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2007年3月31日 (土)

シャーロック・ホームズ小伝(1)

                   S・C・ロバーツ



「ボズウェルがいてくれないと僕は途方に暮れてしまう」
と、ホームズは言ったことがある。
 もっとも伝記作家ワトソンの記述が、ホラティウスのいわゆる

Quo fit ut omnis
Votiva pateat veluti descripta tabella
Vita senis
(彼の全生涯を願掛けの絵馬に描いたように終始明瞭に示す)

 とはとうてい言えないのであるが、ともかく、シャーロック・ホームズの生涯はかなり正確に再構成することができるだろう。

 ホームズの家族的背景としては、二つの要素が重要である。一つは先祖代々の地主の家系であること、もう一つは祖母がフランスの画家オラス・ヴェルネ(1789-1863)*の妹であることだ。ホームズの趣味や習慣は地主階級の暮らしとはかけ離れたものであるし、ベーカー街の生活がどんなにボヘミア的かはワトソンも強調しているところだ。だから我々はつい忘れてしまうのだが、ホームズは田舎の邸宅の生活にも楽々と溶け込むことができた。ドニソープのトレヴァー家でも、マスグレーブのハールストン屋敷でも、ヘイター大佐家のガンルームでも、ホームズは寛いでいた。ホルダーネス公爵やベリンジャー卿のような依頼人を相手にしても平然としている。しかしホームズの生き方に強い影響を与えたのはフランスの血であった。「芸術家の血は奇妙な形であらわれることがある」と彼はワトソンに言った。自分とマイクロフトの推理力はヴェルネ家から受け継いだというのである。子供のころ実際に大伯父に会ったかどうかは分からない。しかしごく幼いうちからヴェルネの有名な絵はいくつか見たことはあるに違いない。たとえば『オラス・ヴェルネのアトリエ』と題する絵がある。これはC・ブランの『フランス画家列伝』第3巻によれば、次のような絵である。

 こちらには、一人の男がテーブルの上に寝そべってコルネットを吹き、……また若い男が声を張り上げて新聞を読んでいる。さらに二人の男が剣をまじえている。一人はパイプを口にくわえて左手にパレットを持ち、もう一人は麻布のたっぷりした上っ張りを着ている。これがオラス・ヴェルネ画伯自身である。

 時代を二世代ばかりあとにずらせれば、そのままホームズのドレッシング・ガウン、フェンシング趣味、ペルシャスリッパに入れた煙草、室内ピストル射撃など、ワトソンの我慢の限界を超えるほどのボヘミアニズムの世界ではないか。

 ホームズの家族関係についてはフランス側に限らずほとんど知られていない(むろんマイクロフトの話が出ることはあるが)。しかし彼がフランスの事件を引き受ける機会を逃さなかったことには注目すべきだろう。早くも1886年にホームズの仕事はドーバー海峡の対岸に及んでいる。フランス警察の新進の刑事フランソワ・ヴィラールが彼のモノグラフ(140種類の煙草の灰の区別に関するものを含む)をフランス語に訳しているし、難しい遺言書の事件でのホームズの助力についてmagnifique, coup de maitreなどと熱い賞賛の言葉を寄せてきていた。1887年にはモーペルテュイ男爵の「途方もない陰謀」を挫くことに成功したが、電報を受けたワトソンがリヨンへ急行してみると、ホームズは極度の疲労からオテル・デュロンで寝込んでいた。その後にはマルセイユの少々込み入った問題があったし、モンパンシェ夫人の事件も解決した。1890年の冬から91年の早春にかけては、フランス政府が「きわめて重大な」事件に関してホームズを雇った。1894年には、ブルヴァールの暗殺者といわれたユレを捕まえた。この手柄に対してはフランス共和国大統領の自筆の感謝状とともにレジオン・ド・ヌール勲章を贈られたのだった。ホームズがこの勲章を受けたのは、1902年になってナイトの位を断っていることを考えればなかなか意味深長である。(続く)

S・C・ロバーツについては、トスカ枢機卿の死の訳者解説をご覧下さい。本編はロバーツのHolmes & Watson所収のホームズ小伝です。

* ヴェルネ家は3代にわたって有名な画家を出した。ホームズの大伯父に当たるのは3代目のエミール・ジャン・オラス・ヴェルネである。
 Claude Joseph Venet (1714-89)
 Antoine Charles Horace Venet (1758-1836)
 Emile Jean Horace Vernet (1789-1863) 

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