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2007年3月31日 (土)

シャーロック・ホームズ小伝(1)

                   S・C・ロバーツ



「ボズウェルがいてくれないと僕は途方に暮れてしまう」
と、ホームズは言ったことがある。
 もっとも伝記作家ワトソンの記述が、ホラティウスのいわゆる

Quo fit ut omnis
Votiva pateat veluti descripta tabella
Vita senis
(彼の全生涯を願掛けの絵馬に描いたように終始明瞭に示す)

 とはとうてい言えないのであるが、ともかく、シャーロック・ホームズの生涯はかなり正確に再構成することができるだろう。

 ホームズの家族的背景としては、二つの要素が重要である。一つは先祖代々の地主の家系であること、もう一つは祖母がフランスの画家オラス・ヴェルネ(1789-1863)*の妹であることだ。ホームズの趣味や習慣は地主階級の暮らしとはかけ離れたものであるし、ベーカー街の生活がどんなにボヘミア的かはワトソンも強調しているところだ。だから我々はつい忘れてしまうのだが、ホームズは田舎の邸宅の生活にも楽々と溶け込むことができた。ドニソープのトレヴァー家でも、マスグレーブのハールストン屋敷でも、ヘイター大佐家のガンルームでも、ホームズは寛いでいた。ホルダーネス公爵やベリンジャー卿のような依頼人を相手にしても平然としている。しかしホームズの生き方に強い影響を与えたのはフランスの血であった。「芸術家の血は奇妙な形であらわれることがある」と彼はワトソンに言った。自分とマイクロフトの推理力はヴェルネ家から受け継いだというのである。子供のころ実際に大伯父に会ったかどうかは分からない。しかしごく幼いうちからヴェルネの有名な絵はいくつか見たことはあるに違いない。たとえば『オラス・ヴェルネのアトリエ』と題する絵がある。これはC・ブランの『フランス画家列伝』第3巻によれば、次のような絵である。

 こちらには、一人の男がテーブルの上に寝そべってコルネットを吹き、……また若い男が声を張り上げて新聞を読んでいる。さらに二人の男が剣をまじえている。一人はパイプを口にくわえて左手にパレットを持ち、もう一人は麻布のたっぷりした上っ張りを着ている。これがオラス・ヴェルネ画伯自身である。

 時代を二世代ばかりあとにずらせれば、そのままホームズのドレッシング・ガウン、フェンシング趣味、ペルシャスリッパに入れた煙草、室内ピストル射撃など、ワトソンの我慢の限界を超えるほどのボヘミアニズムの世界ではないか。

 ホームズの家族関係についてはフランス側に限らずほとんど知られていない(むろんマイクロフトの話が出ることはあるが)。しかし彼がフランスの事件を引き受ける機会を逃さなかったことには注目すべきだろう。早くも1886年にホームズの仕事はドーバー海峡の対岸に及んでいる。フランス警察の新進の刑事フランソワ・ヴィラールが彼のモノグラフ(140種類の煙草の灰の区別に関するものを含む)をフランス語に訳しているし、難しい遺言書の事件でのホームズの助力についてmagnifique, coup de maitreなどと熱い賞賛の言葉を寄せてきていた。1887年にはモーペルテュイ男爵の「途方もない陰謀」を挫くことに成功したが、電報を受けたワトソンがリヨンへ急行してみると、ホームズは極度の疲労からオテル・デュロンで寝込んでいた。その後にはマルセイユの少々込み入った問題があったし、モンパンシェ夫人の事件も解決した。1890年の冬から91年の早春にかけては、フランス政府が「きわめて重大な」事件に関してホームズを雇った。1894年には、ブルヴァールの暗殺者といわれたユレを捕まえた。この手柄に対してはフランス共和国大統領の自筆の感謝状とともにレジオン・ド・ヌール勲章を贈られたのだった。ホームズがこの勲章を受けたのは、1902年になってナイトの位を断っていることを考えればなかなか意味深長である。(続く)

S・C・ロバーツについては、トスカ枢機卿の死の訳者解説をご覧下さい。本編はロバーツのHolmes & Watson所収のホームズ小伝です。

* ヴェルネ家は3代にわたって有名な画家を出した。ホームズの大伯父に当たるのは3代目のエミール・ジャン・オラス・ヴェルネである。
 Claude Joseph Venet (1714-89)
 Antoine Charles Horace Venet (1758-1836)
 Emile Jean Horace Vernet (1789-1863) 

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2007年3月29日 (木)

叶姉妹

 村上春樹は、1994年4月に小説『ねじまき鳥クロニクル』の第一部、第二部を刊行した。謎の叶姉妹はこの作品に登場する。姉はマルタ、妹はクレタという名前であった。しかし第2部で妹のクレタは、クレタ島に行ってしまう。姉のマルタは行方不明になる。

 姉妹は、その後日本に帰り、叶恭子、叶美香と名乗って芸能活動をはじめた。

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 姉妹は講道館柔道の創始者、嘉納治五郎の曾孫に当たるという説もあるが、講道館側ではこれを認めていないようだ。

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2007年3月28日 (水)

奇妙な時代

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                                 ケネス・レックスロス

 1885年から1905年の間に活躍した小説の登場人物を一人だけ挙げてみてください、と普通の文学的教養のある人に尋ねてみよう。まず誰でも「シャーロック・ホームズ」と答えるだろう。ジョージ・メレディスからジョージ・ギッシングまで、サミュエル・バトラーからH・G・ウェルズまで、ヴィクトリア朝後期という時代には綿密な記録がある。小説を装った歴史記録や社会批判がこれほど豊富な時代はほかにない。これらの小説のなかには偉大な芸術作品もある。構成は緻密で深い人間性の洞察に満ち、文体は様々だがいずれも秀逸である。しかしこの時代の描写として最も精彩を放っているのは、構成の杜撰な作品ばかりを集めたものである。どれも金のために急いで書いたので、最上のものでも荒唐無稽の極みであり、登場人物はステレオタイプばかりだ。作者自身が厄介物扱いした(少なくとも本人はそう言っている)作品なのである。

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 このような非難は当たっているか? もし当たっているとしたら、それでもシャーロック・ホームズは古典と言えるだろうか? ヘリオドロスの『エチオピア物語』のようなギリシャの小説は古典か? サー・ウォルター・スコットの作品はどうか? デュマ・ペールは? consensus orbis terrarum――誰もがいつでもどこでも――が宗教と同じように文学でも基準になるとすれば、娯楽読み物の多くが、ソフォクレスやダンテやシェークスピアに近い位置を占めるだろう。アルゼンチンから日本まで、シャーロック・ホームズンはウィリアム・ブレークとD・H・ロレンスを合わせたよりも二倍も三倍も多くのファンを持っている。

 シャーロック・ホームズの一番有名な台詞は?

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「あの夜の、犬の不思議な行動です」
「あの夜、犬は何もしませんでしたが」
それが不思議だと申すのです

 ロナルド・ノックスは、これこそシャーロキスムスであると言った(シャーロック・ホームズ文献の研究)。まことにその通り。シャーロック・ホームズは何でもにしてしまう。微妙で(ときには微妙ではない)、だいたいは悪意のない(たまには悪意のある)茶気が全60編を通底している。

 ホームズ自身がディケンズのミコーバー氏に劣らないカリカチュアである。 しかし、ホームズの実在性は、ミコーバー氏の実在性と同様、我々には疑い得ない。皮肉なカリカチュアだからこそ、ホームズはリアルなのだ。我々が実生活で知っている人々の多くは、どんな小説の登場人物よりもベラボウではないか? 下宿の女将、ボーイ、悩める貴婦人、やんごとなき依頼人、外国帰りの冒険家、銀行家、それにもちろん元インド陸軍のドクター・ワトソンを忘れちゃいけない――こういう連中はみんな少しひずんで見える。アイロニーでゆがめられステレオタイプになって、みんなで大英帝国という一大コメディア・デラルテを構成するのだ。

 もちろん、サー・アーサー・コナン・ドイルはサミュエル・バトラーやH・G・ウェルズとは違う。シャーロック・ホームズは『万人の道』や『トーノ・バンゲイ』のようなヴィクトリア朝に対する攻撃ではない。コナン・ドイルは、ヴィクトリア朝の神話を全部信じているのでなかったら、あれほどの大成功をおさめることはできなかっただろう。シャーロック・ホームズが労働党の創立者キア・ハーディやオスカー・ワイルドの賛美者である――こんなことは考えるだけでもアホらしい。ベーカーストリート・イレギュラーズなど公式のシャーロック・ホームズ協会の面々は、定期的に会食しては「学問的」論文を読み上げて楽しんでいる。シャーロック・ホームズは実はスチュアート王家の末裔である、アングロカトリックの司祭が還俗したのだ、アナーキスト陰謀団の首領であるなどを「証明」しようとするのだ。あるいは、ドクター・ワトソンは切り裂きジャックだったとか、男装の女だったなんてのもある。シャーロック・ホームズの全作品がそのままマルクス主義の暗号による釈義なのだという説もある。シャーロック・ホームズの世界の魅惑の秘密は、その怖ろしいほどの真っ当さにあるのだ。

 しかし、これは我々の世界よりも遙かに真っ当な世界であり、その栄光は幾分か煤けているけれどもリアルである。現在、ヴィクトリア朝やエドワード朝がもてはやされるのは、勿体振りや気取りだけではない。ヴィクトリア朝的偏見から自由になった今では、フォード・マドックス・ブラウンからジェームズ・ティソに至る英国自然主義絵画の伝統が近代では最高の作品を生んだことはかえって認めざるを得ないだろう。 ヴィクトリア朝は英国の詩がもっとも偉大だった三つの時代の一であり、史上空前の知的爆発(科学だけでなく霊的な面でも)が起こった時代でもあった。建築家は壮麗きわまる建物を造った。ホテルの提供するサービスは、いや料理さえもが、空前であり絶後であった。

 悲しいかな、ホテルは取り壊され、チェーン化され均質化されてしまった――どうやら秘密はこの辺りにあるらしい。ヴィクトリア朝の社会は均質化されることなく統一が取れていた。英国議会について言われるように、奇人の集まりであったが、奇人たちは奇人たることにおいて一致していたから、安んじて意見を異にすることができた。シャーロック・ホームズの冒険がヴィクトリアニズムの壮大な叙事詩であるのはこのためだ。コナン・ドイル自身アイルランド人でありアウトサイダーであるが、彼はこの強烈な個人主義と全員一致を捉え伝える。そしてこの壮大な、不安定な、動的な均衡の源泉を本能的に探りあてる。それが帝国なのだ。

 インド、中国、南洋、アメリカ西部――登場人物は世界各地からやってきては脅迫や殺人を行う。ヴェールの貴婦人、怯えた家庭教師、プロレタリアの女性、拐帯犯のブローカー、覆面の王――雨と霧の中、彼らはガス灯に照らされてベーカー街に救いを求めに来る。ホームズは正義そのものである。神経的で気まぐれではあるが人間的な正義である。罪を憎んで人を憎まず。ただ邪悪な者にはしばしば人を呪わば穴二つという運命が待ち受けている。シャーロック・ホームズの冒険が1885年から1905年の現実を反映してるとすれば、これはまことに危険と不安に満ちた現実であった。この探偵は自然法則のごとく、不安を見出していやし、謎を解き、安心をもたらす。奇人ホームズは全くの例外である。むろん例外のないルールはないのだから、これはルールを支え証明する例外なのだ。

 プロットは決して推理小説の模範ではない。この点ではポーでさえコナン・ドイルより優れている。作者お気に入りの『まだらの紐』と『バスカヴィル家の犬』はとうてい信じがたい。いや、あり得ない話だ。どこがどう間違っているかを学問的に検証するのが、シャーロック・ホームズ協会の面々にとっては無上の喜びなのだ。これに比べればR・オースティン・フリーマントルのソーンダイク博士物の方が犯罪捜査における帰納(ホームズとワトソンは演繹deductionだと言い張るが)の遙かに論理的な説明である。しかし、ジョルジュ・シムノンのメグレ警部が現れるまでは、法が――刑事法ではなく自然法が、愚かな者悪い者をこれほど人間的に扱ったことはなかった。

 ヴィクトリア朝のイギリスと20世紀初頭のフランスの至極真っ当な奇怪性の記録として、コナン・ドイルとシムノンの探偵小説にまさるものはない。いずれもまことに價(あたい)高き真珠であり、往ってこれを買うべきなのだ。あれほど奇妙な時代は、もう二度と来ないはずだから。

Keneth Rexroth, Never as Odd Again, 1934, as reprinted in 1968 by the Saturday Review Magazine Co.

Kenneth Rexroth (1905-82) 米国の詩人; 左翼や前衛運動に関心をもち, beat generation にも関係, 批評も書いた; 中国・日本など東洋の詩も翻訳している; In What Hour (1940), In Defense of the Earth (1956), New Poems (1974) (リーダーズ+プラス英和辞典)

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2007年3月26日 (月)

入学試験について(3)

『国家の品格』の藤原正彦先生は、ケンブリッジ大学で在外研究をしたときに、クィーンズ・カレッジの数学と物理専攻課程の入学試験を手伝ったという。

『遙かなるケンブリッジ』新潮文庫版pp.207-8

面接は各人につき三十分ずつ行われた。合否はこの面接と、内申書やAテストと呼ばれる国家試験の結果を半々に見て決定する。この大学で最重視されるのは、自ら学んで行く意欲と能力である。質問内容は専門的なことから読書傾向や友人関係にまで及んだ。教科書に出ていないことを臨機応変に聞いた。趣味がヴァイオリンと言った学生には、
「ヴァイオリンが箱形でないのは何故か」
 と問うたし、卓球部の生徒には
「ピンポンをカットすると何故曲がるのか」
 などと聞いた。物理に疎い私はよく分からなかったが、分かったような顔をして聞いていた。数学では基本をよく理解していない者も散見されたが、どの内申書にも抜群と記してあったのは、日本と同じでおかしかった。ある女生徒が深紅のロングドレスに深紅の口紅をつけ、爪を赤くしてきたのには驚いた。香水までつけて来たので、私は何を聞いてよいのか分からなくなりそうだった。
 一人だけ凄いのがいた。まだ十六歳のインド人だった。葬式帰りのような、黒スーツに黒ネクタイだったが、どんな質問にも的確に答えた。少し困らせてやろうと、やや意地悪な問題を出したら、ものの十秒位で解いてしまった。ノーベル賞を数十人も出す大学にはこんな生徒が来るのか、と感心していたら、グリーン博士が、「やったぜ」とでも言いたげに私に目配せした。……

 藤原先生はお茶の水女子大の教授だったはずだ。
「ケンブリッジは偉い」と感心しているだけでは困りますね。何故同じことが日本ではできないのか、を考えてもらいたいものだ。
 お茶大の数学科の入試で面接を行い、「質問は専門的なことから読書傾向や友人関係にまで及んだ。教科書に出ていないことを臨機応変に聞いた」なんてことをしたら、どれだけ非難を浴びるか?
「ヴァイオリンが箱形でないのは何故か?」なんて、藤原先生もよく分からないというのだから、「正解」を求めているのではないだろう。自分で考える力があるかどうかを見ているのだろう。ペーパーテストでは計れない学力が口述試験ならば分かるということなのだろう。
 日本では、センター試験と偏差値のせいで、馬鹿でも万遍なく点数がとれる奴が合格する。ピカソが18歳の日本人になって東京芸大を受験しに来たら、英語や数学ができないからといって落としてしまうだろう。「自ら学んで行く意欲と能力」なんて重視されないのだ。

 センター試験を廃止しろ、と私はとなえているのだけれど、藤原先生のような人にこそ、これを言ってもらいたいものだ。

大学入試センター
所長挨拶
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  大学入試センターは、昭和52年5月に国の機関として設置され、平成13年4月独立行政法人となりました。当センターは、大学が行う入学試験のうち、共同で実施することとする試験に関する業務を行い、入学者選抜の改善を図り、大学・高等学校等の教育の振興に寄与することを目指しています。

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2007年3月24日 (土)

入学試験について(2) 

 昔の陸軍士官学校や海軍兵学校に当たる防衛大学の入学試験はどうなっているか?
 センター試験を使っているのだろうと思っていたら、違うのですね。
 防衛大学の学生募集要項を見ると、推薦採用試験(募集人員100名)と一般採用試験(募集人員360名)があることが分かる。
 推薦採用試験は高校の校長の推薦を受けた者が対象で、9月に小論文と口述試験と身体検査を行う。
 一般採用試験は11月に独自の学力試験、12月に小論文、口述試験、身体検査を行う。
 ふつうの大学より一足早く入試を行うようだ。それに文部省所管の学校ではないので「防衛大学」ではなく「防衛大学校」が正式名称らしい。
 縄張りが違うというだけのことかも知れないが、あのアホらしいセンター試験を利用しないというのは、まことに結構なことだ。
 推薦採用試験というのがあるし、一般採用試験でもどうやら「口述試験」がかなり大きなウェイトをしめているらしい。
「口述試験」がどういうものか募集要項に説明はないが、「面接」ではなくあくまで「口述試験」であることに注目すべきだろう。「愛国心」や「国を守る気概」があるかどうか、なんてことを聞くのではないと思う。防衛大学の先生なら良識があるはずで、右翼団体の構成員を選ぶのではなくて、将来の軍人を選ぶのだということは分かっているはずだ。秋山好古だって、愛国心に燃えて軍人を志願したのではない。学費無料で勉強できる学校があるというので、師範学校に行き陸軍士官学校を受験したのだ。30分くらいかけて口述試験をしてみれば、「頭の内容」は単なる筆記試験よりも遙かによく分かるはずだ。

 しかし、たとえば東京大学の入学試験で「口述試験」を採り入れるなんてことを誰かが提案したとしたら、「公平を欠く」というので大反対の声が上がるだろう。
Akamons
「客観的」な点数なら信頼ができる――ほとんどの人がこう考えて怪しまないらしい。
 たとえば五科目で500点満点として(実際の東大入試はどうなっているか知らないが)、A君は300点で合格、B君は299点で不合格というように運命が分かれる。しかし、これだけでA君の方が東大生になるのがふさわしいと分かるというのは、よほど特殊な考え方でしょう。
 外国の大学ではこんなアホなことはしていないはずだ。

 

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2007年3月21日 (水)

入学試験について(1)

 明治10年(1877年)1月、松山藩士族秋山好古(1859-1930)は、陸軍士官学校第3期生の入学試験を受けに上京した。
 秋山好古は市ヶ谷の尾州屋敷跡にある陸軍士官学校に行き着いた。

『坂の上の雲(1)』文春文庫版60頁

 部屋の奥の方に士官がいた。色白で目がほそくあごの張った男で、近づいてきて、
「おまえはどこの藩かな」
 といった。大尉である。校庭で見たフランス士官とそっくりの軍服をきていたが、顔はあきらかに日本人で、なまりは長州であった。
(これが、日本の士官服か)
 と、好古はうまれてはじめて士官というものの実物を見た。あとで知ったことだが、寺内正毅と言い、長州藩の諸隊あがりの士官で、生徒司令副官という役目をつとめていた。
「試験は、漢文と英語と数学じゃ」
 と、大尉はいった。
 好古はおどろいた。英語というのは師範学校のころに一年ほど習ったが、数学はほとんど知らない。漢文だけは幼少のころからやってきたから多少の自信があった。それを話すと、
「では、漢文だけで受けい」
 と、この大尉はひどく大ざっぱなことをいった。要するにどの学課であれ、試験官が答案から頭の内容を察し、よければ合格させようというものであるらしい。

 こういう試験に合格した秋山好古は

27年後の日露戦争(1904-05)では陸軍少将、騎兵第一旅団長として出征した。彼は日本陸軍の騎兵を率いてロシアのコサック騎兵と対抗した。(しかし、この写真を見るとまるで西洋人のような顔ですね。司馬さんもそのことは書いているけれど。)

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 コサック騎兵は当時世界最強と言われ、まともにぶつかれば日本の騎兵はたちまち粉砕されていただろう。(写真を見ただけで実におっかない。日本の騎兵は軽騎兵だけで、武器は騎兵銃とサーベルだった。この写真のように槍を武器にする重騎兵はなかった。日本人の体力では槍をかざして突撃はできなかっただろう。)

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  秋山は「コロンブスの卵」とも言うべき策を取った。騎兵の存在理由と考えられていた突撃をさせず、下馬して戦闘させた。秋山の先見の明から機関銃を装備していたことも役に立ち、秋山支隊はロシア軍の最強部隊の圧力を支えて勝利に貢献した。

 秋山好古が陸軍士官学校に入学した明治10年は西南戦争の年であり、当時は学校制度自体が整っていなかったこともあり、入学試験などはまことにいい加減なものであった。

 日露戦争に勝利し学校制度も整ってくると、陸軍士官学校と海軍兵学校は秀才の集まる学校になり、入学試験もむつかしくなった。「数学はほとんど知らない」という状態ではもちろん入学できなくなった。それで優秀な人材が集まったかというと……
 
 明治41年(1908)年に入学し43年に卒業した陸士22期学生からは、たとえば牟田口廉也(1888-1966)が出ている。牟田口は陸軍中将第15軍司令官として1944年3月からインパール作戦を指揮したが、補給を無視したため惨憺たる失敗に終わった。牟田口は敗色濃厚となるや軍を置き去りにして帰国した。

Muta

撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり(第15師団長山内正文の戦闘詳報)
ウィキペディアより。

 明治41年(1908年)は、夏目漱石の『三四郎』が朝日新聞に連載された年である。九州から上京する三四郎は汽車のなかで髭の男(東京で再会して広田先生であると分かる)と知り合う。

髭の男は、
「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
滅びるね」と言った。

 実際に滅びたのである。

 陸軍士官学校というのは、今でいえば防衛大学である。入学試験はどうなっているか?

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2007年3月19日 (月)

ガンジーの実像?

 晩年になって、彼の禁欲の誓いの守り方に、非難が寄せられた。周知の通り、彼は、絶えず献身的な若い女性に取り巻かれていた。彼は、彼女らを自分のベッドで寝させるのが習慣となり、彼を暖めるために、服を脱いで彼の裸体に身体をぴったり寄せて寝るよう要求した。ニルマル・クマル・ボーズという弟子が、この変わった習慣を暴露した。問いつめられたガンジーは、最初は、裸の女性を横にして眠るということを公然と否定し、その後、それはブラフマーチャリヤの実験であると言った。ボーズは、何ら精神性のない実験のために女性の身体を利用するのは、女性の軽蔑であると反論した。
 ガンジーは、若い女性に自分の身体を洗ってもらい、マッサージをしてもらった。正統ヒンドゥー教徒も、厳しい禁欲を課されていた弟子達も、これにショックを受け、ガンジーのブラフマーチャリヤの解釈を嘲笑した。ガンジーの姪アバ・ガンジーは、ボーズの暴露を確認し、結婚してからもガンジーと寝ることを習慣にしていることを認めた(1) 。もう一人の姪マヌも、1962年から1967年にかけて厚生大臣をつとめた女医スシラ・ナヤルも、ガンジーを暖めた女性であった。スシラ・ナヤルは、最初はブラフマーチャリヤはいっさい問題にされなかったと断言した。ガンジーがそれを言い出したのは、人がこの習慣を聞きつけ、許しがたいと思うようになってからである。彼の傍らに生活していた若い女性は、彼とかなり曖昧な関係を持っていたようである。マドレーヌ・スレイド、別名ミラベンは、敬愛のしるしに長い髪を切り、別離のたびに心を痛めた。もう一人の女性は、ある日、裸になり、ガンジーの腕に抱かれた(3)。ドゥルヴェの伝記も、ガンジーの周囲には一種の女性のとりまきが会ったことを認めている(4)。

(1)V・メヘター『マハートマー・ガンジーとその弟子たち』200-201頁
(2)同前、203頁
(3)同前、221-222頁および213頁
(4)C・ドゥルヴェ『ガンジーとインドの女性』パリ、1959年、128頁

(以上は白水社文庫クセジュ『ガンジーの実像』p.p.154-155  本文に注(2)はない。)

 どうもこれは困ったものだ。こういうことではない。
 この本は、岩波新書1冊分ほどのボリュームでガンジーの生涯と思想を要領よくまとめようとしたものである。もちろん、ガンジーを「要領よくまとめる」ことはできない

「スキャンダラスな言動をもあきらかにしつつ、ガンジーを世界史上における重要な政治家として読み解いた画期的な評伝」というのが、カバーに書いてある宣伝文句である。
 しかし「スキャンダラスな言動をもあきらかにし」というのは、上の部分だけであって、これが

Mahatma Gandhi and His Apostles 
ガンディーと使徒たち――偉大なる魂(マハトマ)の神話と真実

 のmisquotation(引用間違い)なのだから困る。
 やはり、ここは我田引水になるけれども、ガンディーと使徒たちを見ていただきたい。

[ガンディーと使徒たち p.p.248-250]
 ノーアカーリーにおけるガンディーの個人的危機を描いて最も信頼できるのは、ニルマール・クマール・ボースの『ガンディーとの日々』である。ボースはガンディーのベンガル語通訳としてシュリランプルに同行し生活をともにした。ボースは昔からの弟子ではなく左翼のインテリである点で、随行者の中でユニークだった。彼はカルカッタ大学の教職にあったが、ガンディーの通訳としてノーアカーリーに行くために休暇を取って来ていた。結果的に彼はどの随行者よりも客観的な見方ができた。ノーアカーリーではガンディーは真夜中に震えながら目を覚ました、とボースは言う。震えが収まるまでしばらく体を押さえていてくれ、とガンディーは隣に寝る者――ふつうは女性だった――に頼んだ。「自分のベッドに寝てくれと彼は女性に言った。夜具を共にしようと言うこともあった」とボースは書いている。「そして自分がほんのわずかでも性欲を感じないか、相手の方はどうかを確かめようとした」ガンディーはこのような女性との接触は「ブラフマチャリヤの実験」なのだと言った。「神の宦官」となるために必要だというのである。しかしボースの意見によれば、これは一種の無意識の搾取であった。実験に使われる女性はある意味で劣等者として扱われるからである。まわりの女性たちは誰もがガンディーと自分は特別な関係だと思いこみ、自分が彼の心に占める位置に敏感で彼の愛を失うことを恐れていたから、少しでも冷たくされるとたちまち「ヒステリーになった」。ボースは言う。「このプラヨーグ〔実験〕はガンディー自身にとっての価値は別として、少なくとも相手の心には傷を残した。彼女たちはガンディーの実験に加わる精神的な必要はなかったからだ」ブラフマチャリヤの実験は道徳的に有害ではないかとボースは直言した。これに対してガンディーは、自分を抱いたり隣に寝たりしても悪い影響は受けていないと女性たちが言っていると答えた。ブラフマチャリヤの実験は性の放棄の究極のテストである。のみならずノーアカーリーの暴力に対するヤグニャ〔贖罪〕なのだとガンディーは言った。さらにガンディーは、ボースが彼の女性との関係に「いわれのない疑い」を抱いているのだと非難した。ボースはこの問題に悩み続け、突然ガンディーのもとを去ってカルカッタに帰った。議論は手紙で続けられた。ボースはガンディーの手紙を本に載せている。

 私にとっては女性に触れぬことがブラフマチャリヤなのではない。今していることは私には新しいことではない。……実験の前提に女性の劣等性があるとお考えになるとは驚かざるを得ない。もし私が色情を持ちあるいは相手の同意なく女性を見れば、そのとき女性は劣等者であろう。私の妻は私の欲望の対象だったとき、劣等者であった。私の隣に裸で妹として寝るようになってからは、彼女はもはや劣等者ではなかった。かつてのように妻ではなく他の妹であっても同じことではないか。隣に裸で寝る女性に対して私がみだらなことを考えるなどと思わないでいただきたい。AあるいはB(ボースによる匿名)のヒステリーは私の実験とは関わりがないと思う。彼女たちはこの実験の前から多かれ少なかれヒステリーだったのだ。

 ボースは納得しなかった。彼はフロイトの説をあげて「私たちはしばしば無意識の動機によって全く意識せぬ別の方向に動かされるのです」と返事を書いた。これに対してガンディーは、自分はフロイトという人の著作については少しも知らない、彼の名前は前に一度どこかの教授の口から聞いたことがある、と答えた。ガンディーはフロイトのことをもっと知りたいと言ってきたが、ボースはこの問題をこれ以上追求しなかったようだ。
 ボースは私が会ったとき七十二歳でガンの手術後の回復期だったが、ぜひ私に会ってガンディーのことを語りたいということだった。
…………

  ヴェド・メータがニルマル・クマール・ボースに会ったのは1970年代のことだった。
 メータはこの「ブラフマチャリアの実験」の相手になった女性たちにも会って話を聞いている。

「ガンジーの実像」はMahatma Gandhi and His Apostlesの訳題として我々も候補に挙げたのである(我々というのは新評論の敏腕女性編集者Yさんと訳者のことである)。しかし、この本はガンジーの「スキャンダラスな言動を明らかにする」ものではないのだから、やはり不適当だろうと思った。偉大なる魂(マハトマ)の神話と真実という副題はYさんが考えたのだった。

 このほかに「ブラフマチャリアの実験」に触れている本には、エリク・エリクソンの『ガンディーの真理――戦闘的非暴力の起源』がある。第2巻の257頁から261頁にかけて、エリクソンはボースの手記を引用してこの問題を論じている。

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2007年3月17日 (土)

近く再開

乞うご期待

Nude

マリリン・モンローさん。存命なら81歳になるはずです。

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2007年3月 5日 (月)

シャーロック・ホームズの快楽

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(1)ロナルド・ノックス『シャーロック・ホームズ文献の研究
(2)S・C・ロバーツ『ワトソン年代学の問題
(3)S・C・ロバーツ『トスカ枢機卿の死』(ワトソン博士の原稿断片)
(4)T・S・エリオットのホームズ論――翻訳とエッセイ

 以上4編は藤原編集室のサイト書斎の死体に載せてもらいました。

(1)は、Ronald Knox, Studies in the Literature of Sherlock Holmesの翻訳です。原文はここ。百年近く前に書かれたこの論文が「ホームズ学」の始まりとなりました。

 以下はだいたいカテゴリのシャーロック・ホームズでもご覧いただけます。

翻訳
(5)マーシャル・マクルーハン『シャーロック・ホームズ対官僚
(6)英国紳士録におけるシャーロック・ホームズ
(7)エドマンド・ウィルソン『ホームズさん、巨大な犬の足跡だったのです
(8)明智小五郎からシャーロック・ホームズへ
(9)ドロシー・セイヤーズ『ドクター・ワトソンのクリスチャンネーム
(10)グレアム・グリーン『コナン・ドイル伝の書評
(11)ヘスキス・ピアソン『アルペンスキーの元祖コナン・ドイル
(12)ドロシー・セイヤーズ『ホームズの学生生活

(12)は未完結。いずれ続きを訳するつもり。

エッセイ
(13)牧師か神父か
(14)モリアーティ元教授の職業
(15)オックスフォードかケンブリッジか
(16)四つの署名?
(17)シャーロック・ホームズと「あの女」
(18)赤毛のでぶ
(19)高名な?依頼人
(20)柔道か柔術か格闘技

 (13)は従来のホームズの翻訳に共通する間違いを指摘したもの。ほかの各編も翻訳論の要素があります。(14)は「新発見」を含むはずと自負しています。(20)はもう少し書き足すつもり。

著作権代理人関係記事
・コナン・ドイル伝の抜粋など→コナン・ドイル

付加――3月末以降付け足し
・ケネス・レックスロス『奇妙な時代』(翻訳)
・S・C・ロバーツ『シャーロック・ホームズ小伝』(翻訳)
・凶器としての火掻き棒(エッセイ)
・火掻き棒補説(エッセイ)
棍棒かステッキか(エッセイ)
・ホームズの木刀術(エッセイ)

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2007年3月 1日 (木)

シャーロック・ホームズと「あの女」完

 なぜ、ハドソン夫人は女なのにthe womanとは呼んでもらえなかったのか。
 ホームズの目から見れば、女なんてものは問題外であった。いつだったかテレビで「女は人類ではない」と言って物議を醸した人がいたけれど、100年以上むかしの英国ならば、そんなことは当たり前だった。言うまでもないことだった。
 その女の中で、ただ一人アイリーン・アドラーだけが「共に語るに足る」と思ったから、the womanと呼んだのである。もちろん、恋愛めいた感情があったわけではない。

 というわけであるから、the womanを日本語で表すとすれば、まず

(1)あの女(ひと)、あの女性(ひと)
 こういうのは論外である。「ひと」と読ませたければ、「ひと」か「人」と書けばよいのだ。このルビの使い方はいかにも姑息ではないか――とホームズなら言うだろう。

(2)あのひと、あの女性、あの婦人
 これも変だ。女を女と呼んでどこが悪いのだ。ホームズはこう言うだろう。
 "I always call a spade a spade, and a woman a woman."

(3)「あの女」と「あの婦人」の組み合わせ
・シャーロック・ホームズにとっては、彼女はいつも「あの女」だ。
・アイリーンのことや彼女の写真のことが話題になると、かならず「あの婦人」と敬称を用いて呼んだ。

「敬称」だから「婦人」にしたのかね。僕がthe womanと言うのが、すなわちそのままhonourable titleなんだよ。それくらいは君にも分かるはずだと思ったがねえ、ワトソン君――とホームズなら言うだろう。いやこの場合、ワトソンが悪いわけではない。いずれにせよ、基本的なことだよ。

 やはり「あの女」でなくてはいけません。
 

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