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2007年1月30日 (火)

ガンジーの非暴力

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 卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。だからこそ、1908年にわたしが瀕死の暴行をうけたときに、もしわたしの長男がその場に居合わせたとしたら、彼はどうすべきであったか――逃げ出してわたしを見殺しにするべきか、それとも、彼の用いることのできる、また用いようと思う腕力に訴えてわたしを護るべきであったかと訪ねたとき、わたしは息子に、暴力に訴えてもわたしを護るのが彼の義務であると語ったのである。
(『ヤング・インディア』1920年8月11日号)

 弱い者にかぎって、自分が臆病であるために、自分自身の名誉や配下の者の名誉を護ることができなくなったときに、会議派の信条とかわたしの助言を隠れ蓑にしてきたことは、わたしもしばしば指摘してきたところである。非協力運動が最高潮に達したときに、ペディア付近で起こった事件のことを思い出す。村人が何人か略奪に遭った。彼らは、妻も子も所持品も略奪者のなすがままにして逃亡したのである。わたしがこのように責任を顧みなかった彼らの卑劣さを非難すると、彼らは臆面もなく、非暴力を言い訳にした。わたしは公然と彼らの行為を非難して言った――わたしの非暴力主義は、非暴力のことは考えるいとまもなく、ただ女や子供達の名誉を守った者たちのふるった暴力と完全に調和する、と。非暴力は臆病をごまかす隠れ蓑ではなく、勇者の最高の美徳である。非暴力を行うには、剣士よりはるかに大きな勇気が要る。臆病は全く非暴力と相容れない。
(『ヤング・インディア』1926年8月12日号)

『ヤング・インディア』はガンジーが刊行した週刊新聞。訳文はみすず書房『わたしの非暴力』森本達雄訳による。

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2007年1月27日 (土)

やがて哀しき外国語

 村上春樹さんのエッセイの題名ですが、中国語に訳すると何となるか、知ってますか? 台湾で去年の11月に下図のような訳本が出ました。中国語の新聞の書評欄
http://big5.china.com.cn/book/txt/2007-01/19/content_7683820.htm

《終於悲哀的外國語》 作者:村上春樹 版本:時報出版2006年11月 定價:260(新台幣)

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我應該不算是村上春樹迷,因為他的小説,我沒有全部讀過,讀過的也不是毎本都喜歡,但《終於悲哀的外國語》,我沒有一篇不喜歡。

私は村上春樹のファンで、彼の小説は全部読んでいる。読めばどれもすばらしいと思わないものはない。『やがて哀しき外国語』も、私はどの一篇もすばらしいと思わぬものはなかった。

(訳文に責任は持ちません。だいたいこれくらいの意味だろうと思うのですが。何でも「ファン」のことを「迷」というらしいことは、どこかで読んだことがある。)

 共通一次の成績を自慢する男のことも書いてある。

令向來“無所屬”的村上春樹無法接受,而對於日本政府外派的精英官員炫耀聯招成績的行徑,他也極盡諷刺,稱他們是“共通一次男”。

村上春樹さんはそもそも「無所属」なので無法接受(というのはどういう意味かね?)である。これに対して日本政府から派遣された留学生は威張っている。これを彼は(どうやら「他」=「彼」らしい)諷刺して「共通一次男」と呼んでいる。――でよろしいか? 中国語のできる人は自分で読んでください。
 もう一つ、台湾の新聞から村上さんの写真とサインです。

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2007年1月24日 (水)

センター試験を廃止しろ

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 1980年代のいつごろであったか、予備校の教員室で雑談していて、同僚の先生に
「共通一次試験はどうなりますかね。僕はそのうちなくなると思うけど」
と言ったことがある。共通一次試験というのは、現在のセンター試験の前身である。1979年から1989年まで行われ、1990年からセンター試験と改称された。
「なくなるものか。あんたは物の見方が甘いよ」
と一蹴されてしまった。この先生曰く、共通一次試験がこれだけ大規模に行われているということは、試験事務を担当する役人がたくさんいてポストがたくさんある、ということだ。役人がいったん出来たポストを手放すと思うかね。ポストがあればそのための仕事を無理にでも作り出すのが役人というものだぜ。

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「大学入試センター」という立派な役所が出来上がり(今は「独立行政法人」だという。ふつうの役所とどう違うのか?)、その役所でしかるべきポストに就いているお役人には仕事が必要だ。「センター試験」とはよく言ったものだ。本当にあの先生の言ったように、入試センターをなくせないのだから、試験がなくなるはずがない。
 まことに不明の至りだった。でも、「そのうちなくなる」なんて希望的観測を述べたのは、共通一次試験の弊害があまりにも明らかだったからだ。この試験の導入前に小室直樹氏が「共通一次試験は必ず失敗する」と予言していたが(毎日新聞社「エコノミスト」誌1979年1月30日、2月6日、2月23日号)、まったくその通りになったのだ。

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http://www.interq.or.jp/sun/atsun/komuro/

 小室氏の「共通一次試験は必ず失敗する」という記事は、上、中、下としてエコノミストの3号に載ったのだが、その副題はそれぞれ「階層構成機能を強め、特権校を助長」「社会科学的分析を欠いた対症療法」「受験産業栄え、教育滅ぶ」であった。まことにその通りではないか。
 というぐらいのことは、誰でも分かっているはずなのに言う人は少ない。
「青空学園数学科」http://www33.ocn.ne.jp/~aozora_gakuen/
の主催者が次のように述べている。

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(以下引用)
 私の子供が99年に大学に入りました.今の大学はどうなっているのか見てやろうと思って,父兄の入学式入場券をくれたので,入学式にいってみました.
 学長は入学試験というものについて次のことを言っていました.
 センター試験は全くその人の力を測ることにはなっていない.今年の地理の問題で,ある国の主要な生産物を問う問題が出ていた.地理学の教授に聞いたが,大学センターが正解としているものを主要な生産物とは断定できない,と言っていた.それをマーク式で答えさせるなんて無意味だ.じっくり読めば読むほど時間が足りなくなるような試験は,試験でない.
 諸君は受験競争を勝ち抜いてここに来たのだが,大学での勉強は,受験勉強とはまったく違う.受験の学力と大学に入ってからの力とは別のものである.
 私はそれを聞いて無性に腹が立ちました.国立大学の学長が何を無責任なことを言っているのか.本当にセンター試験が無意味だと言うなら,センター試験を廃止するために学長としてなすべきことをすべきである.それをせずに,試験の弊害を入学式で得々としゃべるのは,偽善であり,無責任である.
(引用終わり)

 まことにその通り。誰かこの人に反論できるだろうか? こういう無責任ばかりがはびこって、どうなったか? 
 馬鹿が増えた。以前もある程度馬鹿はいたが、共通一次試験/センター試験以後は馬鹿が著しく増殖した。

 もう一つ引用をしたい。作家の村上春樹氏は1990年代の初めにプリンストン大学に滞在していた。そのときのことを講談社の雑誌『本』に92年から93年にかけて連載した。

 この『やがて哀しき外国語』の終わりの方で、プリンストンで会った「どうしようもない人(日本人)」たちのことを書いている。
(以下引用)
 でも中にはまったくどうしようもない人がいる。そしてそういう人々の多くは、どういうわけかいわゆる「超エリート」である。会っていちおうの挨拶をした次の瞬間から「いや、実は私の共通一次の成績は何点でしてね」と、滔々と説明を始めるような人々である。だいたい僕らが大学に入った頃には共通一次なんてものはなかったので、のっけからそんなこと言われても何が何やらよくわからない。しかしもっとよくわからないのが、自己紹介がわりに共通一次の点数を持ち出す人間の神経である。いったい何を考えているのだろうか。こういう人たちがエリートの役人として、日本で幅をきかせてエバッているのかと思うと(アメリカに来てもかなりエバッていた)、これはちょっと困ったことなんじゃないかなという気がする。
 という話をプリンストンで勉強している日本人の女子学生にしていたら、「あ、そういうの多いんですよ。珍しくありません。この前もひとり会いました」ということだった。ニューヨークから電車で帰ってくるときにたまたま日本人の男と隣になったら、それが派遣組の役人で、「僕は……省で……課長補佐(だかなんだか)をしていてね、共通一次は……点なんだよ」と延々まくしたてたらしい。馬鹿馬鹿しいのでろくに相手にしなかったら、腹を立てて憎々しげな捨て台詞を残して向こうに行ったという。「まったくあの人たち何を考えているんでしょうね」と彼女も呆れていたけれど、まったく本当に何を考えているのかしらん。(引用終わり。まだ続くけれど)

 信じられない。本当だろうか? やっぱり本当でしょうね。「高松市には甲村記念図書館がある」というのは村上さんが作った話だが、この本は『海辺のカフカ』のような小説ではない。エッセイなのだ。作り話を書くはずがない。
 もちろん昔から学歴自慢の人はいくらもいた。でも仮に「僕は東大卒だから早稲田卒の村上君より偉い」なんて思っている人がいたとしても、ひそかに思うだけで、まさか口には出さなかった。ましてや試験で何点だなんて! これは明らかに共通一次以降の現象である。共通一次試験とセンター試験は、「階層構成機能を強め、特権校を助長」しただけではない。馬鹿を作ったのだ。

 村上さんがプリンストンにいたのはもう十何年も前のことだから、この課長補佐(だかなんだか)の人たちは今や……省で指導的立場にいるはずだ。官僚を辞めて政治家になった人もいるだろう。
 これは怖いことだよ。ワタヤノボルみたいな奴も怖いけれど

 馬鹿はもっと怖い。何倍も怖い。

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2007年1月20日 (土)

村上春樹を英語で読む

 4月からあるカルチャーセンターで「村上春樹を英語で読む」という講座を始めようかという話がある。(あるカルチャーセンターなどと曖昧なことを書くのは、まだ未定の要素があるから。)
 村上春樹の小説はほとんどが英訳されている。その中から一冊選ぶとして、短編集『神の子どもたちはみな踊る』(新潮文庫)の英訳After the Quakeを「英語の本として」読んでみる、というのはどうだろう。

Five straight days she spent in front of the television, staring at crumbled banks and hospitals, whose blocks of stores in flames, several rail lines and expressways. She never said a word. Sunk deep in the cushions of the sofa, her mouth clamped shut, she wouldn't answer when Komura spoke to her. She wouldn't shake her head or nod. Komura could not be sure the sound of his voice was even getting through to her.

 第一短編『UFOが釧路に降りる』の英訳UFO in Kushiroの書き出しである。

  これなら英語の本を読むのがはじめてという人でも、何とか読めるはずだ。翻訳では凝った言い回しやむつかしい単語は使わない。何より、分からなくなれば日本語の方をのぞいてみればよいのだ。いわば「補助輪付きで『原書』を読む」のである。
 こうやって英語で書いてある本をともかく読むのに慣れることに、まず意義があると思う。「英語を読む」というと、週刊誌の『タイム』を読むなんてのが流行っているようだけれど、そんなことをする人の気が知れないね。

 アメリカ人が日本語を勉強するときは、源氏物語や夏目漱石や村上春樹を読むはずだ。週刊文春や週刊朝日をわざわざ辞書を引いて読むなんて馬鹿なことはしない。
 日本語でも英語でも、週刊誌は斜めに読むものだ。ゆっくり時間をかけて読むためには「ゆっくり読む値打ちのあるテキスト」でなければならない。
 村上春樹の小説は繰り返して読んで面白いし、別の言語で読んでみるとまた一層面白いのである。私は『神の子どもたちはみな踊る』はドイツ語訳のNach dem Bebenで読み直してみたが、日本語で読んだときは見逃していた細部の仕掛けに気がついた。
 たとえば、最後の短編『蜂蜜パイ』では、小夜子が娘の沙羅にねだられて淳平の前で「ブラはずし」をやってみせる。
「服を着たままブラをはずして、テーブルの上に置いて、それをまたつけるの。いっこの手はいつもテーブルの上に載せておかなくちゃいけないの。それで時間をはかるの。ママはすごくうまいんだよ」
  ゆっくり読むとこのエピソードの「必然性」が分かる。村上春樹は小説がうまいなあ、と当たり前のことに感心するのである。

 味をしめてKafka am Strandを読んだが、これも大変よろしかった。もちろん『海辺のカフカ』ですね。Gefaehrliche Geliebteというのも読んでみた。これは『国境の南、太陽の西』である。この本はドイツではテレビの書評番組(というのがあるらしい)で、有名な文芸評論家が「単なるエロ小説である。文学的ファーストフードである」とこき下ろし、これに別の文芸評論家が反発して村上擁護論をぶって大喧嘩になったのだそうだ。これで「そんなにエロならば読んでみようか」という読者が殺到して、ドイツでは村上春樹がベストセラー作家になったのだという。そう言えば『海辺のカフカ』の独訳が出たのは英訳よりずっと早かった。
 
 外国語訳で読んで違和感がある作家とそうでない作家がいて、村上春樹は後者に属すると思う。川端康成の雪国の英訳Snow Countryは、訳者のサイデンステッカー氏が頑張っていることはよく分かるのだが、英語で読むとどうも西洋人が和服を着ているところを見たような落ち着かない気分になる。もちろん日本人が英語で川端康成を読む必要は毛頭ないので、原文の日本語で読めばよいだけのことである。
 村上春樹の『東京奇譚集』は、月刊『新潮』に連載した4編と書き下ろしの1編をおさめているが、私はこの中の『どこであれそれが見つかりそうな場所で』は英訳のWhere I'm Likely to Find Itの方を先に読んだ。ニューヨーカーのオンライン版からダウンロードできたからである。(今はオンラインでは読めない。短編集Blind Willow, Sleeping Womanに収録。)これは、はじめから英語で書いたものだと言われれば信じてしまいそうな感じである。凶器みたいに尖ったハイヒールを履いた女が「私」の事務所にやってきて夫を捜してくれと依頼するところなどは、まったくレイモンド・チャンドラーである(すぐにMurakamiesqueな展開が始まるが)。日本語版の方が上手な翻訳みたいな感じがする。

 カルチャーセンターの講座は、実際に開講するかどうかまだ未定であるが、村上春樹を入り口にして英語の本を読む楽しみを味わってもらえればと思っている。

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2007年1月 8日 (月)

誤訳迷訳欠陥翻訳(3)

 山岡洋一氏は、光文社の「古典新訳シリーズ」でミル『自由論』の翻訳を出している。

 しかし私などが最大の恩恵を受けているのは、氏の労作『CD-ROM経済・金融英和/和英実用辞典』(日経BP)である。

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 ところが、これがアマゾンでは見つからないのですね。仕方がない。たとえばKinokuniya Bookwebを見てください。「取り寄せ」だそうですが、手に入るかも知れない。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9972413969
 「山茶花」さんからアマゾンにもあるというコメントをいただいたが、現在「在庫切れ」だそうです。――1月11日追記

 このCD-ROMがなければ、私などまったく仕事にならないのだ。
 たとえば次のような日本語を英語に訳してみてください。

 資産の消滅の認識に係る会計上の考え方は、リスク・経済価値アプローチと財務構成要素アプローチとに大別される。リスク・経済価値アプローチとは、資産のリスクと経済価値のほとんど全てが他に移転した場合に当該資産の消滅を認識する方法であり、一方、財務構成要素アプローチとは、資産を構成する財務的要素に対する支配が他に移転した場合に当該移転した財務構成要素の消滅を認識し、留保される財務構成要素の存続を認識する方法である。

 いかがですか? まず手も足も出ないはずだ。『CD-ROM経済・金融英和/和英実用辞典』を使わないから出来ないのだ。使えば出来るとは限らないけれど、使わなければ出来ない。ほかの辞典では駄目である。
 たとえば研究社の『新和英大辞典』は日本の英語学界の最高峰が集まって作った辞書であるが、営業部を引いてみるとthe business departmentと書いてある。これでは駄目ですね。営業部は英語では十中八九はsales departmentとなることはご存じの通り。この和英辞典は全体としてはよくできているが、英語と日本語の一対一対応(場合により一対多対応)という考え方を基本に作っているので、実際には使えない場合が多いのだ。「営業部」ならば、営業と部に分解する。部はまずdepartmentであろう。営業はbusiness、あるいは場合によりtrade、operationなど。この場合はbusinessを採ってthe business departmentとする――こういうやり方では限界があるのだ。
 あるいはlessという単語ならば、littleの比較級より少ないという意味である、と書けば英和辞典の仕事は終りである。しかし、たとえばfair value less cost to sellをどう訳するか? 山岡氏の辞典を見れば「売却コスト差し引き後公正価額」とちゃんと書いてある。
 上の例では「財務構成要素」アプローチの訳語が山岡氏の辞典に出ているわけではない。この英訳は私が自分で考えました。
 しかし、たとえば「認識」の訳語は、和英辞典では、cognition, recognition, coginizance, awareness, consciousness, perception, knowledge, understandingなどたくさんあるけれども、会計用語としてはrecognize/recognitionであることを、山岡氏の辞典を何度も引いて確かめてあるから、安心して翻訳が出来るのだ。
 ふつうの辞書とはどこが違うか?
 経済金融などの分野で英語の読み書きに実際に使える辞典を作るにはどうすればよいか? 英米の専門書、雑誌や新聞の記事、報告書などから例文を大量に集め、これに一々和訳を付けて、「英和対訳データベース」を作り、これをもとに辞典を作ればよろしい。
 その結果、lessを「差し引き」と訳さなければならない場合があることが分かってくる。あるいは、「重要性を認識する」はto realize the importanceであるが、「収益を認識する」はto recognize incomeでなければならないことが分かってくる。
 
 こういう辞典を作ってくれた山岡洋一氏が訳したものならば信頼できるはずだ。
 しかしそもそも『国富論』の話であった。
 原文An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nationsは以下にあるのでちょっとのぞいてみましょう。
http://www.econlib.org/LIBRARY/Smith/smWN.html

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2007年1月 7日 (日)

誤訳迷訳欠陥翻訳(2)

 別宮氏の本が扱っている翻訳書は「特選」だけあっていずれ劣らぬ迷訳ぞろい、どれを取り上げたらいいか、目移りして困るくらいである。
 一番反響が大きかったのはアダム・スミス『国富論』の翻訳批判、「読書はナゾ解きではない」(1989年12月号)ではないだろうか。

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 この時点で国富論の訳は

 岩波文庫の大内兵衛訳
 河出書房の水田洋訳
 中央公論社の大河内一男訳

 があった。現在は岩波文庫に水田洋訳が入り、中公文庫から大河内一男訳版が出ている。現在の岩波文庫版は訳者名が「水田洋、杉山忠平」である。

 岩波文庫版については、アマゾンのカスタマー・レビューで「おろしあ」という人がこう書いている。

(星の数は5つのうち2つ) 訳文が難渋, 2002/10/23
 一見原文に忠実な訳で信頼が置けるように見えるが,中公文庫版に比べて難渋なことは否めない。しかも監訳者水田氏と英文学者・別宮貞則氏との間で論争された訳文の適否の箇所については,相変わらず改められていない部分も見られる(訳者の見解と言えばそれまでだが…)。

 別宮氏の主標的は水田洋訳だった。これに対して水田氏が「これでいいのだ」と反論したらしい。その結果、いくらか改めた箇所もあるが、そのままの箇所もあるらしい。どういう訳文だったのか?

・完成品を、貨幣か労働か他の財貨と交換するにあたって、原料の価格と職人の賃銀とを支はらうにたりるであろうところをこえて、このしごとの企業者の利潤として、いくらかがあたえられなければならないのであって、かれはこの冒険に自分の資財をあえて投じたのである。

 これで分かるという人がいたら「天才と紙一重」だ。一度どこかで頭を診てもらった方がよろしい。別宮氏の挙げる大河内訳は

・完成品を、貨幣なり労働なり他の財貨なりと交換する場合には、こうした冒険に自分の資本(ストック)を思いきって投じるこの企業家にたいして、その利潤として、原料の価格と職人の賃銀を支払うに足りる以上になにかか与えられなければならない。

 これならよく分かる。別宮氏の挙げた水田洋訳の例をもう一つだけ。

・したがってこれらの財貨が、かれにたいしてこの利潤をうまぬかぎり、それらがじっさいにかれにとってかかったと、まったく正当にいわれうるものを、それらはかれにはらいもどさないのである。
Unless they yield him this profit, therefore, they do not repay what they may very properly be said to have really cost him.

これだけの利益を生まなければ、もどってくる金は、実際にかかったとまちがいなく言えるだけの額にもみたないことになる」というような形に変える大胆さが読者への親切というものだろう――これは別宮氏の評。

 まったく「読者への親切」なんてかけらほどもないのである。だから別宮氏は他にも例をたくさん挙げてコテンパンにやっつけた。
 それで水田訳は駄目だということになって絶版になった? とんでもない。少々お色直しをしただけで大威張りで岩波文庫に引っ越したのである。なぜだ?
 訳者の水田洋氏がものすごく偉いからである。水田氏はアダム・スミス研究では国際的な業績を上げた学者なのだ。英文の著書が何冊もあります。

 だから、この偉い先生の訳が分からんなんてのは、もう「読者の方が悪い」という無茶苦茶なことになったわけだ。
 しかし、いくら何でもそれはひどいというので、国富論の新訳に取り組んでいるのが山岡洋一氏である。
 岩波文庫版の『国富論』について山岡洋一氏は

 おそらく最大の問題は、ごく普通の言葉を使って、ごく普通に書かれている『国富論』を、専門分野の翻訳に使われる一対一対応型の方法で訳したことだろう。スミスは一語を一義に用いてはいないし、一義を一語で表現してもいない。ごく普通の英文でみられるように、一語をいくつもの意味で使い、一義をいくつもの語で言い換えていく方法をとっている。これを一語一義、一義一語の原則を想定して訳していくと、英文和訳の回答のような文章ができあがる。読者には意味が伝わらなくなる。

 と言われる。山岡氏の『国富論』の新訳を考える理由を是非ご覧下さい。
 山岡訳『国富論』は、原稿は完成しているが未刊である。ぜひどこかから出して欲しいものだ。(続く)

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2007年1月 5日 (金)

誤訳迷訳欠陥翻訳(1)

 この前、佐々木直次郎訳『モルグ街の殺人事件』が駄目だと言った(モルグ街/病院横町)。

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 しかしこの翻訳については、ずっと昔に痛烈な批判が出ていた。別宮貞徳教授の有名な「欠陥翻訳時評」が20年以上前に佐々木訳を取り上げ、「自動翻訳者の限界」を指摘している(『翻訳の世界』1984年9月号、『特選 誤訳迷訳欠陥翻訳』ちくま学芸文庫)。

 別宮先生は「自動翻訳機程度の仕事に満足する――いや、それをもって最高とする翻訳者が書くとこんな文章になる。」として例をたくさん挙げている。そのうち三つだけ取り上げます。

・僕はとうに、一人だけの犯人が彼の荷物を岸まで引きずって行ったことを話したときに、彼がボートを利用したらしいということをちょっと言っておいた。

・彼の才能と人好きのする性質とは彼女の注意をひき、また実際に彼は愛されていたようにも思われた。だが彼女の家柄に対する矜持はとうとう彼女に彼を捨てさせて……

・それの隠匿の方針が総監の方針のなかにあるものだったなら――それの発見は全然疑いの余地はなかっただろう、……

 第1例の別宮先生による書き直し

・ぼくは、犯人は一人で荷物を岸まで引きずっていったと前に話したけれど、そのとき犯人はボートを使ったんじゃないかとも言ったはずだ。

 第2例と第3例について、別宮先生曰く。

 第二の例のように、ほんの70字の間に「彼」「彼女」が六回も出てきてはそれこそカレ中毒を起こすし、第三例の「それの隠匿」「それの発見」はのどにつかえる。どこもまちがっちゃいないじゃないか、何が悪い、とおっしゃるか。その考えがまちがっとる、その料簡がよろしくない。たしかに語義はコンピューターみたいに正確だが、ポーは単語の意味一つ一つをまちがえずに解釈してくれというつもりで作品を書いているのではない。
 
 ところが「盲千人目明き千人」とはよく言ったもので、この佐々木直次郎訳を名訳だと思う人がいるのだ。だから青空文庫にも収録されるのだろう。(この差別語を含む段落は別宮先生の文にあらず。ブログ筆者の書いたものです。)
 別宮先生曰く。

 こういうコンピューター訳でも拾う神ありと言うか、この新潮文庫の解説者の曰く、「その正確で、鮮明な彫りの深い訳業によって、長く我々の感謝に値する仕事であった……これは、批評を別にしてのシャルル・ボードレールのポー翻訳に匹敵し、ほかの凡訳に比して坪内逍遙のシェイクスピア移植に該当する、といってもあえて過言ではないであろう」!!

 まったくビックリマークを二つも三つも付けたくなるね。
 しかし、この佐々木訳の場合はまだましな方だ。もっとひどい欠陥翻訳の例を別宮先生はたくさん挙げておられる。この次に少し見てみましょう。

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2007年1月 1日 (月)

賀正

本年もよろしく。

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