飛んだ。釣糸が俺の足に二重に絡みついて、引き上げるのに少々骨を折ったが、最後にはすべてうまく行った。何しろ証人はしっかりしていたからね。子供は次の日に礼に来て、腰に打撲傷があるほかはどこも悪くないと言った。両親は今でもクリスマスになると七面鳥を送ってくるよ」
 バッドは席を立った。煙草を取りに2階に上っていく途中で、彼が大声で笑うのが聞こえてきた。ドイルはじっとメダルを見つめた。これはダーツの的としてずいぶん使っているらしい。バッド夫人は「真に受けないで下さいね。あの人、いつも出任せばかり言うんですから」と言って、証拠として新聞の切り抜きをドイルに見せた。バッドが助けたのは氷が割れておぼれた子供で、危うく自分の命を落とすところだったのだ。
 ドイルは自分の仕事を始めたが、実りは多くなかった。彼は自分の名前を大きな文字で書いた表札を出し、バッドの向かいに自分の診察室を構えたが、ドイルのやり方は患者を引きつける刺激に欠けていた。はじめの3日間、彼は何もせずに診察室に坐っていた。廊下を隔てた向かいの診察室では、パートナーがふざけ散らして患者ともみ合い、踊り場に出てきて下で待っている患者に怒鳴っていた。4日目になって、退役した下士官が来て鼻の腫瘍を見せた。いつも粘土の短いパイプを使っていたので煙草の熱でできたものだった。ドイルは、その日は患者を家に帰しておいて、2日後にバッドの馬車に乗って手術に出かけた。これはドイルには初めての手術だったが、幸い患者の方はそんなことは知らなかった。びくびくしているのはドイルの方だった。しかし結果は大成功で、下士官は手術で鼻の形が上品になったと大喜びだった。その後はぼつぼつと患者が来るようになり、貧乏人ばかりが相手だったが収入は徐々に増えてきた。最初の週は1ポンド17シリング6ペンスだったが、第2週には2ポンドになり、第3週は2ポンド5シリング、第4週は2ポンド18シリングであった。
 
〔ドイルの母はバッドとの付き合いに反対で、「そんな下品な友だちとは即刻縁を切りなさい」という手紙を何度も寄越していた。これをバッド夫婦が盗み読みしていたため、二人の仲は険悪になってきた。ドイルは独立して開業する決心をした。しばらくの間毎週1ポンドずつ送金してやるというバッドの嘘を真に受けて、ドイルはポーツマスに出発した。資金は6ポンドしかなかった。――第3章終わり。〕

 訳文があるのはここまで。原書全188ページの47ページまで。
 ジョン・ディクスン・カーの『コナン・ドイル』は早川書房のハードカバーで568ページですが、本書なら全部訳してもページ数は半分に満たないでしょう。しかし、本書の方が内容ははるかに充実していて面白いと思う。
 ここまで読んでくると、友人ジョージ・バッドがいなければドイルは作家にならなかっただろう、ホームズもチャレンジャー教授もいなかっただろう、ということが分かります。
 そのバッドについて、ジョン・ディクスン・カーはどう書いているか。

 興行師的な経営法と、インチキ療法と、純粋な医学的手練を合わせ用いて、じっさいにバッドはサーカスじみた繁盛ぶりを見せていた。待合室にも、階段にも、前庭にも、馬車置き場にも、患者たちが、いっぱいつめかけ、彼はそれらの患者たちの上に君臨していた。彼は患者たちをどなりつけたり、ふつうどんな医者でも髪の毛を逆立てるような方式で薬品を処方したりしていた。一日の診療がすむと、彼は、その日に稼いだ金銀を入れた袋をぐっと前へ突き出すようにして持ちながら、繁華街をゆっくりと歩いて行った。そして、その両側には、彼の妻と共同者とが、司祭を補佐する侍僧のように、ついて行った。
「おれは医者どもがたくさん巣くっている当たりを通って行くことにきめているのだ」とバッドは説明した。「おれたちはいま、そういう地点を通過しているのだ。おれの姿が見えなくなるまで、奴らはみな窓にとりついて歯ぎしりして地団駄ふんでいるのだよ」
 それから数ヶ月にわたる狂想的行状を詳記するのは、この伝記の役目ではない。それはコナン・ドイル自身が『スターク・マンローの手紙』(The Stark Munro Letters)のなかでやっている。この本の内容は、少数の出来事をのぞけば、だいたい自伝的なものである。これを利用して書けば、わが文学史上でも最も見事な滑稽な場面を、幾ページにもわたってくりかえすにすぎないことになろう。だがその結末(『スターク・マンロー』だけでなく、そのとき書かれた手紙からたどりつかれる結末)は、少しも滑稽ではない。(早川書房版pp.69-70)

  1949年にこの伝記を書いたディクスン・カーは1943年のヘスキス・ピアソンによる伝記を批判しているのです。しかし、スターク・マンローの手紙を「くりかえすにすぎない」と言ってバッドの行状記を省いてしまったのはもったいない。ピアソンがスターク・マンローの手紙を利用していることは確かだけれど、独自の調査で多くの新発見をしています。半世紀以上前に書かれたものだから、アップデートすることは必要だけれど――しかし、この辺はまた稿を改めて。

 

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2006年11月14日 (火)

コナン・ドイル伝(7)

 それから数ヶ月して、ドイルは西アフリカに向かった。戻ってから人づてに聞いたところでは、バッドは債権者を一堂に集めていかに逆境と闘っているかを事細かに語り、聞き手の中にはもらい泣きする者もいたという。彼らは請求の無期限延期を快諾し、全員がバッドを信頼すると言い、もう少しで奉加帳を回して餞別をくれるところだったという。 
 アフリカから戻ったドイルは独立して開業に踏み切るべきかどうか迷っていたが、1882年の春の終わりころ、バッドから電報が来た。「去年7月当地プリマスデ開業大成功。俺ノヤリ方デ医業ヲ革新スル。大儲ケシテイル。数百万ノ価値ノ発明アリ海軍省ガ採用セネバブラジルガ世界一ノ海軍国ニナル。電報見次第汽車デ来イ。オ前ノ仕事多シ」ドイルはバーミンガムに戻っていたが、バッドを信用しきれなかったから勧めに従う気はなかった。彼は手紙を書いて、まずまずやっているから今の仕事を辞めるつもりはない、そちらで本格的な仕事があるなら別だが、と言ってやった。10日ばかり返事がなかったが、バッドはまた電報を寄越した。「手紙見タ俺ヲ嘘ツキト言ウカ。去年1年デ患者3万人収入4000ポンド以上。患者ハ全部俺ニ来ル大混雑。往診外科産科ハ全部任セル稼ギ放題。初年度300ポンド保証スル」ドイルは助手を務めていた医者と相談してから、プリマスに発った。
 今度もバッドはプラットフォームに出迎え、大声でドイルを歓迎して背中をどやしつけた。
「おい、ドイル、二人でこの町を征服しよう」バッドは早速まくし立てた。「町中の医者を一掃してやろうじゃないか。今のところ奴らもかつかつ食えているが、俺たちが協力して仕事を始めたらすぐに干上がってしまうぜ。いいか、この町には12万からの人間がいて、みんな医者に診てもらいたがっているのに、まともな医者がいないと来ている。患者は集め放題だぞ。黙って坐っておれば金は唸るほど入ってくる」
「しかし、どういうことなんだ?」ドイルは腑に落ちなかった。「そんなに医者の数が少ないのか?」
「少ないどころか」とバッドは叫んだ。「町中医者だらけだ。石を投げれば医者に当たるくらいだぜ。ところが、そいつらが揃いも揃って……まあ、お前が自分で見れば分かる。ところで、ブリストルでは家まで歩いたな。プリマスでは友達を歩かせるなんてことはしないぞ。どうだ」
 ここで、明らかに予め手筈を整えておいた一場の喜劇が演じられた。見事な黒馬二頭が引く豪華な馬車が二人を待っていた。御者がぺこぺこして「今日はどちらのお屋敷に参りましょうか」と尋ねた。狙い通りドイルが感心しているのを見て満足したバッドは、夕食の準備も整っただろうから「町の屋敷へやれ」と命じた。馬車の中でドイルが驚いたと言うと、バッドは今のところは町の屋敷と田舎の屋敷と仕事場の三つだけなのだと答えた。
「仕事場というのは、診察室と待合室だな?」とドイルは尋ねた。
「全然分かっておらんな」とバッドは言った。「お前みたいに想像力の乏しいやつも珍しい。手紙にも書いたし電報も打ったじゃないか。俺が二間きりでやっていると思うのか。そのうちに町の広場を借り切るぞ。それでも狭くて困るくらいだ。いいか、大きな家で、どの部屋もぎっしり満員で、地下室まで人が重なって坐りこんでいる。これがふだんの俺の仕事場だ。患者は50マイルも離れた田舎から出てきて、管理人が来たときに一番に入れて貰えるように戸口に坐りこんでパンなんぞを食ってるんだ。混み過ぎだというので保健所から注意されたくらいだ。馬小屋も患者で一杯で、まぐさ桶のそばや馬の腹の下にまで坐っている。もちろん、患者の一部はお前にまわしてやる。そのときになって驚くなよ」
 馬車は交差点に面した大きなホテルのような建物の前で止まった。ドイルが後で知ったところでは、ここは一流のクラブだったが家賃が高すぎて維持できなかったのだという。通りから玄関まで堂々たる階段が続き、5階か6階建ての建物の上には尖塔と旗竿が立っていた。30室以上もある寝室には家具がなかったが、一階の各部屋とホールは壮大なものだった。「狭いところだが」と謙遜してみせてから、バッドはドイルを上の階に案内した。ドイルの寝室には、小さな鉄製のベッドと荷物箱の上に置いた洗面器があるだけだった。バッドはドアから飛び出ている釘を打ち込みながら説明した。「間に合わせに40ポンドの家具なんぞを入れてみろ、全部窓から放り出さなきゃ、100ポンドのものは入れられない。それも馬鹿馬鹿しいだろう、ドイル。ここの内装は、どこよりも豪華にするつもりだ。100マイルも離れたところから見物に来るくらいにしてやる。しかし、まあ一部屋ずつやらないとな」
 バッド夫人はドイルを温かく歓迎した。夕食は、食堂の家具や絨毯やカーテンによってかき立てられた期待を裏切らないものだった。バッドは自分がどれだけ莫大な金を支払ったかを夢中になって述べ立て、スープが冷めるのも構わず部屋中の椅子やカーテンを見せてまわった。給仕しているメイドの腕をつかまえて振り回し、「どうだ、こんなきれいな子はなかなかいないぞ」と言うのだった。食事の途中で部屋から飛び出して行ったと思うと、現金が詰まった袋を持ってきてテーブルクロースの上にぶちまけた。「今日一日の稼ぎだ」と彼は説明した。数えてみると31ポンド8シリングあった。これだけ稼いでいると聞けばブリストルの債権者たちもさぞ喜ぶだろうとドイルが言うと、上機嫌は一瞬に消えて陰険な顔に変わった。バッド夫人はメイドを部屋から出て行かせた。
「何ということを言うんだ」とバッドは叫んだ。「俺があの借金をせっせと返し続けて何年も不自由な思いをすると思うのか」
「そうすると約束したはずだが。むろん俺が口出しすることではないが」
「むろん口出しなんぞ無用だ。いいか、商人に損得は付きものだ。貸し倒れにはちゃんと引当金を積んでいる。俺だって払えるものなら払ったさ。あのときは払えなかった。だから帳消しにした。せっかくプリマスで稼いだものをブリストルの商人にやってしまうなんて、正気の人間が考えることか」
「払えと言ってきたらどうする」
「そのときはそのときさ。今は何でも現金払いだ。この家の中にあるものだけで、もう400ポンドは使った」
 そのときドアを叩く音がして、金ボタンのお仕着せを着たボーイが入ってきた。「先生、ダンカンさんがお見えになりました」
「ダンカンさんか、そうだな、とっとと失せろ糞野郎と言ってやれ」
「まあ、ジョージ」と夫人が叫んだ。
「お食事中だ。ヨーロッパ中の王様が揃ってホールで待っていても俺はここを動かんと言ってやれ」
 しばらくしてボーイがまた戻ってきた。
「先生、ダンカンさんはお帰りになりません」
「お帰りにならん? どういうことだ、このガキ。何をぐずぐずしとるんだ」
「お勘定をと言っておられます」
「お勘定だって?」バッドの額の血管が膨れあがった。「おい、いいか」時計を取り出してテーブルの上に置いた。「今、8時2分前だ。8時きっかりに俺はホールに出て行く。そのときあの男がまだいたら、八つ裂きにして通りにばらまいてやる。細切れにして教区中にまき散らすと言え。二分あれば命が助かる。しかし一分はもう過ぎた」
 数秒後、玄関のドアがばたんと閉まる音がした。バッドは大声で笑いだし、しばらく笑いが止まらなかった。「あいつ、そのうちに気が狂うぞ」彼は涙を拭きながら言った。「気の弱い臆病なやつで、俺がにらんでやると青くなるんだ。あいつの店の前を通るときはちょっと立ち寄って顔を見てやる。何も言わずに黙って顔を見るだけだが、すくんでしまいやがる」この男はバッドに食料品を売っていたが、一二度彼を騙したことがあった。それでこのような取り扱いを受けることになったのである。しかしバッドは、明日にでもあいつに20ポンド払ってやれと妻に命じた。
 夕食が終わると三人はバッドの実験室に入った。ピストルが数挺と弾丸、カラス撃ち銃が一挺、蓄電池、それに大きな磁石が一つあった。ドイルがこれは何に使うのだと尋ねると、バッドは妻の顔を見て同じ問いを繰り返した。「制海権獲得装置」と彼女は忠実に答えた。
「その通り、制海権獲得装置だ」とバッドは得意げに言った。「お前の目の前にあるのがそれだ。おい、ドイル、俺はな、明日にでもスイスへ行ってこう言ってやってもいいんだ。『あいにくお国には海も港もありませんが、船一艘にスイス国旗を掲げさせていただければもう大丈夫です。世界中の海をスイスのものにして差し上げます』俺は世界の海を掃討してマッチ箱一つ浮かばんようにしてやる。株式会社にして役員になるんだ。海という海は俺の手中に入る。笑いたければ笑え。配当が入って来たときにどんな顔をするか見たいよ。おい、あの磁石はいくらの値打ちがあると思う?」
「1ポンドかな」
「100万ポンドだ。ビタ一文まけないぞ。それでも捨て値みたいなものだ。がんばればその10倍だって取れるが、まあ100万にしておくつもりだ。1週間か2週間したら海軍大臣の所へ持って行く。大臣が礼儀をわきまえた男だったら取り引きしてやる。おい、ドイル、大西洋と太平洋を両脇に抱えた男が海軍省に現れるなんて、そうそうあることじゃないぞ」
 ドイルはしばらく懸命に我慢していたが、吹き出してしまった。バッドは大いに憤慨したが、やがて自分も笑い出した。
「馬鹿馬鹿しいと思っているんだろう」と言って、彼は部屋中を歩き回り両腕を振り回した。「まあ、こんな工夫をしましたなんて他人が言い出せば、俺だってそう思うな。じゃ、見せてやろう。しかしお前もよっぽど疑り深いやつだな。興味があるような顔をして内心では笑っているな。第一に、詳しいことは教えられんが、俺は磁石の磁力を百倍にする方法を発見した。ここまでは分かるな?」
「うん」
「よろしい。次に、現代の砲弾は鉄でできているか、鉄の被甲をかぶせてあることも知っているな。磁石が鉄を引きつけることも、たぶんご存じであろうな。それでは、ちょっとした実験をお見せしよう」こう言うとバッドは装置の上にかがみ込んだ。パチという音がして電気が入った。「これは」とバッドは言って箱から取り出したものを見せた。「射的用のピストルだ。20世紀にはこいつが博物館に飾られる。新時代の幕を切って落とした武器としてな。遊底を引く。狭窄弾を一発込めるぞ。実験用に特別に鉄で作らせたのだ。壁のあの赤い封蝋の塊を狙う。磁石の4インチ上だ。俺の射撃の腕は確かだ。ほら、撃つぞ。それじゃ、前に進んでよーく見てくれ。弾は磁石に当たってひしゃげているだろう。笑ったことを謝るんだな」
 ドイルが見てみると、確かにバッドの言う通りだった。
「おい、もう一つ実験をしよう」とバッドは言った。「今度は家内の帽子の中に磁石を入れるから、お前、顔を狙って6発撃ってみろ。これならどうだ。撃たせてやってくれるね?」
 バッド夫人はそうしてもよいと言ったが、これはドイルの方で断った。
「あとは規模の問題だ」とバッドは続けた。「未来の軍艦は船首と船尾に磁石を装備する。砲弾はこの弾の何倍も大きいから、それだけ磁石を大きくすればよいのだ。いや、別に筏を作って俺の装置を載せる方がいいかな。船が作戦行動に入る。するとどうなると思う、ドイル。相手が何発撃ってきても全部磁石に引き寄せられてぴしゃりとくっついてしまう。筏の下には回収装置を付けておいて、電気回路を切ればくっついた鉄が下に落ちるようにしておく。作戦が終われば屑鉄に売ってあがりは乗組員で山分けだ。いや、そんなことよりも、俺の装置を搭載した船には絶対に敵弾は当たらんのだぞ。そのうえコストが安い。装甲なんか要らない。何にも要らんのだ。この装置さえ搭載すれば、水に浮かぶ船は全部不死身になる。未来の軍艦は一隻7ポンド10シリングもあればできる。また笑ってやがるな。磁石とトロール船と七ポンド砲が一門、これだけでどんな戦艦とも渡り合えるんだぞ」
「しかし、どこかに欠陥があるはずだ」とドイルは言った。「もし磁石がそんなに強いのなら、片舷斉射が全部ブーメランみたいに戻って来るじゃないか」
「そんなことはない。大きな違いがある。打ち出した弾はものすごい初速で飛び出して行く。ところが、飛んでくる弾はちょっと偏向させれば磁石にくっついてしまう。それに回路さえ切れば、磁石を無効にして片舷斉射ができる。終われば回路を入れてたちまち不死身になる」
「ボルトやスクリューなんかはどうなる?」
「未来の軍艦は全部木で作るんだ」
 あとになってドイルは、バッドが自分の発明の決定的重要性を当局に理解させられなかったことを知った。「俺はお国のために残念に思う」とバッドは嘆いた。「しかしこれで英国の制海権はなくなった。この装置はドイツ人が手に入れることになるが、俺が悪いんじゃないぞ。破滅が来ても俺を非難しないで欲しいね。海軍省の連中に見せて、小学生でも分かるように説明してやった。ところが連中の寄越した手紙ときたら、ドイル、ひどいもんだ。戦争になって俺があの手紙を公開したら絞首刑になるやつが出るね。これが疑問、あれが疑問とうるさく聞いてきやがった。磁石は何に固定するのかと聞くから、俺は答えてやったよ。何でも固くて貫通できないものなら結構、たとえば海軍省のお役人の石頭なんかどうだろうとね。それで全部おしまいだ。まことに残念ですがと言って送り返してきた。俺もまことに残念ですが地獄へでも行って下さいと返事してやった。これが一大歴史的事件の終わりだ。どうだ、ドイル」

訳者付記 『マスグレーブ家の儀式』によれば、ホームズは「……アームチェアに坐り、向かいの壁をVRという愛国的文字の弾痕で飾る」ことがあったそうです。しかし室内射撃を趣味にしていたのはホームズだけでないことが分かります。この部分には翻訳上の問題が一つあるのですが、後日別に考察します。

Vr

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2006年11月13日 (月)

コナン・ドイル伝(6)

第3章 ドクター・バッド

 バッドは大学を終えるとエディンバラから姿を消して手紙ひとつ寄越さなかったから、ドイルは何ヶ月か彼の消息を知らなかった。ところが1881年春のある日、ブリストルから電報が届いた。「スグコイ至急オマエガ必要バッド」。ドイルはバッドの父親がブリストルで有数の開業医だったことを思い出し、彼が亡父の跡を継いで開業しているのだと思った。ドイルはそのころバーミンガムで働いていたが、すぐにブリストルに向けて発った。バッドが仕事を紹介してくれるのだと思ったのである。駅のプラットフォームにバッドが出迎えた。例によって帽子をあみだにかぶり、チョッキのボタンは外したままだったが、珍しいことに首にはカラーを付けていた。彼は大声でよく来たなと言うとドイルを客車から引っ張り出し、鞄をひったくって通りを急がせた。その間ありとあらゆることをまくし立てたが、電報を打った理由だけは言わない。話がフットボールから自分の最近の発明に飛ぶと、バッドはたちまち興奮して身振り手振りの邪魔になる鞄をドイルに返して寄越した。
「おい、ドイル、鎧が使われなくなったのは、なぜだと思う? 知らんだろう。教えてやろう。立っている人間の体をぜんぶ鉄で覆うのでは重すぎて動けんからだ。しかし最近は戦争も立ってはしなくなった。歩兵はみんな腹這いになる。だからそう大げさなものは要らんはずだ。それに鉄も進歩したんだ。冷硬鋼とかベッセマー鋼とかは知っているな。さて、ドイル、歩兵一人覆うのに鉄がどれだけ要ると思う? 14インチに12インチの鉄板を2枚、V字型に張り合わせたものがあればいいのだ。敵が撃ってきても弾はみんな斜めに当たって逸れてしまう。片方の鉄板にはライフル射撃用の穴を開けておく。これでバッド式携帯防弾盾が一丁出来上がりだ。重さか? 16ポンドだ。ちゃんと計算したんだ。中隊ごとにこの防弾盾を荷車に積んでおく。いざ戦闘となれば一人ずつに配ればいい。射撃のうまい兵隊を2万人も俺に預けてみろ、カレーから上陸してたちまち北京まで行ってみせるぞ。おい、士気を考えてみろ。こちらの撃つ弾は百発百中だ。ところが相手がいくら撃ってきても弾は鉄板をかすめるだけだ。無敵の軍隊ができあがるぞ。一国が先にこれを採用すれば、たちまち他の国を駆逐してしまう。だからヨーロッパ中の国が採用せざるを得ない。さて、いくらになるか、ちょっと計算してみろ。兵隊の数は、そうだな、戦時編制でまず800万といったところだろう。そのうちの半分がこれを採用するとする。半分というのは、あくまで内輪に見積もってのことだ。それでも400万人分だぞ。卸しで1セット4シリングの特許料を取るとする。いくらになると思う、ドイル。ほぼ75万ポンドだぞ。どうだ」
 これはのちにドイル自身が展開することになるアイデアであった。バッドはときどき間を取り、ささやき声になるかと思えば急に声を張り上げ、ドイルの背中をどやしつけ、肩をすくめ、大声で笑い、芝居気たっぷりに語ったのである。
 やがて庭つきの大きな家に着くと、膝丈の赤いビロードのズボンをはいた召使がドアを開けた。これは金には不自由していないらしいとドイルは思った。バッド夫人は青白い顔でやや疲れているように見えた。造作はいかにも由緒ありげだった。三人は騒々しい夕食を取り、ドイルは食料品店の二階の夜を思い出した。食事中は、ドイルをブリストルまで呼び寄せた「至急」の用件には誰も触れなかった。食後三人は狭い居間に移り、男二人はパイプ、バッド夫人はシガレットに火をつけ、しばらく黙って煙草をふかしていた。すると突然バッドが立ち上がりドアに駆け寄って開け放ち、立ち聞きしている者がいないことを確かめるとドアを閉めて椅子に戻った。彼はひどく疑り深く、他人が陰謀を巡らせスパイを働いているに違いないと信じ込んでいた。ひとまず懸念を払拭してしまうと、彼はドイルに秘密を打ち明け始めた。
「ドイル、お前に言いたかったことがある。俺はもう破産だ。一文無しで、お先真っ暗で、もう取り返しがつかんのだ」
 ドイルは椅子を後に傾けてのんびりと坐っていたが、転げ落ちそうになった。
「がっかりしたか。まさかこんなことを聞くとは思わなかっただろう」
「いや、驚いたよ」ドイルは口ごもった。「何しろ……」
「うん、家を見ても、召使を見ても、家具を見ても、まさかと思うだろう。ところが問題はそこなんだ。そういうものに金を使い過ぎてスッカラカンになったのだ。俺はもうだめだ。もっとも……もっとも誰か友達が名前を貸してくれて、印紙を貼った紙にちょっとサインしてくれれば……」
「それはできないよ、バッド。友達の頼みを断るなんてひどいとは思う。俺だって金さえあれば……」
「誰が金を貸せと言った」とバッドは怒鳴った。眼は敵意に光っている。「それに、お前、金はないし入る見込みもないんだろう。じゃ、お前の名前なんぞ書いてもらっても何の役に立たんじゃないか」
「俺もそう思う」とドイルはつぶやいたが、それでも少々悔しかった。
「おい、あのテーブルの左の方に手紙がたくさんあるだろう」
「うん」
「あれはみんな督促状だ。右側にも書類があるだろう。あれは郡裁判所の召喚状だ。それから、これはどうだ」と言って彼は帳簿を取り出した。初めのページに3人ばかり名前が書いてあった。「俺の患者はこれで全部だ」バッドは額に血管が浮き出るまで笑い、バッド夫人が同感を示すように笑いに加わった。やがて気を取り直したバッドは、こう続けた。「つまり、こういうことだ、ドイル。お前も聞いていると思うが、いや確かお前には話したはずだったな、親父はブリストルで一番流行る開業医だった。俺から見ると親父はかなりのヤブだったが、それでも立派にやっていた。しかし死んでもう7年になるから、縄張りはすっかり荒らされている。それでも、卒業したときに俺は考えたね。ここに戻って来て昔の患者をもう一度集められたら、それが一番いいんじゃないか。バッドという名前にはまだ価値があるはずだと思ったのだ。しかし、やるとなったら中途半端ではだめだ。何でも徹底的にやらなくちゃならん。親父の患者はみんな金持ちだから、立派な家構えにお仕着せの召使がいなくちゃだめだ。張出窓付きの年40ポンドの貸家で、みっともない顔の女中にドアを開けさせるなんてことをしてみろ、誰も寄りつかなくなる。それで俺がどうしたと思う? 親父の昔使っていた家が空いていたのを借りたんだ。年に5000ポンドからの上がりがあった場所だぞ。準備は万端整えた。最後の一文まで家具調度につぎ込んだ。ところが、全然だめだった。もうこれ以上は持ちこたえられん。怪我人が二人、てんかんが一人、合計で22ポンド8シリング6ペンス、これで全部だ」
「それで、どうするつもりだ」
「そこだよ、お前のアドバイスが聞きたいのは。だから電報を打ったんだ。俺は昔からお前の意見を頼りにしてきた。今こそお前に聞くべき時だと思ったんだ」
 こう言われて悪い気はしなかったが、今となってはアドバイスも手遅れではないか。
「本当にもう、ここでは持ちこたえられないのか」
「俺の失敗を他山の石にしろということだ、ドイル。お前はまだこれから始めるんだからな。一つ大切なことを教えてやる。いいか、誰もお前のことなんか知らない土地へ行け。知らない人間ならすぐに信用してくれる。ところが、こちらがまだ半ズボンのガキだったころを知っている連中は困る。スモモを盗んでヘアブラシでお尻を叩かれていたことなんぞを覚えているから、俺に命を預けようという気にはならんのだ。口先では友情だとか縁だとかきれいごとを言うが、いざ腹でも痛いとなったら誰だってそんなものには洟も引っ掛けない。『患者が欲しければ初めての土地へ行け』と教室の壁に金文字で書いておくべきだ。いや、大学の門に彫り込んでおくべきだ。ここではもうだめだ。だから、もう少しがんばれなどと言ってもむだだ」
 バッドの債務が総計700ポンドになること、家賃が200ポンドであること、家具にもかなりの金をつぎ込んでいること、そして現金は全部で10ポンドしかないことを確かめると、ドイルは、債権者を集めて洗いざらい打ち明けたらどうかと勧めた。「お前は若くてエネルギーがあるから、遅かれ早かれ必ず成功する、これは連中にも分かるはずだ。今ここでお前を追いつめてしまえば一文も回収できない。このことをよく分からせるんだ。よそで新規まき直しに成功すれば、全員に借りただけのものを完済できるじゃないか。それ以外に道はないと思うよ」
 バッドもどうやら同じ意見のようだった。「お前ならそう言うと思っていた。実は俺もそのつもりだったのだ。よし、じゃ、それで決まりだ。お前のアドバイスは実にありがたいと思っている。今夜はもうこの話はおしまいだ。俺は勝負に出て失敗した。この次は必ず成功する。それもそんなに先のことじゃない」
 二三分後には、バッドはウィスキーを飲みながら督促状や召喚状のことなどすっかり忘れたようにしゃべり始めた。ところが何杯か飲むと、例によってアルコールの効き目が出てきた。バッド夫人が席を外すとバッドは話題をボクシングに向け、3ラウンドばかりどうかねと言い出した。ドイルはボクシングとなるとどうしても誘惑に勝てず、グローブをはめた。二人はテーブルを部屋の隅に片付けランプを棚に上げておいて向かい合った。ドイルはすぐに自分の間違いを悟った。バッドの眼の凶悪な光が言葉よりも雄弁に語っていたのは、連帯保証人を断られたのを根に持っていることだった。ドイルは友達同士軽くスパーリングをするつもりでいたが、バッドは猛烈な勢いで突進してきた。強烈な左右のパンチでドイルをぐらつかせてドアに追いつめると、激しい連打を浴びせかけてきた。ものすごい右が来て、当たれば勝負がついてしまうところだったが、ドイルは何とかかわして間合いを取った。
「おい、これじゃ、まるで喧嘩じゃないか」
「うん、俺のパンチは強いからな。どうだ」バッドは平気な顔で言った。
「そっちが突っかかってくるなら、俺もやり返すぞ。おい、軽くやろうじゃないか」
 言い終わらないうちにバッドはまた突進してきた。サイドステップで避けたが、すぐに回り込んでまた激しく打ちかかってきた。バランスを崩したところに耳とボディーに一発ずつ食らった。椅子につまずいて体勢が崩れ、耳にもう一発パンチを受けた。耳鳴りがした。
「どうだ、参ったか」とバッドは得意そうに言った。 
 参ったどころか、ドイルはお返しをしてやるつもりだった。今度は攻撃に備えていたから、出てくる相手の鼻に左を喰らわせておいて顎に右ストレートをたたき込むと、バッドは床にひっくり返った。
「この野郎」バッドは怒鳴った。顔は憤怒に引きつっている。「おい、グローブを外せ。素手で来い」
「馬鹿野郎」ドイルは上機嫌で答えた。「喧嘩かなんかする理由がないだろう」
「おい、ドイル」バッドはわめいてグローブを投げ捨てた。「お前がどうでも、俺は素手で行くぞ」
「ソーダ水でも飲め」とドイルは言った。
「俺が怖いのか」バッドはあざけった。「怖じ気づいているんだ」
 ドイルはグローブを外した。そのときバッド夫人が入ってきた。
「ジョージ!」バッドは鼻血で顔の下半分が血まみれになっている。彼女は振り向いて叫んだ。「これはどういうことですか、ドイルさん」目には憎しみが浮かんでいたが、ドイルは思わず抱き寄せてキスした。
「ちょっとスパーリングをしただけです。ご主人が最近運動不足だとこぼすのでね」
「いいから、いいから」とバッドは言って上着を着た。「何も騒ぐことはない。召使はもう寝ただろうな。台所へ行って洗面器に水を汲んできてくれないか。坐ってパイプをやろう、ドイル。話したいことが山ほどある」
 例によって変わり身の早いバッドは、二人の友情を脅かすことなど何も起きなかったかのように、またしゃべり始めた。その晩は平和のうちに更けた。
 翌朝、二人の顔は昨夜の一戦の名残をとどめていたが、バッドは上機嫌だった。どうすれば大金が儲かるか、思いつく限りのアイデアを述べ立てるのだった。そのうちのいくつかはドイルの小説の読者にはおなじみのものである。まず大事なのは新聞に名前を載せることだ、とバッドは言った。なあに、簡単なことだよ。ドイル、お前、俺の家の前の道路で気絶しろ。人が集まってきて中に運び入れるから、召使を新聞社まで走らせて知らせてやる。いや、ひょっとすると向かいの商売敵の方へ運び込んでしまうかな。となると別の手を考える必要がある。そうだ、お前、我が家の玄関で卒倒してくれないか。変装して何度でも発作を起こせばいいんだ。一回ひっくり返るごとに記事が出る。そのうちに卒倒ぐらいではニュースバリューがなくなるかな。そのときはドイル、お前が適当な場所で死んでくれれば、俺が生き返らせてやる。全国に俺の名声がとどろくぞ。
 バッドが世に出るための企みを述べ立ててドイルが笑い転げている間にも、道路を隔てた向かいの医者には次々と患者が来ていた。バッドはときどき熱弁をとめて商売敵とその患者たちを罵るのだった。新しい患者が現れるごとに立ち上がって部屋の中を歩き回り、わめき散らして歯がみした。
「おい、あれを見ろ。足を引きずっている男だ。毎朝来やがる。半月板損傷、全治3ヶ月だ。一週間で35シリングにはなるぞ」しばらくするとまたおしゃべりを止めて怒鳴るのだった。「おい、見ろ、あのリウマチ性関節炎の婆さんだ。そのうちに車椅子でまた来るに決まっている。あんなもの俺ならすぐ治してやる。よりにもよってあんな男のところが大繁盛だなんて、どういうことだ。お前はあいつを知らんから平気でおれるんだ。おい、何がおかしい、ドイル」
 ブリストルを発つころには、ドイルは笑いすぎてへとへとになっていた。

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2006年11月12日 (日)

コナン・ドイル伝(5)

 やがてドイルは卒業試験の恐怖を味わうことになった。戦々兢々ではあったが、口頭試問の前の情景はやはり喜劇だった。学生たちは控室で順番を待っていた。「彼らがいかにも自信がある、不安などないというふりをしてみせるのは痛々しかった。天気が気になるとでもいうように空を見上げたり、壁に刻まれた大学の沿革などをさも興味深げに見つめたりするのだ。もっと痛々しいのは、誰かが思いきってつまらぬ冗談を言うと、みんなが一斉にこれ見よがしにしゃべり出したことである。危機にあってもユーモアだけは忘れないぞというつもりなのだ。ところが誰かがちょっと試験のことを口にしたり、あるいは昨日ブラウンなりべーカーなりがこれこれの問題を聞かれたなどと言おうものなら、無頓着の仮面はすぐに剥げ落ちて、全員が黙ってその男を見つめるのだった」。なかには意地の悪い学生がいて、むやみに難しい問題を持ち出してこれが試験官の十八番なのだと言ったりした。たとえば
「おい、カコジルのことは知っているか?」
「カコジルだって? 大昔の爬虫類か何かだろう」
「違うね。有機物だ。爆発性の化合物だよ。カコジルのことを聞かれるぜ」
 こう言いい捨てておいて、まごついている相手を置き去りにするのである。
 ドイルは1881年に卒業試験に合格したが、成績は「まずまずのところで、優等ではなかった」。その年の8月に医学士号、1885年には博士号を得た。彼はまず船医としてスタートするつもりだったが、これは世の中を見ておきたいということが一つ、また開業資金を貯めるつもりもあった。それで客船の船医の口を探したが、2ヶ月ばかり何も手がかりがなかった。いっそ陸軍か海軍かそれともインド政庁にでも入ろうかと思っていると、月給12ポンドでアフリカ蒸気航海社の汽船マユンバ号の船医のポストがあるという電報が届いた。ドイルは1881年10月22日にリバプールから出航し、アフリカ西海岸の港から港へと航海する船に乗って生涯でもっとも惨めな4ヶ月を過ごした。マユンバ号は4000トンの小綺麗な貨客船で、雑多な貨物と20人ほどの乗客を乗せていた。ドイルは初めに乗客と乗組員全員の命を救うという手柄を立てた。船は強い追風を受けて霧の深いアイルランド海を進んでいたが、ドイルは霧の裂け目を通して左舷に灯台が迫っているのに気づいた。海岸からはもっと離れているはずだと思ったが、新米として笑われたくはなかったから、彼はちょっと参考までに聞いてみるという調子で一等航海士に尋ねた。「あそこに灯台が見えるようですが、これでいいんですか?」よくはなかった。航海士は仰天して跳び上がり、船は大騒ぎになった。真っ直ぐ岩に突っ込んで行くところだったのだ。船客には白人の女と黒人の貿易商がいて、黒人どもはお得意さんなので大事にしなければならなかった。彼らは椰子油を売る酋長で金持ちであり、酒と女に金を使っていた。ドイルによれば、そのうちの一人には「リバプールの夜の女の中でも特により抜きの連中が見送りに来ていた」
 航海は初めのうち荒天でみんなが船酔いしたので、ドイルは忙しかった。しかしさらに南下するとずいぶん楽になり、マデイラ諸島やカナリー諸島を楽しむことができた。船はシエラレオーネのフリータウンに寄港した。ここでは白人たちが美しい自然のなかで早死して行くのだった。さらにリベリアの首都に寄り、こうして酷暑の中を白波の立つ平板で単調な果てしなく続く海岸に沿って進んで行った。当時の貿易はかなり乱暴なものだった。「あるとき黒人を100人ほど甲板に乗せたまま出航してしまった。黒人どもが海に飛び込んでカヌーまで泳ぐのを見ているのは面白かった。一人などは、シルクハットと蝙蝠傘と大判のキリストの彩色画を持っていた。これは全部、船員が前部甲板に設けた売店で買い込んだものだった。これだけ邪魔物があっても、この男は無事にボートまで泳ぎ着いた。別の港では時間がなかったので、積んできた樽板を全部海に放り出した。そのうちに岸に流れ着くだろうというのであったが、本当の持ち主がどうやって所有権を確保したのかは分からない」。ラゴスまで来て、船は船医を欠くことになった。ドイルは蚊に刺されてマラリアにかかったのである。彼は船室のベッドに倒れこんで意識を失った。「自分が船医なのだから看病してくれる者などなく、それから数日間、私は死神を相手に狭いリングでセコンドもなく戦うはめになった」。彼が戦っている間にもう一人の乗客も倒れた。しかしドイルは体力があったので持ちこたえ、1週間後には快方に向かった。ナイジェリアのカラバルでは、仲間と二人でカヌーに乗り込んで上流のクリークタウンまでマングローブの沼地を漕いで行った。ここはもう黒人の国だった。酋長は白人が来ていると聞くとすぐに伺候せよと命じたが、二人は来たときよりもはるかに速く船まで漕いで戻った。黒人が海で泳いでいるのを見て白人たる者が負けてたまるかと思ったから、ガーナのケープコースト・カースルでは船の周りを泳いだ。一泳ぎして甲板で体を乾かしていると、サメの大きなヒレが見えた。どうやら水音を聞いてドイルを見に来たらしい。彼は少々寒気を覚えた。
 ある日、激しい雷雨の中で船尾甲板に立っているとき、ドイルはこの航海を最初で最後にするのだと決意した。船の生活は若く野心のある男には快適すぎる。もう一度航海すれば気楽な船医暮しから一生抜け出せなくなる。医者で身を立てるにはこれから大奮闘しなければならない。遍歴も1年なら結構だが2年となると致命的だ。こう思ったので船医は辞めることに決め、航海中もう蒸留酒は飲まないことにした。アフリカの危険も船の贅沢もうんざりだった。彼は日記に詩を書きつけた。

  アフリカよ、汝が顔に賢者の見たる
  妖しき魅力、今いずこ
  怖しき彼の地に長者たらんより
  懐かしき家郷にありて物乞いせん

 帰路は、往路にビーズや蝙蝠傘などをばらまいてきた港々から今度は椰子油や象牙などを積み込んで帰るだけだったが、最後の週に船が火事になって思わぬ活気がもたらされた。初め2,3日の間は誰もが軽く考えていたが、くすぶっていた煙が炎を上げ始めると深刻な事態だと分かった。全員で12時間以上奮闘したが、鉄の舷側が1時間ごとに熱くなり、とうとう赤く焼けてきた。救命ボートで脱出する準備が始まったが、夕刻になって危険は去り、「あちこちに上がっていた煙はようやく消えかかった」。船は1882年1月14日にリバプール港に着いた。
 アフリカ西海岸やマユンバ号の雰囲気は文学を語るにふさわしいものではなく、ドイルは自分が航海中に知的にも精神的にも向上したとは思わなかった。ただ、リベリアの首都モンロビアに寄ったときは、アメリカ領事を務める黒人とモトリーの歴史書を論じたりした。この黒人は、アフリカを旅行するなら武装しないで来てもらいたいと言うのだった。「完全武装の一団がイギリスを押し渡ったりしたら英国人はいやでしょう。アフリカ人だって同じです」。熱病で死にかけていた若いフランス人は診察料の代わりにフラマリオンの『大気圏』をくれた。この二つの挿話を除いては、ドイルは知的栄養を携えてきた書物に、特にそのうちの一冊に求めなければならなかった。4半世紀後に自分の蔵書を見渡して、彼はその一冊の書名を明らかにしている。「あそこに並んでいる本のうちから私が最大の喜びと最大の利益を得た一冊を選ぶとすれば、あの染みの付いたマコーリーの『史論集』ということになるだろう。振り返ってみれば、あの本は私の全生涯と結びついているのだ。学生時代には常に伴侶であったし、酷暑の黄金海岸でも手元にあった。北極洋に捕鯨に出かけたときも忘れずに持って行った。スコットランド人の銛打ち連中にも読ませたものだ。あの油の染みは、二等機関士が『フリードリヒ大王伝』に取り組んでいたときに付けたものだ」

Doyleyoung

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コナン・ドイル伝(4)

 エディンバラ大学の最終学年にドイルは一人の学生と知己になった。彼が作家になるにはこの男の影響が大きかったのである。これはジョージ・バッドという学生だった。バッドは大学ではスポーツマンとして知られ、ラグビーの選手だった。当時もっとも俊足果敢なフォワードの一人だったが、試合では興奮して狂暴になるのでスコットランド代表には選ばれなかったのである。バッドは身長5フィート9インチで肩幅が広く胸が盛り上がっていた。いつも足早にぎくしゃくと歩いていた。体格はよいが顔は恐ろしく醜く、針金みたいな黄色い剛毛が角張った頭と鼻の下から突き立ち、顎はブルドッグのようだった。張り出した額の下に深く窪んで充血したライトブルーの小さな寄り目が陽気な光を放っていたが、ときにはこれが凶悪な憎悪にきらめくこともあった。鼻は赤く大きく、黄色い頑丈な乱杭歯で、色も肌理も樅の樹皮のような首にはカラーをつけずネクタイも結んでいなかった。話しぶりも笑い声も雄牛が吠えるようだった。このような外見だけでなく、性格も特異だった。バッドは半ば天才、半ば狂人であり、ペテン師の気味のある天才、いくぶんかは正気の狂人と言ってよかった。勉強などしているようには見えなかったが、本にかじりついているガリ勉連中から解剖学の優等賞をさらった。どんな話題が出ても、彼はすぐに熱中してしゃべり立てた。驚くべき理論を繰り広げ奇想天外なアイデアを出して聞き手を夢中にさせ興奮で喘がせておいて、突然その話は打ち切ってしまう。そして別の話題を取り上げて同じことを繰り返すのだった。あるとき魚雷の話が出た。「なに魚雷だと?」彼はすぐさま鉛筆を取り出して船の魚雷防御網を突き破る方法をスケッチし始めるのだった。すぐにこの新しいアイデアに没頭し、彼の熱狂は聞いている者にうつった。実用にはこれこれの不都合があるのではないかと指摘する者があっても、すぐにうまい方法を考え出して一蹴してしまう。どんな難問にも答えることができた。問題を片付けてしまうと得意そうに哄笑し、次の話題に移った。「エジプト人はどうやってピラミッドの天辺に石を運んだかだって? そんなことは簡単だ」。説明を聞いていると、まるで一生かけて研究してきたみたいだった。バッドはいろいろと金儲けの目論見を持っていて、次々に新しい発明を思いつき、その一つ一つを種にこうすれば大儲けできるぞと言うのだった。彼は部屋の中を歩き回りながら自分の工夫を説明した。これは何々に一大革新をもたらすぞ。特許を取るんだ。もちろんドイル、お前をパートナーにしてやる。世界中の文明国がこの発明が採用する。用途ならいくらでもある。特許料がごっそり入るぞ。問題はその金の投資だ。うまくやれば百万長者もうらやむ大金を稼いでゆうゆうと引退できるぞ。一席が終わると、魔法の絨毯に乗って空中を漂っていたドイルは、カークの『生理学』を脇に抱えて無一文のまま、とぼとぼと家路につくのだった。
 バッドは一種の傑物だった。しかしとてつもなく凶暴で、愉快そうに笑っているかと思うと突然怒り狂うことがあった。彼は馬鹿騒ぎが大好きだったが、上機嫌で始まっても病院のベッドで終わりかねないから、誰もその馬鹿騒ぎに二度と付き合おうとはしなかった。彼は気が向けば権威を支持したが、気が変われば嘲笑した。あるとき、ロンドンから来た著名な医学者の講演の最中に、前列の学生の一人がふざけたヤジを飛ばし続けた。学者がお静かに願いたいと言うと、バッドが叫んだ。「おい、そこの前のやつ、黙れ」。学生はそれなら黙らせてみろと応じた。得たり賢しと、バッドはインク壺の並ぶ机の上を伝い歩いて行って、学生のそばに着地した。学生はすぐさまバッドの顔にパンチを食らわしたが、バッドは相手の喉をつかんで後ろ向きに教室から押し出してしまった。そして「石炭を一トンぶちまけたような音がした」。目の回りに黒あざを付けて戻ってきたバッドは300人の学生の喝采を受けた。このように称賛に値する行動もあったのだが、ときには別の側面が現れた。バッドは大酒飲みではなかったが、少量のアルコールですぐに酔いが回って、相手構わず喧嘩をふっかけたり人を集めて演説を始めたり公衆の面前で道化を演じたりした。もう一つ奇妙なことがあった。酒に酔っても横に逸れないで真っ直ぐに歩いたり走ったりできるのだが、いつの間にか無意識に向きを変えてもと来た道を戻り始める癖があったのだ。ある晩、傍目には素面に見えるが酔っぱらったバッドは、駅に行って切符売場の駅員にロンドンまでは何マイルありますかと丁重に尋ねた。駅員が答えようと窓口に顔を寄せると、バッドが拳骨でその鼻を殴りつけた。悲鳴を聞いて警官が駆けつけ、バッドはプリンシズ・ストリートを全力疾走し、そのあとを駅員や警官が追跡することになった。追手はすぐに引き離され、一息入れて作戦を練り直すことにした。ところが彼らが仰天するような事態が起こった。犯人が駆け戻ってきたのである。スピードは少しも衰えていない。もちろんこれはアルコールの作用で、バッドは自分が向きを変えたことに気づかずに走っているのだった。追手は彼を転ばせて上に折り重なり、激しい組み打ちの末にようやく警察署に引き立てた。翌朝バッドは治安判事の前に引き出されたが、被告人席から見事な弁明を行い、軽微な罰金を申し渡された。そのあとで彼は警官と証人全員を近くのパブに招き、ウイスキーを振舞って前日の活劇を振り返った。
 バッドは女性関係でも同じように無鉄砲だった。あるとき、彼は一人の女性の名誉を危うくするか自分の身体を毀傷するかの二者択一を迫られた。一瞬も躊躇せず後者を選んだバッドは、4階の窓から外に飛び出した。このときは幸い月桂樹の茂みが落下の衝撃を和らげてくれたし、地面も柔らかかった。彼の結婚も慌ただしかった。未成年の少女と恋に落ち、彼女の家庭教師を部屋に閉じこめておいて自分は髪の毛を黒く染め、この少女と駆け落ちしたのである。二人はブラッドショーの時刻表を調べて一番辺鄙そうな村を選び、この村の宿屋でハネムーンを過ごした。降って沸いたように男女二人が現れて男の方は髪の毛が黄と黒のまだらなのだから(染髪剤が効かない箇所があったのだ)、村人たちはその後何年も話の種にしたに違いない。ピカデリー・サーカスにでも隠れた方が目立たなかったのだ。ドイルによれば「これでバッドにもう一つ特異なところが加わった。ある角度で太陽光線が当たると彼の髪の毛は虹色にきらめいた」のである。二人は長い休暇を過ごしてからエディンバラに戻ってきて、食料品店の2階に狭い4部屋を借りた。家具はほとんどなかった。このあとすぐバッドは通りでドイルに会い、背中をどやしつけてから一部始終を語り、家内に紹介すると言った。家内なる者は、小柄でおずおずとしておとなしそうな、かわいらしい顔の、小声で話す少女であった。なかなか感じのよい奥さんだったが、ドイルの見るところ夫を崇め奉っていて完全にその支配下にあるようだった。夫婦の住まいは台所と居間と寝室のほかにもう一部屋あったが、バッドはこの部屋が病原菌の巣窟だと思いこんだらしく、鍵をかけた上にドアの隙間を完全に目張りしていた。しかしドイルは、バッドがそんな妄想に取り憑かれたのは一階の食料品店のチーズの臭いのために違いないと考えた。
  ドイルは二人をしばしば訪ねるようになった。客は彼だけだった。居間には椅子が二脚しかなかったので彼は『ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル』を積んだ上に坐り、アップル・ダンプリングを三人で分けて食べ、バッドが部屋の中を歩き回り身振り手振りして大声でしゃべりまくるのに聞き入った。「三人とも若さにあふれ希望に燃えていたから、坐るところや食べるものなど気にしなかった。私は今でも、あのがらんとしたチーズ臭い部屋で過ごした気儘な晩を、これまでで一番幸せだったときのうちに数えている」。ドイルの単純で率直で謙虚な性格、堅実な分別と良識は、バッドを落ち着かせる効果があった。『這う男』に、ワトソンがホームズにとって自分はこれこれの価値があるのだと読者に説明する一節があるが、これはドイルが自分の中の何がバッドを引きつけたのかを無意識に回想しているのである。「私はホームズの頭脳を研ぐ砥石であり、彼に刺激を与えた。彼は私の前で声に出して考えるのを好んだ。私を相手に話す必要があったわけではない。代わりに自分のベッドに向けて話しても同じことだっただろう。それでも、いったん習慣になってしまうと、私が聞いていて相槌を打ったりするのが役に立った。私はどうも頭の働きが鈍いところがあって彼を苛立たせたが、この苛々が彼の炎のような直感と思考を刺激して一層鮮やかに燃え上がらせたのである。これが二人の関係における私のささやかな役割だった」。二人の関係ではバッドの方がはるかに華々しい役割だったことは明らかである。彼の機知縦横で爆発的な性格、即興の才、創意工夫、話題の広さ、べらぼうな言動、道化ぶり、そして派手な性格に不可分の喜劇性、さらには陰険で悪意に満ちたところまでもが、ドイルにはたまらない魅力だった。いつまでも稚気が抜けないドイルは、とにかく突飛なもの、不思議なもの、異様なものが大好きだったのである。「彼は実に頭の回転が速くて途方もないことを思いつくので、私の方もいつの間にかふだんの軌道を外れていて、自分の頭が活発に働いているのに驚くのだった。自分は何と創意工夫に富むのかとうれしくなったが、何のことはない、私は鷲の肩に捕まって飛ぶ小鳥だったのだ」。バッドの奇怪な性格はドイルの感じやすい心を大いに刺激し、影響の跡は作品の至る所に残っている。登場する教授たちにはモデルがあるが、彼らに生命を与えているのはバッドである。二人の付き合いをほとんどそのまま書いた箇所もある。小説の多くはバッドが霊感の源泉だった。ホームズのエネルギーはバッドのものであり、ジェラールの大言壮語も、モリアーティの悪も、ロイロットの暴力も、マラコットの狂熱も、みなバッドの性質だった。途方もない事件や登場人物を描くとき、ドイルはバッドからヒントを得ている。チャレンジャー教授を創り出したとき、彼はバッドに取り憑かれていた。教授は敵の魚雷を逸らす新装置や空中窒素固定の経済的な方法などについて述べ立てるが、これらは元来バッドのアイデアだった。チャレンジャーは「彼の相手をしていると気の休まる暇もないが、退屈しないことだけは確かだ。何しろ気分次第でいつ何をしでかすか分からないのだから」という人物であるが、これはそのままバッドの性格である。チャレンジャーは、『霧の国』ではペテンを暴いてやろうと降霊会に参加する。すると霊媒が「このなかでバッドワースという名前の友だちに借りがある人はいませんか?」と尋ねる。「バッドワース」はバッドと「カリングワース」の合成である。ドイルは『スターク・マンローの手紙』でバッドにこの仮名を付け、自伝でも仮名のままにした。『霧の国』では語り手がこう答える。「いいえ、バッドワースという名前の友だちには、誰も借りはありません」。何気ないこの問答の意味は、ドイル自身にも分かっていなかったのである。物語作家として自分がどれほどバッドに「借りがある」かを、彼は知らなかった。彼の「借り」については、後に詳しく語ろう。

Get_out

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2006年11月11日 (土)

コナン・ドイル伝(3)

 その6ペンスは自分で捻出しなければならなかった。それに家計を助ける必要もあったので、彼は医者の助手の仕事を探した。このために1年分の単位を半年で取り、空いた時間で助手をすることにして求職の広告を出した。まだ知識も足りないし経験を積む必要もあると思ったから初めは無給で働くことにしたが、最初にドイルを雇った医者は彼の働きをただ以下と評価したようである。1878年、シェフィールド市の貧民階級の間で3週間を過ごしてから、彼はロンドンに出てメイダヴェールのクリフトン・ガーデンズにある親戚の家に泊めてもらった。彼は数週間一文無しでロンドンをうろつき、よく港に行って荷卸しを見物し、世界中を旅してきた水夫たちと話した。彼は冒険にあこがれていた。母の苦労を思わなかったら、トラファルガー広場で彼の体格を見込んだ新兵徴募係の軍曹に勧誘されるまま、「女王の1シリング」を受け取って〔兵役契約の印として1シリング貨を志願者に与えた〕陸軍に入っていただろう。それにドイルはこの年「露土戦争中のトルコに派遣される英国救急隊に外科助手として志願した」のであるが、これはまもなくトルコが負けてしまったので実現しなかった。彼は小遣い銭がないことに屈辱を感じていた。「つまらぬことで色々と差し障りがある。貧しい男が何かしてくれても心付けもやれないから、しみったれと思われてしまう。女の子に花一つ買ってやれないから、無粋な男と思われても仕方がない。恥じる必要はないはずだ。自分の落ち度ではないのだから。実際、恥じているなどと人には悟らせないが、それでもひどく自尊心が傷つく」。若い男には体の発育に心の成長がついて行かない時期があるものだが、ドイルもそういうやっかいな段階にあった。「ひどく内気になって尻込みするかと思えば、反動でむやみに大胆になる。親しい友情にあこがれる。侮辱を受けたと思いこんで苦しむこともある。異常な性的不安を覚え、ありもせぬ病気を怖がる。女すべてに対して何かやるせない気持がするし、一人一人の女にはおびえの混じったときめきを覚える。臆病になってたまるかと思うからむやみに攻撃的になり、突然憂鬱になって深い自己不信に陥る」
 次の仕事は、シュロップシャー州のライトン・オブ・ジ・イレブンタウンズという小さな村だった。ここには4ヶ月いたが、ほとんどすることはなく、大部分の時間を読書で過ごした。しかし彼の医術はここで初めて試された。村の屋敷の庭で祝い事の最中に古い大砲が破裂して、そばに立っていた男の頭に破片が突き刺さったのである。半狂乱になった村人が知らせに来たとき医者は不在だったから、ドイルは一人で現場に駆けつけた。彼は驚きを隠して男の頭から鉄片を摘出した。白い頭蓋骨が見え、傷は脳には達してはいないと分かってほっとした。「私はすぐに傷を縫合し止血して包帯してやったから、ようやく医者が来たときにはもうすることがなかった。この出来事で私は自信を持ったが、それよりも大事なことは村人の信頼を得たことだった」
 このあと、ようやく「本当に金になる仕事」があった。長時間の重労働だった。バーミンガム市アストンの最貧階級の患者のために処方箋に従って調剤する仕事で、これは果てしなく続くように思えたが、収入は月に2ポンドほどになった。「まず大した間違いはしでかさなかった。もっとも、薬箱の表に服用法を詳しく書いておいて、中身は空っぽのまま患者に持たせてやったこともあるが」。医者とその妻はこの助手が気に入って息子のように扱ってくれた。彼はその後も2度ここで助手を務めて下層階級の生活を知った。彼は調剤を一人でこなし、やがてお産を手がけ、全科診療としては比較的重症の患者も引き受けるようになった。
 バーミンガムにいる間にドイルは小説を書き始めた。もともと書きたいという気持ちは強かったのである。彼の手紙の生き生きとしているのに感心した友人が小説を書いてみたらどうかと勧めてくれたので、ドイルは『ササッサ渓谷の謎』という冒険物を書き上げ、『チェインバーズ・ジャーナル』誌に送ってみた。そして驚いたことに3ポンド3シリングの原稿料を受け取ったのである。続けて同じ雑誌に何度か送った原稿は没になったが、彼は挫けなかった。彼は「一度はうまくいったのだからまた出来るはずだと自分を励ました」。二編目の小説『アメリカ人の話』は、1879年に『ロンドン・ソサイアティ』誌に載った。わずかでも原稿料が貰えたのはありがたかったが、これで作家になれるという気はしなかった。自分に「本格的な文章が書ける」とはとうてい思えなかったのである。
 しかし家計は相変わらずだったから、処方箋を出す資格を得るまでは、ともかく何か書く必要があった。父親がとうとう療養所*に入ってしまったので(彼はここで1893年まで生きた)、ドイルは20歳で貧困に喘ぐ大家族の家長となった。姉2人と妹はそれぞれ乏しい給料を切り詰めて仕送りして来ていた。彼も自活するためにできる限りのことをしたが、家計を支えるにはこれだけでは足らない。ところが1880年の初め、偶然にうまい話が舞い込んだ。ある日の午後、彼がエディンバラの自室で「医学生の生活に暗い影を落とす試験の一つ」に備えて勉強していると、カリーという知り合いの医学生が訪ねてきた。捕鯨船の船医をやってみる気はないかというのだった。月給は2ポンド10シリングで鯨油1トンにつき3シリングの歩合がつくという。カリーはいったんこの仕事を引き受けたのだが、間際になって行けなくなったので誰か代わりを探していたのである。ドイルはためらわなかった。カリーの道具一式を譲り受けて2週間後にはピーターヘッドの港に行き、2月28日に200トンの捕鯨船ホープ号に乗り組んで出航した。航海は7ヶ月にわたったが、その間医者として腕をふるう機会はほとんどなく、ドイルの仕事は主に船長のお相手をして刻み煙草がなくなれば補充してやることだった。実に気楽な生活だった。あるとき、料理人がラム酒で酔っぱらって3度続けてひどい食事を出した。腹を立てた船員が真鍮のシチュー鍋で彼の頭を殴りつけると、底が抜けて鍋の縁が襟巻のように首の回りを飾ることになった。ここではドイルのボクシングの腕が役に立ち、彼は人気者になった。航海第一夜に彼は司厨長のジャック・ラムと手合わせしたが、ジャックはあとで一等航海士のコリン・マクリーンにこう報告した。「今度の船医のドイルは最高だぜ。俺の眼にあざを付けやがったんだからな」。彼がジャックにしてやったことはこれだけではなかった。一等航海士がヘマをして逃がしてしまった鯨のことにジャックが触れるたびに(もちろん二人とも酔っていた)、ドイルが流血の惨事を防いだのである。酒が入ると航海士は凶暴になり、ジャックは議論好きになった。ジャックが「あの鯨は……」と言いかけるとコリンが襲いかかった。ドイルが何とか二人を引き分けて話題を変えようとするのだが、ジャックは一息つくとまた始めた。「よう、コリン、別に悪気はねえんだが、あんたがもうちょいとすばしこかったら、あいつ……」その先はなかった。「あいつ」まで来ると決まって航海士が相手の喉頸に掴みかかったからである。ドイルがすぐさま航海士の腰にしがみつき、三人とも疲労困憊して動けなくなるまでもみ合いが続いた。ジャックはきれいなテノールの声を持っていて、配膳室でナイフや鍋を洗いながら女を主題にした感傷的な歌を歌った。これはドイルを「甘い何か満たされない気持」にした。ジャックはその後もう少し穏やかな暮しに入った。彼はヴィクトリア女王専属のパン屋になって、ときどきドイルに「わが親愛なる旧友へ」で始まる手紙をよこした。

*療養所(訳注) ドイルの父はアルコール中毒で精神科の療養所に入ったのだが、もちろんまだ遺族が存命の1943年の時点でこれをはっきり書くわけには行かなかった。ディクスン・カーのドイル伝(1949年)でもアルコール中毒のエピソードは省いてある。ジュリアン・シモンズのドイル伝(1979年)には、「チャールズ・ドイルは癲癇持ちで、アルコール中毒であったといい、40代後半で土木庁の仕事を辞したあとは、1893年に亡くなるまで、ほとんどの期間をアルコール中毒の療養所と精神病院で過ごしている」とある(創元推理文庫版pp.39-40)。

 4月初めにアザラシ狩りが始まった。ドイルはこれがいやだった。「残酷な仕事だった。考えてみれば、国では毎日食卓に出るものを供給するのに同じ残酷な仕事が行われているのだが。それにしても、白く輝く氷の上、北極の静謐な青空の下に、真っ赤な血の池ができるのである。これは実に恐ろしい光景だった」。ある日、海はうねりが強く氷がぶつかり合っていた。ドイルは船長から、君はまだ慣れていないのだから船に残っていろと言われていた。臍を曲げた彼は舷側から足を垂らして坐っていたが、大波が来て船が大きく傾くと、海に落ちて氷塊の間に姿を消した。海面に浮かび上がった彼は何とか甲板に這い上がった。これを見た船長は、どうせ落ちるのなら「船にいても氷の上にいても同じことだ」と言った。彼はその日のうちにさらに2度海に落ち、不漁を嘆いていた船長を大いに楽しませた。ドイルはその後も氷から落ちて、一度は危うく死ぬところだった。アザラシの皮剥ぎをしていて何気なく一歩後退すると、そこは海だったのである。このときは仲間と離れていたから誰も気づいてくれなかった。「氷の表面はつるつるで、体を引き上げようにも手がかりがない。凍るほど冷たい海水でたちまち全身が麻痺し始めた。しかしようやくアザラシの死体の後ろビレに手が届いた。悪夢のような綱引きが始まった。アザラシを海に引きずり込んでしまうか、這い上がれるかだ。しかしついに氷の縁に片膝が乗り、これを支点に氷の上に転がった。船に着いたとき服はかちんかちんに凍ってまるで鎧だったから、着替えるにはノコギリで挽き切らねばならなかった」
 6月になると船は鯨を追ってさらに北上した。獲物は3ヶ月で4頭しかなかったが、ドイルは鯨獲りに大変な手腕を発揮したので、船長は、来年もホープ号に乗ってくれるなら今度は銛打ち兼船医として二人分の給料を払うと申し出た。 Harpooner_2_1
冒険は好むところだったし北極の「この世のものとも思えない感じ」は魅力だったが、これは断らねばならなかった。しかし北極での経験は生涯忘れられないものになった。まばゆく輝く氷、濃紺の海、淡青色の空が心に焼き付いた。空気は冷たく澄んで爽快だった。北極はずっと白夜だったから、船が南下してきて久しぶりに見た星の瞬きも忘れられなかった。無数の海鳥が鳴き、アザラシが人間みたいな唸り声を上げた。見渡す限りの氷原に胡椒粒をまいたようにアザラシが散らばっていた。白熊がのしのしと歩き回った。鯨が鉛色の巨体を輝かせて海面から跳び上がった。ほとんど頭上に浮かんだ鯨の巨大なヒレを見て、あれで一打ちされたらボートは海底に沈むのだと思うと身震いがした。 未知の世界の縁に立っているのだという気がした。スコットランドの北の沖まで戻って来て、半年ぶりに見た女の姿も忘れられなかった。灯台のそばに立っていたのは、短いスカートに防水長靴姿の50過ぎの女だったのだが。ドイルは健康ではち切れんばかりになって帰ってきた。50枚の1ポンド金貨は、「母が探して楽しめるように」あちこちのポケットに隠していた。

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2006年11月10日 (金)

コナン・ドイル伝(2)

第1章 ケルト人
〔父親のチャールズは、本書ではわざと曖昧に書いているが、アルコール中毒で家庭を顧みなかったから、生活は苦しかった。ドイルは11歳のときイエズス会経営のパブリック・スクール、ストーニーハースト校の寄宿生となった。ここで彼は自分でこしらえた冒険譚を学友たちに話して聞かせて人気を集めた。16歳で大学入学資格試験に合格し、オーストリアのイエズス会の学校、フェルトキルヒ校に一年間留学し、1876年にエディンバラに戻った。〕

第2章 苦学生
 ドイルはエディンバラの貧窮の暮しに戻った。父親はまだ絵を描き続け、まだ雲の中にいて、まだ子供を作り続けていた。年収は240ポンドのままだった。アーサーが勤勉に時間を空費している間に一男一女が生まれ、さらに女の子がもう一人が生まれようとしていた。上の姉はポルトガルから家庭教師の給料を仕送りしてきていた。下の姉と妹*も近々同じコースを取るはずだったが、それで家計が楽になる見込みはなかった。問題はアーサーをどうするかだった。母親が並の女性ならば、息子にすぐに金を稼がせたかも知れない。アーサーの体格があれば石炭積みか家具運びで安定した給料が見込めるはずだった。しかし母親はもっと目標が高く先のことを考えていた。エディンバラは医学で定評があるのだから、アーサーは大学にやって医者にすべきだ。帰郷の一月ほどあとに各種の奨学生の選抜試験があったので、彼は古典を猛勉強してその一つに挑んだ。間もなくグリアソン奨学金の資格を得たという知らせが届いた。2年間で40ポンドが支給されるのだ。ギリシャ語とラテン語に費やした時間も無駄ではなかったことになる。ドイル家は喜びに包まれた。ところが、いざ給付を申し込んでみると、事務手続の間違いがあったことが分かった。グリアソン奨学金は文科の学生だけが対象だったというのだ。それならば医学生向けの次善の奨学金をまわして貰えるはずだと思ったが、「それはもう候補の学生に給付してしまった」と言われた。彼の立場は微妙だった。裁判になれば勝てるはずだ。しかし、これから入学する大学を相手に訴訟を起こすのが得策だとは思えない。ドイルは憤懣を抑えて7ポンドの涙金を受け取った。

*下の姉と妹(訳注) 原文はtwo other sisters。ドイルが長男であったことは確かだが、第何子かについては説が分かれている。ジョン・ディクスン・カーの伝記では第4子。ジュリアン・シモンズは第2子としている。The Arthur Coan Doyle Societyのサイトでは第3子となっている。多分これが正しいのでしょう。しかし西洋ではどうやら姉と妹の区別はあまり重視されないらしい。

 1876年の10月にエディンバラ大学に入学すると、自伝によれば「長く退屈な勉強が始まった。植物学、化学、解剖学、生理学など必修科目はむやみに多く、その大部分は治療の技術とは無関係だった」。ここで味気ない課程の詳細を述べる必要はないだろう。退屈な学科の勉強とは無縁の読書が唯一の慰めだった。彼は医学書よりも、サッカレーの『ヘンリー・エズモンド』、メレディスの『リチャード・フェヴァレルの試練』、ワシントン・アーヴィングの『グラナダの征服』などに読みふけった。ささやかな蔵書が少しずつ増えていった。どれも昼飯を犠牲にしてもとめたものだった。大学へ通う途中に古本屋街があった。これは本好きなら足を止めずにはいられない魅力があり、彼は毎日そのうちの一軒をのぞくのだった。ドアの外の大きな樽にぼろぼろになった3ペンス均一本が詰まっていた。3ペンスといえばドイルが昼のサンドイッチとビールに使うことができる金額である。文学か昼飯かを選ばなければならなかった。この樽に近づくたびに、若い肉体の食欲と精神の渇望の間に戦いが起こった。6度に5度は肉体が勝ったが、精神が勝利することもあった。そういうときは5分ほどかけて楽しみながら、年鑑や教科書やスコットランド神学の本などをかき分けて好みの一冊を選び出すのだった。収穫はゴードン訳のタキトゥス、ポープ訳のホメロス、アディソンの評論、クラレンドンの『イングランド反乱史』、スウィフトの『桶物語』、ルサージュの『ジル・ブラース物語』、テンプルのエッセイ、チャーチルやバッキンガムの詩集など、いずれも彼に知的慰めを与えてくれるものだった。
 ドイルは大学に入ってから新しい作家を知った。『朝の食卓の独裁者』に始まり『朝の食卓の詩人』『朝の食卓の教授』と続くオリヴァー・ウェンデル・ホームズの随筆集が彼を魅了した。「私はホームズに私淑していた。一度は面会したいというのが長年の宿望であったが、運命の皮肉と言うべきか、彼の生地を訪れたのはその新しい墓石に花輪を捧げるためであった」。ホームズの随筆の魅力は科学、特に医学の香りにあった。ドイルにはホームズの方がチャールズ・ラムよりも好ましかった。ホームズには「人生の問題を実地に知り尽くしているという感じがあって、これは妖精のようなロンドン人[ラム]にはないものだった」からである。ドイルがのちに一番有名な登場人物にこのアメリカの随筆家の名前をつけることになるのも偶然ではないだろう。ドイルの性格の際立った特徴は、単純朴訥なことであった。単純な男は得てして該博な知識に感じ入ってしまうものだが、ドイルも例外ではなかった。自分でどこまで意識していたかはともかく、ドイルにとってウォルター・スコットやチャールズ・リードの小説の魅力はこの博識という面にあった。のちにその歴史小説に影響を与えたのも同じ面だった。マコーリーとエドガー・アラン・ポーに負うところが大きいというのも同じことである。自分の人生を左右した書物は何かと問われれば、まずマコーリーのエッセイ、次にポーの小説を挙げねばならない、とドイルは語ったことがある。マコーリーは何でも知っているし、ポーに書けないことはないと彼は思った。前者の博覧強記が深遠な思想であり、後者の奇想が想像力であると、ドイルは誤解していたのである。
 このような男がエディンバラ大学の教授たちに感銘を受けたのも驚くにあたらない。彼はそのうちの2人を小説のモデルにし、そのほかにも自分の小説に登場する学者にはいずれも恐るべき知力を与えている。よほど単純で信じやすい男でなければ、大学教授などを超人的電撃的な力を持つ英雄のモデルにはしないだろう。ところがドイルの小説に登場する教授は神に近いか、さもなくば悪魔に近いのである。彼が多くの作品で詳しく描くことになる2人の学者、ベル博士(シャーロック・ホームズ)とラザフォード教授(チャレンジャー)についてはのちに述べることにして、ここでは良い教授と悪い教授の素描を一つずつ見てみよう。前者は晩年の小説『マラコット海淵』に登場するマラコット教授である。彼は「知的にはふつうの人間が近寄り難い高山の頂に住んでいる」。ところがふだんは文字通り上の空の教授が、状況次第で俄然行動の人になる。「彼はたちまち船と乗組員を掌握し、すべてを自分の意志に従わせてしまった。無味乾燥でタガの緩んだ放心家の学者は突然消え失せて、代わりに現れたのは人間の姿をした電力機械であった。生気がみなぎり、内部で激しい力が鼓動していた。眼鏡の奥の眼はカンテラの火のように輝いた」。ほかの者がうろたえ挫けてしまう危機が来ると教授は本領を発揮する。「物静かな学者は影を潜めた。今や彼は人類を意のままにしかねない超人、統率者、支配者であった。……これほど力強い人間の顔を私は見たことがない」。反対に悪魔的な学者の例は、『最後の事件』に登場するモリアーティ教授である。彼は「驚くべき数学の天才」に恵まれ、21歳のときに「2項定理に関する論文を書いて全欧州に名声を博した」。ホームズによれば、モリアーティはヨーロッパで一番頭の切れる悪人、史上最大の策略家、諸国の命運を左右する頭脳を持つ教授であり、「ワトソン、あいつは犯罪界のナポレオンだ。ロンドンの悪事の半分、迷宮入り事件のほとんどは、教授が黒幕なのだ。彼は天才で哲学者で抽象的思考に長けている。頭脳は第一級だ。本人はクモの巣の中心に坐って動かない。しかし至るところに張り巡らされたクモの糸がかすかに震えると、すぐに彼に伝わるのだ」ということになる。モリアーティ、マラコット、チャレンジャー、ホームズを創り出した人物に、エディンバラ大学の教授たちはよほど強烈な印象を与えたものと見える。

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 ドイルは当然のごとく時代の科学的風潮に感化されて、不可知論者となった。彼の気質は何か信ずるものを必要とした。気質に適うものはまず手に入るのであり、ドイルもやがて求めるものを得ることになる。しかし単純で感じやすい彼は、まず最近ダーウィンやハクスリーがもたらした新知識に圧倒された。そのすべてが、聖書の天地創造物語はとうてい科学的とは言えないこと、そしてカトリックの教える地獄はペテンであることを証明してくれたのである。イエズス会の教育の後では、これは大きな救いだった。神父の一人などは、ローマ教会に属さぬ者は永劫の地獄に堕ちるのだと言い放ってドイルを驚愕させていたからである。彼は同胞に対してもっと思いやりがあったから、そんな残忍な神を信じることはできなかった。しかしカトリックの信仰を捨てても、彼は無神論者にはならなかった。信じやすく純朴で敬虔なドイルは、宇宙の背後には善の力があるはずだという考えに傾いていたが、一方ハクスリーたちの影響で信じる前に証明を求めるようになっていた。彼は「宗教の禍害は、すべて証明できぬものを信じるところから生じる」と考え、唯物論者を自称していたが、その理由はと言えば奇妙に素朴なもので、死後に霊魂が残るとは思えないからというのだった。
 たしかに彼は霊的には見えなかった。21歳のドイルは身長6フィートをこえ、髪は茶色、眼はグレーで、肩幅が広く、胸囲は43インチあった。体重は「素裸で16ストーン[102キロ]をこえ」、力は雄牛のように強かった。彼はこの時期の自分の姿を出版された最初の長編小説『ガードルストーン商会』でおそらく無意識に描いている。「長く引き締まった脚と筋肉質の太い首の上の丸く力強い頭部は、アテネの彫刻家には恰好のモデルとなっただろう。しかし顔には整った東方の美はなかった。純朴そうな離れた眼といい、生えかかった口髭といい、これはあくまでアングロサクソンの目鼻立ちであった。……内気ではあるが力強く、整ってはいないが感じがよく、いかにも寡黙で口下手な男の顔であった。しかし世界地図を英国領の赤に染めてきたのは、能弁家などではなくこのような男だったのだ」。このような男はもちろんスポーツマンだった。ドイルは相手さえあればボクシングをする機会を逃さず、それに一時は大学のラグビー・チームでフォワードを務めた。時間があるときはずいぶん勉強もしたはずだが、グローブをはめて一勝負する機会があれば医学書などは放り出したようである。「私は少しでも面白いことは逃してなるものかと思っていたし、また大いに楽しむ能力があった。本はたくさん読んだ。スポーツはできるかぎり何でもした。ダンスもしたし、ポケットに6ペンスあれば天井桟敷で芝居を見た」。ドイルはヘンリー・アーヴィングのファンになり、『ハムレット』や『リヨンの密使』など彼の主演する芝居をよく見に行った。当時は観劇でさえも危険が伴ったので、あるとき彼の力と勇気が試されることになった。天井桟敷のドアの外で開演を待つ客がひしめいているとき、一人の兵隊が少女を壁に押し付けて悲鳴を上げさせた。ドイルがこの男をとがめると、相手は彼の脇腹を殴ってきた。二発目が来る前にドイルは兵隊の顔に左右のパンチを見舞った。兵隊は彼をドアの角に押し付けて蹴ろうとしたが、ドイルは相手を掴まえて放さなかった。そのうちに状況が緊迫してきた。兵隊の仲間が敵対行動を開始し、一人がステッキでドイルの頭に一撃を加えて帽子を叩きつぶしたのである。幸いにもこのときドアが開いたので、彼は相手を中に突き飛ばした。自分も中に入るのは少々剣呑だと思ったので、6ペンスは次の機会に取っておくことにして、彼はそのまま家に帰った。

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コナン・ドイル伝(1)再録

 コナン・ドイルはアイルランドの血を受け、スコットランドに生まれ、長じてイングランドに住んだ。
 彼は感じやすい質だったから、この三国はいずれもその性格形成に与り、ドイルはアイルランド人の侠気と熱情、スコットランド人の誇りと気骨、イングランド人の一徹とユーモアを兼ね備えることになった。後年になると、侠気は烏滸の沙汰と評され、誇りは自惚れと見られ、一徹は頑迷の印だと非難されることもあったのだが、これについては追々述べて行くことにしよう。
 彼の祖父ジョン・ドイルは1815年にダブリンからロンドンに出てきて、間もなくH・Bの筆名で風刺画家として名をなした。前世代のギルレイやローランドソンの苛烈な風刺画への反動が始まっていた時期でもあり、ジョン・ドイルの感じのよい画風は流行の先駆けをなした。「祖父は紳士であり、紳士のために紳士を描いた」とコナン・ドイルは言う。ジョンの流儀は成功をもたらし、四人の息子はみな父親の才能を受け継いだ。長男のジェームズは『イングランド年代記』を書いて自ら色刷りの挿絵をつけ、後には『英国貴族名鑑』の編集に13年を空費した。次男のヘンリーは古い絵の目利きとして知られ、ダブリンのアイルランド国立美術館の館長となった。三男のリチャードはサッカレーの『ニューカム家の人々』の挿絵を描き、 『パンチ』誌の画家として名声を博し、その表紙をデザインした〔1849年から1956年までリチャード・ドイルの描いた表紙が使われた〕。
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 ここでは叙述の的を四男のチャールズに絞ろう。彼は公務員で、余暇に絵を描いていた。チャールズの絵のモチーフは幻想的だった。興が乗ると妖精を描き、陰鬱な気分のときはもっと「途方もなく恐ろしいもの」が画題になるのだった。
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これは彼の内部に秘められた力と狂気と優しさを表していた。 チャールズは十九歳でエディンバラ市の建設局に職を得て、1855年にメアリー・フォレーと結婚した。彼女もアイルランド人であり、パック家とパーシー家を通じてプランタジネット朝につながる家柄の出であった。二人はエディンバラ市のピカデリー・プレースで小さなフラットに住み、長男のアーサー・コナン・ドイルは1859年5月22日にここで生まれた。
 初めのうち、チャールズとメアリーは240ポンドの年俸だけでまずまず暮して行くことができた。しかしやがて女の子が三人男の子が一人生まれ、生活は苦しくなった。チャールズは頼りにならなかった。ときには絵が売れて50ポンドほどになることもあったが、彼はいわゆる「芸術家気質」の人で、仕事にはほとんど意欲がなく、家庭にもあまり関心を示さなかった。彼は雲の中に住んでいた。息子はのちに「父の欠点もある意味では高い霊性の反映だった」と書いている。絵はたいてい売るよりも進呈してしまい、お返しに好意として幾ばくかの金銭を得ることもあったのだろう。「父は背が高く長いひげを生やし、気品があった。父ほど物腰の上品な人はいなかった。ウィットがあり冗談も好きだったが、同時に繊細で感受性は鋭敏だったから、会話が下品になるとすぐに席を立つ勇気があった。……浮世離れした人で実務能力に欠け、家族はそのために苦しんだ」
 子供たちにとって幸いなことに、妻の方は芸術家気質ではなかった。夫と同じくアイルランド人でカトリックであったが、スコットランドの風土が彼女を非凡な(しかし英国北部では珍しくない)女性に鍛え上げていた。所得税課税最低限以下の収入で家族の衣食をまかなった上に教育まで受けさせたのは、まったく彼女の才覚だった。メアリーはケルト人らしく家系を誇り、長男もこの誇りを受け継いだ。エドワード・ヤング〔十八世紀の詩人〕の言うように「家柄自慢をする者は負債ばかりをこしらえる」ものだが、アーサーは先祖からの負債に利息を付けて完済したのである。
 幼いアーサーの環境は苛烈だったが、彼は頑健だった。七歳になると小学校に通い始め、二年の間、教師の体罰に耐えることになった。この教師はディケンズの登場人物を彷彿とさせたが、それで彼の与える苦痛が和らげられるわけではなかった。しかしこれは少なくともアーサーを鍛えてはくれた。休み時間には同じ年頃の少年たちとよく喧嘩した。何しろ闘争本能は旺盛だった。あるとき馬券屋の助手が重いブーツの入った袋で彼の脳天を殴りつけ、アーサーは気絶した。しかし彼はそれくらいではたじろがなかった。…………

 ヘスキス・ピアソンの『コナン・ドイル伝』のはじめの部分、第1章「ケルト人」の書き出し。再録です。
 このドイル伝の目次は

1 ケルト人
2 苦学生
3 ドクター・バッド
4 ドクター・ドイル
5 待ち時間
6 シャーロック・ホームズ
7 交友と名声
8 勇将ジェラール
9 行動の人
10 タイタニック
11 市井の人
12 晩年

 ペーパーバックで全188ページです。実はこのコナン・ドイル伝の翻訳は某社から刊行の予定があったのですが、おじゃんになって現在のところ宙ぶらりんです。もう少し訳してある部分があるので、順次このサイトに載せます(→平凡社から発売中です)。

 この伝記は1943年に書かれた初の本格的伝記ですが、ジョン・ディクスン・カーのものやジュリアン・シモンズのものよりはるかに上だと私は思います。

 グレアム・グリーンは本書の序文で、「著者ピアソン氏にはジョンソン博士に通じる特質がある」と書いています。これはわが国ならば「芭蕉に通じる云々」と言うくらいのもので、最上級の賛辞でしょう。

 コナン・ドイルの伯父リチャード・ドイルについては「連想美術館」というサイトをぜひ御覧下さい。ここに出ているリチャード・ドイルによる素晴らしいイラストを一つだけお借りします。

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ブログ再開の弁

 またブログを休止しましたが、再開します。
 前回しばらく休んで再開したときには、「身辺のことは二度と書かない」と言いましたが、前言撤回。
 アイドルでも何でもないただのおっさんのくせに「自分は最近これこれのことをした、かくかくしかじかの事情がある」などと書くのには、どうも抵抗があるが、なにがしかの快感もある。

 今回は、先日めまいがしてひっくり返ったのです。車で買い物に行って帰ろうとすると、突然空がくるくる回り出した。地面に座り込んでしばらく休んでも直らない。めまいなんて生まれてはじめてである。タクシーを呼んでもらって帰宅した。翌日にはめまいはなくなったけれど、どうも心配だ。

 大学病院の神経内科で診てもらうと、まずいろいろ動作のテストをする。「手で鼻をつまんでください」とか、「片足で立ってください」などというのは簡単だったが、「両手を水平に前に挙げ目をつむって、号令に合わせてその場で50回足踏みしてください」というのには参った。足踏みを終わって眼を開けると、左前方に1歩前進しているではないか。
 同じテストを見学の医学生がやってみると、やや角度は変わるが立っている場所は変わらない。どうも身体の性能が若い人と比べると衰えているのは仕方がないようだ。それでも「このテストでは180度回転してしまう人もいるくらいで、あなたくらいならまず大丈夫です」という。
 念のために頭のCTを取った。めまいは脳腫瘍のためという可能性もあったのだが、私の場合は「特に異常はないようです。しばらく様子を見ましょう」ということだった。
 「エーと、まず、いくらか全般的老化がある。それに疲労が重なってめまいが出たということですか」と聞くと、医師は「まあ、様子を見るということでよいでしょう」と答える。
 素人が勝手な「まとめ」をするのを医師は嫌うらしい。向こうはプロなんだから当然でしょうね。
 かなり前、まだ若いころに別の大学病院の整形外科で「かくかくしかじかですか」と聞いたら怒鳴られたことがある。「あんたが解釈をしなくてよろしい。あんた、職業は何だ? 英語教師? 教師が一番悪い」と言いやがった。よっぽど怒鳴り返そうかと思ったが、捻挫で右腕が腫れ上がって痛くてたまらなかったので仕方がない。すごすごと引き返しました。

 ブログですが、やっぱり継続するのが一番ですね。ちょっと方針を変えて「拙速も厭わず」ということにする。毎日とは行かなくともできるだけ更新したいですね。ネタはたくさんあるのだ。

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2006年11月 1日 (水)

クリスティーズのコナン・ドイル関係文書売り立て

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 2004年5月21日、大英図書館(British Library)は次のような発表をした。

 大英図書館の努力によって、サー・アーサー・コナン・ドイルの残した書類の重要部分はパブリックドメインに残り、研究者や一般読者が自由にアクセスできることになった。5月19日に行われたクリスティーズのオークションでは、大英図書館は競売品のうち主要な10組(総数1000点以上の書類)を確保した。売れ残った他の書類についても大英図書館は入手の努力を続けている。今後詳細を発表する予定。

 大英図書館が今回確保した書類には、コナン・ドイルがオーストリアのフェルトキルヒ校に在学中に出した雑誌2号分(手書き)、未発表の長編小説処女作『ジョン・スミスの話』(失われたとされていた)、母親からドイル宛の手紙、ドイルから弟のイネス宛の手紙、二度目の妻ジーンや息子エイドリアンなどに宛てた手紙などがある。
 大英図書館は今回の売り立てで総数1200点ほどの書類を確保した。大英図書館はすでにコナン・ドイルの娘ジーン・コナン・ドイル女史から900点の遺贈を受けている。

 以上、抄訳です。英語全文はこちら。原文にはnational interestが守られた云々という言葉があったが、「国益」と訳するのもどうかと思うので訳さなかった。しかしドイル関係文書は英国人には大切なものなのでしょうね。

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