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2006年11月16日 (木)

コナン・ドイル年譜

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1859 アーサー・イグナシウス・コナン・ドイル生まれる。父はチャールズ・アルタモント・ドイル、母はメアリ(旧姓フォリー)。10人兄弟の第3子で長男。両親はカトリックだった。

1868-75 ドイル、イエズス会の小学校ホッダー校に2年、次いでイエズス会のパブリックスクール、ストーニーハースト校に5年在学する。同級生に自分でこしらえた冒険譚を語って人気者になる。

1875-76 大学入学資格試験に合格。オーストリアのイエズス会の学校、フェルトキルヒ校に1年間留学する。

1876 エディンバラ大学医学部入学。ドイル家に下宿していた医師ブライアン・チャールズ・ウォーラーのアドバイスによる。

1877 ブライアン・チャールズ・ウォラー、エディンバラ市内に診療所兼住宅を構え、ドイルの家族はウォーラーと同居する。ドイルはエディンバラ大学に通学。80年までの間にシェフィールド、シュロップシャー、バーミンガムで医者の助手を務める。

1879 父チャールズ、アルコール中毒で精神病院に入院。ドイル、小説処女作『ササッサ渓谷の謎』をチェインバーズ・ジャーナル誌9月号に発表。初論文Gelseminum as a Poisonをブリティッシュ・メディカル・ジャーナル9月号に発表。

1880 2月-9月、捕鯨船ホープ号の船医を務める。

1881 エディンバラ大学医学部卒業。医学士。

1881-2 10月-1月、アフリカ航路貨客船マユンバ号の船医を務める。

1882 プリマスで友人バッド医師のパートナーとなるが喧嘩別れし、6月ポーツマスに移り独立開業する。医業の傍ら小説を書く。

1882-3 ドイル家離散。父は入院。母メアリはヨークシャーのブライアン・チャールズ・ウォーラー家の地所に住む。弟イネス(1873年生まれ)はドイルと同居し学業の傍ら医院の受付を務める。

1885 8月、ルイーズ・ホーキンズ嬢と結婚する。

1887 『緋色の研究』、ビートンズ・クリスマス・アニュアル誌に掲載。

1889 歴史小説『マイカ・クラーク』刊行。長女メアリ・ルイーズ生まれる。米国リッピンコット社編集者、ドイルおよびオスカー・ワイルドと食事し、『四人の署名』と『ドリアン・グレイの肖像』を書かせる約束を取り付ける。

1891 ハーレー街で眼科専門医として開業するが成功せず。ストランド・マガジン7月号に『ボ ヘミアの醜聞』を載せ、12月号の『唇のねじれた男』まで『冒険』の最初の6編が大成功を収める。

1892 1月-6月、『冒険』の残り6編をストランド・マガジンに連載。10月『シャーロック・ホ ームズの冒険』ニューアンズ社より刊行。長男キングズレー生まれる。

1893 ストランド・マガジン12月号の『最後の問題』でシャーロック・ホームズ死亡。『シャーロック・ホームズの思い出』刊行。妻ルイーズの肺結核発病。スイスへ転地する。

1895 ストランド・マガジンに『ジェラール准将の功績』連載。

1897 ジーン・レッキー嬢(24歳)と会い、プラトニックな関係が始まる。

1900 ボーア戦争に野戦病院の篤志監督として従軍。エディンバラで自由統一党候補として下院議員選挙に出るが落選。

1901 ストランド・マガジン8月号に『バスカヴィル家の犬』連載開始。

1902 ボーア戦争で英軍が残虐行為を行ったという誤解を解くべく『南アフリカにおける戦争:その原因と処理』刊行。功績によりナイトに叙せられる。(同年、ホームズはナイトを断る。)

1903 ストランド・マガジン10月号に『空き家の冒険』掲載され、ホームズ復活。

1905 『シャーロック・ホームズの帰還』刊行。

1906 7月、妻ルイーズ死す。インド人弁護士ジョージ・エダルジの冤罪を晴らす戦いを始める。エダルジは翌年釈放される。

1907 9月、ジーン・レッキー嬢(33歳)と結婚。

1909 次男デニス誕生。

1910 三男エイドリアン誕生。

1912 ストランド・マガジン4-11月号に『失われた世界』連載。4月、タイタニック号沈没。船長と乗組員の責任について、ジョージ・バーナード・ショーと論争する。10月、ユダヤ人オスカー・スレイターの冤罪を晴らすため『オスカー・スレイター事件』を刊行。スレイターは1927年に釈放。

1914 5月から7月、北米講演旅行。8月4日、英国はドイツに宣戦布告、第一次世界大戦始まる。

1915 『恐怖の谷』刊行。

1917 ストランド・マガジン9月号『最後の挨拶』

1918 4月、心霊学の本『新たなる啓示』刊行。長男キングズレー(陸軍大尉)、戦傷でインフ ルエンザが悪化して死亡。

1919 2月、弟イネス(陸軍准将)、肺炎で死亡。

1920-30 ドイル、世界各地で講演し、心霊学の大規模なキャンペーンに乗り出す。

1927 ストランド・マガジン4月号『ショスコム・オールド・プレース』。最後のホームズ譚。6月、マレー社より『シャーロック・ホームズの事件簿』刊行。

1929 6月、『マラコット海淵』刊行。ドイル最後の小説。

1930 7月7日、コナン・ドイル死去。

 
・ヘスキス・ピアソンのドイル伝には、ジョージ・エダルジ事件とオスカー・スレイター事件でのドイルの活躍やタイタニック号の沈没をめぐるジョージ・バーナード・ショーとの論争について詳しい記述がある。

・ドイルの父親のアルコール中毒のことはピアソンは触れていない。

・ドイルに大きな影響を与えたブライアン・チャールズ・ウォーラーについては、ピアソンは言及していない。ウォーラーについては小林司・東山あかね氏が独自の説をとなえておられる。この説はちとどうかと思われるが、これについてはまた別の機会に。

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