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2007年2月28日 (水)

シャーロック・ホームズと「あの女」(7)

 だいたい、ホームズとワトソンが話しているときに、女の名前が出ることは少なかった。
 それでも、たとえば、こういう会話はあったかも知れない。

ワ「ホームズ、ミス・ハンターのことは覚えているかい?」
ホ「ハンター? 覚えがないねえ」
ワ「ミス・ヴァイオレット・ハンターだよ。あの、ルカースルの事件のときの」
ホ「ああ、あの家庭教師か。彼女がどうかしたかね?」
ワ「いや、どうかしたというわけではないが、彼女もあの事件ではショックを受けたと見えて、家庭教師の仕事はもうやめると言ってたじゃないか」
ホ「そうだったかねえ」
ワ「そうだよ。今どうしていると思う?」
ホ「そんなことは知らんよ」
ワ「あれから、私立学校の教師の職を求めたらしい。今ではウォールソールの学校で校長をしているというから、大したもんじゃないか。君も勇敢だ、機敏だとほめていたね」
ホ「そうだったかな」

 というような具合で、ホームズははかばかしい反応を示さず、ワトソンを失望させたのだと思う。ミス・ハンターが依頼人として現れたときには、その態度や話しぶりに好感を抱き、「もしあなたが私の妹なら」ぶな屋敷の仕事は勧めないと言ったくらいなのに。

 もう一人のヴァイオレットにも、ホームズはまずまず好意的であった。ミス・ヴァイオレット・スミスの「顔に精神性があるから、タイピストではなくてピアノを弾く人だ」と言ったのである。しかし、彼女は婚約者がいた。
 さらにもう一人、ヴァイオレットがいた。しかしミス・ヴァイオレット・ド・メルヴィルは、「女なんて信用できん」というホームズの偏見を強めただけだった。
 ミス・メアリー・モースタンにもホームズは好意的だった。しかし、これは彼女が「模範的な依頼人」だったからであって、ワトソンのようにロマンチックな関心を抱いたわけではない。
 こういう依頼人の性別は女だったのだから、ホームズがそのうちの一人をthe womanと呼んでもおかしくはないのだが、そうは言わなかったのである。

 ハドソン夫人も女なのにthe womanとは呼んでもらえなかった。ホームズにとって彼女は常にMrs. Hudsonか、the landladyかである。
 一度Mrs. Turnerと呼んだことがある? それは違うと思う。いくらホームズが女に冷淡であっても、毎日ご飯を食べさせてくれる人の名前を間違えたりはしない。
『ボヘミアの醜聞』のときは、たまたまハドソン夫人の体調が悪くて、従姉妹のターナー夫人に手伝ってもらっていたのだろう。「マーサ、あなたは休んでらっしゃい。お盆は私がもって行くから」というようなことだったはずだ。

 1888年3月20日、往診の帰りにベーカー街を通りかかったワトソンがブラインドにうつったホームズの長身痩躯を見て矢も立てもたまらなくなり、221Bの旧居を訪れる。このときの二人の問答は、記録によれば

「結婚は君に合っているようだね。この前より7ポンド半は太っただろう」
「7ポンドだ」

だった。しかし、その前にかわした言葉をワトソンは省略しているのだ。たぶん次のようなやり取りがあったはずだ。

"Holmes, who is that dragon of a woman?"
"Formidable, isn't she?  She is Mrs. Turner, a cousin of Mrs. Hudson's."
「おい、ホームズ、あのドラゴンは誰だい?」
「なかなかのものだろう。あれはターナー夫人といってね、ハドソンさんの従姉妹だよ」

 221Bの戸口にターナー夫人が立ちはだかり
「どなたですか? お約束のない方はお入れできません」
 などと剣突を食らわしたはずだ。
 また、本題から逸れてしまった。

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2007年2月27日 (火)

シャーロック・ホームズと「あの女」(6)

 シャーロック・ホームズにとって、彼女は常に「あの女」である。ほかの呼び方をするのはついぞ聞いたことがない。ホームズの目から見ると、彼女は女全体を覆い隠し圧倒する存在なのだ。アイリーン・アドラーに対して、ホームズが恋愛めいた感情を抱いていたわけではない。あらゆる感情、ことに恋愛感情などは、冷静で緻密、驚くばかり均整のとれた彼の心と、およそ相容れぬものなのだ。ホームズは推理観察にかけては未曾有の完璧な機械だったが、色恋は得手ではなかった。恋だの愛だのを口にするときは、いつも皮肉と嘲笑をまじえた。そういうものは観察者にとってはまことに結構であり、隠れた動機や行動の解明に好都合である。しかし熟練した推理家の微妙に調整された繊細な心境にそんなものが侵入すれば混乱を招き、知的活動の成果を危うくする。ホームズのような心性の男に強烈な感情が生ずれば、高感度の器械に砂粒が入る、あるいは彼の持つ高倍率の顕微鏡にひび割れができるよりも、はるかに厄介なことになる。だが、そのホームズにもただ一人だけ忘れられない女がいた。その女こそは、芳しからぬ記憶に残る故アイリーン・アドラーであった。

 人さまの翻訳にケチをつけるのは簡単だけれど、自分でやってみるとむつかしい。日暮氏訳には賛成できない箇所もあるけれど、よく読んでみると、さすがにプロとしてお金を取っているだけのことはありますね。

 As a lover he would have placed himself in a false position.
延原訳 こと恋愛となると、まるきり手も足もでない不器用な男だった。
日暮訳 こと恋愛になると、まるで場違いな存在になってしまう。
拙訳  色恋は得手でなかった。

 どの訳でもよいと思う。延原訳は「勝手訳」ではありません。 in a false positionというフレーズは、正典では『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』と『バスカヴィル家の犬』で使われている。

"Exactly. Since it is morally justifiable, I have only to consider the question of personal risk. Surely a gentleman should not lay much stress upon this, when a lady is in most desperate need of his help?"
"You will be in such a false position."
"Well, that is part of the risk. ……"
「その通り。道義的には正しいのだから、あとは一身上の危険だけを考えればよいのだ。しかし、レディが必死で助けを求めているのに、紳士たる者がそんなことにかまけておれるか?」
「しかし、君の立場が危うくなるぜ」
「うん、それも危険の一つだ。……」

  "Mrs. Lyons," said I as I rose from this long and inconclusive interview, "you are taking a very great responsibility and putting yourself in a very false position by not making an absolutely clean breast of all that you know. If I have to call in the aid of the police you will find how seriously you are compromised. If your position is innocent, why did you in the first instance deny having written to Sir Charles upon that date?"
「ライオンズさん」と言って私は立ち上がった。長い会見も結論が出ないままである。「ご存じのことをすっかり打ち明けていただけないとなると、重い責任を負うことになりますよ。誤解されることになる。警察の協力を求めざるを得なくなれば、あなたは窮地に立たされてしまう。だいたい、やましいところがないならば、あの日にサー・チャールズに手紙をお出しになったことを、なぜ最初に否定なさったのですか?」

  in a false positionというフレーズは、to compromise oneself(自分の信用/立場/名誉を危うくする)の婉曲語法らしい。

 As a lover he would have placed himself in a false position.は、いわゆる仮定法過去完了を裏に秘めた言い方ですね。 a false positionはやはり「ヤバイ」とか「まずい」とかいうことでしょう。
 恋愛の方面はホームズの鬼門だ――というのが一番ぴったり来ると思うけれど、ヴィクトリア朝の英国に陰陽道が出てきてはちょっとまずいか? 中野好夫氏はモームの翻訳で「それは無理です」というところを「比丘尼に魔羅出せと言うようなものだ」とやったことがあるけれど、ちょっと豪傑すぎる。我々は真似しない方がいいと思う。

 本題は「あの女」であった。
 アイリーン・アドラーは「あの女(ひと)」や「あの婦人」や「あの女性」なんかではない――と言いたいのでした。

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2007年2月25日 (日)

シャーロック・ホームズと「あの女」(5) 延原謙氏の訳文(2)

 延原謙というのはどういう人であったか。幸いウィキペディアに記載がある。

延原 謙 (のぶはら けん、本名: 延原 謙(ゆずる)、1892年9月1日 - 1977年6月21日) は、翻訳家。岡山県出身。早稲田大学理工学部卒。別名は小日向逸蝶。妻は作家の勝伸枝。岸田國士の義弟。1928年「新青年」、1932年「探偵小説」の編集長。後、中国に渡って事業を起こすも、終戦によって財産を失う。帰国後は「雄鶏通信」編集長。コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ全訳』など、多くの翻訳作品がある。

 同じ1892年(明治25年)生まれの文学者には、芥川龍之介(-1927)、佐藤春夫(-1964)、吉川英治(-1962)がいる。生年が近い人は、三上於菟吉(1891-1944)、直木三十五(1891-1934)、獅子文六(1893-1969)、江戸川乱歩(1894-1965)などである。
 明治45年=大正元年=1912年、大正15年=昭和元年=1926年である。芥川の『鼻』が漱石の絶賛を受けたのが大正5年(1916年)である。
 延原訳のホームズは大正時代の日本語だと言えるだろう(延原氏の本格的な活躍は昭和に入ってかららしいが)。「推理観察をやらせては」などという言葉遣いは「大正時代の口語」だったのだと思う。今なら誰でも「勉強をする」というが、当時は「勉強をやる」という言い方が優勢だったのではないか。
 同時代の翻訳日本語がどういうものであったかは、以前に見た三上於菟吉訳『自転車嬢の危難』からもその一班をうかがうことができる。これは1929年に平凡社の世界探偵小説全集に収録された。
 三上於菟吉訳をもう一つ、今度は『株式仲買店員』(訳文は1930年刊)の初めの方を見てみましょう。貴重な日本語資料を提供してくださる青空文庫に感謝します。

 結婚してからほどなく、私はパッディングトン区にお得意づきの医院を買った。私はその医院を老ハルクハー氏から買ったのであるが、老ハルクハー氏は一時はかなり手広く患者をとっていたのであった。しかし寄る年波とセント・ビタス・ダンスをする習慣があったためすっかりからだを悪くしたので、だんだんお客をなくして淋れてしまった。世間の人と云うものは、病人を治療する人間は、その人自身が健康でなくてはならない。そしてもしその人が病気になっても自分の医薬ではなおることが出来ないのを見ると、その人の治療上の力を疑いはじめる、と云うそうした傾向を持っているものであるが、これはむしろ当然な話である。つまりそれと同じような理由で、ハルクハー氏は次第に医院をさびれさせていって、私がその医院を買うまでに一年に千二百人からあった患者が三百人ほどもないくらいにまで減ってしまった。けれども私は、私の若さと体力とに自信があったので、二三年の間には昔と同様に繁盛するだろうと確信していた。

 いかかですか? なかなか乙な酢豆腐でげしょう? 
 延原訳は次の通り。

 結婚後まもなく、私はパディントン区に医者の株を買った。私にそこを譲ったファークァー老は、ひところは内科一般で盛大にやっていたのだが、何分よる年波でもあり、持病の舞踏病が思わしくないので、患者がめっきり減ってきた。
 いったい世間というものは、医者は他人の病をなおすくらいだから、自分はいつでも無病息災であるべきだと、まア自然そんな風に思いこみがちのもので、それが病気になって、自分の手当でなおしきれないとなると、何だ医者のくせにと、その人の一般的な手腕まで白眼視しだすものだ。ファークァー老もそんなことから自然に患者をなくして、ひところは年に千二百ポンドもあった収入が、私の買ったころには三百ポンドあまりに落ちてしまった。だが私は、自分の若さと元気いっぱいの精力をもってすれば、二、三年を出でずして昔日の反映を取り戻してみせる自信が十分あったのだ。

 三上訳「セント・ビタス・ダンスをする習慣があったため」というのが珍妙ですね。1930年ころの日本人ならば、「どういうことだろう? しかし西洋人ならわけの分からない変な習慣がある人もいるのだろう」と思ったかも知れない。
 三上訳は1200と300という数字を患者の人数だと解釈している。これはもちろん延原訳が正しい。コナン・ドイル伝を見ると、ドイルの友人バッド医師はインチキ療法で大繁盛していて「年に5000ポンドからの収入」があった。ドイルはバッドと喧嘩別れしてからポーツマスで開業したが、医業の収入が300ポンドを超えることはなかった。
 三上訳は、誤訳もさることながら、日本語のセンスがちょっと変ですね。古いのは構わないけれど、安定を欠いているのは困る。次の箇所を改めて比較してみましょう。

 世間の人と云うものは、病人を治療する人間は、その人自身が健康でなくてはならない。そしてもしその人が病気になっても自分の医薬ではなおることが出来ないのを見ると、その人の治療上の力を疑いはじめる、と云うそうした傾向を持っているものであるが、これはむしろ当然な話である。

 いったい世間というものは、医者は他人の病をなおすくらいだから、自分はいつでも無病息災であるべきだと、まア自然そんな風に思いこみがちのもので、それが病気になって、自分の手当でなおしきれないとなると、何だ医者のくせにと、その人の一般的な手腕まで白眼視しだすものだ。

 延原訳がこなれていることがよく分かる。
 しかし、その延原謙氏でも、牧師か神父かモリアーティ元教授の職業についてはとんでもない間違いをしているのだ。まことに翻訳恐るべし。

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2007年2月23日 (金)

なぜ釈放しちゃったのか?

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 こいつ、金正男のことです。せっかく2001年5月に成田で捕まえたのに、田中真紀子外務大臣はすぐに出国させてしまった。
 捕まえたままにしておけば、拉致問題で取引材料に使えたのに――ということは誰でも考えるかと思っていたのだけれど、雑誌などに書いてあるのは見たことがない。なぜだろう。
 このあいだ、金正日の65歳の誕生日でしたね。捕まえたままにしておいて、ああいうときに晒し者にすればいいのだ。密入国してディズニーランドへも行ったとかいう話だった。それなら、ディズニーランドへ連れて行って現場検証をすればよい。本人が「自分は金正男だ」と自白しても、政府としてはあくまで「本人かどうか確認できない。引き続き身元を調査中」ととぼけておけばよろしい。
 少し前まで刑務所では「革手錠」を使っていたはずだ。

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 あれをはめた写真を撮っておいて、日朝交渉のときに見せて「拷問しています」と言えばよいのだ。 
 暴論ですかね? 自分でもちょっとネトウヨになったような気がするけれど。

 しかし、昨日、「蓮池薫さん夫妻拉致の犯人二人を国際指名手配した」というニュースがあったので、びっくりしたのだ。何を寝ぼけたことを言っておるのか。北朝鮮に身柄の引渡を要求するなんて白々しいよ。
 
 蓮池さんが帰って来たときに「はじめ2、3年のうちは日本から助けに来てくれると思っていた」と言ったのが印象的だった。蓮池さんは中央大学法学部の学生だったのだ。自衛隊の特殊部隊が「招待所」を急襲するなんて出来ないことは、よく分かっていたはずだ。それでも「助けに来てくれるかも知れない」と一縷の望みを捨てきれなかったのだ。

 助けに行くべきだったのだ。本当の犯人、金正日を捕まえなければならないのだ。ただ、その実力は日本にないので、空威張りしても仕方がない。だから、せめて金正男を捕まえたままにしておけばよかったのだ。
 

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2007年2月21日 (水)

シャーロック・ホームズと「あの女」(4)--延原謙氏の訳文

 シャーロック・ホームズは彼女のことをいつでも「あの女(ひと)」とだけいう。ほかの名で呼ぶのを、ついぞ聞いたことがない。彼の視野のなかでは、彼女が女性の全体を覆い隠しているから、女といえば、すぐに彼女を思い出すことにもなるのだ。とはいっても「あの女」すなわちアイリーン・アドラーにたいして彼が恋愛めいた感情をいだいているというのではない。あらゆる情緒、ことに愛情のごときは、冷静で的確、驚くばかり均整のとれた彼の心性と、およそ相容れぬものなのだ。思うに彼は、推理観察をやらせては、世にたぐいなき完全な機械だけれど、こと恋愛となると、まるきり手も足も出ない不器用な男だった。やさしい感情上の問題なぞ、口にしたこともない。たまにいうかと思えば、必ずひやかしか罵倒まじりだった。やさしい感情、それははたから見てもまことに結構なもので、とりわけ人の意志や行為を覆う帷(とばり)を払いのけてくれる効果は大きい。けれども、訓練のゆき届いた推理家にとって、細心に整頓されたデリケートな心境のなかに、そうした闖入者を許すのは、まぎれをおこさせるものであり、その精神的成果のうえに、一抹の疑念を投ずることにもなるのである。鋭敏な機械のなかにはいった砂一粒、彼のもつ強力な拡大鏡に生じた一個の亀裂といえども、彼のもつような天性のなかに、激烈な感情の忍びいった場合ほどには、面倒な妨害となることはあるまい。そのホームズにしてなお、忘れがたき女性が一人だけあったのだ。その女性こそは、かのいかがわしき記憶にのこる故アイリーン・アドラーその人である。

 こうやって新潮文庫の1頁を写してみると、延原謙氏の翻訳がよくできていることに感心する。むろん「あの女(ひと)」はよくない。「あの女(おんな)」でなければならない。しかし「好みの問題でしょう」と言われると反論がむつかしい。まず、そこは置いておいて、ほかの部分を見ましょう。
 前にも述べたことがあるが、日本語が「古い」のがよい。たとえば

 思うに彼は、推理観察をやらせては、世にたぐいなき完全な機械だけれど、こと恋愛となると、まるきり手も足も出ない不器用な男だった。やさしい感情上の問題なぞ、口にしたこともない。

 私にはとうてい書けない日本語だ。「思うに」とか「世にたぐいなき」のような文語調は使えると思う。「推理観察をやらせては」が書けないのだ。「世にたぐいなき」と気張ったから「機械であるが」と重々しく続けたいところを「機械だけれど」と来る。大正時代の言葉遣いだ。こと恋愛となると「まるきり手も足も出ない不器用な男だった」もいいですね。同じ箇所を光文社文庫日暮雅通氏の「現代語訳」で見てみよう。

 思うに、彼はかつてこの世に存在したなかでも最も完璧な観察と推理の機械だが、こと恋愛になると、まるで場違いな存在になってしまう。人の情愛についても、あざけりや皮肉のことばを交えずに話すことなどはけっしてない。

 これで延原訳よりよくなったか? 私はそうは思わない。
 原文を見てみよう。

TO SHERLOCK HOLMES she is always the woman. I have seldom heard him mention her under any other name. In his eyes she eclipses and predominates the whole of her sex. It was not that he felt any emotion akin to love for Irene Adler. All emotions, and that one particularly, were abhorrent to his cold, precise but admirably balanced mind. He was, I take it, the most perfect reasoning and observing machine that the world has seen, but as a lover he would have placed himself in a false position. He never spoke of the softer passions, save with a gibe and a sneer. They were admirable things for the observer--excellent for drawing the veil from men’s motives and actions. But for the trained reasoner to admit such intrusions into his own delicate and finely adjusted temperament was to introduce a distracting factor which might throw a doubt upon all his mental results. Grit in a sensitive instrument, or a crack in one of his own high-power lenses, would not be more disturbing than a strong emotion in a nature such as his. And yet there was but one woman to him, and that woman was the late Irene Adler, of dubious and questionable memory.

「場違いな存在になってしまう」はhe would have placed himself in a false position.の訳として忠実であるかのごとくであるが、そうではない。延原訳の方が原文の意味に近い。(この点についてはあとで)

「人の情愛」は、明らかな間違いである。ホームズは決して情愛に乏しい男ではない。女嫌いだからといって、ハドソン夫人や女の依頼人に邪険にしたりはしない。弱いものにはやさしいのだ。passionという単語の読み違えですね。

 OEDによれば、passionは
Amorous feeling; strong sexual affection; love
  ということである。また複数のpassionsの形でamorous feelings or desires という意味であり、しばしばtender passionという、とある。
 本文ではsofter passionsと書いてあるがこれもだいたい同じことだ。softerというのは「女に関係のある」くらいの意味だ。softer sexと言えば「女」のこと。
 部分的に和訳を付ければ「愛欲」「色情」「欲情」「恋慕」くらいになるはずだ。延原さんのように「やさしい感情」と訳しておくのは無難であるが、「人の情愛」なんて間違いです。
 だいたい、このパラグラフ前半で何を言いたいのかというと、「ホームズは恋愛に無縁の朴念仁だ」ということだ。
 同じことを日本人が日本語で書くならば、「恋愛」なり「恋」なり「色事」なり、どれか一語に決めておいて、終始その一語を使って書く。「ホームズはアイリーン・アドラーに恋愛感情など持たなかった。…… 恋愛などは嘲笑していた」というように同じ単語を繰り返すことを厭わない。
 ところが英語のレトリックというのは厄介なもので、これでは野暮だというのですね。
 だから、はじめにlove (for Irene Adler)と言ったのを、後の方ではsofter passionsと言い換えているのだ。
 ヘーゲルのことを書くとして、いつでもHegelとばかり書いていないでときにはthe great German philosopherと言い換える。松井選手のことなら、Matsuiのほかに、the Japanese outfielderとかthe slugger nicknamed Godzillaとか書いたりする。英語ではよく使う手である。これくらいは分かって翻訳して欲しいものだ。
 
 話が逸れた。延原訳の言葉遣いが大正時代風であるということでした。(続く)

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2007年2月17日 (土)

シャーロック・ホームズとあの女(3)--女、婦人、女性

 ホームズはアイリーン・アドラーのことをいつもthe womanと呼んだ。これを何と訳すればよろしいか。どうも日本語の場合、厄介な問題があるようだ。

……が箒を振り回して暴れ、通りがかった女性が顔などに全治一週間の怪我をしました。
……女性の死体が発見されました。警察では現場付近で目撃された別の女性の行方を捜しています。

 新聞記事やテレビニュースの原稿などはこういう書き方をする。「女」と「女性」を書き分ける。「男」と「男性」でも同じだ。被害者は「女性」「男性」と書く。第二例の「目撃された別の女性」は、まだ重要参考人だからこう書くので、そのうちに犯人と分かれば「女」と書きますね。
 どうも困ったものだ。どうして「女」と「女性」を区別しなくちゃならないのか。人間は男と女しかいない。私の親父は「男」でお袋は「女」である。「男性」「女性」なんてことを言う必要を私は認めないね。
 しかし、仮にテレビが「女」と「女性」を逆にして放送すれば、抗議が殺到するだろう。

 もう一つ「婦人」という言葉もありましたね。これも特殊な使い方をするのだった。
 女にも選挙権を与えよという運動は、イギリスではジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)などが中心になって始めた。ようやく1928年になって実現した。

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 日本では男子普通選挙の実現(1925年)以前から、市川房枝女史たちによる運動があった。Suffrage for Womenを翻訳すると「女の選挙権」になるはずだが、そうは言わなかった。婦人参政権であった。

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 婦人という漢語は「女」より高級上等だというので使ったのだろう。しかし本場の支那では「婦人=女」である。漢和辞典で婦人を引くと史記の淮陰侯伝から例文を引いてある。

 此所謂婦人之仁也。これいわゆる婦人の仁なり。
「これは本物の仁ではない。ちっぽけな、つまらない、女の仁である」という意味だ。

 現代語でも同じである。日清戦争(1894-95)で負けた清国は日本に視察団を送った。団員の一人、李鴻章の次の次くらいに偉い大官が妙なところに着目した。
 日本の鉄道が発達していることにも感心したが、その鉄道のステーションに「御婦人室」というのがあるではないか。
 日本語の「御婦人」は婦人に尊敬の接頭語を付けたものだが、この用法は本場の支那にはない。
「御」という漢字の意味は、本場ではまず動詞である。「御者」というのは馬を「御する」者である。とすると「御婦人」はどういうことになるか。礼記に用例がある。

 婦人不當御。 婦人はまさに御せざるべからず。
 女というものは---しなくては駄目だ。
 
  つまりこの大官は「御婦人室」を見てこう思ったのですね。「鉄道のステーションに女を---するための部屋が準備してあるとは、なんと便利なことか。さすがに先進国だ。我が国が戦争に負けたのも無理はない。日本に見習わなくては」
 というので、清国では1000年以上続いた科挙を廃止して、代わりに日本に大量の留学生を送ることにした。蒋介石も周恩来も魯迅も郭沫若も日本で学んだ。馬克思(マルクス)主義も日本語経由で導入した。「子曰、學時習之、不亦悦乎」という調子では唯物史観なんて論じられないから、日本語の語彙と語法を大幅に採り入れた文体を作った。中国共産党が今日あるのもこの「御婦人室」のおかげなのだ。

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 話が逸れた。「婦人」が日本語では「女」より高級上等であるということでした。
 ところが近年この「高級上等」がだんだん怪しくなってきたらしい。フェミニズム系の人たちが妙なことを言い始めたからだ。婦人の「婦」という字は、女偏なのはよいとして、旁がよくない。女がホウキを持っているところを表した字が「婦」でしょう。これは掃除はもっぱら女がするものだという差別です。「婦人」はよくない。これからは「女性」と言いなさい。
 そんな無茶な。「中国四千年」と言うじゃありませんか。昔の人が作った字ですよ。などと言い聞かせても道理が分かる人たちではない。

 労働省発表 平成9年9月19日(金)http://www.jil.go.jp/kisya/josei/970919_03_j/970919_03_j.html
 では

10月1日から婦人局は女性局に変わります

 本日、関係政令が閣議決定され、本年10月1日から、婦人局が女性局になるなど、女性行政の組織の名称が下記のとおり変わります。
 労働省としては、今後とも、雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等対策、職業生活と家庭生活との両立支援対策、パ-トタイム労働対策など、働く女性のための施策を一層効果的に推進していくこととしています。 

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 ということになった。

 どうも厄介ですね。「人間のうち、男でない方」という同じ外延を持つ単語が「女」「女性」「婦人」と三つあって、「ニュアンス」だけが微妙に違うのだ。

 シャーロック・ホームズに日本語をしゃべってもらうとする。
 たとえばmy wifeは「家内」であるが「私の妻」と言ってもまあよろしい。しかしyour wifeを「あなたの妻」はいけません。「奥さん」と言いなさい――これくらいなら、そういう言語もあるのかと納得してもらえるかも知れない。
 しかし、「ホームズさん、アイリーン・アドラー嬢の呼び方は日本語では6種類ほどあるんですよ――あの女、あの婦人、あの女性、あの女(ひと)、あの女性(ひと)、あのひと」
 なんて言えば、あきれかえってしまうだろう。(続く)

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2007年2月 9日 (金)

シャーロック・ホームズと「あの女」(2)

 西洋人の女嫌いの話でした。
 たとえば『意志と表象としての世界』のアルトゥル・ショーペンハウアー(1788-1860)は、大変な女嫌いだった。

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 この人の場合、なぜ女が嫌いだったか、原因ははっきりしている。母親のせいだ。母親の友人であったゲーテが少年ショーペンハウアーの才能をほめ「天才だ」と言った。ところが母親は「一家に二人も天才がいるはずがない」と言って、息子を階段から突き落とした。これでは女嫌いにならない方がおかしい。もちろん結婚はしなかった。

 ショーペンハウアーの先生のイマヌエル・カント(1724-1804)も、女には縁がない人だった。ケーニヒスベルグ大学に学び、その大学の教授になり、研究と講義と規則正しい散歩で一生を終えた。女が入り込む余地はなかった。

 デカンショで言えばあとはデカルト(1596-1650)である。

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この人も、celibateだったかどうかはともかく、ずっと独身であった。カントのように一つ町にこもっていたのではなく、学校を終えた後は「世間という大きな書物」を読もうというので軍人になり、ヨーロッパ各地を遍歴した。その間に女遊びなどもしたかも知れない。しかし有名なウルムの炉部屋にこもったときは、一人きりだった。ガールフレンドが一緒にいたりしては「我思う、ゆえに我あり」どころでなくなってしまう。デカルトのように徹底的に考えることを自分の任務とする人間にとって、女などは気が散るだけの邪魔者である。繊細な機械に砂が入ったり高倍率の顕微鏡にひび割れができては困るように、強い感情などは禁物である。
 
 というわけで、西洋には、デカンショの三人、デカルト、カント、ショーペンハウアーの生涯を見ても分かるように、「女嫌い」という人間類型がある。(どうも偉い哲学者はほとんど独身のようだ。ソクラテスの奥さんが悪妻だったせいだろう。)

 ホームズもそういう「女嫌い」の一人であった。そのホームズがアイリーン・アドラーのことを、あるいはwomen一般のことを語るのには、どういう日本語がふさわしいか? (続く)

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2007年2月 8日 (木)

機械だー

 柳沢大臣の発言問題もどうやら峠を越したようですね。そういつまでもケシカラン、ケシカランと合唱しているわけにも行かないでしょう。
 柳沢さんの仰ったことは真理ですよ。
 柳沢さんのお母さんも奥さんも女であり、従って産む機械である。柳沢さんに限らない。誰でも同じである。女は産む機械であり、男は産むのに貢献する機械である。人間は男も女も機械である――というのは昔からある考え方だ。 
 たとえばデカルト(1596-1650)は、人間は精神と肉体から成っていて、肉体の方は機械だと見てよろしい、と考えていたらしい。「我思う、ゆえに我あり」というのは精神の方の話ですね。
 デカルト自身の機械、すなわち肉体は、あまり丈夫でなかった。1650年1月、デカルトはスウェーデンのクリスティーナ女王の宮廷に滞在していた。ところが、この女王が勉強好きで、朝寝が好きなデカルトに朝5時から哲学の講義をさせたから、たまらない。Renc3a9_descartes_i_samtal_med_sveriges__1

デカルトは風邪を引いて肺炎になり、2月に亡くなってしまった。勉強好きも普通の人ならよいけれど、女王様の場合は傍迷惑どころか、人類にとっての損失を招くことがある。

 ひょっとして精神も機械ではないかというのがド・ラ・メトリ(1709-1751)の『人間機械論』らしいですね。

 講談社の『現代哲学事典』によれば
 
 ハーヴィの血液循環論は人間の神秘性に対する一つの攻撃となり、それを直ちに受け継いだデカルト以来、人間の機構を、機械のアナロジーで説明する試みが盛んになった。そして機械の精巧化とともに、それはアナロジーというよりも、ことの本質を衝いた考えであるとする立場が一方において確立された。ラ・メトリの「人間機械論」はその代表的なものであったが、心身問題ともからんで、精神現象をメカニックに説明する可不可がしばしば論じられた。
 
 もちろん、石ノ森章太郎先生の『キカイダー』なども淵源はここにあるわけで、そう大騒ぎすることか?

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シャーロック・ホームズと「あの女」(1)

To Sherlock Holmes, she is always the woman.

 有名な短編の冒頭の有名な文ですね。

 この「彼女」とシャーロック・ホームズの間にはいろいろといきさつがあって、最後は

And when he speaks of Irene Adler, or when he refers to her photograph, it is always under the honourable title of the woman.

 で終わるのでした。

 シャーロック・ホームズはアイリーン・アドラーをいつでもthe womanと呼んだ。このthe womanは、どう訳すればよいか?
 そんなもの、「あの女」に決まっているじゃないか。
 と思うでしょう? ところが違うのだ。
 昨年刊行された光文社文庫の『シャーロック・ホームズの冒険』では

シャーロック・ホームズにとって、彼女はつねに「あの女性(ひと)」である。[括弧内の「ひと」はルビ]

そして、アイリーン・アドラーの話をするときや、その写真のことにふれるとき、彼は必ず「あの女性(ひと)」という敬称を使うのである。 

「女性」と書いて「ひと」と読ませるらしい。びっくりしたなあ。「あの女」と書いて「あのおんな」と読ませるのでは、何故いけないのか?
 
 ほかの本はどうなっているか?

新潮文庫
シャーロック・ホームズは彼女のことをいつでも「あの女(ひと)」とだけいう。

そしてアイリーンのことや、彼女の写真のことが話に出ると、彼は必ず「あの女(ひと)」という尊称をもってするようになったのである。

ちくま文庫
シャーロック・ホームズにとって、彼女はつねに「あの女性」である。

そして彼がアイリーン・アドラーの話をするときや彼女の写真のことにふれるときには、必ず「あの女性」という敬称を使うのである。

創元推理文庫
シャーロック・ホームズにとっては、彼女はいつもあのひとであった。

そしてアイリーネのことをはなしたり、彼女の写真のことにふれたりするときには、いつも「あのひと」という敬称を使うのである。

ハヤカワ文庫
シャーロック・ホームズにとっては、彼女はいつも「あの女」だ。

そしてアイリーンのことや彼女の写真のことが話題になると、かならず「あの婦人」と敬称を用いて呼んだ。

河出書房
シャーロック・ホームズにとっては、彼女は、いつでも「あの女」だった。

そして、ホームズは、アイリーン・アドラーのことを話したり、彼女の写真が話題になる時には、いつでも「あの女」という、敬意を表する表現を使っているのだ。(あのに傍点)

  河出書房版は女にルビがない。「あのおんな」と読ませるのだろう。

 河出方式以外では駄目だと、私は思う。
 ホームズはもちろん英語で話していた。
 しかし、もし仮に日本語で話したとしたらどうだろう? 「あのひと」とか「あの女性」とか「あの女性(ひと)」とか「あの女(ひと)」とか「あの婦人」なんて言い方をホームズがするか?
 するはずがない。
 ホームズにどういう日本語をしゃべらせるかは、彼の性格をよく考えた上で決めなくてはならない。どうも皆さん、シャーロック・ホームズが「女嫌い」だったという事実を軽視しているようだ。
 ホームズは決してもてない男ではない。小谷野敦さんではありません。

 その気になればもてる男であった。恐喝王チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンを相手にしたときには、彼のメイドのアガサを誘惑してたちまち婚約してしまった。もっとも、このときはエスコットという名前の配管工に変装したのである。ジェントルマンのままでは女の子と交際なんかしなかった。
 ともかく女は嫌いであった。もちろん結婚など考えもしなかった。
 女が嫌いだったとすると、ひょっとしてゲイだったのか? まさか。
「そのころワトソンは私を捨てて結婚していた。The good Watson had at that time deserted me for a wife.」とホームズが書いていることをとらえて、ワトソンと愛し合っていたのだという説をなす向きもあるようだが、これはいくら何でも考えすぎでしょう。
 ホームズはオスカー・ワイルドではない。ワトソンはアルフレッド・ダグラス卿のような美青年ではない。普通のおっさんである。

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 ゲイではないけれども、ともかく「女は嫌いだ」という男がいる。日本にはめったにいないけれど、西洋ではそれほど珍しくないタイプである。(続く)

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2007年2月 3日 (土)

女は産む機械だ

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 と柳沢大臣はおっしゃったわけですが、私などは職業柄、これは英語に訳するとどうなるかな? と考えますね。
 私がまず思いついたのは

Woman is a childbearing machine.

  ですが、これでいいのか知らん? 
 不適切云々よりも、まず何か英語として変ですね。どうもmachineがおかしいらしい。日本語では目立たなかった変なところが、英訳すると目立つ。和文英訳の仕事では、原文を一部書き換えてしまうことがよくあります。「直訳ではこうなりますが、英語として変で、誤解を招く恐れもあるので直しました」と注をつけておきます。
 柳沢さんも何か面白いことを言おうと思って失敗したのでしょう。同じ「思想」を表明するにしてももっと無難な言い方をしておけばよかった。たとえば「女は産む役だ」くらいなら「(男ではなく)女産む役だ」のつもりだったのに間違えたとか何とか言えるのに。

 斎藤秀三郎の和英大辞典(1928)の「生む、産む」の項から

◆女は子を生む Women bear children.
◆女は子を生む役 It is woman's duty to bear children.
◆彼の細君は子どもを五人生んだ His wife bore him five children―gave him five children.
◆先妻は子どもを二人生んで死んだ His first wife died after giving birth to two children.
◆あの娘は近頃子を生んだ She has had a child―become a mother.
◆七人の子を生むとも女に心を許すな Do not trust a woman even if she be the mother of seven children.
◆あれは自分で生んだ子か Is he a child of her own bearing?
◆あれは先妻の生んだ子だ He is a child by his first wife.
◆彼の母は彼を生んで死んだ His mother died at his birth―He cost his mother her life.
◆子を生む女 a woman of child-bearing age
◆子を生まない女 a childless woman―a sterile woman―a barren woman
◆あの女はもう子を生む年じゃない She is past the age of bearing.
◆案じるより生むがやすい It is easier than one expects―“Fear outruns the danger.”
◆金が金を生む Money begets money.

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