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2006年12月28日 (木)

モルグ街/病院横町(2)

佐々木訳
 我々が初めて会ったのはモンマルトル街の名もない図書館で、そこで二人が偶然にも同じたいへん貴重な稀覯書を捜していたことから、いっそう親しくなったのであった。二人はたびたび会った。フランス人が自分のことを語るときにはいつも示すあの率直さで、彼が、詳しく話してくれた彼一家の小歴史は、非常に面白かった。私はまた、彼の読書の範囲のたいそう広いのに驚いた。そしてことに彼の想像力の奔放なはげしさと溌剌たる清新さとは、私の魂を燃え立たせるように感じた。そのころ、私は求めるものがあってパリで捜していた。で、こういう人と交わることはなににもまさる宝であろうと思い、この気持をはっきり彼にうち明けた。で、とうとう私のパリ滞在中は、一緒に住もうということになった。そして、ちょうど、どんな迷信か問題にもしなかったが、とにかく迷信のために長いこと住み手のなかった、郭外(フォーブール)サン・ジェルマンの辺鄙な淋しいところにある、崩れかけた、古い、怪しげな邸を借りた。その家賃や、また、二人に共通した気質である、いささか空想的な憂鬱にふさわしいように家具を備えつける費用を、私のほうが彼よりはいくらか暮し向きが楽だったので、私が受け持つことにした。

佐々木直次郎 1901-1943。石川県金沢市生まれ。1931年9月より1932年11月にかけて第一書房より刊行された「エドガア・アラン・ポオ小説全集」は、ポーの本格的翻訳として注目された。――青空文庫)

鴎外訳
 己が始めてこの男に逢つたのは、モンマルトル町の小さい本屋の店であつた。偶然己とこの男が同じ珍書を捜してゐたのである。その時心易くなつて、その後度々逢つた。一体フランス人は正直に身の上話をするものだが、この男も自分の家族の話を己に聞かせた。それを己はひどく面白く思つた。それに己はこの男の博覧に驚いた。又この男の空想が如何にも豊富で、一種天稟の威力を持つてゐるので、己の霊はそれに引入れられるやうであつた。丁度その頃己は或る目的の為めにパリイに滞留してゐたので、かう云う男と交際するのは、その目的を遂げるのにひどく都合が好いと思つた。その心持を己は打ち明けた。そこでとうとう己がパリイに滞留してゐる間、この男が一しょに住つてくれることになつた。二人の中では己の方が比較的融通が利くので、家賃は己が払ふことにして妙な家を借りた。それはフオオブウル・サン・ジエルマンの片隅の寂しい所にある雨風にさらされて見苦しくなつて、次第に荒れて行くばかりの家である。何でもこの家に就いては、或る迷信が伝えられているのださうだつたが、我々は別にそれを穿鑿もしなかつた。二人はこの家を借りて、丁度その頃の陰気な二人の心持に適するやうに内部の装飾を施した。

  Our first meeting was at an obscure library in the Rue Montmartre, where the accident of our both being in search of the same very rare and very remarkable volume, brought us into closer communion. We saw each other again and again. I was deeply interested in the little family history which he detailed to me with all that candor which a Frenchman indulges whenever mere self is the theme. I was astonished, too, at the vast extent of his reading; and, above all, I felt my soul enkindled within me by the wild fervor, and the vivid freshness of his imagination. Seeking in Paris the objects I then sought, I felt that the society of such a man would be to me a treasure beyond price; and this feeling I frankly confided to him. It was at length arranged that we should live together during my stay in the city; and as my worldly circumstances were somewhat less embarrassed than his own, I was permitted to be at the expense of renting, and furnishing in a style which suited the rather fantastic gloom of our common temper, a time-eaten and grotesque mansion, long deserted through superstitions into which we did not inquire, and tottering to its fall in a retired and desolate portion of the Faubourg St. Germain.

(1) 鴎外は一人称に「己」を使っている。これは「おれ」と読ませるが、「俺」とは少し違う。「おのれ」を簡略化した「おれ」で、鴎外が小説の語り手用に使う一人称である。会話は君僕調である。
「おい。ドユパン。あんまり不思議じやないか。正直に言ふが、今の話は実際の口から出ての耳に這入つたのだか、どうだかと疑はずにはゐられないね。」
 一人称に「ぼく」「わたし」「わたくし」「おれ」など、そのほかにもいろいろあって選取り見取りというのは、考えてみればおかしな言語である。しかし鴎外の「己」が定着しなかったのはやむを得ないだろう。私は佐々木氏のように「私」で行くことにしている。「わたし」とでも「わたくし」とでも勝手に読んでください、というつもり。

(2)an obscure library in the Rue Montmartre
・モンマルトル街の名もない図書館
・モンマルトル町の小さい本屋の店

 鴎外訳が正しい。ポーは先進国フランスに憧れていて舞台をパリに設定した。だからフランス語のlibrairie(本屋)をそのままlibraryと英語に直したのだ。「名もない図書館」などは日本語だけで考えてもおかしいはずだ。ちなみに図書館のフランス語はbibliotheque。

(3) I was deeply interested in the little family history which he detailed to me with all that candor which a Frenchman indulges whenever mere self is the theme.

・フランス人が自分のことを語るときにはいつも示すあの率直さで、彼が、詳しく話してくれた彼一家の小歴史は、非常に面白かった。

・一体フランス人は正直に身の上話をするものだが、この男も自分の家族の話を己に聞かせた。それを己はひどく面白く思つた。

 candorという抽象名詞の扱いが問題である。日本語では「率直さで(詳しく)話す」などとは言わない。「率直に話す」なら分るが。鴎外訳が自然な日本語である。「率直さ」という抽象名詞の馬鹿馬鹿しさはどうだ。「正直に」の方なら「正直さ」か? 「優しさ」なんてことを言うやつがいると口をひねってやりたくなるのだけれど、ああいう言い方はもう1930年代に胚胎していたらしい。

(4) I felt my soul enkindled within me by the wild fervor, and the vivid freshness of his imagination.

・彼の想像力の奔放なはげしさと溌剌たる清新さとは、私の魂を燃え立たせるように感じた。

・この男の空想が如何にも豊富で、一種天稟の威力を持つてゐるので、己の霊はそれに引入れられるやうであつた。

「はげしさ」と「清新さ」という抽象名詞を主語にした文は、自分が翻訳するのならば絶対に書きたくないね。(小林秀雄が「美しい花はあるが、花の美しさというものはない」なんて滅茶苦茶なことを言ったのも、たぶん「美しさ」という抽象名詞にインチキくさいものを感じたからだろう。)ではどうすればよいというと、すぐに名案は浮ばない。鴎外訳ではいかにも用語が古い。天稟(てんりん)というのはどういう意味だろう? 己の「霊」も現代の用法からは離れているようだ。

(5)I was permitted to be at the expense of renting,…………Faubourg St. Germain.

 佐々木訳で 長い形容詞相当語句名詞

どんな迷信か問題にもしなかったが、とにかく迷信のために長いこと住み手のなかった、郭外(フォーブール)サン・ジェルマンの辺鄙な淋しいところにある、崩れかけた、古い、怪しげな

二人に共通した気質である、いささか空想的な憂鬱にふさわしいように家具を備えつける費用

 を鴎外訳では短いセンテンスの積重ねで処理している。

 関係代名詞の構文をなるべく「後からひっくり返って」訳さないというのは、僕なんか予備校教師のときから心掛けていたのだけれど。生徒が自分の訳文をチェックできるように「ひっくり返り訳」も一応は読上げるけれど、それだけでは辞書と首っ引きでようやく読めたみたいでかっこ悪い。「こなれた訳」もできるぞ、諸君とは次元が違うのだ、ということを見せておかないと具合が悪いのである。

 ポーをはじめて読んだのはもう何十年も前のことだから、モルグ街も黒猫もアッシャー家も新潮文庫の佐々木直次郎訳だった。当時は翻訳調がどうだとか、誤訳があるかも知れないとか、全く気にならなかった。比較の対象がないのだから仕方がない。
 自分で英語を読むようになると贅沢になってきたのだろうか。もう佐々木訳ではとうてい読めたものではない。
 新潮文庫もいくら何でももう新訳が出ているだろう。と思ってアマゾンで調べてみると、驚いたね。『黒猫・黄金虫』『モルグ街』『モルグ街(新版?)』と新潮文庫の佐々木直次郎訳が3冊も「在庫あり」だ。モルグ街はカスタマーレビューで「翻訳も非常に良いと思います」だって。信じられない。

 青空文庫でも佐々木直次郎はずいぶん優遇されている。10作品が公開中で4作品が作業中である。ポーのものはほとんど青空文庫で読める。
 利用させてもらっておいて文句を言うのも悪いけれど、何だか誤解があるみたいだ。佐々木直次郎氏の日本語はたしかにやや古めかしいけれど、古いからといって格調が高いわけではない。後世に残す価値はありません。現代の雑駁な日本語の走りである。
 英語もそんなに読めていないようだ。試験の答案だったら減点するわけにも行かないけれどというレベルである。小心翼々と英語と日本語を一々対応させているから、いつか見た三上於兎吉訳『自転車嬢の危難』のような大誤訳はない。だから結構重宝で今でも売れているのだろう。でも本当に読めていたら、こんな日本語は書けないはずだ。

 むかし日本語しか読めなかった子供のころは、英文学に限らず、物凄い翻訳の日本語を平気で読んだものだ。『カラマーゾフの兄弟』も『罪と罰』もたしか米川正夫訳で読んだはずだ。今度読み直すときは江川卓訳にするか。でも江川さんってすごいね。どうしたら野球とロシア文学の両方であんなに大活躍できるのだろうか?
 

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コメント

トラックバックありがとうございました。私はモルグ街は最初谷崎精二訳で読み始めたのですが、読みにくさに辟易して途中で青空文庫に読み替えました。

やはり新しい訳の方がよみやすくかつ誤訳も少ないのでいいですね。(翻訳の後発者利益ではありますが)

カラマーゾフを初めて読んだ時も、最初は岩波の米川訳で読んでおりましたが、途中で新潮の江川卓訳に切り替えました。江川さんの訳の方が読みやすくてよいですよね。

いままで出会った酷い訳といえば、ジョン・アップダイク『走れウサギ』宮本陽吉訳 は酷かったです。日本語としてちんぷんかんぷんで、まだ機械翻訳のほうがましじゃないかと言いたくなる(そこまで酷くはないけど)ほどでした。では失礼します。

投稿: めむひ | 2006年12月28日 (木) 20時10分

続いて拝読しております。勉強になります。

『モルグ街』創元・丸谷才一訳で読みました。
評価はいかがでしょうか?

「仄暗い図書館」「あの率直さ」ですがw

投稿: 熊谷 彰 | 2006年12月29日 (金) 20時46分

めむひさん、熊谷さん、コメントありがとうございます。
アップダイクの訳がひどいという話は私も聞いたことがあります。原文がだいぶ凝った英語らしい。翻訳おそるべし。
丸谷才一はファンでエッセイは全部読んでいるのですが、翻訳は読んでいない。今度見てみます。
岩波文庫の中野好夫訳
ことに僕は、彼が詳しく話してくれた一家の歴史、いや、あのフランス人というのは、談一度己れを語るということになると、実に何でもアケスケに話してくれるものだが、僕もまたその話に、すっかり興味を覚えてしまった。
中野先生も図書館としているけれど、やっぱり本屋でしょう。

投稿: 三十郎 | 2006年12月30日 (土) 12時02分

野球選手の江川卓(えがわすぐる)とロシア文学者の江川卓(えがわたく)とは別人なのですが……ギャグですよね?

投稿: 柳田剛寛 | 2009年11月18日 (水) 17時56分

エー、別人だったのか。驚いた。

投稿: 三十郎 | 2009年11月18日 (水) 19時19分

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