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2006年11月17日 (金)

わが思い出と冒険――コナン・ドイル自伝

第5章 西アフリカの航海
 …………
 アフリカの死のような印象はますます強くなってきた。現在の食事と習慣をもつ白人は侵入者だと人は感じる。はじめから来る気なんかなかったのだ。むっつりと色の黒いこの大陸は、それをしらみでもつぶすように殺してしまった。私は日記の一端にこう書きつけている――
   おおアフリカ、賢い人が見たという
   お前のよいところはどこに?
   こんな恐ろしいところで暮らすより
   喜捨をうけてでもイギリスにいたい。
 それでも船上の生活は気楽で、ある意味ではぜいたくでさえあった――生涯の方向を定めようとしている若者にとっては、あまりにぜいたくといえた。早すぎる安楽には、人を無気力にする恐ろしさがある。思いおこすが、将来のことを考え――そのとき私は猛烈な雷雨のなかを船尾楼に立っていたのだが――こんな航海をもう一度か二度したら、私の簡素な習慣を忘れ去ってしまい、何ごとに成功するにも必要なはげしい苦闘に耐えられなくなってしまうと思った。文学で成功するなどという考えは毛頭おこらなかった。考えることはやっぱり医学だけであったが、バーミンガムの経験から、何らの信望もなくまたそれに類するものを買い取る資力もないものにとって、前途がいかに険しく遠いものであるかを十分知っていた。そこのその場でこれ以上踏み迷ってはならないと神に誓ったが、これが生涯の分岐点になったことはたしかだ。一度は修業のため放浪するのもよいが、二度となると破滅を意味するだけだ――だがそれをやめるのはむずかしい。有益な黙想をしたこの同じ日に、私はあとの航海中酒を断つ決心をした。わが生涯のうちこの頃はかなり気ままに飲んだもので、頭脳的にも体力的にも十分それに耐えてきたのであるが、考えてみると西アフリカの際限のないカクテルは危険だと思ったので、少しの努力でこれを断ってしまった。節欲そのものには名状しがたい喜びがたしかにあるが、社交的な面に危険があるのだ。もとよりわれわれが真のマホメット教徒のように、みんな禁酒家であったら、失敗するものは一人もありはしない。
(コナン・ドイル『わが思い出と冒険』新潮文庫版pp.68-69)

 同じ箇所をヘスキス・ピアソンはどう書いているか。もう一度見てみよう。

 ある日、激しい雷雨の中で船尾甲板に立っているとき、ドイルはこの航海を最初で最後にするのだと決意した。船の生活は若く野心のある男には快適すぎる。もう一度航海すれば気楽な船医暮しから一生抜け出せなくなる。医者で身を立てるにはこれから大奮闘しなければならない。遍歴も1年なら結構だが2年となると致命的だ。こう思ったので船医は辞めることに決め、航海中もう蒸留酒は飲まないことにした。アフリカの危険も船の贅沢もうんざりだった。彼は日記に詩を書きつけた。

  アフリカよ、汝が顔に賢者の見たる
  妖しき魅力、今いずこ
  怖しき彼の地に長者たらんより
  懐かしき家郷にありて物乞いせん

 ピアソンが『スターク・マンローの手紙』とともに『わが思い出と冒険』を上手に利用したことが分かる。ドイルの記述が少々ごちゃごちゃしているのを簡潔にまとめている。
 ドイルの延原訳では「私はあとの航海中を断つ決心をした」という箇所が、ピアソンの拙訳では「航海中もう蒸留酒は飲まないことにした」となっている。
 どちらが正しいのか?
 ピアソンの原文は--he made up his mind to stop drinking spirits for the rest of the voyage.
 ドイルの原文がどうなっているかは、Memoirs and Adventuresを買って確かめればよいのだけれど、古書価が6万5000円では高すぎる。(1万8000円は抜粋を録音したカセットの値段らしい。)
 多分
I made up my mind to stop drinking spirtits for the rest of the voyage.
だろうと思います。ピアソンはI→he, my→hisと変えただけでしょう。
 spiritsというのはもちろウイスキー、ブランデー、ラム、ジンなどの「蒸留酒」のことです。ビールなどは酒のうちに入らないのだとすれば、「酒を断つ」という訳し方もありでしょうね。
 ドイルはエディンバラ大学医学部へ通っていたとき、毎日昼飯に3ペンスでサンドイッチとビールを買ったと第2章「苦学生」の初めの方に書いてあった。昼にビールを飲んで大丈夫なんだろうか、午後の授業はなかったのだろうか、と思ったのだけれど、大丈夫だったらしい。
 第1章「ケルト人」では、ストーニーハースト校で午後のお茶の時間に「ビールと称するものが出た」が、これはひどい代物で、ドイツのフェルトキルヒ校では本物のビールを飲ませてもらってうれしかったとある。イエズス会の学校で高校生に飲ませるくらいだから、当時の西洋ではビールなど酒のうちに入らなかったのだろう。
『わが思い出と冒険』の引用部分の最後でドイルが
「もとよりわれわれが真のマホメット教徒のように、みんな禁酒家であったら、失敗するものは一人もありはしない」
と、少々分かりにくいことを書いているのは、父親のアルコール中毒のことが念頭にあったからでしょうね。
 ヘスキス・ピアソンはドイル家の委嘱で伝記を書いたのだから、こういう危ないところには触れないようにしたのである。
 それでも遺族、特に息子のエイドリアンには気に入らなかった。改めてジョン・ディクスン・カーが依頼を受け、カーは2年間かかりきりになって『コナン・ドイル』(1949年)を書いた。カーは新機軸を出す必要があったから、西アフリカ航海の話も別の書き方をしている。しかし、この辺についてはまた稿を改めて。

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