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2006年12月17日 (日)

『ガンディーと使徒たち』の書評

黒い海を渡って

 リスナー誌1977年8月18日号  ジョン・グリッグ

 ヴェド・メータの著書には『ポートレート・オブ・インディア』があり、自分の父親の伝記『ダディージー』がある。その彼が今度はインド建国の父を描いて見事な成果を収めた。本書はガンディーを重苦しい聖人伝作家の手から救い出したが、しかし彼を当世風のシニカルな偶像破壊者の犠牲に供したのではない。
 インタビューはメータの得手であり、本書でも彼はこれを最大限に活用する。第1章はワルダー近郊のセヴァーグラーム・アーシュラムにおけるガンディーの日常生活を事細かに描く。一人の女性使徒が著者と共にインド高原中央部の村々を旅しながらガンディー生前の思い出を語るのである。ここで崇高な奇癖家であったガンディーの姿が生き生きと蘇る。

 Maghandi
   次いでメータは現代のガンディー・カルトとその高僧たちを精細に描く。読者はガンディー火葬記念施設、ガンディー展示場、国立ガンディー記念館、ガンディー平和財団を訪れ、次いでマハトマ・ガンディー全集編集局(これはインド政府の巨大なビルディングに30室を占めている)に案内されることになる。ここではガンディーの第一秘書であったピアレラールが師の伝記に取り組んでいるが、これは途方もなく長大でとうてい完成の見込みはない。「彼の生活は簡素を極めたのに死後にはありとあらゆる邪魔物を背負い込まされている」ことにメータは驚く。
 第1部の最後の2章は「家族」と「後援者たち」である。後者では80代のG・D・ビルラのインタビューが生彩を放っている。彼はガンディーの財政的支援者の筆頭であり、ガンディーはビルラ邸の庭で暗殺されたのである。工業化に反対し農業と手工業に重きを置くガンディーの経済思想には賛成できなかったとビルラ氏はいう。しかしメータがあなたはガンディーよりも近代的なのですねというと、彼はこう答える。「いや、あの人は私よりはるかにモダンだった。たとえば……」
 第2部はガンディーの生涯を簡潔にしかし極めて明晰に描く。ピアレラールとは違ってメータはわずか100ページ余を費やすのみである。叙述は急速に進行するが重要な事実は何一つ省かれず、終始くっきりとした細部の描写が光彩を放つ。
 ガンディーはグジャラート州西部の小藩王国に生まれ、その境遇は貧しくはなかったが厳しい制約があった。19歳のときに、すでに結婚して二児の父であった彼は法律を学ぶために一人でロンドンに渡る。1888年には渡英したインド人は極めて少数であり、後の勇気に満ちた行動の数々はここに始まるのである。
「黒い海」を渡ったガンディーはヒンドゥー教正統派によってカーストから追放される。しかし彼はカースト制度そのものを嫌悪し、特に数百万の同胞が不可触民の境遇に追いやられていることに激しい憤りを覚えていた。ヒンドゥー教からこの古い汚点を除くことが彼の生涯の重大な使命となったのであり、ほかの誰にも彼ほどの成果は上げられなかっただろう。
 ガンディーは長らく南アフリカに住み、人種差別に対する非暴力闘争にこの地のインド人を組織する。ここで彼が発展させた抵抗の哲学が、1914年の帰国後は彼が指導するインド独立運動の原理となる。メータのいうように「彼の心の中で政治と宗教はますます一体となっていった。その結果、敵も味方も彼が次に何をするか全く予測できず、彼に敵意を抱くことすらできなくなった」。
 真の精神的独立がなければ外国の支配からの独立も無価値である――これが彼独自の思想であった。従ってガンディーは英国に対する以上にインド社会に内在する悪に対して熾烈な戦いを挑んだ。彼の非暴力主義がインドの政治的解放を四半世紀以上遅らせたことはほとんど確実であろう。しかし多くの困難と挫折にもかかわらずインド人が自由を保つことができたのも、また彼の教化によるのである。
 英国が去ったとき、ガンディーは分離とこれに伴う虐殺を嘆き、独立式典には一切関わろうとしなかった。彼はすでに国民会議派の政治から退いて久しく、訓戒と模範によって良き生を教えることに専念していた。しかし、彼が政治家であるよりも聖者であったと考えるのは間違っている。マハトマ(偉大なる魂)・ガンディーと民族主義者ガンディーは分かち難いのである。ジョン・スチュアート・ミルが合理主義の聖者であったとすれば、ガンディーは民族主義の聖者であった。
 第3部では、メータは存命のガンディー主義者たちにインタビューする。エキセントリックなマデリーン・スレイドは50年前にガンディーの門下に加わるまではベートーヴェンに取り憑かれていたが、今では再びベートーヴェンに宗旨替えをしたようである。政界のガンディー主義者の中でメータがインタビューしたのがもはや引退したグリザリラール・ナンダであってモラールジー・デサイでなかったのは、一大スクープを逃したものといえよう。
 おそらく著者が盲目であるために、これまでのメータの著作と同様に本書でもあらゆる人物と場面について、ことさらに視覚的効果が強調される。これが少々度を超していると感じる読者もいるだろうが、彼の「目に見えるような」描写を通じて露呈するものは多く、またときには実に滑稽なシーンが描き出されるのである。
 ガンディーの使徒たちが本尊と比べればはるかに詰まらない存在であることは明白である。国民会議派の中で最も有能な政治家でありガンディーの三男の義父であるラージャゴーパーラーチャーリーは、ガンディーが「面白い会話に飢えていた」という。イエス・キリストをはじめとする宗教的指導者たちも同じ思いであったろう。単純無知な狂信者に囲まれた生活は、これらの希有な精神が自らに課した苦行であったのかも知れない。
 ガンディーは物心ともに現世の快楽を一切退けたが、メータの指摘するようにこれは彼自身よりも彼の妻と子を傷つけた。あるいは読者は、リットン・ストレイチーがウィリアム・ブレイクを論じて有名な章句の語順を入れ替えてみせたことを思い起こすかも知れない。「人、己が魂を儲くとも、全世界を損せば、何の益あらん」とストレイチーは書いたのである。しかし彼の異議は明らかに空しい。この世界はストレーチーの類を欠いてもいささかも揺るがないが、もしガンディーがいなかったとすればどのような惨状を呈していたであろうか。

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