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2007年2月27日 (火)

シャーロック・ホームズと「あの女」(6)

 シャーロック・ホームズにとって、彼女は常に「あの女」である。ほかの呼び方をするのはついぞ聞いたことがない。ホームズの目から見ると、彼女は女全体を覆い隠し圧倒する存在なのだ。アイリーン・アドラーに対して、ホームズが恋愛めいた感情を抱いていたわけではない。あらゆる感情、ことに恋愛感情などは、冷静で緻密、驚くばかり均整のとれた彼の心と、およそ相容れぬものなのだ。ホームズは推理観察にかけては未曾有の完璧な機械だったが、色恋は得手ではなかった。恋だの愛だのを口にするときは、いつも皮肉と嘲笑をまじえた。そういうものは観察者にとってはまことに結構であり、隠れた動機や行動の解明に好都合である。しかし熟練した推理家の微妙に調整された繊細な心境にそんなものが侵入すれば混乱を招き、知的活動の成果を危うくする。ホームズのような心性の男に強烈な感情が生ずれば、高感度の器械に砂粒が入る、あるいは彼の持つ高倍率の顕微鏡にひび割れができるよりも、はるかに厄介なことになる。だが、そのホームズにもただ一人だけ忘れられない女がいた。その女こそは、芳しからぬ記憶に残る故アイリーン・アドラーであった。

 人さまの翻訳にケチをつけるのは簡単だけれど、自分でやってみるとむつかしい。日暮氏訳には賛成できない箇所もあるけれど、よく読んでみると、さすがにプロとしてお金を取っているだけのことはありますね。

 As a lover he would have placed himself in a false position.
延原訳 こと恋愛となると、まるきり手も足もでない不器用な男だった。
日暮訳 こと恋愛になると、まるで場違いな存在になってしまう。
拙訳  色恋は得手でなかった。

 どの訳でもよいと思う。延原訳は「勝手訳」ではありません。 in a false positionというフレーズは、正典では『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』と『バスカヴィル家の犬』で使われている。

"Exactly. Since it is morally justifiable, I have only to consider the question of personal risk. Surely a gentleman should not lay much stress upon this, when a lady is in most desperate need of his help?"
"You will be in such a false position."
"Well, that is part of the risk. ……"
「その通り。道義的には正しいのだから、あとは一身上の危険だけを考えればよいのだ。しかし、レディが必死で助けを求めているのに、紳士たる者がそんなことにかまけておれるか?」
「しかし、君の立場が危うくなるぜ」
「うん、それも危険の一つだ。……」

  "Mrs. Lyons," said I as I rose from this long and inconclusive interview, "you are taking a very great responsibility and putting yourself in a very false position by not making an absolutely clean breast of all that you know. If I have to call in the aid of the police you will find how seriously you are compromised. If your position is innocent, why did you in the first instance deny having written to Sir Charles upon that date?"
「ライオンズさん」と言って私は立ち上がった。長い会見も結論が出ないままである。「ご存じのことをすっかり打ち明けていただけないとなると、重い責任を負うことになりますよ。誤解されることになる。警察の協力を求めざるを得なくなれば、あなたは窮地に立たされてしまう。だいたい、やましいところがないならば、あの日にサー・チャールズに手紙をお出しになったことを、なぜ最初に否定なさったのですか?」

  in a false positionというフレーズは、to compromise oneself(自分の信用/立場/名誉を危うくする)の婉曲語法らしい。

 As a lover he would have placed himself in a false position.は、いわゆる仮定法過去完了を裏に秘めた言い方ですね。 a false positionはやはり「ヤバイ」とか「まずい」とかいうことでしょう。
 恋愛の方面はホームズの鬼門だ――というのが一番ぴったり来ると思うけれど、ヴィクトリア朝の英国に陰陽道が出てきてはちょっとまずいか? 中野好夫氏はモームの翻訳で「それは無理です」というところを「比丘尼に魔羅出せと言うようなものだ」とやったことがあるけれど、ちょっと豪傑すぎる。我々は真似しない方がいいと思う。

 本題は「あの女」であった。
 アイリーン・アドラーは「あの女(ひと)」や「あの婦人」や「あの女性」なんかではない――と言いたいのでした。

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