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2007年4月10日 (火)

シャーロック・ホームズ小伝(4)

Home_holmespic

 ワトソンの初めの印象はむろん追々修正する必要があった。ハフィーズやホラティウスやフロベールやゲーテを引用する男が「文学にまったく無知」だとは言えないだろう。シェイクスピアも特に『十二夜』がお気に入りらしく、二度引用している。ホームズは単なる計算機械ではなかった。ホームズは「大規模な索引」を自家製百科辞典の代わりにしてワトソンを感心させたが、これにはちょっと奇妙な欠陥があった。たとえばVの項目にVigor, the Hammersmith WonderやVittoria, the circus belleなどがあるのはよいとして、Voyage of the Gloria ScottやVictor Lynch, the forgerなんぞが入っているのはどんなものか。Gloria ScottやLynchは、どうやって検索するのか。しかしホームズには彼なりの理由があったのだろう。ともかく1887年には、すでに見たように彼は国際的な存在になっていた。モーペルテュイ事件はひどく労力を要してホームズの健康に深刻な影響を与えたが、まもなく回復して、彼は『ライゲートの大地主』の事件を解決した。やがて例の『四人の署名』の大捕物があって、ワトソンはメアリー・モースタン嬢と結婚する(最初の結婚)。これで二人のパートナー関係はしばらく途切れ、ホームズがオデッサに呼ばれたのもオランダの王室のために働いたことも、ワトソンは風の便りに聞いたのだった。しかし221Bの魅力は強かった。1888年には間歇的ではあるが協力関係が再開される。メアリ・ワトソンがなかなかの賢夫人で、夫にできるだけ旧友と協力することを勧めたからである。こうして二人は『五つのオレンジの種』『海軍条約事件』『唇のねじれた男』などのほか、記録に残っていないけれども有名な事件も手がけたのだった。『最後の事件』(ワトソンは本当に最後だと思っていた)は1891年である。その後数年間、ワトソンが亡き友の方法を自分で犯罪に適用してみても「どうもうまく行かない」などと考えている間、ホームズは実はチベットなどを旅していた。彼はラサでダライラマと数日を共にし、それからペルシャへ行き、メッカを訪れた。ハルトゥームではカリファと会見して外務省のために貴重な情報を得た(たぶんマイクロフトの依頼であろう)。それからフランスまで戻ってきて、モンペリエでコールタール誘導体の研究に数ヶ月を過ごした。ベーカー街への劇的な『帰還』は1894年のことである。このあと数年間、ホームズは多忙を極める。ワトソンは1895年という年は「記憶に残る」年だったと何度か言っている。1897年の春には「骨の折れる仕事の連続で」さすがに強健なホームズも疲労が出てしばらく休息を余儀なくされた。探偵ホームズの最後の仕事『這う男』は1903年のことで、このあと彼はサセックスに隠棲する。南イングランドの丘陵の南斜面にあって英仏海峡を一望する一軒家で、名探偵は家政婦とともに蜜蜂を相手の静かな暮らしを始めた。年月の経過と共にホームズにも大きな変化が生じていた。初期の冒険『ボール箱事件』で、ワトソンはホームズのことを「田園にも海浜にも何の魅力も感じない男だ」と評しているが、1907年のホームズは様変わりしている。サセックスの丘陵と断崖を好むだけではない。ロンドンの喧噪の中でも実はずっと「大自然の懐に抱かれた心穏やかな暮らし」に憧れていたのだと言うのだ。時間の力はこれほどにも大きいのか。ホームズのような精神をも忘却に誘うのか。(忘却とは忘れ去ることなり、と言ったのは誰だったっけ?)それとも結局は先祖伝来の地主の血か。naturam expellas furca, tamen usque recurret
(熊手をもって自然を排除せよ、されどそれは常に走り帰るならん。) それとも、ここでもやはりフランスか? a Recherche du temps perdu? 

(もう少し続きます――訳者)

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