別宮氏の本が扱っている翻訳書は「特選」だけあっていずれ劣らぬ迷訳ぞろい、どれを取り上げたらいいか、目移りして困るくらいである。
一番反響が大きかったのはアダム・スミス『国富論』の翻訳批判、「読書はナゾ解きではない」(1989年12月号)ではないだろうか。
この時点で国富論の訳は
岩波文庫の大内兵衛訳
河出書房の水田洋訳
中央公論社の大河内一男訳
があった。現在は岩波文庫に水田洋訳が入り、中公文庫から大河内一男訳版が出ている。現在の岩波文庫版は訳者名が「水田洋、杉山忠平」である。
岩波文庫版については、アマゾンのカスタマー・レビューで「おろしあ」という人がこう書いている。
(星の数は5つのうち2つ) 訳文が難渋, 2002/10/23
一見原文に忠実な訳で信頼が置けるように見えるが,中公文庫版に比べて難渋なことは否めない。しかも監訳者水田氏と英文学者・別宮貞則氏との間で論争された訳文の適否の箇所については,相変わらず改められていない部分も見られる(訳者の見解と言えばそれまでだが…)。
別宮氏の主標的は水田洋訳だった。これに対して水田氏が「これでいいのだ」と反論したらしい。その結果、いくらか改めた箇所もあるが、そのままの箇所もあるらしい。どういう訳文だったのか?
・完成品を、貨幣か労働か他の財貨と交換するにあたって、原料の価格と職人の賃銀とを支はらうにたりるであろうところをこえて、このしごとの企業者の利潤として、いくらかがあたえられなければならないのであって、かれはこの冒険に自分の資財をあえて投じたのである。
これで分かるという人がいたら「天才と紙一重」だ。一度どこかで頭を診てもらった方がよろしい。別宮氏の挙げる大河内訳は
・完成品を、貨幣なり労働なり他の財貨なりと交換する場合には、こうした冒険に自分の資本(ストック)を思いきって投じるこの企業家にたいして、その利潤として、原料の価格と職人の賃銀を支払うに足りる以上になにかか与えられなければならない。
これならよく分かる。別宮氏の挙げた水田洋訳の例をもう一つだけ。
・したがってこれらの財貨が、かれにたいしてこの利潤をうまぬかぎり、それらがじっさいにかれにとってかかったと、まったく正当にいわれうるものを、それらはかれにはらいもどさないのである。
Unless they yield him this profit, therefore, they do not repay what they may very properly be said to have really cost him.
「これだけの利益を生まなければ、もどってくる金は、実際にかかったとまちがいなく言えるだけの額にもみたないことになる」というような形に変える大胆さが読者への親切というものだろう――これは別宮氏の評。
まったく「読者への親切」なんてかけらほどもないのである。だから別宮氏は他にも例をたくさん挙げてコテンパンにやっつけた。
それで水田訳は駄目だということになって絶版になった? とんでもない。少々お色直しをしただけで大威張りで岩波文庫に引っ越したのである。なぜだ?
訳者の水田洋氏がものすごく偉いからである。水田氏はアダム・スミス研究では国際的な業績を上げた学者なのだ。英文の著書が何冊もあります。
だから、この偉い先生の訳が分からんなんてのは、もう「読者の方が悪い」という無茶苦茶なことになったわけだ。
しかし、いくら何でもそれはひどいというので、国富論の新訳に取り組んでいるのが山岡洋一氏である。
岩波文庫版の『国富論』について山岡洋一氏は
おそらく最大の問題は、ごく普通の言葉を使って、ごく普通に書かれている『国富論』を、専門分野の翻訳に使われる一対一対応型の方法で訳したことだろう。スミスは一語を一義に用いてはいないし、一義を一語で表現してもいない。ごく普通の英文でみられるように、一語をいくつもの意味で使い、一義をいくつもの語で言い換えていく方法をとっている。これを一語一義、一義一語の原則を想定して訳していくと、英文和訳の回答のような文章ができあがる。読者には意味が伝わらなくなる。
と言われる。山岡氏の『国富論』の新訳を考える理由を是非ご覧下さい。
山岡訳『国富論』は、原稿は完成しているが未刊である。ぜひどこかから出して欲しいものだ。(続く)
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