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2007年4月30日 (月)

栃木山と火掻き棒

 大正10年(1921年)、第27代横綱栃木山(1892-1959)は、ハワイ、アメリカ西海岸の巡業を行った。

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 この栃木山という人は、春日野部屋の創始者で44代横綱栃錦の親方である。
 172cm、104kgの体格で史上最軽量の横綱であるが、近代最強の力士ではないかという意見もある。大正7年に横綱に昇進し、大正14年には、前年から三場所連続優勝していながら(当時は年二場所制)引退してしまった。一説によると、髪の毛が薄くなって髷が結いづらくなったためだという。昭和6年には、第一回の全日本力士選手権に参加し、6年のブランクがあるのに現役力士をおさえて優勝した。このとき39歳であった。

 この栃木山が米国巡業の際、ロサンゼルスのバーで日系人と飲んでいると、アメリカ人の大男が入ってきて、火掻き棒を取って曲げて見せ、「どうだ!」とテーブルの上に放り出した。
 栃木山は少しも騒がず、その火掻き棒を取り上げて軽々と伸ばして元に戻し、「こうしておいた方が便利なのに」と言った。
 この話は現地の日系人の間で語り草になっていたという。1920年の時点で米国全土で12万人、カリフォルニア州で7万人の日系人がいたが、日系人に対する排斥と圧迫は強く、1924年にはいわゆる排日移民法が成立している。

 この火掻き棒を曲げたアメリカ人が、プロボクシング・ヘビー級チャンピオンのジーン・タニー(1897-1978)だったという説もあるが、どんなものか? 1919年から1926年まで、ヘビー級チャンピオンは有名なジャック・デンプシー(1895-1983)である。ジーン・タニーは1926年にデンプシーからタイトルを奪うので、このころはまだライト・ヘビー級のボクサーだったはずだ。

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 これは多分ふつうの力自慢の男だったと思いますね。アメリカ人から見れば172cmというのは小男なので、大したことはないと思ったのだろう。ところが栃木山は相撲界でも怪力で知られ、部屋にあった100kg以上の火鉢を座ったまま持ち上げたなどという逸話がたくさんある。

 アメリカ人というのは幼稚なところがあって、むやみに力自慢をしたがるらしい。
 シルベスター・スタローンは一人で外出できないのだそうだ。「ロッキー、俺と勝負しろ!」と挑戦してくるやつがいるので、いつでもボディガードを何人か連れて歩くのだという。

 栃木山の場合も、すぐに火掻き棒を伸ばして見せたからよかったので、そうしなければ掴みかかってきたのかも知れない。
 ともかく、「火掻き棒伸ばし」がホームズのほかにもう一例あったことは確かなのだ。

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2007年4月28日 (土)

芥川龍之介、漱石を語る

 先生はよく銭湯に出かけられた。ある日先生は流し場で石鹸を使っていると、はたの上り湯のところに一人の頑丈な男がどんどん湯を浴びながら、後ろにかがんでいる先生の頭の上にその飛沫を遠慮会釈もなく浴びせかけた。――根がかんしゃく持ちの先生は一途にむっと腹が立ったのででかい声を張り上げて「馬鹿野郎」とどなりつけた。――どなりつけたまではよかったが、それと同時にこの男が自分に手向かってきたらどうしようと思うと、急に怖ろしくなって少しうろたえたそうですが、先生のえらい権幕におそれたものかその男が、素直な声で「すみません」と謝った……「おかげでやっと助かったよ」と先生はほんとうに助かったように述懐されました。

 ある人が先生に、「先生のような方でも女に惚れるようなことがありますか」ときくと、先生はしばらく無言でその人をにらめつけていたが「あばただと思って馬鹿にするな」と言ったということをごく最近ある友達からききました。

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2007年4月27日 (金)

国富論の新訳

 誤訳迷訳欠陥翻訳(2)(3)で紹介した『国富論』の山岡洋一氏による新訳は、3月に日本経済新聞社から刊行されました。残念ながら、私はまだ読んでいません。今のところ『国富論」に取り組む余裕がないので。

 読んだ人の評価は、たとえば酒井邦秀氏の こども式ブログ を見てください。 上記ブログで酒井邦秀氏もいうように、山岡洋一氏による新訳は「日本翻訳史上の大事件」だろう。なぜ書評が出ないのだろうか?

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2007年4月26日 (木)

火掻き棒補説(2)

「言うことを言えばすぐ出て行く。いいか、余計なお節介をするな。娘がここに来たのは分かっておる。跡をつけてきたからな。わしと事を構えるつもりならば、危険は覚悟しろ。見ておれ」ロイロット博士はさっと踏み出すと火掻き棒を掴み、日焼けした大きな手でぐいとねじ曲げた。
「わしに掴まれんように気をつけるのだな」ロイロット博士はそうわめくと、ねじ曲げた火掻き棒を暖炉に投げ込んで、すたすたと部屋を出て行った。
「なかなかの愛嬌者だねえ。僕はあれほどでかくはないが、もう少し居てくれたら、握力じゃ引けを取らないことを見せてやれたのに」ホームズはそう言って鉄の火掻き棒を拾い上げ、ぐいと力をいれて元通りまっすぐに伸ばした。

 もちろん『まだらの紐』ですね。

わしに掴まれんように気をつけるのだな。
See that you keep yourself out of my grip.

握力じゃ引けを取らない。
My grip was not much more feeble than his own.

 英語ではgripという単語を使っている。火掻き棒を曲げたり伸ばしたりするのは「掴む力、握力」の働きによるというのだ。
 ロイロット博士は大男で(シルクハットが鴨居につくくらい)、大変な力持ちだった。義理の娘ヘレン・ストーナー嬢によると、村の鍛冶屋を橋の上から欄干越しに川へ放り込んだという。

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 全身の力では体の大きなロイロット博士の方が強いに決まっているが、握力だけならば痩身のホームズだって負けないというのだ。この場合は、どうも英語の方が日本語より物事の捉え方が具体的できめ細かいようだ。

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 まだらの紐は1883年(明治16年)のことであるが、そのころの日本では、石炭ストーブも普及していなかったから、火掻き棒を曲げてみせるというようなことはあまりしなかった。力自慢といえば「力石」を持ち上げるくらいでしょう。

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 この力石は大阪市の保利神社にあるもので、重さ153kg。原田秀吉という人が持ち上げたのだそうです。

 最近ではフライパン曲げというのがあるそうです。写真は2005年JPCマッスルマニアジャパンと同時に行われたストロングマン・コンテストで、優勝した金繁優さんが「29cmのテフロン加工されたフライパン」を曲げているところ。30秒でどれだけ小さく曲げることができるかを競うのだそうです。

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2007年4月24日 (火)

火掻き棒補説

 火掻き棒とか棍棒とか、どうも物騒でいけない。ワトソンが火掻き棒を平和利用したシーンを見てみよう。

「とっても重いわ」彼女はそれを持ち上げようとした。「箱だけでも相当の値打ちがありそうですね。鍵はどこですの?」
「スモールがテムズ川に捨ててしまったのです。フォレスター夫人の火掻き棒を借りなくては」
  箱の表の分厚く幅広い掛金は仏陀の座像をかたどったものだ。その下に火掻き棒の端を突っ込んでこじ開けた。掛金はパチンと外れた。震える手で蓋を開ける。二人は驚きに目を丸くして立ちすくんだ。箱は空っぽだったのだ!

 ワトソンはThank God! と叫んだ。
「なぜ、そうおっしゃいますの?」
(ワトソンが理由を説明する。)
「それでしたら、私もThank God! と申しますわ」とささやいたメアリーをワトソンは抱き寄せた。めでたし、めでたし。『四人の署名』でした。
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2007年4月23日 (月)

棍棒かステッキか(8)

『ブルース・パーティントン設計図』では、とんでもない場所で死体が発見されたのだった。
 
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「カドガン・ウェストは前から私を疑っていた。それであの晩、あんたの言うように尾行してきたのだ。こちらはこの家の玄関に来るまで、つけられているとは気づかなかった。霧が深くて三ヤード先も見えなかったからだ。私は二回ノックして、オーベルシュタインが出てきた。そのときウェストがとび出してきて、図面をどうするつもりかと詰め寄った。オーベルシュタインは短い棍棒life-preserver)を持ち歩いている。ウェストが私の後を追って中へ入ろうとしたとき、オーベルシュタインが棍棒で彼の頭を一撃した。致命傷だった。ウェストは5分と経たないうちに死んだ。……死体を……」

 ホームズはこの告白を聞いて、事件を成功裏に解決することができた。それから数週間して、ホームズはウィンザー城で一日を過ごしたらしい。帰ってきたときは見事なエメラルドのネクタイピンを付けていた。さるやんごとなきレディから戴いたのだという。 

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2007年4月21日 (土)

棍棒かステッキか(7)

『ブルース・パーティントン設計図』は国家機密に関わる大事件だった。

「カドガン・ウェストノ件デ会イタシ スグ行ク マイクロフト」

 こういう電報がホームズのところに来た。ギリシャ語通訳の事件のとき(1888年)に、マイクロフトは会計監査関係の役人らしいとワトソンは聞いていた。ところがそんなものではなかった。1895年の今となっては、ワトソン、君にも打ち明けておいてよいと思うが、実は「兄が英国政府そのものだと言ってもよいくらいなのだ」という。どういうことか。
 マイクロフトは年俸450ポンドの属官の地位に甘んじていて、野心はない。勲章爵位などはむろん受けない。しかし国家にとって枢要不可欠の人物なのだ。
 彼は情報を総合的に扱う能力に長けている。たとえば、ある大臣に海軍、インド、カナダ、金銀複本位制に関わる問題の情報が必要だとする。海軍なら海軍省というように各省から報告を受けることはむろんできる。しかし、すべてを総合して各要素が互いにどう影響し合うかを即座に指摘できる人は、マイクロフトをおいてほかにいない――というようなことを、ホームズは『ブルース・パーティントン設計図』の初めの部分でワトソンに説明する。
 ワトソンは久しぶりにマイクロフトに会うが、ちょっと老けたようだ。

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 しかし、ここでワトソンは読者に対する説明を省略している。ライヘンバッハで死んだと思われていたホームズがワトソンの前に再び姿を現したのは前年の1894年だった。このときホームズは、実はマイクロフトとだけは連絡を取っていたと言ったのだった。
 彼はチベットへ入りダライ・ラマと会ったりしたが、それがマイクロフトの依頼によるものだったことは、John H. Watson, Sherlock Holmes in Tibet (水野雅士訳『シャーロック・ホームズ、チベットへ行く』)に説明がある。

 マイクロフトは弟シャーロックをsecret agentとして海外に派遣したのだ。『ブルース・パーティントン設計図』では、マイクロフトのような地位は「前例もなければ今後も現れないだろう」と書いてある。
 しかし、前例がなかったことは確かだが、マイクロフトの跡を継ぐ者が出てきたのだ。女王陛下のsecret agentであるジェームズ・ボンドを忘れてはならない。

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 ボンドの上司はどういう人だったか。
 Mと呼ばれる人物である。英国秘密情報部の長官は本名を秘密にしているし、もちろん勲章も爵位も受けない。
 Mycroft……will receive neither honour nor title,……と『ブルース・パーティントン設計図』の本文に書いてある。honourを「名誉」、titleを「肩書」と、従来は訳しているが、これは間違い。「勲章」と「爵位」です。どの辞書にも書いてあるから確かめてください。(肩書だけなら、マイクロフトはすでに「会計検査官」のような肩書があるはずだ。)
 弟のシャーロックがナイトの位(「サー・シャーロック」と呼ばれるようになる)を打診されるほどだから、はるかに国家への貢献度の高いマイクロフトは男爵になってもおかしくはない。しかし英国の秘密情報部を統括する者として、彼はあくまで匿名に徹しなければならなかった。
「秘密情報部」といっても、この時代には実質的にそうだったということで、正式の名称があったわけではない。まだ制度化が進んでいなかった。007は殺しの番号だとか、0035は半殺しの番号だとかも、決まっていなかった。
 マイクロフトは秘密情報部の実質的な初代長官として大きな功績を挙げたが、顕彰することができない。そこでマイクロフトを永く記念するために、代々の秘密情報部長官は彼の頭文字を取ってMと呼ばれることになったのだ。最近は女性が長官になったらしいが、彼女もむろんMと呼ばれている。

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4月26日補足 Titleに「位階」とか「称号」のような訳語も考えられる。マイクロフトの場合は男爵くらいになってもおかしくはないけれども、一般的にはSirやHonourableなども含まれる。もちろん、場合によっては肩書でよいこともある。翻訳機械みたいにtitle=肩書と決めつけてしまうのはだめだというのです。

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2007年4月20日 (金)

棍棒かステッキか(6)

 さて、メラス氏は一応通訳の役目を果たして、無事解放される。しかし、悪者たちは彼が秘密を漏らしたことを知り、彼をまた誘拐した。ワトソンの筆によれば

His visitor, on entering his rooms, had drawn a life-preserver from his sleeve, and had so impressed him with the fear of instant and inevitable death that he had kidnapped him for the second time. Indeed, it was almost mesmeric, the effect which this giggling ruffian had produced upon the unfortunate linguist, for he could not speak of him save with trembling hands and a blanched cheek. He had been taken swiftly to Beckenham, and had acted as interpreter in a second interview.
  部屋を訪ねてきた男は入るなり袖から棍棒(life-preserver)を取り出して、何ならすぐにぶち殺してやろうかと脅しつけ、またメラス氏を誘拐した。彼はクスクス笑う悪党がよほど怖くて竦んでしまったらしい。そいつのことを話すだけで手が震え顔から血の気が引いた。ベクナムに連れて行かれたメラス氏は、また通訳をさせられた。

 このlife-preserverは、一回目のときに馬車の中でびゅんびゅんと振ってみせたあのブラックジャック(bludgeon)と同じですね。だから、メラス氏に対してmesmericな効果があり、彼は蛇ににらまれた蛙になってしまった。
 それで誘拐されて、危ないところを助け出されたのだ。

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 しかし、小さめの棍棒を袖の中に隠すというのは、ちょっと日本人には出来ない発想ですね。さすがにアングロサクソンの悪者は偉い。犯罪の世界もグローバリゼーションが必要だと痛感させるではありませんか。今後この方面で更なる取り組みを進めることが期待されるのであります。

 Life-preserverは『ブルース・パーティントン設計図』にも出てきます。(続く)

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2007年4月19日 (木)

棍棒かステッキか(5)

 life-preserverは、『ギリシャ語通訳』にも出てきました。
これはホームズの兄マイクロフトが登場する事件だった。ワトソンはホームズに兄がいることなど知らなかったのだけれど、ディオゲネス・クラブに連れて行かれて紹介される。この兄はホームズとあまり似ていない。

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 マイクロフト・ホームズは弟よりずっと大きくて太っている。(Mycroft Holmes was a much larger and stouter man than Sherlock.)
stoutという単語が「がっしり」ではなく「でぶ」の意味であることは前に言いました(赤毛のでぶ)。stout stickは「がっしりしたステッキ」でよいが、stout manは「がっしりした男」では駄目。
 マイクロフトはギリシャ語通訳のメラス氏から依頼された事件を弟のシャーロックに託する。彼の頭脳は弟よりずっと鋭いのだが、探偵に必要なエネルギーが欠けているのだ。ペルメル街に住み毎日ホワイトホールの役所まで歩いて通うほかには運動なんかしない。ディオゲネス・クラブは彼のマンションから通り一つ隔てたところにあるのだ。
 メラス氏は馬車でおかしな家に連れて行かれ、ギリシャ語の通訳をさせられた。その馬車の中でのことをメラス氏は次のように語る。ここではまだlife-preserverという単語は出てこない。代わりにbludgeonが使われている。

He began by drawing a most formidable-looking bludgeon loaded with lead from his pocket, and switching it backward and forward several times, as if to test its weight and strength. Then he placed it without a word upon the seat beside him. Having done this, he drew up the windows on each side, and I found to my astonishment that they were covered with paper so as to prevent my seeing through them.
(若い男は)まずポケットから鉛を仕込んだものすごい棍棒(bludgeon)を取り出しました。重さと強度を確かめるように何度も前後に振ってみせるのです。それから一言も口をきかずにそばの座席の上に置きました。そうやってから両側の窓を閉めました。驚いたことに窓には紙が貼ってあり、外が見えないのです。

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 この絵では確かに黒い上衣の男の左側に棍棒が置いてありますね。これは拡大すると、こういう形ではないでしょうか。

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 こういう棍棒を何というか。ブラックジャックblackjackですね。ところがギリシャ人メラス氏はblackjackという単語を知らなかった。この悪者はイギリス人らしいが、こいつ自身、自分が使っているこの棍棒がblackjackだとは知らなかった。この単語はOEDによれば、アメリカ英語です。

 

A weapon consisting of a weighted head and short pliable shaft, used as a bludgeon.
先端に錘を入れ短い柄がしなう武器。棍棒(bludgeon)として使う。

 1889年、センチュリー辞典に初出だという。
 1895年デンバー・タイムズ紙
During the scuffle Miss Alderfer, Knapp's niece, saw the 'black jack' up his sleeve, and as a result, swore out the concealed weapons charge. 
もみ合いの間に、カップの姪のアルダーファー嬢は彼が袖にブラックジャックを隠しているのを見た。それで彼女は宣誓して隠匿武器携帯罪で訴えた。

 black jackと分離した綴りですね。まだこの単語ができあがる過程らしい。隠匿武器携帯罪というのはふつうは拳銃について言う。西部劇のカウボーイのように堂々と外から見えるように拳銃を携帯するのは合法であった。隠し持つと違法になった。当時のデンバーではこれがブラックジャックに準用されたということでしょう。袖に隠せるくらいの小さな棍棒です。ともかく、アメリカで1889年ごろに出来た言葉で、ギリシャ語通訳の事件は1888年のことですから、実物はあってもblackjackという単語は知られていなかった。もちろん、トランプのブラックジャックという意味では使われていたけれど。

 1934年にはジェイムズ・ケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』が出ている。
She was to clip him from behind with a blackjack I had made for her out of a sugar bag with ball bearings wadded down in the end.
私が砂糖袋にボールベアリングを詰めてブラックジャックを作っておいて、彼女がそれで彼を後ろから殴ることになっていた。

 桑原、桑原。ケインはアメリカの作家ですが、この作品はイギリスでも読まれたはずで、このころになるとblackjackがイギリス英語にも入ってきた。1930年代というと、我々から見ればアガサ・クリスティーなどが活躍した本格派の黄金時代だったのではないかと思うが、そうでもないらしい。ドロシー・セイヤーズがエッセイで「近ごろは下品な犯罪小説ばかり流行して困る」と嘆いているのを読んだことがある。そういう犯罪小説の中で今でも読まれているのがハードリー・チェイスの『ミス・ブランディッシの蘭』(1938)でしょう。チェイスはイギリスの作家で、アメリカ物の真似をしたのですね。

 Life-preserverの話だった。(続く)

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2007年4月18日 (水)

棍棒かステッキか(4)

 殴打専用の短い棍棒は何というのか、という話でした。

『エメラルドの宝冠』の事件(The Adventure of the Beryl Coronet 訳題についてはここ参照)が起こったのは、そもそも「イギリスで最も身分の高い、最も高貴な、最も尊いお方」がよくないのだった。

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 このお方が急に5万ポンドのお金がいるというので、国宝のエメラルドの宝冠を持ち出して、銀行家のアレクザンダー・ホールダー氏のところへ担保に置いていった。今のお金にするといくらくらいだろう? そもそも何に使ったか? この宝冠は大きなエメラルドが39個ついていて、金の彫物だけでも計り知れぬほどの値打ちがあるという。

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 高貴なお方は
「言うまでもないことだが、この宝冠に万一のことがあれば、大変な騒ぎになるであろう」
 と仰せられたが、果たしてその「万一のこと」が起こってしまった。ホールダー氏は気が狂いそうになった。
 ホームズは八方奔走して、悪者はサー・ジョージ・バーンウェルだということを突き止め、乗り込んで行く。

At first, of course, he denied everything. But when I gave him every particular that had occurred, he tried to bluster and took down a life-preserver from the wall. I knew my man, however, and I clapped a pistol to his head before he could strike. Then he became a little more reasonable.
もちろん最初は知らないの一点張りでした。しかしあの晩の出来事を逐一話してやると、怒鳴って壁から棍棒(life-preserver)を取りました。しかし、こちらは相手を知っていますからね、機先を制して頭にピストルを突きつけてやった。これで少々聞き分けがよくなりましたよ。

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 このlife-preserverを「護身用の棍棒」なんて訳す人がいますね。辞書にそう書いてある? それはあくまで辞書の説明に使う日本語です。訳文に使ってはいけない。「君のは犯罪用だが、僕のは護身用の棍棒だ」なんてことは言えないでしょう。
 新体操用の棍棒なんてのもあるから、ひょっとして区別するために護身用と言ったのかな? でもホームズのころはまだ新体操なんてなかったでしょう。ヴィクトリア朝の女性は床まで引きずる長いスカートをはいていた。レオタードは発明されていない。

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「護身用の仕込杖」と訳している本もある。論外です。仕込杖というのは「座頭市」が持っているようなやつでしょう。抜いて使うのだ。辞書を盲信するなかれ。

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Life-preserverはほかの事件でも使われています。(続く)

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2007年4月17日 (火)

棍棒かステッキか(3)

 独身のまま中年になった名門の女性、レディ・フランセス・カーファックスがスイスで失踪した事件を調査して欲しいという依頼をホームズが受けたのは、1902年のことだった(ベアリング=グールドの考証による)。
 しかし、このときホームズにはロンドンを離れられない事情があった。それで代わりにワトソンに調査に行ってくれないかと言う。
「ひとつ気分転換をしてみないか。ローザンヌなんかどうだい、ワトソン。切符は一等、経費は使い放題の大名旅行なんだがね」
 ワトソンはローザンヌからバーデンへ、さらにフランスのモンペリエまで、レディ・フランセスの残した痕跡をたどって行く。
 モンペリエでレディ・フランセスにつきまとっていたという実に野蛮な感じのイギリス人の大男をつかまえ
「レディ・フランセスをどうしたのですか?」と問い詰める。

The fellow gave a bellow of anger and sprang upon me like a tiger. I have held my own in many a struggle, but the man had a grip of iron and the fury of a fiend. His hand was on my throat and my senses were nearly gone before an unshaven French ouvrier in a blue blouse darted out from a cabaret opposite, with a cudgel in his hand, and struck my assailant a sharp crack over the forearm, which made him leave go his hold.
 男は怒号をあげて虎のように跳びかかってきた。格闘にかけては人に引けを取ったことのない私だが、こいつは握力がむやみに強く悪魔のように獰猛だった。首を絞められて気を失いそうになった。そのとき、向いの居酒屋から青いジャケットの無精髭のフランス人労働者がとび出してきて、持っていた棍棒(cudgel)で男の前腕を鋭く叩いた。これで男は手を放した。

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 この挿絵はよく描けていますね。ワトソンはほんとに失神しそうだ。このcudgelは長さ45cmくらい、やや先太の手頃な棍棒ですね。
 つまり、これで分かったのは
cudgelとは「人を殴るのにも使えるステッキ、または棍棒」であることだ。
 念のために言えば、cudgelを棍棒にしたのは挿絵画家の解釈であって、本当はステッキだったかも知れない。ホームズが化けていたのはouvrier(労働者)であってapache(与太者)ではないのだから、ステッキでなく棍棒を携帯するのはちょっとおかしい。「どうせフランス人だから」という画家の偏見がないだろうか。

 この絵のような殴打専用の短い棍棒を、ステッキと紛らわしくないように言うにはまた別の単語があるのだ。(続く)

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2007年4月16日 (月)

棍棒かステッキか(2)

 1927年のストランド・マガジン4月号に発表された『ショスコム・オールド・プレイス』は、シャーロック・ホームズが登場する最後の事件となった。ホームズはサー・ロバート・ノーバートンの様子がおかしいから調べてくれという依頼を受けた。サー・ロバートは持ち馬のショスコム・プリンス号をダービーに出走させるつもりでいるが、
「今度のダービーで何としても勝たねばならないのです。借金で首が回らず、これが最後のチャンスなのです。集められるだけ借りられるだけの金を一切合財、この馬に賭けています。しかも、べらぼうな賭け率ですよ。今なら一対四十ですが、初めは一対百だったのですから」というのが、彼の調教師ジョン・メイソン氏の説明である。サー・ロバートは馬に入れ込んだあまり発狂したに違いないというのである。
 ホームズとワトソンは、ショスコム・オールド・プレイスの納骨堂に秘密があると考えて、忍び込む。ところがサー・ロバートが入ってきて二人にランタンを突きつける。以下原文を見てみましょう。

"Who the devil are you?" he thundered. "And what are you doing upon my property?" Then, as Holmes returned no answer he took a couple of steps forward and raised a heavy stick which he carried. "Do you hear me?" he cried. "Who are you? What are you doing here?" His cudgel quivered in the air.
「誰だ、お前らは」と彼は怒鳴った。「わしの地所に入り込んで何をしておるか」ホームズが答えないでいると二歩前に出て、手にした重いstickを振り上げた。「おい、聞こえんのか。お前らは誰だ。ここで何をしておるのか」彼のcudgelが宙で震えた。

 stickとcudgelという単語が出てきますね。どういうことか? しかし、まずもう少し続きを見てみよう。今度は日本語だけでよいでしょう。

 ホームズはひるむどころか、前に進み出て相手に正対した。
「こちらこそ、お聞きしたいことがあります、サー・ロバート」彼は厳しい口調で言った。「これは誰ですか。何故こんなところにあるのですか」
 ホームズは振り向いて、後ろにあった棺の蓋を取り去った。ランタンのあかりで、頭から爪先まで布でくるんだ死体が見えた。恐るべき魔女のような顔、鼻と顎ばかりの顔が突き出て、変色し崩れかけたその顔から鈍く光る両目がこちらを凝視している。
 准男爵はあっと叫ぶと、後ろによろめいて石の棺で身を支えた。
  はい、挿絵見せてください。

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 怖いですね、怖いですねえ。やっぱり納骨堂に秘密が隠れていたのですねえ。はい、挿絵ありがとう。(淀川さんか?)
 しかし、前段に戻って、stickとcudgelの件。サー・ロバートはstickを一本とcudgelを一本持っていたのではない。右手にステッキ、左手にランタンを持っていたのだ。ここでは、ステッキ=stick=cudgelなのです。

 辞書を引き直してみよう。Merriam-Webster Unabridged Dictionary

cudgel
a short heavy stick that is shorter than a quarterstaff and is used as an instrument of punishment or a weapon
(短く重いstick 。quarterstaffよりも短く刑罰用や武器に使う)

quarterstaff
a long stout staff used as a weapon and wielded with one hand in the middle and the other between the middle and the end
(武器として使う長く太い杖。片手で真ん中を、もう一方の手で真ん中と端の中間を持って振り回す。)

  クォータースタッフは英和辞典に「六尺棒」と書いてあって、これで大体いいでしょう。六尺とは限らないけれども両手に持って振り回すほど長い杖である。
cudgelは
(1) 重くてクォータースタッフよりは短い。
(2) 人を殴るのに使う。
という2条件を満たせばよいのだから、典型的な「棍棒」でも、もちろん「ステッキ」でもいいはずだ。ただしある程度重くなくてはcudgelとは言えない。竹のステッキなどは単なるstickで、cudgelと言い換えることはできない。

  英和辞典を作るときに、元の辞書をよく読まなかったのですね。短いと言っても「六尺棒よりは短い」ということなのだ。長さ90cmくらいのステッキがcudgelに含まれないなんてどこにも書いてない。
 と分かったところで、もう一度正典を見てみると、cudgelは結構出てきます。

He still carried the heavy stick which the mother described him as having with him when he followed Drebber. It was a stout oak cudgel.
息子(アーサー・シャルパンティエ海軍中尉)は重いステッキを持ってドレッバーの跡をつけて行ったと母親が言いましたが、やっこさん、そのステッキをまだ持ち歩いていましたよ。太い樫のステッキです。

 もちろん『緋色の研究』ですね。このステッキのせいで海軍中尉は容疑者にされてしまった。ここでも、ステッキ=stick=cudgelです。今度は『四人の署名』を見てみると

He was an aged man, clad in seafaring garb, with an old pea-jacket buttoned up to his throat. His back was bowed his knees were shaky, and his breathing was painfully asthmatic. As he leaned upon a thick oaken cudgel his shoulders heaved in the effort to draw the air into his lungs.
船乗りの服装をした老人で、古いピージャケットのボタンを喉元までかけている。腰は曲がり膝はがくがくして、喘息で呼吸が苦しそうだ。太い樫のステッキにすがってぜいぜいと肩で息をしている。

 このcudgelはステッキに決まっている。よぼよぼの老人が棍棒なんか持っているはずがない。もう少し後を見てみると、老人は「ホームズさんがおらんのなら、わしは帰るぞ」と言う。アセルニー・ジョーンズがドアの前に立ちはだかって出て行かせまいとする。このシーンには挿絵があります。

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 やはりステッキだった。老人はどうしたかというと
"Pretty sort o' treatment this!" he cried, stamping his stick.
「ひでえことをしやがる」と老人は叫んでstickで床を叩いた。
と書いてある。やはりステッキ=stick=cudgelだった。

 もう一件、『レディ・フランセス・カーファックスの失踪』を見たいが、これはまた。

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2007年4月15日 (日)

棍棒かステッキか(1)

……このとき、折悪しく主人が入ってきました。怪しい物音を聞きつけたからでしょう、備えをしていました。シャツとズボン姿で、愛用の山査子のステッキを持っておりました。強盗に跳びかかって行きましたが、もう一人が、年寄りの方が、身をかがめて暖炉から火掻き棒を取り、主人をやり過ごしておいて、ものすごい一撃を加えました。主人は一声うめいて倒れ、動かなくなりました。私はまた気絶しました。
(『アベイ農園』)

He was dressed in nightshirt and trousers, with his favourite blackthorn cudgel in his hand.
(主人は)シャツとズボン姿で、愛用の山査子のステッキを持っておりました。

『アベイ農園』の一節をこう訳したのだった。cudgelを辞書で見ると「棍棒」と書いてある。だから、これまでの翻訳ではたいていそう訳してある。

(夫は)シャツにズボンという恰好で、愛用しているリンボク製の棍棒を手にしていたのです。(光文社文庫版『シャーロック・ホームズの生還』p. 476)

 しかし、これは間違い。棍棒ではなく、ステッキなのです。
「棍棒」という日本語から、どういうものを思い浮かべるか? まず図のようなものでしょう。

Product

 こういう棍棒は、よくヘラクレスが持っていますね。

Hercules

 しかし、私などはふつうの体格だから、人を殴るときはもう少し軽いものを使いたい。お巡りさんの持っている警棒が60cmだそうだから、あれくらいか、あるいは相手が素手ならもっと短くてもよろしい。
 ともかく棍棒というのはもっぱら対人殴打用のものでしょう。ステッキも人を殴るのに使うことはできるが、殴打専用ではないから、ふつうは棍棒の中に含めない。
 本文にかえって
  his favourite blackthorn cudgelに注目。つまりcudgelsは何本か持っているが、一番のお気に入りがこの山査子(何ならリンボクと訳しても構わない)製のものということです。favouriteという単語は「愛用の」という訳を付けてよいけれども、「複数ある中で一番お気に入り」という最上級の意味を内包している。*the most favourite---などと書くのは英語として間違い。
  火掻き棒で「ものすごい一撃」を加えられて即死したのは、サー・ユースタス・ブラッケンストールという人物である。故人の人格には少々問題があったが、身分は准男爵だった。犯罪者ではないのだから、人を殴るための棍棒なんか何本も持っているはずがない。ここでcudgelと言っているのは「散歩用のステッキ」のことです。これなら何本も持っていて不思議はないのでしょう。
  ホームズが死体を検分しているシーンは前に柔道か柔術か(10)で見た。再録。

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  死体の右腕と交差しているのは、どう見てもステッキの一部でしょう。
  でも辞書にはcudgelは棍棒だと書いてある。たとえば三省堂の新グローバル英和辞典には

cudgel   (太くて短い)棍棒

   と書いてある。しかし、これは辞書が間違っている。直しておきましょう。なぜ辞書を直さなければいけないかは、また。

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2007年4月14日 (土)

凶器としての火掻き棒

(承前)ポウカー(火掻き棒)はまっすぐな鉄の棒で、武器、凶器として手頃だった。

……建物を捜索して、一番大きな金庫の中に不運な警備員の死体が二つ折りにして突っ込んであるのが見つかった。トゥーゾン巡査部長の迅速な行動がなければ、発見は月曜日になっていただろう。死体は背後から火掻き棒の一撃で頭を砕かれていた。ベディントンは忘れ物をした振りをして中に入り、警備員を殺して大金庫を開け、獲物を持って逃亡したに違いない。
(『株式仲買店員』)

……五分ほどたって突然、すさまじいわめき声が聞こえた。あんな恐ろしい声は生まれて初めてですよ、ホームズさん。一生、耳について放れんでしょう。一二分、恐怖に凍りついて坐り込んでいました。それから火掻き棒を掴んで、階下へ降りて行きました。この部屋へ入ってみると、窓は開けっ放しだ。マントルピースから胸像がなくなっている。泥棒が何故あんなものを取るのか、分かりませんなあ。ただの石膏で何の値打ちもないのに。
(『六つのナポレオン』)

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……このとき、折悪しく主人が入ってきました。怪しい物音を聞きつけたからでしょう、備えをしていました。シャツとズボン姿で、愛用の山査子のステッキを持っておりました。強盗に跳びかかって行きましたが、もう一人が、年寄りの方が、身をかがめて暖炉から火掻き棒を取り、主人をやり過ごしておいて、ものすごい一撃を加えました。主人は一声うめいて倒れ、動かなくなりました。私はまた気絶しました。
(『アベイ農園』)

 どうも物騒ですね。「愛用の山査子のステッキ」は、原文ではhis favorite blackthorn cudgelである。cudgelだから「棍棒」と訳す人が多いようだが、違うと思う。やはりステッキでしょう。これについてはまた。

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2007年4月12日 (木)

デレッキとは何ですか?

「畜生ッ! 入るか!?」と云って、そこにあったストーブを掻き廻す鉄のデレッキを振り上げた。

 その男はストーブのデレッキを持って、目の色をかえて、又出て行った。誰もそれをとめなかった。

 いずれも小林多喜二の小説にあるくだりですが、多喜二がわざわざ「ストーブを掻き廻す鉄の」と書いたとは、いささか信じがたい。ひょっとして編集者が書き入れたのではないかと、勘ぐりたくなります。「ご飯を口に運ぶ二本の木の箸」とでも書くようなじれったさがある。デレッキは、今ならリモコンと同じくらい、どこの家でも使っていました。デレッキと書けば、もうそれで充足している。……
(あずましい根室の私――柳瀬尚紀『日本語は天才である』新潮社pp.159-160)

  デレッキとはこういうものだったのか! 
 つい先日、デレッキが出てきて、分からなかったのだ。
 某大企業が外国に工場を作るというので、品質管理マニュアルの英訳が私のところにまわってきたが、これが難物だった。
「二酸化マンガンの使用量を3%削減する」などは誰が訳しても同じだ。
「人に優しい職場を作る」なんてのは、どうも困りましたね。たまたま私が担当したからよかったので、ほかの翻訳者なら
*Create a workplace that is gentle to people.
 なんて訳をつけかねない。外人が目を白黒(白青?)する。私はうまく誤魔化してしまった。どう誤魔化したかは企業秘密。
 ほかにも厄介なところが随分あった。
「デレッキを使う」というのが分からなかったから、
Use XX.
と書いて、「デレッキとは何ですか?」と赤字で書き込んでおいた。
 翌日、クライアントからメールが来て「私どもは昔からデレッキと呼んでいる。英語で何というのかは知らないが、かくかくしかじかのものである」と説明があった。どうやらpokerと訳しておけばよいようだ。
 それきり忘れていたのだけれど、柳瀬先生の本に出てきたのだ。続きをもう少し引用する。

 たんに棒でなく、ツルハシと合体したようなものです。しかも頻繁にストーブの中を引っ掻き回す道具ですから、真っ赤に焼けている。幸いぼくは、人がデレッキを振り回す現場に遭遇した経験はありませんが、それでも灼熱の凶器が目の前に現れます。
 日本国語大辞典での初出は昭和三(1928)年。語源は載っていませんが、ぼくは英語のderrickにちがいないと確信しています。Derrickは起重機ですが、先端に付いているフックがデレッキの先端そっくりです。
 初めは日本名はなかったでしょう。たんに、火掻きと言っていたと思います。クラーク博士らのアメリカ人が札幌農学校、今の北海道大学へ来たのは明治九(1876)年です。英語で火掻き用の棒はポウカーpokerと言いますが、十九世紀の百科辞典などを見ると、ポウカーはまっすぐな棒です。先端が鉤状のものは見当たらない。先端の曲がった北海道製の火掻きを見て、英語を母国語にする者にとってこれをpokerとは呼びにくかった。むしろderrickと命名した。あるいはderrickにたとえた。チェックcheckがチッキ、デックdeckがデッキ、ジャックjackがジャッキ、スティックstickがステッキ、オランダ語のブリックblickがブリキになったように、デリックderrickがデレッキになったのは自然です。
(『日本語は天才である』続き)

 面白いなあ! しかし、昔から「デレッキ」を使っているというこの大企業は、かなり温暖な地方にあるのだけれど。
 私が子どものころ、三重県の小学校の職員室には石炭ストーブがあった(教室にはなかった)ように思う。しかし、「火掻き棒」を使っていたかどうか?
 
「かくかくしかじかのものだ」という説明ですぐに分かったのは、bookishな知識によるものだ。

 彼は節くれ立った巨大な拳を我が友の鼻先へ突き出した。その拳をホームズはいかにも面白そうに吟味した。「生まれつきなのか? それとも、だんだんそうなってきたのかな」
 我が友が氷のように冷静だったせいか、それとも私がポウカーを掴んだときにちょっと音を立てたせいか、いずれにせよ、客の剣幕は少々おとなしくなった。
(『三破風館』)

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 黒人のへヴィー級プロボクサーが相手だと、ワトソンも素手ではどうにもならない。いざとなったら鉄の火掻き棒で頭をかち割ってやるしかない。
ポウカーがどういう形かは、迂闊にもまったく考えなかったけれど、この絵を見ると、なるほどまっすぐな棒ですね。
 それに対して日本のデレッキは下図のような形らしい。デレッキ補説より。

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凶器としての火掻き棒に続く)

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2007年4月11日 (水)

シャーロック・ホームズ小伝(5)

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 若いころ、ホームズは自然への憧れについて感傷的な自己欺瞞に陥ったかも知れない。しかし、サセックスの丘陵と断崖の魅力は本物だった。特に疾風が海峡を北へ吹き上ったあと、自然がすべて洗われて新鮮そのものに見えるときには、朝食前に散歩に出てうまい空気を吸いながら崖沿いに歩くこともあった。ホームズは無為に過ごしていたのではない。ロンドンの悪党どもに代わって孜々として働く蜂の群れが強烈な観察と分析の対象となったのであり、ホームズが『実用養蜂便覧(付女王蜂分離関連所見)』を晩年の畢生の大作として誇りに思うのももっともなのだ。
 1912年ごろ、養蜂家の穏やかな生活は一時中断される。当時カイゼルの秘密諜報員の首魁、フォン・ボルクの活動が憂慮すべきものになっていて、閣僚の間にも懸念がひろがっていた。ホームズはぜひ活動を再開して欲しいと要請された。事の重大性は、外務次官ではなく外務大臣が首相と一緒に訪ねて来たことでも分かる。さすがのホームズもこれには抵抗しきれなかった。彼はシカゴに渡り、バッファローでアイルランド人の秘密結社に加わり、スキバリーンで警察とトラブルを起こした。2年後ついに網が引き絞られ、フォン・ボルクが1914年8月2日日曜日に捕まった次第は『最後の挨拶』に語られている。
 1914年以降のホームズの生活については記録が残っていない。彼が再び隠棲生活を中断したかどうかは、残念ながら分からない。まもなく1954年にホームズの生誕100年を祝うことができるのを、多くのファンは楽しみにしている。
(1953年 S・C・ロバーツ)

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2007年4月10日 (火)

シャーロック・ホームズ小伝(4)

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 ワトソンの初めの印象はむろん追々修正する必要があった。ハフィーズやホラティウスやフロベールやゲーテを引用する男が「文学にまったく無知」だとは言えないだろう。シェイクスピアも特に『十二夜』がお気に入りらしく、二度引用している。ホームズは単なる計算機械ではなかった。ホームズは「大規模な索引」を自家製百科辞典の代わりにしてワトソンを感心させたが、これにはちょっと奇妙な欠陥があった。たとえばVの項目にVigor, the Hammersmith WonderやVittoria, the circus belleなどがあるのはよいとして、Voyage of the Gloria ScottやVictor Lynch, the forgerなんぞが入っているのはどんなものか。Gloria ScottやLynchは、どうやって検索するのか。しかしホームズには彼なりの理由があったのだろう。ともかく1887年には、すでに見たように彼は国際的な存在になっていた。モーペルテュイ事件はひどく労力を要してホームズの健康に深刻な影響を与えたが、まもなく回復して、彼は『ライゲートの大地主』の事件を解決した。やがて例の『四人の署名』の大捕物があって、ワトソンはメアリー・モースタン嬢と結婚する(最初の結婚)。これで二人のパートナー関係はしばらく途切れ、ホームズがオデッサに呼ばれたのもオランダの王室のために働いたことも、ワトソンは風の便りに聞いたのだった。しかし221Bの魅力は強かった。1888年には間歇的ではあるが協力関係が再開される。メアリ・ワトソンがなかなかの賢夫人で、夫にできるだけ旧友と協力することを勧めたからである。こうして二人は『五つのオレンジの種』『海軍条約事件』『唇のねじれた男』などのほか、記録に残っていないけれども有名な事件も手がけたのだった。『最後の事件』(ワトソンは本当に最後だと思っていた)は1891年である。その後数年間、ワトソンが亡き友の方法を自分で犯罪に適用してみても「どうもうまく行かない」などと考えている間、ホームズは実はチベットなどを旅していた。彼はラサでダライラマと数日を共にし、それからペルシャへ行き、メッカを訪れた。ハルトゥームではカリファと会見して外務省のために貴重な情報を得た(たぶんマイクロフトの依頼であろう)。それからフランスまで戻ってきて、モンペリエでコールタール誘導体の研究に数ヶ月を過ごした。ベーカー街への劇的な『帰還』は1894年のことである。このあと数年間、ホームズは多忙を極める。ワトソンは1895年という年は「記憶に残る」年だったと何度か言っている。1897年の春には「骨の折れる仕事の連続で」さすがに強健なホームズも疲労が出てしばらく休息を余儀なくされた。探偵ホームズの最後の仕事『這う男』は1903年のことで、このあと彼はサセックスに隠棲する。南イングランドの丘陵の南斜面にあって英仏海峡を一望する一軒家で、名探偵は家政婦とともに蜜蜂を相手の静かな暮らしを始めた。年月の経過と共にホームズにも大きな変化が生じていた。初期の冒険『ボール箱事件』で、ワトソンはホームズのことを「田園にも海浜にも何の魅力も感じない男だ」と評しているが、1907年のホームズは様変わりしている。サセックスの丘陵と断崖を好むだけではない。ロンドンの喧噪の中でも実はずっと「大自然の懐に抱かれた心穏やかな暮らし」に憧れていたのだと言うのだ。時間の力はこれほどにも大きいのか。ホームズのような精神をも忘却に誘うのか。(忘却とは忘れ去ることなり、と言ったのは誰だったっけ?)それとも結局は先祖伝来の地主の血か。naturam expellas furca, tamen usque recurret
(熊手をもって自然を排除せよ、されどそれは常に走り帰るならん。) それとも、ここでもやはりフランスか? a Recherche du temps perdu? 

(もう少し続きます――訳者)

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2007年4月 9日 (月)

叶姉妹(2)

  こういうのもありました。

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2007年4月 8日 (日)

シャーロック・ホームズ小伝(3)

                      S・C・ロバーツ

『三人の学生』は「有名な大学町」が現場である。この事件はまことに「痛ましい醜聞」だというので、ワトソンは「聖ルカ」カレッジの正体を隠そう躍起になっている。しかしホームズが中庭のことをquadrangleと呼んでいることに注目すべきだろう。この単語はケンブリッジでは使わないのである。『這う男』では、ワトソンはファラー師*の顰みにならって「ケンフォード」大学と書いているが、ホームズはこの大学町を随分懐かしがっている。「僕の記憶が正しければ、あそこには『チェッカーズ』という宿屋があって、ワインは並以上、シーツもまず申し分ない。ワトソン、これから二三日は少々不自由な暮らしになるかも知れないぜ」確実な手がかりはこの箇所だけである。ホームズが「ケンフォード」出身であることは明らかだろう。R・A・ノックス師は今や古典となった初期の論考*で「(ホームズの出身校は)オックスフォードのクライストチャーチ・カレッジだったのではないかという気もする」と書いておられる。ケンブリッジの卒業生でも、これにケチをつける気はちょっとしないだろう。
 
 それまで「単なる趣味」だったものを職業にしたらどうかと言ってくれたのは、友人トレヴァーの父親だった。それに大学生活の後半には、彼の評判が学生仲間に広まっていた。カレッジを出てからモンタギュー街の大英博物館の近くに部屋を借りたが、まだ依頼人はほとんどいなかったので、有り余る時間を使って将来の仕事に役立ちそうな様々の分野を研究した。ホームズの最初の事件は『マスグレイヴ家の儀式』だったが、これは1878年のことだと推定できる。学生時代のごく限られた交友関係から生じたものだった。そして1881年になって、聖バーソロミュー病院の実験室での有名な出会いがあった。
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スタンフォードが歴史上最大の媒介者となって、ホームズとワトソンはベーカー街221Bで同居生活を始める。二人がパートナーとなって最初の冒険が『緋色の研究』であるが、ここでワトソンは同居人の性格描写を試み、これが以後の伝記作家による評価の基礎となった。遅い朝食、精力的活動と無気力の交代、奇妙な知識の欠落(トマス・カーライルや太陽系のことを知らない)、ヴァイオリン、The Book of Lifeという雑誌論文、等々……

*ファラー師 原文はDean Farrar。ディーンという単語は「大学の学部長」という意味があるのは知られているけれども、ここでは違うらしい。リーダーズ+プラス英和辞典のdeanを引いてみると

1 《cathedral などの》首席司祭, 聖堂参事会長; 教務院長; 《ベネディクト会の》修道院長; 【カト】 司教地方代理 (=rural dean, vicar forane) 《司教 (bishop) が任命し司教区 (diocese) 内の一地区を監督する》; 【英国教】 地方執事 (rural dean).

 ややこしくて何だか分からない。キリスト教の聖職者らしいので「ファラー師」としておくのが無難でしょう。『岩波ケンブリッジ人名辞典』によると

ファラー,フレデリック・ウィリアム Farrar, Frederic William 英 1831-1903牧師,作家.インドのボンベイ生まれ.1854年に牧師に任命され,ハロー校で教え,マールバラ校の校長(1871-76),ヴィクトリア女王の名誉チャプレン(1869-73),その後女王専属チャプレンとなる.1876年にウェストミンスターの大聖堂参事会会員およびセント・マーガレッツの学長,1883年にウェストミンスター大聖堂の大執事,1890年に下院チャプレン,1895年にカンタベリー大聖堂参事会長となる.神学に関する著作は多いが,主にベストセラーとなった学校物語の一つ「エリック,少しずつ」(1858)で知られる.

 ケンフォード大学が出てくるのは、「エリック、少しずつEric, Little by Little」ではなく、翌年1859年のJulian Homeという学園物。上の人名辞典の記述では、ファラーという人はどうやら英国国教会らしい。辞書の記述とあわせると、1895年に「カンタベリー大聖堂参事会長」となったのでDean Farrarというのでしょう。

*初期の論考 『シャーロック・ホームズ文献の研究
Studies in the Literature of Sherlock Holmes (1911)
を指す。
これを 「ホームズ物語」についての文学的研究 なんて訳するのは、まったく何にも全然少しも、分かっていない。大間違いのコンコンチキである。ノックス師のことは「オックスフォードかケンブリッジか(4)」にも少し書きました。
 Literature=文学ではありません。オックスフォードで古典学を修めたノックスが「文献学Philologie」の方法をホームズ譚に適用してみせたので、「そういう手もありだったのか」とみんなびっくりしたのである。(1911年の時点では、『恐怖の谷』『最後の挨拶』『事件簿』は未刊行。)
 ノックスは「医学博士ジョン・H・ワトソンが書いたとされている文書」の本文批判から始める。もちろん文献学の本場ドイツの業績を無視はできないので、ザウボッシュ、バックネッケ、ラッツェガーなどの論文を参照することになる。イタリア人のサバリニオーネ教授などという人も重要な学問的貢献をしていますね。
 もちろん、ノックス師はフェアに書いているので、たとえばフランス人の学者、Papier Mache氏なんて人まで出して、ちゃんと手がかりを与えています。(仏和がよいのだけれど、英和でも載っているでしょう。一度辞書を引いてみてください。)

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2007年4月 3日 (火)

シャーロック・ホームズ小伝(2)

                                             S・C・ロバーツ

 しかしホームズの幼少時の教育についてはほとんど知られていない。パブリックスクールに行ったのならば、ワトソンの記録にその話が少しは出て来るはずだ。それにホームズは、ふつうの英国男子を愉しませる勇壮なスポーツには、ほとんど関心も知識もない。彼が有名なラグビー選手を知らないというので、単純なシリル・オーヴァートン(「体重16ストーンの骨と筋肉のかたまり」)は仰天している。イングランドに住んでいて、「まさかあのゴドフリー・ストーントンを知らないなんて。あの名スリークォーターを。ケンブリッジ、ブラックヒース、それにイングランド代表*5回ですよ!」しかしホームズは、アマチュア・スポーツこそ「英国で一番上等で健全なものだ」と認めているし、自身フェンシングは相当の腕前で、拳銃は名手である。「ボクシングという英国古来の良きスポーツ」の心得はちょっとしたものだと自負している。

 ホームズが大学に行ったことは、むろん明らかだ。ただ自分は学生時代人付き合いの良い方ではなかったと、ワトソンに言っている。たいてい一人で部屋にこもって独自の思考方法の開発*にかかり切っていて、カレッジで作った友人はヴィクター・トレヴァーだけだった。この友情の成り立ちも奇妙なものだった。ある朝チャペルへ行くホームズの足首にトレヴァーのブルテリアが噛みついたのだ。この事件から色々と推論ができて、なかには随分突飛なことを言う人もいる。ブルテリアはカレッジの構内には入れることはできないので、噛まれたのは街路だったはず、だからホームズは1年生のときカレッジ外に住んでいたのだという議論がある(特にドロシー・セイヤーズ女史)。外に下宿するのはケンブリッジの習慣であり、だからホームズはケンブリッジ出身だ、というのである。しかしこの議論は必ずしも説得的ではない。ホームズは日曜日の朝の礼拝に行くところで、チャペルに向かう前にちょっと街に出て新聞を買ったりしたかも知れない。あるいは、トレヴァーの犬はカレッジのポーチにつないであった*かも知れないので、これはオックスフォードの習慣である。それに『スリークォーターの失踪』全編を通じて、ホームズの口調はとうていケンブリッジ出身者とは思えない。「ケンブリッジへ行かねばならないWe must run down to Cambridge together.」*などとケンブリッジ出の者が言うだろうか? 「この無愛想な町で友だちもなく行き暮れるはめになった」とも言っている。また『海軍条約事件』でのパーシー・(オタマジャクシ)・フェルプスとホームズの関係も想起すべきであろう。フェルプスはケンブリッジで古典学をやった*男である。ホームズはその彼と緊密な関係になって随分長く話し込んだのに、ケンブリッジのことには一言も触れていない。もしホームズがケンブリッジ出ならば、二人が共通の母校のことをまったく話さないはずがない。

*イングランド代表5回 Cambridge, Blackheath and five Internationals  「国際試合5回」と訳すことが多いようですが、「国際試合」とは何か? スリークォーターの失踪は1896年(明治29年)ころの事件なので、もちろん日本対英国のラグビー試合なんてない。イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの間の試合をinternational matchと呼んだのです。ゴドフリー・ストーントンはケンブリッジのスリークォーターで、ときどきはブラックヒース(ロンドンの郊外)のチームに加わり、イングランド代表に5度選ばれた。代表選手は特別な帽子を与えられるので、He has got five caps.という言い方もある。これより20年近く前には、コナン・ドイルもエディンバラ大学で友人のバッドとともにラグビー・チームに参加していた。バッドは俊足のフォワードだったが、興奮すると狂暴になるのでスコットランド代表選手には選ばれなかった。

*独自の思考方法の開発   working out my own little method of thought  このフレーズは「自分なりのやり方によって問題を解決する」とか「自分なりの推理のしかたで問題を解決する」などと訳してありますが、間違い。work outという動詞の目的語は問題problemsではなくて思考方法method of thoughtです。このとき考えていた「方法」の一端を書いたのがThe Book of Lifeというなかなか野心的な題名の論文であった。「一滴の水から、論理家は推理によって大西洋やナイアガラの滝を知ることができる云々」ワトソンはこれを読んで「何たるたわごとだ!」と叫んだ(緋色の研究)。この方法のことをホームズがdeduction演繹と呼んでいるのはおかしい、というのがロナルド・ノックスをはじめとする識者の意見です。むしろinduction帰納ではないか。あるいはチャールズ・パースのいわゆるabductionではないか。

*ポーチにつないであった Trevor's dog may well have been tied up in the college porch. 実はこの箇所がよく分からない。カレッジのポーチ(玄関、車寄せと辞書に書いてある)ならばカレッジの構内(within college precincts)でしょう。どういうことか? オックスフォードに留学して犬を飼った人はご教示下さい。

*We must run down to Cambridge together.   ここでdownを使うのが変で、ケンブリッジ出身者ならupと言うはずだ、というのです。日本語で「上京する」と言うのと同じである。京都出身者が東京へ行くのを「東下りする」と言う(ちょっと古い?)ように、オックスフォード出身者ならケンブリッジへ行くのをdown to Cambridgeと言うかも知れない、ということ。「僕がケンブリッジ在学中に……」ならば、When I was up at Cambridgeと言う。

*古典学をやった Percy Phelps had been a scholar of his college at Cambridge.
「ケンブリッジで古典学をやった」を英訳すればHe read classics at Cambridge.ですが、それよりもこう書く方がよいらしい。scholarという単語の用法に注目。正典になんと書いてあるかというと

He was a very brilliant boy and carried away every prize which the school had to offer, finishing his exploits by winning a scholarship which sent him on to continue his triumphant career at Cambridge.

GreekやLatinやclassicsなどという単語がなくても、古典学をやったことは自ずと明らかである、というのですね。ワトソンとフェルプスの母校のパブリックスクールが出していたprizeは、たとえばラテン語で詩を作るというような課題であった。外務省に入るつもりならばケンブリッジでも古典学を修めるのがふつうのコースであった。ホームズは自然科学専攻だったというのが、ロナルド・ノックスの意見らしい。

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2007年4月 1日 (日)

寺脇研を

――文部科学省としては一度も「ゆとり教育」という言葉を使ったことはないと、伊吹文科相は言っています。

Ibukibunmei

 エー? 本当か? 無責任じゃないか? 円周率は3として計算してもよいとか、台形の面積の求め方は教えなくていいと言ったのは誰だ? 基礎学力が低下していることが分かったから、「ゆとり教育をやめる」ことにしたのじゃなかったのか?

「……と、伊吹文科相は言っています」と言っているのは、朝日新聞の記者である。
 朝日の4月1日朝刊4面に、「ゆとり教育」は誤りかという記事があって、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と元文部官僚の寺脇研氏の対談を記者が1頁にまとめている。

 寺脇研というのは、ウィキペディアによると

 寺脇研(1952-)は、は元文部官僚で映画評論家、京都造形芸術大学教授。文部科学省大臣官房広報調整官を最後に同省を辞職した。福岡県生まれ。
  ラ・サール高校を卒業後、東京大学法学部に進学。1975年、当時の文部省に入省、キャリア官僚としての出足は、職業教育課長を経て広島県教育長として出向。その後は、ほぼ文部省・文部科学省にあり、1990年代まで「ゆとり教育」の推進者としてマスコミの前面に出て知られるようになり、文部省人事からみて主流ポストを歩いてきたとはいえなかったが、同省の見解のスポークスマン的な役割を担っていくこととなった。
  いわゆる「ゆとり教育」の推進者としてその名を知られていたが、近年、地方や低所得層の学生とそうでない学生との著しい(主に受験で高成績を修める為の)学力格差が問題となり、同省の「ゆとり教育」政策に対する批判が強まったのと同時期に大臣官房審議官から外局である文化庁文化部長に異動となり、「ゆとり教育」推進の表舞台から姿を消した。さらに2006年春、同省事務方から勧められた勧奨退職を拒否し、いわゆる中二階ポスト(局次長・審議官・部長)から課長級に当たる同省大臣官房広報調整官へと異例の降格となった(一部報道では、その時、当時の小坂憲次文部科学大臣に慰留されたとある)。こういう報道が出てくるのも「ゆとり教育」路線からの文部省の事実上の方向転換であると指摘されている。
 2006年11月10日付で文部科学省を辞職。今後については、「今後も教育や文化について、民間の立場から取り組んでいく」と述べた。

 要するにゆとり教育の張本人がこの寺脇研なる男である。

 和田秀樹氏のサイト 汚いぞ!寺脇研(2001/6/1) によれば、

 先日、とあるテレビ番組から、来年から実施される新学習指導要領とゆとり教育の問題点について、文部省の役人とスタジオで議論してくれと誘いを受けた。(中略)
 ところが、数日後、その番組の担当者が、申し訳なさそうに、「文部科学省の 寺脇審議官が、和田と議論するのなら出ないと言っている。文部科学省の当事者が出ないと番組が成立しないので、辞退してほしい」と電話してきた。
 (詳しくはここ

 朝日新聞の対談は記者がまとめたものだが、
寺脇 学習指導要領は「教えてはいけない」とは言っていない。……

 などと責任逃れに終始していることは、はっきり分かる。
 
 寺脇研は2001年に和田秀樹とのテレビでの議論を逃げて「汚いぞ!」と書かれたのである。しかし、寺脇研が和田秀樹を名誉毀損などで訴えたという話は聞かない。
 今からでもいいから、今度は櫻井さんとテレビなどの逃げられないところで討論してもらいたい。

 ところで、寺脇研を

 むかし小室直樹氏は、ロッキード事件の際に田中角栄の無罪を主張し論陣を張った。小室氏はテレビに出演して「田中角栄を起訴した検察官を死刑にしろ!」と叫んだ。「死刑にしろ」はいくら何でもひどいというので、小室氏はテレビには出られなくなった。

 山上たつひこのがきデカでは少年警察官こまわり君が「死刑!」と叫ぶのだった。

 この顔を町で見かけても、石をぶつけたりしないように。

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