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2007年3月28日 (水)

奇妙な時代

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                                 ケネス・レックスロス

 1885年から1905年の間に活躍した小説の登場人物を一人だけ挙げてみてください、と普通の文学的教養のある人に尋ねてみよう。まず誰でも「シャーロック・ホームズ」と答えるだろう。ジョージ・メレディスからジョージ・ギッシングまで、サミュエル・バトラーからH・G・ウェルズまで、ヴィクトリア朝後期という時代には綿密な記録がある。小説を装った歴史記録や社会批判がこれほど豊富な時代はほかにない。これらの小説のなかには偉大な芸術作品もある。構成は緻密で深い人間性の洞察に満ち、文体は様々だがいずれも秀逸である。しかしこの時代の描写として最も精彩を放っているのは、構成の杜撰な作品ばかりを集めたものである。どれも金のために急いで書いたので、最上のものでも荒唐無稽の極みであり、登場人物はステレオタイプばかりだ。作者自身が厄介物扱いした(少なくとも本人はそう言っている)作品なのである。

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 このような非難は当たっているか? もし当たっているとしたら、それでもシャーロック・ホームズは古典と言えるだろうか? ヘリオドロスの『エチオピア物語』のようなギリシャの小説は古典か? サー・ウォルター・スコットの作品はどうか? デュマ・ペールは? consensus orbis terrarum――誰もがいつでもどこでも――が宗教と同じように文学でも基準になるとすれば、娯楽読み物の多くが、ソフォクレスやダンテやシェークスピアに近い位置を占めるだろう。アルゼンチンから日本まで、シャーロック・ホームズンはウィリアム・ブレークとD・H・ロレンスを合わせたよりも二倍も三倍も多くのファンを持っている。

 シャーロック・ホームズの一番有名な台詞は?

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「あの夜の、犬の不思議な行動です」
「あの夜、犬は何もしませんでしたが」
それが不思議だと申すのです

 ロナルド・ノックスは、これこそシャーロキスムスであると言った(シャーロック・ホームズ文献の研究)。まことにその通り。シャーロック・ホームズは何でもにしてしまう。微妙で(ときには微妙ではない)、だいたいは悪意のない(たまには悪意のある)茶気が全60編を通底している。

 ホームズ自身がディケンズのミコーバー氏に劣らないカリカチュアである。 しかし、ホームズの実在性は、ミコーバー氏の実在性と同様、我々には疑い得ない。皮肉なカリカチュアだからこそ、ホームズはリアルなのだ。我々が実生活で知っている人々の多くは、どんな小説の登場人物よりもベラボウではないか? 下宿の女将、ボーイ、悩める貴婦人、やんごとなき依頼人、外国帰りの冒険家、銀行家、それにもちろん元インド陸軍のドクター・ワトソンを忘れちゃいけない――こういう連中はみんな少しひずんで見える。アイロニーでゆがめられステレオタイプになって、みんなで大英帝国という一大コメディア・デラルテを構成するのだ。

 もちろん、サー・アーサー・コナン・ドイルはサミュエル・バトラーやH・G・ウェルズとは違う。シャーロック・ホームズは『万人の道』や『トーノ・バンゲイ』のようなヴィクトリア朝に対する攻撃ではない。コナン・ドイルは、ヴィクトリア朝の神話を全部信じているのでなかったら、あれほどの大成功をおさめることはできなかっただろう。シャーロック・ホームズが労働党の創立者キア・ハーディやオスカー・ワイルドの賛美者である――こんなことは考えるだけでもアホらしい。ベーカーストリート・イレギュラーズなど公式のシャーロック・ホームズ協会の面々は、定期的に会食しては「学問的」論文を読み上げて楽しんでいる。シャーロック・ホームズは実はスチュアート王家の末裔である、アングロカトリックの司祭が還俗したのだ、アナーキスト陰謀団の首領であるなどを「証明」しようとするのだ。あるいは、ドクター・ワトソンは切り裂きジャックだったとか、男装の女だったなんてのもある。シャーロック・ホームズの全作品がそのままマルクス主義の暗号による釈義なのだという説もある。シャーロック・ホームズの世界の魅惑の秘密は、その怖ろしいほどの真っ当さにあるのだ。

 しかし、これは我々の世界よりも遙かに真っ当な世界であり、その栄光は幾分か煤けているけれどもリアルである。現在、ヴィクトリア朝やエドワード朝がもてはやされるのは、勿体振りや気取りだけではない。ヴィクトリア朝的偏見から自由になった今では、フォード・マドックス・ブラウンからジェームズ・ティソに至る英国自然主義絵画の伝統が近代では最高の作品を生んだことはかえって認めざるを得ないだろう。 ヴィクトリア朝は英国の詩がもっとも偉大だった三つの時代の一であり、史上空前の知的爆発(科学だけでなく霊的な面でも)が起こった時代でもあった。建築家は壮麗きわまる建物を造った。ホテルの提供するサービスは、いや料理さえもが、空前であり絶後であった。

 悲しいかな、ホテルは取り壊され、チェーン化され均質化されてしまった――どうやら秘密はこの辺りにあるらしい。ヴィクトリア朝の社会は均質化されることなく統一が取れていた。英国議会について言われるように、奇人の集まりであったが、奇人たちは奇人たることにおいて一致していたから、安んじて意見を異にすることができた。シャーロック・ホームズの冒険がヴィクトリアニズムの壮大な叙事詩であるのはこのためだ。コナン・ドイル自身アイルランド人でありアウトサイダーであるが、彼はこの強烈な個人主義と全員一致を捉え伝える。そしてこの壮大な、不安定な、動的な均衡の源泉を本能的に探りあてる。それが帝国なのだ。

 インド、中国、南洋、アメリカ西部――登場人物は世界各地からやってきては脅迫や殺人を行う。ヴェールの貴婦人、怯えた家庭教師、プロレタリアの女性、拐帯犯のブローカー、覆面の王――雨と霧の中、彼らはガス灯に照らされてベーカー街に救いを求めに来る。ホームズは正義そのものである。神経的で気まぐれではあるが人間的な正義である。罪を憎んで人を憎まず。ただ邪悪な者にはしばしば人を呪わば穴二つという運命が待ち受けている。シャーロック・ホームズの冒険が1885年から1905年の現実を反映してるとすれば、これはまことに危険と不安に満ちた現実であった。この探偵は自然法則のごとく、不安を見出していやし、謎を解き、安心をもたらす。奇人ホームズは全くの例外である。むろん例外のないルールはないのだから、これはルールを支え証明する例外なのだ。

 プロットは決して推理小説の模範ではない。この点ではポーでさえコナン・ドイルより優れている。作者お気に入りの『まだらの紐』と『バスカヴィル家の犬』はとうてい信じがたい。いや、あり得ない話だ。どこがどう間違っているかを学問的に検証するのが、シャーロック・ホームズ協会の面々にとっては無上の喜びなのだ。これに比べればR・オースティン・フリーマントルのソーンダイク博士物の方が犯罪捜査における帰納(ホームズとワトソンは演繹deductionだと言い張るが)の遙かに論理的な説明である。しかし、ジョルジュ・シムノンのメグレ警部が現れるまでは、法が――刑事法ではなく自然法が、愚かな者悪い者をこれほど人間的に扱ったことはなかった。

 ヴィクトリア朝のイギリスと20世紀初頭のフランスの至極真っ当な奇怪性の記録として、コナン・ドイルとシムノンの探偵小説にまさるものはない。いずれもまことに價(あたい)高き真珠であり、往ってこれを買うべきなのだ。あれほど奇妙な時代は、もう二度と来ないはずだから。

Keneth Rexroth, Never as Odd Again, 1934, as reprinted in 1968 by the Saturday Review Magazine Co.

Kenneth Rexroth (1905-82) 米国の詩人; 左翼や前衛運動に関心をもち, beat generation にも関係, 批評も書いた; 中国・日本など東洋の詩も翻訳している; In What Hour (1940), In Defense of the Earth (1956), New Poems (1974) (リーダーズ+プラス英和辞典)

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