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2007年4月21日 (土)

棍棒かステッキか(7)

『ブルース・パーティントン設計図』は国家機密に関わる大事件だった。

「カドガン・ウェストノ件デ会イタシ スグ行ク マイクロフト」

 こういう電報がホームズのところに来た。ギリシャ語通訳の事件のとき(1888年)に、マイクロフトは会計監査関係の役人らしいとワトソンは聞いていた。ところがそんなものではなかった。1895年の今となっては、ワトソン、君にも打ち明けておいてよいと思うが、実は「兄が英国政府そのものだと言ってもよいくらいなのだ」という。どういうことか。
 マイクロフトは年俸450ポンドの属官の地位に甘んじていて、野心はない。勲章爵位などはむろん受けない。しかし国家にとって枢要不可欠の人物なのだ。
 彼は情報を総合的に扱う能力に長けている。たとえば、ある大臣に海軍、インド、カナダ、金銀複本位制に関わる問題の情報が必要だとする。海軍なら海軍省というように各省から報告を受けることはむろんできる。しかし、すべてを総合して各要素が互いにどう影響し合うかを即座に指摘できる人は、マイクロフトをおいてほかにいない――というようなことを、ホームズは『ブルース・パーティントン設計図』の初めの部分でワトソンに説明する。
 ワトソンは久しぶりにマイクロフトに会うが、ちょっと老けたようだ。

Bruc01

 しかし、ここでワトソンは読者に対する説明を省略している。ライヘンバッハで死んだと思われていたホームズがワトソンの前に再び姿を現したのは前年の1894年だった。このときホームズは、実はマイクロフトとだけは連絡を取っていたと言ったのだった。
 彼はチベットへ入りダライ・ラマと会ったりしたが、それがマイクロフトの依頼によるものだったことは、John H. Watson, Sherlock Holmes in Tibet (水野雅士訳『シャーロック・ホームズ、チベットへ行く』)に説明がある。

 マイクロフトは弟シャーロックをsecret agentとして海外に派遣したのだ。『ブルース・パーティントン設計図』では、マイクロフトのような地位は「前例もなければ今後も現れないだろう」と書いてある。
 しかし、前例がなかったことは確かだが、マイクロフトの跡を継ぐ者が出てきたのだ。女王陛下のsecret agentであるジェームズ・ボンドを忘れてはならない。

Connery_col

 ボンドの上司はどういう人だったか。
 Mと呼ばれる人物である。英国秘密情報部の長官は本名を秘密にしているし、もちろん勲章も爵位も受けない。
 Mycroft……will receive neither honour nor title,……と『ブルース・パーティントン設計図』の本文に書いてある。honourを「名誉」、titleを「肩書」と、従来は訳しているが、これは間違い。「勲章」と「爵位」です。どの辞書にも書いてあるから確かめてください。(肩書だけなら、マイクロフトはすでに「会計検査官」のような肩書があるはずだ。)
 弟のシャーロックがナイトの位(「サー・シャーロック」と呼ばれるようになる)を打診されるほどだから、はるかに国家への貢献度の高いマイクロフトは男爵になってもおかしくはない。しかし英国の秘密情報部を統括する者として、彼はあくまで匿名に徹しなければならなかった。
「秘密情報部」といっても、この時代には実質的にそうだったということで、正式の名称があったわけではない。まだ制度化が進んでいなかった。007は殺しの番号だとか、0035は半殺しの番号だとかも、決まっていなかった。
 マイクロフトは秘密情報部の実質的な初代長官として大きな功績を挙げたが、顕彰することができない。そこでマイクロフトを永く記念するために、代々の秘密情報部長官は彼の頭文字を取ってMと呼ばれることになったのだ。最近は女性が長官になったらしいが、彼女もむろんMと呼ばれている。

Bond_21_mi6cast1_1
4月26日補足 Titleに「位階」とか「称号」のような訳語も考えられる。マイクロフトの場合は男爵くらいになってもおかしくはないけれども、一般的にはSirやHonourableなども含まれる。もちろん、場合によっては肩書でよいこともある。翻訳機械みたいにtitle=肩書と決めつけてしまうのはだめだというのです。

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