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2006年12月30日 (土)

『お言葉ですが…』再開

『お言葉ですが…』が再開されます。今度は草思社のWeb草思に載る。掲載開始は来年1月末ごろの予定。
 きのう高島俊男先生からお手紙をいただいたのだ。『お言葉ですが…』を再開して欲しいという読者がたくさんいて、その一人一人に手紙を出されたらしい。手書きをコピーしたものである。

1. 先生が原稿を書いて、編集プロ「アイランズ」の赤岩さんがコンピュータ入力したものをWeb草思に横書きで載せる。ない字は伏字。
2. 別に縦書き印刷版(伏字を手書きで埋める)を作り、希望する人にはこれを郵送する。1回200円。10回ごとに赤岩さんに送る。
101-0051 東京都千代田区神田神保町1-18 三光ビル3階 アイランズ赤岩「お言葉」 Tel 03-5283-3373  Fax 3376

 先生は2について「料金を徴収するというのが気がひける。もっとよい方法があったらご教示ください」とおっしゃる。
 お手紙には私の名前と「お持ちのパソコンで見て下さい。ご意見おきかせ下さい。」が先生のペンで書き添えてあった。

 私は『お言葉ですが…第11巻』を読んで連合出版にメールで感想を送ったのである。全11巻の通巻索引を作った八尾さんから返事をいただいた。すぐに増刷になったという。広告もしないのに売れるのだ。いいものは匂いでかぎつける読者がいるのだ。八尾さんも「みなさんのおかげです」とおっしゃっている。(連合出版のサイトには11巻の正誤表あり。)

 文藝春秋の新年号の巻頭随筆に高島先生の『「にくい」から「づらい」へ』が載ったのだが、一読してちょっと変だなと思った。いつもの先生ではない。調子が違う。はっきり言うと何かが足りない。しかし考えてみるとこれは巻頭随筆なのだ。ほかの執筆者は政治家の加藤紘一氏、全日空社長の大橋洋治氏、歌舞伎俳優の中村吉右衛門氏などである。ここは有名人が顔を見せる場所で、文章なんか下手でもよろしいのだ。高島先生にいつもの調子で快刀乱麻を断ってもらっては迷惑なのだ。
 先生の本領はやはり「本が好き、悪口言うのはもっと好き」というところにあるのでしょうね。『お言葉ですが…第11巻』では「日本の敬語論」の冒頭で珍しく人をほめている。以下引用。

 眼が痛いので人に本を読んでもらってテープで聞いている。
 最近聞いてもっとも痛快だったのは、滝浦真人『日本の敬語論』(2005大修館)であった。敬語研究史である。著者は1962年生まれの若い人。
 テープを聞きながら小生何度も「いいぞ、若武者!」と心中声を発し、時々は録音機をとめて「若くて、頭がよくて、元気のいいやつは気持がいいなあ」とひとしきり嘆息して、またテープをまわした。

「いいぞ、若武者!」だって。ほめるときはこういうふうにほめなくっちゃ。いいなあ。と思ってページをめくると、山田孝雄、金田一京助などを散々にやっつけて、「アハハハ、愉快愉快。」といつもの調子に戻っている。
 悪口を言うだけなら誰にでもできる。下品にならないのがむつかしいのだ。下心がなくて文章がいいから読んで気持がいいのだ。
 Web草思では12月に鳥居民氏の新連載「書冊の山より」が始まった。第1回は清沢洌『暗黒日記』を取り上げている。ほかの連載も充実している。ここに1月から高島先生が加わるのだ。楽しみだなあ。
 

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2006年12月29日 (金)

至近距離で見た有名人(3) ドクちゃん

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 ベトちゃんとドクちゃんは1981年2月25日にベトナムで生まれた。二人は下半身がつながって生まれた双子の兄弟である。結合双生児という。アメリカ軍が大量に散布した枯葉剤に含まれるダイオキシンの影響であると言われている。
 1988年、ベトちゃんが意識不明の重体となり、そのままでは二人とも死んでしまうので、ホーチミン市の病院で分離手術が行われた。
 手術は成功し、ドクちゃんは自由に歩けるようになったが、ベトちゃんは脳障害を抱え、今も寝たきりの状態である。
 ドクちゃんは1994年7月に来日し、三重大学医学部で検査を受けてベトナムへ帰った。このとき、名古屋で新幹線から津行きの近鉄特急に乗換えるシーンをテレビで見た記憶がある。

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 1996年のはじめだったと思う。私は三重大学医学部病院に入院していた。手術のあと体力も回復してきたので、点滴を引張ったまま1階の購買部まで降りて行った。すると、自動販売機の前に何だか見たことのあるような男の子がいる。誰だろう? よく見ると、ドクちゃんではないか。また三重大に来たとは知らなかった。この前テレビで見たときより少し大きくなったみたいだ。日本の中学一年生くらいの感じである。
 私は4階の第二外科に入院していた。ドクちゃんは6階の第一外科らしい。それからときどき見かけるようになった。日本人の小父さんと何やら楽しそうに日本語で話しているときもあった。
 私は医療費を免除されていたくらいだから、かなりの重病だった。新しい患者が入ってくると、尋ねることにしていた。「おたく、何の病気? ふーん、胆石か。僕は膵炎でねえ。手術に20時間かかりましたよ」と言うと、たいていの者はヒェーと恐れ入ってしまう。ちょっとした牢名主気分であった。
 しかし重病ということなら、ドクちゃんはこちらとは比べものにならない重病なのだ。それが外国に一人で来てニコニコしているなんて、何と勇気のある子だろう。
 あれから10年たって、私はどうやらふつうの生活を取り戻している。ドクちゃんは12月16日に結婚したというではないか。おめでとう。
 

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2006年12月28日 (木)

モルグ街/病院横町(2)

佐々木訳
 我々が初めて会ったのはモンマルトル街の名もない図書館で、そこで二人が偶然にも同じたいへん貴重な稀覯書を捜していたことから、いっそう親しくなったのであった。二人はたびたび会った。フランス人が自分のことを語るときにはいつも示すあの率直さで、彼が、詳しく話してくれた彼一家の小歴史は、非常に面白かった。私はまた、彼の読書の範囲のたいそう広いのに驚いた。そしてことに彼の想像力の奔放なはげしさと溌剌たる清新さとは、私の魂を燃え立たせるように感じた。そのころ、私は求めるものがあってパリで捜していた。で、こういう人と交わることはなににもまさる宝であろうと思い、この気持をはっきり彼にうち明けた。で、とうとう私のパリ滞在中は、一緒に住もうということになった。そして、ちょうど、どんな迷信か問題にもしなかったが、とにかく迷信のために長いこと住み手のなかった、郭外(フォーブール)サン・ジェルマンの辺鄙な淋しいところにある、崩れかけた、古い、怪しげな邸を借りた。その家賃や、また、二人に共通した気質である、いささか空想的な憂鬱にふさわしいように家具を備えつける費用を、私のほうが彼よりはいくらか暮し向きが楽だったので、私が受け持つことにした。

佐々木直次郎 1901-1943。石川県金沢市生まれ。1931年9月より1932年11月にかけて第一書房より刊行された「エドガア・アラン・ポオ小説全集」は、ポーの本格的翻訳として注目された。――青空文庫)

鴎外訳
 己が始めてこの男に逢つたのは、モンマルトル町の小さい本屋の店であつた。偶然己とこの男が同じ珍書を捜してゐたのである。その時心易くなつて、その後度々逢つた。一体フランス人は正直に身の上話をするものだが、この男も自分の家族の話を己に聞かせた。それを己はひどく面白く思つた。それに己はこの男の博覧に驚いた。又この男の空想が如何にも豊富で、一種天稟の威力を持つてゐるので、己の霊はそれに引入れられるやうであつた。丁度その頃己は或る目的の為めにパリイに滞留してゐたので、かう云う男と交際するのは、その目的を遂げるのにひどく都合が好いと思つた。その心持を己は打ち明けた。そこでとうとう己がパリイに滞留してゐる間、この男が一しょに住つてくれることになつた。二人の中では己の方が比較的融通が利くので、家賃は己が払ふことにして妙な家を借りた。それはフオオブウル・サン・ジエルマンの片隅の寂しい所にある雨風にさらされて見苦しくなつて、次第に荒れて行くばかりの家である。何でもこの家に就いては、或る迷信が伝えられているのださうだつたが、我々は別にそれを穿鑿もしなかつた。二人はこの家を借りて、丁度その頃の陰気な二人の心持に適するやうに内部の装飾を施した。

  Our first meeting was at an obscure library in the Rue Montmartre, where the accident of our both being in search of the same very rare and very remarkable volume, brought us into closer communion. We saw each other again and again. I was deeply interested in the little family history which he detailed to me with all that candor which a Frenchman indulges whenever mere self is the theme. I was astonished, too, at the vast extent of his reading; and, above all, I felt my soul enkindled within me by the wild fervor, and the vivid freshness of his imagination. Seeking in Paris the objects I then sought, I felt that the society of such a man would be to me a treasure beyond price; and this feeling I frankly confided to him. It was at length arranged that we should live together during my stay in the city; and as my worldly circumstances were somewhat less embarrassed than his own, I was permitted to be at the expense of renting, and furnishing in a style which suited the rather fantastic gloom of our common temper, a time-eaten and grotesque mansion, long deserted through superstitions into which we did not inquire, and tottering to its fall in a retired and desolate portion of the Faubourg St. Germain.

(1) 鴎外は一人称に「己」を使っている。これは「おれ」と読ませるが、「俺」とは少し違う。「おのれ」を簡略化した「おれ」で、鴎外が小説の語り手用に使う一人称である。会話は君僕調である。
「おい。ドユパン。あんまり不思議じやないか。正直に言ふが、今の話は実際の口から出ての耳に這入つたのだか、どうだかと疑はずにはゐられないね。」
 一人称に「ぼく」「わたし」「わたくし」「おれ」など、そのほかにもいろいろあって選取り見取りというのは、考えてみればおかしな言語である。しかし鴎外の「己」が定着しなかったのはやむを得ないだろう。私は佐々木氏のように「私」で行くことにしている。「わたし」とでも「わたくし」とでも勝手に読んでください、というつもり。

(2)an obscure library in the Rue Montmartre
・モンマルトル街の名もない図書館
・モンマルトル町の小さい本屋の店

 鴎外訳が正しい。ポーは先進国フランスに憧れていて舞台をパリに設定した。だからフランス語のlibrairie(本屋)をそのままlibraryと英語に直したのだ。「名もない図書館」などは日本語だけで考えてもおかしいはずだ。ちなみに図書館のフランス語はbibliotheque。

(3) I was deeply interested in the little family history which he detailed to me with all that candor which a Frenchman indulges whenever mere self is the theme.

・フランス人が自分のことを語るときにはいつも示すあの率直さで、彼が、詳しく話してくれた彼一家の小歴史は、非常に面白かった。

・一体フランス人は正直に身の上話をするものだが、この男も自分の家族の話を己に聞かせた。それを己はひどく面白く思つた。

 candorという抽象名詞の扱いが問題である。日本語では「率直さで(詳しく)話す」などとは言わない。「率直に話す」なら分るが。鴎外訳が自然な日本語である。「率直さ」という抽象名詞の馬鹿馬鹿しさはどうだ。「正直に」の方なら「正直さ」か? 「優しさ」なんてことを言うやつがいると口をひねってやりたくなるのだけれど、ああいう言い方はもう1930年代に胚胎していたらしい。

(4) I felt my soul enkindled within me by the wild fervor, and the vivid freshness of his imagination.

・彼の想像力の奔放なはげしさと溌剌たる清新さとは、私の魂を燃え立たせるように感じた。

・この男の空想が如何にも豊富で、一種天稟の威力を持つてゐるので、己の霊はそれに引入れられるやうであつた。

「はげしさ」と「清新さ」という抽象名詞を主語にした文は、自分が翻訳するのならば絶対に書きたくないね。(小林秀雄が「美しい花はあるが、花の美しさというものはない」なんて滅茶苦茶なことを言ったのも、たぶん「美しさ」という抽象名詞にインチキくさいものを感じたからだろう。)ではどうすればよいというと、すぐに名案は浮ばない。鴎外訳ではいかにも用語が古い。天稟(てんりん)というのはどういう意味だろう? 己の「霊」も現代の用法からは離れているようだ。

(5)I was permitted to be at the expense of renting,…………Faubourg St. Germain.

 佐々木訳で 長い形容詞相当語句名詞

どんな迷信か問題にもしなかったが、とにかく迷信のために長いこと住み手のなかった、郭外(フォーブール)サン・ジェルマンの辺鄙な淋しいところにある、崩れかけた、古い、怪しげな

二人に共通した気質である、いささか空想的な憂鬱にふさわしいように家具を備えつける費用

 を鴎外訳では短いセンテンスの積重ねで処理している。

 関係代名詞の構文をなるべく「後からひっくり返って」訳さないというのは、僕なんか予備校教師のときから心掛けていたのだけれど。生徒が自分の訳文をチェックできるように「ひっくり返り訳」も一応は読上げるけれど、それだけでは辞書と首っ引きでようやく読めたみたいでかっこ悪い。「こなれた訳」もできるぞ、諸君とは次元が違うのだ、ということを見せておかないと具合が悪いのである。

 ポーをはじめて読んだのはもう何十年も前のことだから、モルグ街も黒猫もアッシャー家も新潮文庫の佐々木直次郎訳だった。当時は翻訳調がどうだとか、誤訳があるかも知れないとか、全く気にならなかった。比較の対象がないのだから仕方がない。
 自分で英語を読むようになると贅沢になってきたのだろうか。もう佐々木訳ではとうてい読めたものではない。
 新潮文庫もいくら何でももう新訳が出ているだろう。と思ってアマゾンで調べてみると、驚いたね。『黒猫・黄金虫』『モルグ街』『モルグ街(新版?)』と新潮文庫の佐々木直次郎訳が3冊も「在庫あり」だ。モルグ街はカスタマーレビューで「翻訳も非常に良いと思います」だって。信じられない。

 青空文庫でも佐々木直次郎はずいぶん優遇されている。10作品が公開中で4作品が作業中である。ポーのものはほとんど青空文庫で読める。
 利用させてもらっておいて文句を言うのも悪いけれど、何だか誤解があるみたいだ。佐々木直次郎氏の日本語はたしかにやや古めかしいけれど、古いからといって格調が高いわけではない。後世に残す価値はありません。現代の雑駁な日本語の走りである。
 英語もそんなに読めていないようだ。試験の答案だったら減点するわけにも行かないけれどというレベルである。小心翼々と英語と日本語を一々対応させているから、いつか見た三上於兎吉訳『自転車嬢の危難』のような大誤訳はない。だから結構重宝で今でも売れているのだろう。でも本当に読めていたら、こんな日本語は書けないはずだ。

 むかし日本語しか読めなかった子供のころは、英文学に限らず、物凄い翻訳の日本語を平気で読んだものだ。『カラマーゾフの兄弟』も『罪と罰』もたしか米川正夫訳で読んだはずだ。今度読み直すときは江川卓訳にするか。でも江川さんってすごいね。どうしたら野球とロシア文学の両方であんなに大活躍できるのだろうか?
 

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2006年12月27日 (水)

モルグ街/病院横町(1)

モルグ街の殺人事件     佐々木直次郎
 
一八――年の春から夏にかけてパリに住んでいたとき、私はC・オーギュスト・デュパン氏という人と知合いになった。この若い紳士は良家の――実際に名家の出であったがいろいろ不運な出来事のために貧乏になり、そのために気力もくじけて、世間に出て活動したり、財産を挽回しようとする元気もなくしてしまった。それでも、債権者たちの好意で、親ゆずりの財産の残りがまだ少しあったので、それから上がる収入でひどい節約をしながらどうかこうか生活の必需品を手に入れ、余分なもののことなど思いもしなかった。唯一の贅沢といえは、実に書物だけで、これはパリでたやすく手に入った。
青空文庫より 底本の親本は第一書房「エドガア・アラン・ポオ小説全集」1931-1933)

病院横町の殺人犯       森林太郎

 千八百○十○年の春から夏に掛けてパリイに滞留してゐた時、己はオオギユスト・ドユパンと云う人と知合になつた。まだ年の若いこの男は良家の子である。その家柄は貴族と云つても好い程である。然るに度々不運な目に逢つて、ひどく貧乏になつた。その為に意志が全く挫けてしまつて、自分で努力して生計の恢復を謀らうともしなくなつた。幸に債権者共が好意で父の遺産の一部を残して置いてくれたので、この男はその利息でけちな暮しをしてゐる。贅沢と云つては書物を買つて読む位のものである。この位の贅沢をするのはパリイではむづかしくはない。
(初出は1913年(大正2年)6月1日「新小説」誌 1915年『諸国物語』所収)

  Residing in Paris during the spring and part of the summer of 18--, I there became acquainted with a Monsieur C. Auguste Dupin. This young gentleman was of an excellent --indeed of an illustrious family, but, by a variety of untoward events, had been reduced to such poverty that the energy of his character succumbed beneath it, and he ceased to bestir himself in the world, or to care for the retrieval of his fortunes. By courtesy of his creditors, there still remained in his possession a small remnant of his patrimony; and, upon the income arising from this, he managed, by means of a rigorous economy, to procure the necessaries of life, without troubling himself about its superfluities. Books, indeed, were his sole luxuries, and in Paris these are easily obtained.
(Edgar Allan Poe, 1841 原文全文)

 森鴎外訳はドイツ語版Der Mord in der Spitalgasseからの重訳。冒頭部分に省略あり。

此小説の首にはサア・トオマス・ブラウンの語を「モツトオ」にして書いてある。それから分析的精神作用と云ふものに就いて、議論らしい事が大ぶ書いてある。それを訳者は除けてしまつた。原文で六ペエジ以上もある論文のやうな文章を、新小説の読者に読ませたら、途中で驚いて跡を読まずに止めるだらうと思つたからである。……

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2006年12月24日 (日)

至近距離で見た有名人(2) 王貞治

 王貞治選手が756本目のホームランを打ったのは1977年9月3日のことだ。

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 彼は1980年に現役を引退した。私が見たのは、70年代の終わりごろだと思う。午後、真砂町から後楽園球場の方へ降りてゆく坂道を歩いていたら、曲がり角から王さんが現れた。はじめは誰だか分からなかった。なんだか不機嫌そうな中年の男だな、というのが第一印象だった。よく見ると王選手ではないか。身長は176センチだからそれほど大きくはない。ポロシャツ姿、手ぶらで、球場の方へ歩いていった。
 王選手の名前は1956年(昭和31年)の夏から知っていた。甲子園で岐阜商業の清沢投手と早実の王投手が投げ合った試合をテレビで見た記憶がかすかに残っている。私は小学生だった。
 王選手を間近で見てどう思ったかというと、やっぱり

自由が丘亀屋万年堂のナボナはお菓子のホームラン王です。

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2006年12月23日 (土)

至近距離で見た有名人(1) 三島由紀夫

 至近距離で見た有名人の最初は、三島由紀夫である。1970年に腹を切ったのだから、その前の年だったと思う。東大全共闘主催の討論会を聞きに行った。

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駒場の900番教室の入り口にいると、ちょうど三島由紀夫が入って来た。冬なのにポロシャツ一枚である。寒くないんだろうか。もう一つ驚いたのは「小さい」ことであった。何の根拠もなく大男のように想像していたが、173センチの私より二回りばかり小さかった。何センチではなく「二回りばかり」小さいというのが、そのときの印象である。

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 もっとすごい写真を見たい、生首くらい平気だ、という人は
Hugo Strikes Back!

12月31日付記。上のサイトをたどって行くと死体検案書の引用が読める。「身長163センチ。年齢は45歳であるが筋肉がよく発達して30代に見える云々」
  163センチよりもっと小さいと思ったが。第一、首から上は切り離されていたはずだ。どうやって身長を測ったのだろうか?

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2006年12月22日 (金)

『ガンディーと使徒たち』の書評-3

ヴィジョンと現実 

            ドナルド・ソーパー(英国のメソジスト派牧師)
            ブック・アンド・ブックメン誌1977年7月号

 私は若いころ、世界にいわゆる偉人は多いが、真に傑出した人物はただ一人しかいないと思っていた。ガンディーは、私にとって、そしておそらく数百万の人々にとっても、例外的な人間、人類史上まれに見る存在であり、仏陀やマホメット、あるいはイエス・キリストにも比すべき宗教的先覚者、少なくとも聖フランシスやイグナティウス・ロヨラのような精神的巨人であると思われた。ただ、1931年にガンディーに初めて会ったとき(彼はインド自治問題に関する第二次円卓会議のためにインド代表団を率いてキングズリー・ホールに滞在していた)、私はいささか困惑を覚え、このような全面的な賛嘆の態度も幾分変化したことは記しておかねばならない。
 しかし、彼は敵対者や弟子たちの上にはるかに高くそびえ立っていた。彼のアヒンサー(非暴力)の教えと実践は私自身の平和主義者としての信念を強め、私は彼の感化と指導による非暴力のインドが世界平和の先駆けとなると思った。彼のアジア的な精神が自分の育った西欧のそれと著しく異なることに気づいて幾分か不安を覚えたものの、彼の宗教的信念と活動には強い感銘を受けた。それ以上に私は彼の人格の「カリスマ」を目の当たりにして力づけられた。彼の素朴な弟子の一人が言うように、彼は私を「虜にした」のである。しかし、これは今やすべて遠い過去のことである。インドはネルーとインディラ・ガンディーの政権を経て、さらに異質の時代に入ろうとしている。ガンディー主義はどうなってしまったのか?

 インドに生まれて西欧で教育を受けたヴェド・メータは、すでに多くの著作を通じて東洋と西洋の文化の架橋を試みているが、今回の労作もまた読者に裨益するところが大きい。メータ氏はガンディーを語るにあたって自らに厳しい規律を課した。『ガンディーと使徒たち』は、すでに数多い従来のガンディー伝とは全く異質のものである。メータ氏は「バプー」の意味という問題に答えるべく、彼をこの愛称で呼んでいた存命の「使徒たち」を各地に訪ねて生前の思い出を聞く。しかし私の印象では、彼らはもはや「かつての弟子たち」なのである。ラーマチャンドランは官僚主義に、フライドマンは心霊術に、スレイド嬢はベートーヴェンに、ナンダは占星術に逃げ込んでいる。ヴィノーバ・バーヴェ、ダス・グプタ、アブドゥル・ガッファール・カーンの三人は今も師の教えに忠実であるが、彼らは自身が偉大なる魂なのである。これらの高齢の、多くは老衰した生き残りたちのインタビューを読むのは悲しい。キリスト教徒としての私は、教会の使徒たちがローマ帝国の強固な権力に闘いを挑みこれを屈服させぬまでも妥協を強いるに至った歴史と、ガンディーの建設プログラムがその使徒たちの手で崩壊し朽ち果ててしまった有様を比べて、感慨なきを得ないのである。

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 パターン人のアブドゥル・ガッファール・カーンは著者に「インドではガンディー主義は死に絶えた。ガンディーは完全に忘れ去られている」と言う。そんなことがあるものかと思うかも知れないが、考えてみて欲しい。読者も彼のことは完全に忘れ去っているのではなかろうか。実は私もそうなのである。本書がこれを指摘してくれたことには感謝するが、本書の価値は、メータ氏がガンディーの人格を使徒たちの眼と回想を通して見るアプローチと、そこから得られるものにある。ガンディーの生涯の記録としては、本書は特に並はずれたものではない。ガンディーがその主役であった独立運動の歴史については他の伝記の方が詳しいだろう。しかし、使徒たちの証言には共通するものがあって、ガンディーの言行の背後に二つの基本的な信条(あるいは態度)があったことを示すのである。そして、この二つが彼が生涯の紆余曲折の鍵であり、また彼の影響が永続性を持ち得なかったことも、これによって理解することができる。その一つは「ブラフマチャリヤ」の実践である。これは要するに身体と精神を高めるために性生活を断念することである。読者はこれが高潔と自己欺瞞の混淆であると感じるかも知れない。実際、そこには不快な臭気が漂っている。彼が徹頭徹尾誠実であったことは明らかであるが、ブラフマチャリヤは果たして社会に働きかける運動の要素であったのか。それよりもむしろガンディー自身の性の問題を浮き彫りにしているのではないだろうか。ここで本書に繰り返し現れる一つの主題に触れておくべきであろう。それはガンディーの「排泄」へのこだわりである。ガンディーはインドの不衛生を深く憂えていた。彼のアーシュラムは、インド人の不潔な習慣、排泄物による汚染、人糞の堆積がもたらす精神的危険に対する闘いの場であった。人糞は堆肥にすることができて、堆肥は「黒い黄金」であると彼は言った。まことにその通りであり、そこまではよい。しかし、「清潔は神性に次ぐ」と考えた彼の運動には、極端な菜食主義、迷信的な食餌療法、マッサージの効用、浣腸の勧めなどが混淆していたのである。これらは個々にはそれなりの価値があるのであろうが、一纏めにすれば要するに人体とその機能に関する強迫観念であり、十字軍よりもむしろ尼僧の集団に相応しいのである。

 もう一つの基本的な信条は「サティヤーグラハ」である。これは英訳すれば「受動的抵抗」であり、魂の力によって悪と戦い、この抵抗に伴う刑罰を進んで受け入れ、常に「アヒンサー(非暴力)」を貫く態度である。バプーの使徒たちの証言には二つの面がある。サティヤーグラハは有効であった。ガンディーの断食はしばしば「宗教的恐喝」であると評されたが、腰布をまとったこの小男はまことに「十字架の道」を歩み、それが義とせられるだけでなく政治的にも有効であることを示したのである。本書の中でも彼の受動的抵抗の事跡を描くページは燦然と輝き、これが後の挫折の暗闇を強調するのである。なぜ挫折せざるを得なかったのか? 農村の発展のために精緻な建設プログラムを作り上げ、アーシュラムの精神を反映した共同社会の効用を説き、人々を階級闘争から解放して特に悪名高い不可触の差別を根絶せんとしたガンディーが、ただ一つ理解できなかったことがある。キリスト者はこれを彼に教えるべきであったし、マルクス主義者はこれを身をもって示していたのである。それは、人が自ら歴史を作るためにはまず何よりも先にそれを可能とする経済的社会的精神的条件を求めることが不可欠である、という事実である。キリスト者の行うべき受動的抵抗は(マルクス主義者はこれを嘲笑するかも知れないが)、目的ではなく手段であるときにのみ有効である――これが彼の使徒たちの証言のもう一つの面なのである。ガンディーが新時代のテクノロジーを嫌悪したのは、それが南アフリカとインドで帝国主義者の利益のために利用されたからであった。彼がついに悟らず、弟子たちも理解できなかったのは、アヒンサーの道はこのテクノロジーに抵抗するのではなくこれを活用することによってのみ成功するのだ、ということであった。
 しかし、小人の後知恵で巨人の欠点をあげつらうことはたやすい。常套句を用いればガンディーは疑いもなく「偉大なる魂」であった。未来の歴史家は(人類がそれまでに滅亡してしまわないとすれば)、この比類なく暴力的な20世紀に一人の男が現れて非暴力の道を歩み、インドと世界の数百万の人々を説得して非暴力を、そして自らの力を信じさせたことを認めるであろう。本書がそのために役立つならば、我々は大いに感謝しなければならない。

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2006年12月21日 (木)

柔道か柔術か(11) バーティツについて-4

 バートン=ライトは、こうして独自の格闘術「バーティツ」を開発し、ロンドンの繁華街シャフツベリー・アヴェニューに大きな道場を開いた。
 1902年には、あのザンドウ(サンドウ)の主宰するボディビル雑誌がこの道場を紹介している。
 バートン=ライトは、日本から二人の柔術家を呼び寄せた。タニ・ユキオとウエニシ・サダカズである。さらにスイス人のステッキ格闘家ヴィニーとアルマン・シェルピロというレスラーを雇って指導にあたらせた。
 ところが、そのうちにこのバーティツ道場はさびれはじめた。二人の日本人がそれぞれ自分の柔術道場を開いたのが打撃だったらしい。特にタニ・ユキオは、ミュージックホール・レスラーとしても大活躍した。(ミュージックホール・レスラーというのは、まずプロレスラーの走りである。どういうものかは別稿で。)
 
 このあたりはまだよく調べてないので、年代がはっきりしない。ただ、19世紀末から20世紀初めの英国では「日本人=強い」というイメージができていたようだ。だから「バリツ」という妙な名前ではあるが、日本式レスリングJapanese system of wrestlingが登場したのだ。(「日本の格闘技」なんて妙な訳語はいけません。)

1901年12月18日 夏目漱石、セント・ジェームズ・ホールで「日本の柔術使と西洋の相撲取の勝負があって二百五十円懸賞相撲だというから早速出掛て見た」。

1902年1月30日 日英同盟調印(-1923)

1903年 ストランド・マガジン10月号に『空き家の冒険』発表。

1904年2月8日 日本海軍駆逐艦、旅順港を奇襲攻撃。日露戦争開戦。

1905年5月27,28日 日本海海戦
       10月 ポーツマス条約締結

Mikasapainting

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2006年12月20日 (水)

ガンディーと使徒たちの書評-2

扇動を事とする半裸の行者
 
          デニス・ジャッド
          ニュー・ソサイアティ誌1977年7月30日

 歴史の皮肉としか言いようのないことがある。たとえば、マハトマ・ガンディーが今日まで生きていたとしたらどうだろう。最近インディラ・ガンディーが非常事態宣言を発令したインドでは、彼はおそらく投獄されているだろう。マハトマの不撓不屈の精神と複雑深淵な宗教性を考えてみれば、彼がサンジャイなどの冷徹で近代主義的な会議派の一党と並び立つはずはなく、投獄されたモラールジー・デサイたちと同じ道を歩んだに違いないのである。
 マハトマ・ガンディーという人間をどう捉えるかは、彼の生前から多くの人々を困惑させた問題であったが、暗殺後30年近くを経た今日でもこれは変わらない。かつてウィンストン・チャーチルは「インナー・テンプル法学院出身の弁護士であった人物が今や扇動を事とする行者となり、半裸で総督官邸に出入りして英国王兼インド皇帝の名代と対等に談判している」と苦々しげに言い放ったが、さすがに今日ではこの見方に与する者は少ないだろう。しかし、ガンディーという人間を見て、これが今日の独立インドを創り上げた人物であると思えるだろうか?
『ガンディーと使徒たち』において、ヴェド・メータ氏はこの謎を解き明かそうとする。もちろんインド人や英国人によるガンディー伝やガンディー論はすでに多い。加えてガンディー自身がおびただしい数のパンフレットや手紙を残し、自伝を書いている。メータ氏のこの伝記はガンディーの生涯を余すところなく描き尽くそうとしたのではない。彼は文書による記録だけでなく数多い存命の弟子たちとの会話に基づいて、生き生きとしたポートレートを描き出そうとしたのである。

 メータ氏の筆は期待に違わず明快で優美である。ガンディーの生涯の歴史的背景は見事に語られているが、読者がこの伝記によって初めて知る事実は少なく、さらに詳しく書いて欲しいと思う点も多い。
 しかし、本書の強みは、使徒たちのインタビューで構成されていることにある。ガンディー生前の思い出を語る人々の言葉が我々の胸を打つのである。特に詳しく述べられるのは、英国の支配に対する偉大な平和的不服従闘争の源泉となった精神的道徳的純潔を得ようとするガンディーの苦闘である。ガンディーは腰布とサンダルだけを身にまとい、極度に単純な生活を送った。食物は必要最小限のものに限り、物質的な快適さには背を向け、手織りの布しか身につけず、妻とともに暮らしながら36歳で性交を絶った。
 ガンディーの禁欲主義は、彼の人格の特異な一面であった。彼は若い女性たちと裸体で同衾して自らの意志の力を試そうとしたのである。またこれによって彼は奇妙な困難に追い込まれることもあった。あるとき彼はヨーロッパ人の少女に頭痛の治療として浣腸を施そうとしたが、少女はたちまち裸になって彼を抱きしめたのである。またあるときは、狂人が腰布を履いたまま脱糞してしまったが、ガンディーと彼の妻は汚れた腰布を洗うという高貴な仕事をどちらがするかを巡って争ったという。
 西欧人の観念では、これらは政治家に相応しい資質であるとは思えない。しかし、ヨーロッパがヒトラーの戦争に転げ落ちて行ったとき、ガンディーはインドを独立に向けて力強く導いていたのである。彼がインドに遺したものは功罪相半ばすると言わざるを得ない。ガンディーが1942年に始めた「クイット・インディア」運動は、最終的にはインド亜大陸の分離に繋がった。彼は道徳的な模範を示し不可触民を擁護したが、インドになお残る多くの「聖牛」は彼の力をもってもどうすることもできなかった。西欧的な工業化も社会主義もガンディーにとっては呪われたものであった。ある意味では我々が進歩と呼ぶものすべてがそうであったのだ。しかし果たして我々が正しいのだろうか。

(原著刊行時には、インディラ・ガンジー首相が非常事態宣言を発令し独裁政治を行っていた。女史はまもなく辞任し、1980年に首相に再任されたが、84年にシク教徒の護衛に暗殺された。)

Indira

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2006年12月18日 (月)

ガンディーとインド

ヴェド・メータ『ガンディーと使徒たち
V・S・ナイポール『インド――傷ついた文明

        アメリカン・ヒストリカル・レビュー 
        エドワード・S・ヘインズ(ニューヨーク州立大学教授)

 南アジア亜大陸の重層的な歴史と文明の研究は、さまざまの価値観、ステレオタイプ、先入主によるバイアスを避けて通ることはできない。南アジアのような複雑な文明を取り扱う際には、多様な経験を必然的にこれらのステレオタイプを通して見ることになる。インド史にネガティブな観点からアプローチすれば、すでにある先入主を確認する結果に終わる。もちろんこの反対もよくあることで、ナイーブなオリエンタリストが「東洋」に魅惑されてしまうのはこのためである。
 本稿で紹介する二冊では、二人の著名な作家がインド文化を観察し、それぞれの価値観によって判断を下している。V・S・ナイポールは南アジアのネガティブな側面を見て、インドに「傷ついた文明」という烙印を押している。ヴェド・メータは、インドと現代インドの「建国の父」であるモハンダス・カラムチャンド・ガンディーに対して、より共感を示している。
 ナイポールの描くインド、『傷ついた文明』は、『ニューヨークタイムズ・レビュー・オブ・ブックス』に連載されたものである。「在外インド人」として、ナイポールはいわば外部の眼によって自らのインド経験に対している。現代インド、特に都市部のエリート層は解消しがたい矛盾を内包していると彼は考える。彼の視点は工業化された西欧のものであり、テクノロジーの「進歩」に対する彼の信頼はほとんど宗教に近い。ナイポールの本書のもっとも有効な側面は、現代インドにおける伝統的なヒンドゥー教の役割の分析であろう。ナイポールによれば、ヒンドゥー教はインドの「発展」に大きな障害となり(ただし彼は「ヒンドゥー教」に定義を与えようとせず、これを静的で不変のものと見ている)、過去のくびきは重く、インド文明は救いがたく損なわれている。ここでは、ナイポールの文化的バイアスの介在によって、「ヒンドゥー教」(さらにはそれに伴う行動様式)自体もその文化も絶えざる適応と改変の過程を経てきたのであり西欧的な意味では単なる「宗教」ではないという事実が、覆い隠されてしまっている。ヒンドゥー教が単に宗教であるとすれば、ナイポールの議論はまことに強力であり、その結論はほとんど不可避であると言えよう。しかし、より柔軟な視点による広いアプローチからは、別の見解があり得るだろう。ヴェド・メータの立場がこれである。
 ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』についてまず問われるべきは、「今さらなぜガンディー伝なのか?」ということである。もしこの本が単にガンディーの伝記にとどまるのであれば、すでに汗牛充棟もただならぬマハトマ文献の屋上に屋を重ねるものとして片付けてしまうことは容易であろう。しかしメータの本書は(これも『ニューヨーカー』に連載されたものである)、ガンディーのパーソナリティのみならず、一つの文化的シンボルの生成と保持という、より大きな問題を扱っている。ガンディーの生涯を振り返ることは当然として、メータの主題はマハトマではなく、むしろ彼のメッセージとイメージが現代のインドに与えた影響であり、彼を直接知っていた人々の目を通してこれを描くのである。ここでもガンディーの「実像」の捉えがたいことは、南アフリカ時代、あるいは一九四八年以前のインドと変わらない。メータは、ガンディーの影響がポジティブであるのかネガティブであるのかという感情的な問題は避けている。彼にとってはかつてガンディーが「存在した」ことで十分なのである。

 ナイポールにとっては、ガンディーはインド文化のネガティブな(すなわち非西欧的な)面を体現する存在にほかならない。彼にとってガンディーは、インドが「底なしの過去に落ち込んで行く穴」と彼が呼ぶものの典型なのである。ナイポールのエッセイに登場する「若い外国人の学者」は人々が路上で大小便をするさまを見て驚くが、ガンディーはそのようなネガティブな社会におけるネガティブな特質を表すものなのである。ナイポールはインドのこの側面に明らかに嫌悪を抱いているため、インド文化の評価においては単純なフロイド主義を越えることができない。しかし、これはナイポールの観察が有用でないということではない。彼のきわめて刺激的なエッセイは、西欧人としてインドとの「愛憎関係」に関わるすべての者が真剣に検討すべきである。一方ヴェド・メータは、微妙なインド観とともにマハトマ・ガンディーの意味について独自の経験を示してくれる。彼の貢献は、ガンディーについて学ぼうとする者に有益であり、インドを理解しようとする者にとってはさらに価値があると言えよう。

 ナイポールは2001年にノーベル文学賞を受賞した。

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2006年12月17日 (日)

『ガンディーと使徒たち』の書評

黒い海を渡って

 リスナー誌1977年8月18日号  ジョン・グリッグ

 ヴェド・メータの著書には『ポートレート・オブ・インディア』があり、自分の父親の伝記『ダディージー』がある。その彼が今度はインド建国の父を描いて見事な成果を収めた。本書はガンディーを重苦しい聖人伝作家の手から救い出したが、しかし彼を当世風のシニカルな偶像破壊者の犠牲に供したのではない。
 インタビューはメータの得手であり、本書でも彼はこれを最大限に活用する。第1章はワルダー近郊のセヴァーグラーム・アーシュラムにおけるガンディーの日常生活を事細かに描く。一人の女性使徒が著者と共にインド高原中央部の村々を旅しながらガンディー生前の思い出を語るのである。ここで崇高な奇癖家であったガンディーの姿が生き生きと蘇る。

 Maghandi
   次いでメータは現代のガンディー・カルトとその高僧たちを精細に描く。読者はガンディー火葬記念施設、ガンディー展示場、国立ガンディー記念館、ガンディー平和財団を訪れ、次いでマハトマ・ガンディー全集編集局(これはインド政府の巨大なビルディングに30室を占めている)に案内されることになる。ここではガンディーの第一秘書であったピアレラールが師の伝記に取り組んでいるが、これは途方もなく長大でとうてい完成の見込みはない。「彼の生活は簡素を極めたのに死後にはありとあらゆる邪魔物を背負い込まされている」ことにメータは驚く。
 第1部の最後の2章は「家族」と「後援者たち」である。後者では80代のG・D・ビルラのインタビューが生彩を放っている。彼はガンディーの財政的支援者の筆頭であり、ガンディーはビルラ邸の庭で暗殺されたのである。工業化に反対し農業と手工業に重きを置くガンディーの経済思想には賛成できなかったとビルラ氏はいう。しかしメータがあなたはガンディーよりも近代的なのですねというと、彼はこう答える。「いや、あの人は私よりはるかにモダンだった。たとえば……」
 第2部はガンディーの生涯を簡潔にしかし極めて明晰に描く。ピアレラールとは違ってメータはわずか100ページ余を費やすのみである。叙述は急速に進行するが重要な事実は何一つ省かれず、終始くっきりとした細部の描写が光彩を放つ。
 ガンディーはグジャラート州西部の小藩王国に生まれ、その境遇は貧しくはなかったが厳しい制約があった。19歳のときに、すでに結婚して二児の父であった彼は法律を学ぶために一人でロンドンに渡る。1888年には渡英したインド人は極めて少数であり、後の勇気に満ちた行動の数々はここに始まるのである。
「黒い海」を渡ったガンディーはヒンドゥー教正統派によってカーストから追放される。しかし彼はカースト制度そのものを嫌悪し、特に数百万の同胞が不可触民の境遇に追いやられていることに激しい憤りを覚えていた。ヒンドゥー教からこの古い汚点を除くことが彼の生涯の重大な使命となったのであり、ほかの誰にも彼ほどの成果は上げられなかっただろう。
 ガンディーは長らく南アフリカに住み、人種差別に対する非暴力闘争にこの地のインド人を組織する。ここで彼が発展させた抵抗の哲学が、1914年の帰国後は彼が指導するインド独立運動の原理となる。メータのいうように「彼の心の中で政治と宗教はますます一体となっていった。その結果、敵も味方も彼が次に何をするか全く予測できず、彼に敵意を抱くことすらできなくなった」。
 真の精神的独立がなければ外国の支配からの独立も無価値である――これが彼独自の思想であった。従ってガンディーは英国に対する以上にインド社会に内在する悪に対して熾烈な戦いを挑んだ。彼の非暴力主義がインドの政治的解放を四半世紀以上遅らせたことはほとんど確実であろう。しかし多くの困難と挫折にもかかわらずインド人が自由を保つことができたのも、また彼の教化によるのである。
 英国が去ったとき、ガンディーは分離とこれに伴う虐殺を嘆き、独立式典には一切関わろうとしなかった。彼はすでに国民会議派の政治から退いて久しく、訓戒と模範によって良き生を教えることに専念していた。しかし、彼が政治家であるよりも聖者であったと考えるのは間違っている。マハトマ(偉大なる魂)・ガンディーと民族主義者ガンディーは分かち難いのである。ジョン・スチュアート・ミルが合理主義の聖者であったとすれば、ガンディーは民族主義の聖者であった。
 第3部では、メータは存命のガンディー主義者たちにインタビューする。エキセントリックなマデリーン・スレイドは50年前にガンディーの門下に加わるまではベートーヴェンに取り憑かれていたが、今では再びベートーヴェンに宗旨替えをしたようである。政界のガンディー主義者の中でメータがインタビューしたのがもはや引退したグリザリラール・ナンダであってモラールジー・デサイでなかったのは、一大スクープを逃したものといえよう。
 おそらく著者が盲目であるために、これまでのメータの著作と同様に本書でもあらゆる人物と場面について、ことさらに視覚的効果が強調される。これが少々度を超していると感じる読者もいるだろうが、彼の「目に見えるような」描写を通じて露呈するものは多く、またときには実に滑稽なシーンが描き出されるのである。
 ガンディーの使徒たちが本尊と比べればはるかに詰まらない存在であることは明白である。国民会議派の中で最も有能な政治家でありガンディーの三男の義父であるラージャゴーパーラーチャーリーは、ガンディーが「面白い会話に飢えていた」という。イエス・キリストをはじめとする宗教的指導者たちも同じ思いであったろう。単純無知な狂信者に囲まれた生活は、これらの希有な精神が自らに課した苦行であったのかも知れない。
 ガンディーは物心ともに現世の快楽を一切退けたが、メータの指摘するようにこれは彼自身よりも彼の妻と子を傷つけた。あるいは読者は、リットン・ストレイチーがウィリアム・ブレイクを論じて有名な章句の語順を入れ替えてみせたことを思い起こすかも知れない。「人、己が魂を儲くとも、全世界を損せば、何の益あらん」とストレイチーは書いたのである。しかし彼の異議は明らかに空しい。この世界はストレーチーの類を欠いてもいささかも揺るがないが、もしガンディーがいなかったとすればどのような惨状を呈していたであろうか。

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2006年12月15日 (金)

柔道か柔術か(10) バーティツについて-3

(承前)ロンドンでは19世紀末から20世紀初頭にかけてステッキが護身用に実際に使われた。正典には1887年(明治20年)と1902年(明治35年)の事件を記録している。
 日本ではどうだったか? 明治9年(1876年)に廃刀令が出ると、士族は手持無沙汰で困るからステッキを持ち歩いた。
 私の祖父も(急に話が個人的になるが)、士族ではなく百姓の出だったが、若いころはステッキを持っていた。祖父は明治16年生まれで、高等師範を出て中学の教師になり校長になった。何でも先進国イギリスを手本にした時代だから、鼻の下に髭を蓄え、天長節や紀元節にはフロックコートを着たという。ステッキもハイカラ紳士の小道具の一つだったようだ。
 祖父は90歳で亡くなる直前まで杖など使わず元気に歩いていた。私が子供のころ、玄関の隅に「おじいちゃんのステッキ」が置いてあったが、使うのは見たことがない。ステッキ携行は若いころにやめてしまったらしい。竹製のごく軽いステッキで、護身用には役立ちそうにもなかった。祖父がステッキを振り回すところなど想像できない。

 ここからは仮説になるのだが、明治時代(明治45年=1912年)の日本では、ステッキを護身用に使うなんて、まれだったのではないか?
「護身用にステッキを使った」ことを示す文献は、ほとんどないと思う。(このあたり、ご存じの方はご教示下さい。)
「日本のシャーロック・ホームズ」である明智小五郎はステッキなど使わなかったが、これは時代が違う。昭和の人だ。
 漱石、鴎外、紅葉、露伴などにステッキで人を殴る場面が出てくるか?

『坊ちゃん』には喧嘩があった。あれは拳固を使ったのだ。それに生卵をぶつけるという奇手もありましたね。しかし、ステッキなんて物騒なものは出ない。
『吾輩は猫である』の苦沙弥先生は、たしかに一度ステッキを使ったことがある。

主人だけは大にむきになって「そんな馬鹿があるものか、あいつの娘なら碌な者でないに極ってらあ。初めて人のうちへ来ておれをやり込めに掛った奴だ。傲慢な奴だ」と独りでぷんぷんする。するとまた垣根のそばで三四人が「ワハハハハハ」と云う声がする。一人が「高慢ちきな唐変木だ」と云うと一人が「もっと大きな家へ這入りてえだろう」と云う。また一人が「御気の毒だが、いくら威張ったって蔭弁慶だ」と大きな声をする。主人は椽側へ出て負けないような声で「やかましい、何だわざわざそんな塀の下へ来て」と怒鳴る。「ワハハハハハサヴェジ・チーだ、サヴェジ・チーだ」と口々に罵しる。主人は大に逆鱗の体で突然起ってステッキを持って、往来へ飛び出す。迷亭は手を拍って「面白い、やれやれ」と云う。寒月は羽織の紐を撚ってにやにやする。吾輩は主人のあとを付けて垣の崩れから往来へ出て見たら、真中に主人が手持無沙汰にステッキを突いて立っている。人通りは一人もない、ちょっと狐に抓まれた体である。

 しかし、もし仮に表に誰かいたら、苦沙弥先生がステッキでそいつを殴ったか。そんなことをするはずがない。「教育のない車夫馬丁を対等に扱えるか」と思ったに違いない。(一体に漱石の登場人物は、学歴と教養と人格を同じ一つのものだと考える嫌いがありますね。)
 
 とにかく、明治時代の日本人は同時代のイギリス人よりおとなしくて、ステッキ護身術なんて不必要だった、ましてや凶器としてのステッキなぞ考えられなかった――と思うのだが、どうだろう?

 これに比べるとホームズ譚ではステッキが使われたか、凶器と推定されたケースがかなりある。『青いガーネット』と『高貴な依頼人』のほかにも

緋色の研究』で、グレッグソンが海軍中尉アーサー・シャルパンティエを逮捕したのは、彼が重いステッキでイーノック・J・ドレッバーを撲殺したという嫌疑からであった。

シルバーブレイズ』では、容疑者が「鉛を入れて重くしたステッキ(ペナンローヤーというタイプ)」を凶器に使った可能性があった。

グロリア・スコット』では、治安判事トレバー氏が、やはり鉛を流し込んで重くしたステッキを護身用に持っていた。

ノーウッドの建築業者』では、忘れ物の樫のステッキが、ジョン・ヘクター・マクファーレンに不利な証拠となった。

アベイ農園』では、死体の頭のあたりに「重い山査子のステッキ」が転がっていた。

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ボール箱』では、登場人物の一人が「重い樫のステッキ」を持ち歩いていた。どう使ったのか?

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 どうも物騒な時代で、多くの男がステッキを持ち歩き、実際に人を殴るのに使う可能性があったのだ。
 とすると、紳士の護身術は、まずステッキ対ステッキの戦いから始まることになる。
 もう少し間合いが詰まると、ボクシングのパンチとサバットの蹴り技である。
 さらに接近戦になってはじめて柔術の投げ技や関節技が出てくる。柔術は決め手として絶大な威力があるが、ふつうの喧嘩ではいきなり寝技に持ち込んで「腕拉ぎ十字固め」に入るなんてことはしないものだ。
 だから、バートン=ライト氏も、ステッキの用法には力を入れた。

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 スイス人から学んだのだというが、この写真を見る限り、違うと思う。ふつう西洋人はこういう姿勢はしないものだ。日本人が日本刀を振るうときに、こういうふうに腰を落として臍下丹田に力を入れるのである。
 バートン=ライト氏は、お雇い外国人として日本で高給を食みながら、武術全般をかなり研究したに違いない。(続く)

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2006年12月14日 (木)

バイアグラ不要

 スパム・トラックバックに悩まされています。
 毎日何十件も、英語ばかりのトラックバックとコメントが来る。

 Buy cheap viagra.

なんてのが多い。要りません。
 英語のサイトを見ることが多いので、情報を収集されているのだろう。ノートンのインターネット・セキュリティをインストールしているのだけれど、これのプライバシー保護機能も完全ではないらしい。
 やむを得ず、トラックバックとコメントは「承認制」にしている。「トラックバックができない、おかしい」と思う人もいるようだ。
 フィルター機能を付けることはできるはずだ。たとえば半角文字ばかりのものは受け付けないとか。
 ココログさん、何とかしてくれませんか?
 

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柔道か柔術か(9) バーティツについて-2

 バートン=ライトの工夫は、この柔術/柔道を基礎に英国紳士向けの護身術・喧嘩術を編み出したことである。(承前)

 ここで考えておくべきことが二つある。
 まず19世紀末から20世紀初めにかけての(1900年=明治33年)護身術の需要である。日本ではほとんど需要がなく(だから柔術/柔道はスポーツ化した)、イギリスでは紳士が実際に護身術を必要とする場面がかなりあったのではないか? これが第1点。
 第2に、実際に使える護身術という観点からは、柔術/柔道に何が欠けていたか?
 
 第2点から見てゆこう。鎧甲の侍ではなく、ロンドンの街を歩く紳士が格闘に使うとして、柔道そのままではどこが不都合か? オリンピックの柔道試合のように、両手を広げて相手に摺り足で近づき、右手で奥襟、左手で袖を取ろうなんてことをしたら大変だ。あごにパンチを食らう。あるいはステッキで頭を殴られる。
 つまり柔術/柔道では間合いに問題があるのだ。もともと鎧武者同士の格闘術だから、パンチやキックはあまり使わない。ましてステッキで殴るなどは想定外である。
 しかし、昔のロンドンの街で紳士が身を守ろうと思えば、ステッキ、パンチ、キックの攻撃に対応しなければならない。

 ストランド・マガジンの挿絵を見ると、ホームズはよくステッキを持ち歩いていますね。
 
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  何という作品の挿絵でしょう? はい、分かりますね。『背の曲がった男』で夜遅くホームズがワトソンをたずねてくる。
「今晩泊めてくれないか?」
「いいとも」
 という会話のあとのシーンでした。

 依頼人も男はたいていステッキを持っている。『バスカヴィル家の犬』ではモーティマー医師が置き忘れたステッキのことから話が始まるのだった。ホームズはステッキを窓際の明るいところへ持っていって、凸レンズで調べた。

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 なぜ、ステッキを持ち歩いたか? 必要だったからだ。ロンドンの街は、特に夜ちょっと寂しいところだと危険だった。たとえば『青いガーネット』の事件の発端。 

 クリスマスの午前4時頃、守衛のピーターソンが一杯やった帰りにトッテナム・コート・ロードを歩いていくと、前方で何やら騒動が持ち上がった。
 背の高い男が肩に鵞鳥を担いで、少々おぼつかない足取りで歩いていたが、これにゴロツキどもが絡み、そのうちの一人が男の帽子をたたき落とした(ステッキを使ったはず。そうは書いてないけれど)。男も身を守るためにステッキを頭上に振り上げたが、後ろの窓ガラスを割ってしまった。ピーターソンは男を助けようと駆けつけたが、制服を見て警官とでも思ったのか、ゴロツキだけでなく男も逃げ出した。

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 この絵ではピーターソンの足下に、この男ヘンリー・ベーカー氏の鵞鳥と帽子が落ちている。逃げるベーカー氏とゴロツキの一人はステッキを持っているはずだが、暗くて見えない。
 いずれにせよ、ステッキを護身用(ときには攻撃用)に使う場面があったことは分かりますね。ベアリング=グールドの考証によれば、この事件は1887(明治20)年のことであった。

 いや、ホームズ自身がステッキ対ステッキの戦いをしたことがある。

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 この絵は何という事件でしょうか?
『高貴な依頼人』でした。一対一ならホームズが負けるはずはないが、相手は二人いた。
 ホームズ曰く。
“I’m a bit of a single-stick expert, as you know. I took most of them on my guard. It was the second man that was too much for me.”
「知っての通り、シングルスティックなら僕は少々心得がある。攻撃はほとんど防いだが、二人目の奴がどうも手に余ったのだ」

 わざと片仮名のままにしたのです。single-stickは以前に一度出てきている。『緋色の研究』で、ワトソンが挙げた「シャーロック・ホームズの特異点」の11番目が

Is an expert singlestick player, boxer, and swordsman.

 こちらはハイフンなしのsinglestickである。これを従来は「棒術」と訳していたけれど、六尺棒ではないのだから、それは不適切である。サーベルの練習に使う「木刀」がsinglestickである。これは「木刀術」と訳すべきだ――という話は柔道か柔術か(7)--バリツの起源でしました。
「木刀術」の心得がステッキの戦いに役に立ったのだけれど、一度に二人は相手にできなかったのだ。日本の剣術の達人なら、二人くらい何でもない。荒木又右衛門なんか36人斬りだ。ホームズもボクシングはずいぶん修業したが、木刀術の方は「少々の心得」というのが謙遜ではなかったらしい。
 これは1902年(明治35年)の事件だった。
 まだまだ話は終わらない。続きます。

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2006年12月13日 (水)

高島俊男先生の本が出た

 高島俊男先生の『お言葉ですが…第11巻』が連合出版から刊行された。新聞などで広告しないから知らなかったが、11月23日に第一刷刊である。
 
 ハードカバーで体裁は文藝春秋から出ていたこれまでの10巻とまったく同じ。表紙にはいままで通り藤枝リュウジさんが高島先生の似顔絵を描いている。
 全11巻の通巻索引が付いている。
 あとがきを一部引用する。

あ と が き
 一九九五年の春に船出した「お言葉ですが…」は、十一年後の二〇〇六年夏にいたるも依然順調航行、書くことはいくらでもあるし、当然まだまだつづくもの、と筆者勝手に楽観していたら、突然中止の通告を受けた。
 「読者のみなさまがお手紙をくださっているあいだは大丈夫、やめさせられることはない」と言い言いし、実際そう思っていた。その読者来信はとぎれることなく来ていたのだが……。
 「なんでやめさせられたんだろう?」と以後考えつづけている。

 ほんとになんでだろう?
 でも、先日の朝日新聞に高島先生のインタビューが出ていて、お元気そうだったし、『お言葉ですが…』をぜひ続けたいと心強いことをおっしゃっていた。
 期待しています。

Takashima

 写真は朔北社のサイトからお借りしました。

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2006年12月12日 (火)

柔道か柔術か(8) バーティツについて

 ホームズがライヘンバッハの断崖上で使った「バリツ」については、いろいろ説がある。
 ちくま文庫版ホームズには、E・W・バートン=ライト氏のバーティズBartisu)なる護身術が起源だと注釈してある。
 ウィキペディアで「バリツ」を引くと、「バーティツ」(バーティズではない)という小項目がある。

バーティツ
1899年9月に日本に滞在していたバートン-ライト(E.W.Barton-Wright)というイギリス人が日本人たにゆきおとともに、1900年イギリスで日本の柔術の技法を取り入れた護身術を "bartitsu" (バーティツ)と名付けてロンドンで教えており、雑誌ピアスンズ・マガジンに記事を掲載していた。その雑誌にはドイルも小説を掲載していたので、ドイルがその記事を読んでいた可能性は高く、"baritsu" とは "bartitsu" の誤記であるとする説が有力である。この説はなかなかいい線を行っているが、難点がある。それはバーティツの成立が1900年であって、1891年の「ライヘンバッハの死闘」には間に合わないことである。

 最後の1文でanachronismの指摘がある。ドイルがどうこうというけれど、問題はあくまでホームズとワトソンではないか。literary agentの名前を持ち出すのは規則違反だよ――ということですね。

 しかし、このバートン=ライト氏のバーティツについては、イギリスで自国人の業績として重視するのは人情でしょうね。ウィキペディアの英語版には詳しい記事がある。これをはじめの部分だけ紹介しましょう。

 バーティツは、1890年代後期より1900年代初期にかけて英国で開発された折衷的武術・護身法である。
 日本で働いていた鉄道技師エドワード・バートン=ライトは1898年に帰国して、「新しい護身術」を開発したと声明した。これは各種格闘術の良いところを取ったものである。「バーティツ」という名前はジュージツと自分の名の合成である。
 バートン=ライトは1899年から1904年にかけてピアソンズ・マガジンに一連の記事を書いた。バーティツは主として日本の古流柔術と講道館柔道を源流とする。加えて、英国のボクシングとレスリング、フランスのサバット(蹴り技を主体とした格闘技)、スイスのピエール・ヴィニー教授開発のステッキ護身術を採り入れている。(あとはWikipediaでBartitsuを見てください。) [下図、クリックして拡大]

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 日本の柔術はもともと戦場で敵の首を取るための技術である。侍は鎧甲に身を固めているのだから、剣術の「お面」「胴」「小手」なんか、実戦ではまったく役に立たない。まず組み付いてから、地面に投げ落として気絶させる、首を絞めて落とす、関節の逆をとって折る、という方法で相手の戦闘力を奪うほかない。
 明治の文明開化の御代になって、こういう野蛮なもの(と当時の人たちは思った)が廃れたのは当然である。嘉納治五郎(1860-1938)がこれを取り上げて体育/スポーツとして再生したのが「柔道」である。

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ルールを整備し、危険な技を除き、練習法を確立した。しかしもともとは柔術だから(嘉納は天神真揚流と起倒流を学んだ)、やはりレスリングなんかとは違う。単なるスポーツではない。「武道」である。すなわち常に「実戦」が念頭にあるのだ。
 たとえば二人で体重を量ってから格闘を始めるなんて「実戦では」あり得ないから、体重階級制は柔道の「本質」に反する。実際問題としては、体重120キロと60キロでは勝負にならないからやむを得ないけれど。
 ともかく実質は柔術なので、世間では柔術と呼んだし、講道館に修業する者も柔術家を名乗ったことは、これまで見てきたとおり。(柔道か柔術か(1)から見てください)

 バートン=ライトの工夫は、この柔術/柔道を基礎に英国紳士向けの護身術・喧嘩術を編み出したことである。(続く)

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2006年12月11日 (月)

ガンジー・キング・イケダ?

 マハトマ・ガンジーは、1869年インドに生まれた。
 ガンジーは1948年1月30日午後4時30分過ぎ、ニューデリーのビルラ邸で、至近距離から拳銃の弾丸3発を撃ち込まれて暗殺された。犯人は、ナトゥラーム・ヴィナヤク・ゴードセイとい