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2007年5月26日 (土)

座右の名文

 漱石の『坊ちゃん』を、「探偵」小説であり「恋愛」小説である、といったら、「えっ、なんで?」とおおせのかたが多かろう。しかし、たしかにそうなのである。
 まず、「探偵」小説の件からおはなししよう。――「探偵」とカギカッコをつけてあることに御注意くださいね。「探偵」小説といっても、推理小説だというのではない。漱石の大きらいな「探偵」がしきりに出てくる小説だというのである。

――自分の文章のふりをして続きを書きたいところだけれど、だめでしょうね。すぐにばれる。
 高島俊男『座右の名文』文春新書p.95の最初の2段落です。
 続きが読みたい人はすぐに本屋へ。

 漱石論、坊っちゃん論、漱石と探偵論などは、山ほどある。だから、高島先生と似たことを言っている人も、あるいはいるかも知れない。
 でも、「探偵」小説であり「恋愛」小説である――というふうにズバリと書いて、腑に落ちる説明をしてくれる人はほかにいないだろう。

……『坊ちゃん』は、ちょっとわけのわからない、薄気味のわるいようなところのある作品だ……
 こんなことが書いてあるのも、この本だけだと思う。どこがわけがわからなくて薄気味わるいのか、ちゃんと謎解きがあります。上等の探偵小説と同じである。

「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。知らぬ間に雨戸をはずして人の所有品を偸むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳の上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが強盗で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強うるのが探偵だ。だから探偵と云う奴はスリ、泥棒、強盗の一族でとうてい人の風上に置けるものではない。」
 これは、苦沙弥先生の意見である。
 高島俊男という人は、こういう探偵ではない。シャーロック・ホームズのような名探偵である。

 漱石のほかに、新井白石、本居宣長、森鴎外、内藤湖南、幸田露伴、津田左右吉、柳田國男、寺田寅彦、齋藤茂吉が、高島先生の好きな文章家である。
 
   アマゾンにもうカスタマーレビューが出ている。

少しも質が落ちない口述筆記本, 2007/5/25
 素晴らしい本だ。この本はあとがきにあるとおり、高島氏がしゃべり、別の人がそれを筆記したもの。口述筆記は読みやすいが、中身が薄くなり質が落ちるのがふつうだ。しかしこの本は少しも落ちていない。口述筆記だと正直に書いていなかったら私は高島氏自身が書いたものだと思っていただろう。高島氏が目が痛み原稿が書けなくなったという事情によるものだから、他の粗製濫造本とは時間のかけかたが違うのだ。 …………

 話は逸れるが、この評者のあまカラという人がちょっと凄い読書家である。ほかの本のレビューも読んでみてください。たとえば福田恒存の『私の幸福論』のレビュー

……この幸福論の大きな特徴は美醜という問題から書き始めていることだろう。夫に捨てられた妻の身の上相談に、福田氏はその妻の顔を見た上でなければ答えられない、と驚くべきことを書く。ブスに生まれついたことを宿命として受け入れる、そこからでないと幸福論は始まらない、というのだ。これには読者からあまりに救いがない、という反論が届く。それに対して福田氏はさらに答える。この最初のやりとりは本書の白眉である。……

   僕は早速この本を注文しましたね。

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2007年5月20日 (日)

ホームズの木刀術(2)

 しかし、イギリスの木刀術singlestickのことを調べていると、竹刀と防具を使う日本の剣術がいかによくできているかが分かりますね。
  
 塚原ト伝(1489-1571)や宮本武蔵(1584?-1645)のような剣客は、もっぱら木刀を使っていた。しかし木刀でたたき合えば命に別状がある。実際、武蔵は木刀で佐々木小次郎を撲殺した。

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 だから初期の剣術では型稽古が中心だったようだ。
 中村民雄氏の研究によれば、竹刀と防具(面、籠手、胴)を使うようになったのは直心影流で、正徳年間(1711-16)ごろからだという。
 この防具がだんだんに改良されて、遅くとも千葉周作(1793-1856)の活躍した時代までには現代の剣道用具とほとんど同じものになっていた。自由に打ち合いができるようになったのである。
 千葉周作門下からは、清河八郎、山岡鉄舟、山南敬助、赤胴鈴之助などの有名な剣客が出た。(坂本龍馬は周作の弟定吉の門下)
 写真は赤胴鈴之助のラジオ放送風景。左の少女が千葉周作の娘さゆり役の吉永小百合さんです。写真はこのサイト(必見)からお借りしました。

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 北辰一刀流千葉周作の玄武館、神道無念流斎藤弥九郎の練兵館、鏡心明智流桃井春蔵の士道館を幕末の三大道場という。
 幕末になると剣術は試合が盛んに行われ、ほとんどスポーツ化していたようだ。しかし、あくまでも武術であった。このスポーツ対武術の矛盾から、ときどき妙なことが起きた。
 司馬遼太郎の幕末小説に、柳剛流という田舎剣法が三大道場を総ナメにした話が出てくる。柳剛流には、上段から相手のすねを撃つという技があった。現代の剣道では反則であるが、当時の剣術は真剣勝負の稽古に竹刀を使っているという建前があったから、禁止するわけにも行かない。すねを打ってくるのはジャンプすれば避けられるのだが、体勢を崩したところに面打ちなどを決められる。ほとほと困ったという。
 
 竹刀を使うのはあくまでも模擬であって、試合と実戦は違うという考え方は現代の剣道にも残っているようだ。高段者になるには竹刀の試合で勝つだけではだめらしい。
 しかし、よく考えてみると、この「実戦」という概念は現代の剣道で成り立つのだろうか?
 柔道や空手で、試合とは別の「実戦」があり得るというのは分かりますね。
 何かで口論になって「表へ出ろ」ということになるかも知れない。そんなことはしない大人しい人でも、奥さんやガールフレンドと散歩しているときに与太者にからまれるかも知れない。そういうときに役に立つのは、試合用に磨いた技が基本ではあるが、実用の場合は微妙に違うところがあるだろう。
 剣道の実戦というのは、すなわち日本刀で人を斬ることである。しかし、日本刀を本当に使おうという人は今どきいないでしょう。ヤクザだって人を殺したければ拳銃を使う。日本刀を使ったのは花田秀次郎や風間重吉の時代でしょう。

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 西洋剣術のことを書くつもりだったが、話が逸れてしまった。続きはまた。

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2007年5月17日 (木)

ホームズの木刀術(1)

 シャーロック・ホームズはsinglestickの達人であった。
『緋色の研究』では、ワトソンが「シャーロック・ホームズの特異点」の一つとして

11. Is an expert singlestick player, boxer, and swordsman.
    シングルスティック、ボクシング、剣術の達人

 と書いている。

『高貴な依頼人』の事件では、ホームズ自身が

I'm a bit of a single-stick expert, as you know.
ご存じのように、僕はシングルスティックなら少々心得がある。

 と言っている。

 このシングルスティックというのは、従来は「棒術」と訳してあるけれども、「木刀術」とした方がよろしい、ということは、「柔道か柔術か」の(7)から(9)あたりに書きました。

 今でもこのシングルスティックの稽古をしている人たちはいるようだ。たとえばオーストラリアのシドニーにあるStoccata School of Defenceでは、日本の剣道の竹刀から作ったシングルスティックを使って稽古している。

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 このサイトによると、
 シングルスティックというのは、英国の片刃の剣backswordの練習用の木刀である。ふつうはトネリコの若木を木刀の刀身にする。日本の木刀との大きな違いは、必ず籠手を保護する籠柄(かごつか)basket-hiltというものがついていることである。革をふくらませるか柳を籠に編んで半球型のbasket-hiltを作り、その中に手を入れて柄を握る。
 ところがトネリコの木はなかなか適当なものがないので、日本の竹刀を使うのだという。オーストラリアでも剣道をする人がかなりいるから竹刀が入手できるのだろう。竹刀の柄は両手で握るから長さは八寸(24cm)あるが、シングルスティックの場合は片手で扱うから、柄の長さは少し切り詰める。
 籠柄には、写真のように黄色いプラスティック製のものを使う。これは直径6インチの係留ブイを半分に切ったものである。
 この写真では頭部はフェンシング用のマスクで防護しているけれど、上半身はシャツだけである。剣道をやったことがある人なら、防具外れを叩かれるとどれだけ痛いかが分かるはずだ。どうもオーストラリア人は勇敢ですね。

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2007年5月15日 (火)

ガンジーは無抵抗主義者か(4)

 ガンジーのことが全く分かっていないと坂口安吾を責めてみても仕方がない。1950年の日本人は大変だったのだ。インドのことなんか知るものか。
「婦女子が犯されてアイノコが何十万人生れても、無関心」などと言うけれど、「自分の奥さんならどうだ?」という反問も無意味だろう。幸いにそこまで突き詰めて考える必要はなかったのだ。
 インドは違った。
『ガンディーと使徒たち』pp.239-240

 南アフリカとインドで不正と抑圧と宗教紛争に対するガンディーの市民的不服従運動の原動力となったのは、真理と非暴力であった。この真理と非暴力の信念は、一九四六年、ノーアカーリーで最も厳しい試練にさらされた。ノーアカーリーは当時の東ベンガル州、現在のバングラデシュに属し、ガンジス川とブラフマプトラ川の作る三角州にある辺鄙な湿地帯である。当時ノーアカーリーの人口二百五十万人のうち、十八パーセントがヒンドゥー教徒、八十二パーセントがイスラム教徒であったが、少数のヒンドゥー教徒が土地の四分の三を所有し、イスラム教徒の大部分はほとんど農奴と異ならない境遇にあった。この年の十月、イスラム教徒の暴動が始まった。彼らはヒンドゥー教徒を拷問して殺し、ヒンドゥー教徒の女性を誘拐して犯した。ヒンドゥー教徒の店を略奪し住居を焼き、寺院に侵入して神像を壊した。ヒンドゥー教徒にコーランを唱えさせ、自分の牛を殺して食うことを強要した。この暴動はインド分割とパキスタン建国に伴う宗教暴動の中でも最も凶暴だった。また、宗教暴動が地方にまで及んだのはこれが最初だった。ガンディーにとってこれは特に恐ろしいことだった。インド人の大部分が住む村落地帯については、彼は自分の知識に誇りを持っていたからである。ノーアカーリーでヒンドゥー教徒を村に戻し、イスラム教徒に対しては彼らを受け入れて兄弟として愛するように説得できるだろうか。これができるならば最終的に暴力を封じ込める希望が持てるだろう。そして宗教的寛容と統一をインド全体に説得できるだろうと彼は考えた。弟子と献身的な志願者の一団を伴って、彼は平和と和解の使命を帯びてノーアカーリーに向かった。彼は七十七歳だった。インド当局からも支持者たちからも彼は警告を受けていた。常に正統派であったノーアカーリーのイスラム教徒は今や狂信的になっている。彼は間違いなく暗殺されるだろう。インド亜大陸全体がまさに彼が沈静させようとしている暴力の渦に巻き込まれることになるというのである。「何が起ころうとも覚悟はできている」と彼は従弟のナランダース・ガンディーへの手紙に書いている。「まさに命がけなのだ。ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が平和に共存できるか、私が死ぬかだ」

The Mind of Mahatma Gandhiから
 

  ヒンドゥー教徒もムスリムも、殺さず自ら死ぬ勇気を培って欲しい。もしその勇気がなければ、せめて殺し殺される術を身につけることだ。卑怯にも危険から逃れてはならない。逃げる者は精神的なヒンサー(暴力)を振るうのだ。逃げるのは、殺そうとして殺されるだけの勇気がないからだ。
  私の非暴力は決して力を失わせない。このような非暴力を通じてのみ、国民は危機に際して欲するならば統制のとれた暴力を行使することができるようになる。
 私のとなえる非暴力は極めて能動的な力である。そこには卑怯や弱さの余地はない。暴力的な男はいつの日か非暴力を学ぶ望みがある。卑怯者には何も期待できない。再三述べてきたように、自分と女性と礼拝所とを受難によって非暴力で守ることができないのであれば、男である以上、戦って守らなければならない。
 いかに肉体の力が弱くても、逃げるのは恥である。我々は持ち場を守って死ななければならない。これこそが非暴力であり同時に義勇なのだ。いかに弱くともあらん限りの力を振り絞って敵に危害を加え、その過程で死ぬ――これは義勇であり、非暴力ではない。危険に立ち向かうことが義務であるのに逃げるのは、卑怯である。  
 私は非暴力をとなえる。しかし、非暴力を守ることができない人、守るつもりがない人がいることを認める。その人たちが武器を取りこれを使うことを認める。何度でも繰り返すが、非暴力は弱者のものではない。強者のものなのだ。
 危険に直面しないで逃げることは、人と神と自身に対する信頼を否定することだ。このような精神的破綻状態で生きるよりは入水して死んだ方がましだろう。

 彼は1948年1月30日、暗殺された。

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2007年5月13日 (日)

ガンジーは無抵抗主義者か(3)

 非暴力と不服従によって英国のインド支配にあくまで抵抗したのがガンジーの運動であった。
「ガンジーの無抵抗主義」などという誤解はどこから生じたのか?

 1950年(昭和25年)、文藝春秋3月号に坂口安吾が書いた「安吾巷談 野坂中尉と中西伍長」の一部を見てみよう。(青空文庫をコピーさせていただきました。全文はここ

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 戦争抛棄という世界最初の新憲法をつくりながら、ちかごろは自衛権をとなえ、これもあやしいものになってきた。
 吉田首相は官吏の減少を国民負担の第一条件と断定しながら、軍備を予定しているとしたらツジツマの合わぬこと夥しいではないか。
 軍人一人と官吏一人では、国民の負担の大きさが違う。軍人一人には装備という大変な重荷がついている。原子バクダン時代に鉄砲一つの兵隊なら、ない方がよろしい。戦車でも、おかしい。要するに、ない方がよろしい。
 無抵抗主義というものは、決して貧乏人のやむを得ぬ方法のみとは限らないものだ。戦争中に反戦論を唱えなかったのは自分の慙愧するところだなどゝ自己反省する文化人が相当いるが、あんなときに反戦論を唱えたって、どうにもなりやしない。自主的に無抵抗を選ぶ方が、却って高度の知性と余裕を示しているものだ。
 ガンジーの無抵抗主義も私は好きだし、中国の自然的な無抵抗主義も面白い。中国人は黄河の洪水と同じように侵略者をうけいれて、無関心に自分の生活をいとなんでいるだけのことだ。彼らは蒙古人や満洲人の暴力にアッサリ負けて、その統治下に属しても、結局統治者の方が被統治者の文化に同化させられているのである。
 こういう無関心と無抵抗を国民の知性と文化によって掴みだすことは、決して弱者のヤリクリ算段というものではない。侵略したがる連中よりも、はるかに高級な賞揚さるべき事業である。こういう例は日本にもあった。徳川時代の江戸大坂の町人がそうだ。彼らは支配者には無抵抗に、自分の生活をたのしみ、支配者よりも数等上の文化生活を送っていた。そして、支配者の方が町人文化に同化させられていたのである。
 戦争などというものは、勝っても、負けても、つまらない。徒らに人命と物量の消耗にすぎないだけだ。腕力的に負けることなどは、恥でも何でもない。それでお気に召すなら、何度でも負けてあげるだけさ。無関心、無抵抗は、仕方なしの最後的方法だと思うのがマチガイのもとで、これを自主的に、知的に掴みだすという高級な事業は、どこの国もまだやったことがない。
 蒙古の大侵略の如きものが新しくやってきたにしても、何も神風などを当にする必要はないのである。知らん顔をして来たるにまかせておくに限る。婦女子が犯されてアイノコが何十万人生れても、無関心。育つ子供はみんな育ててやる。日本に生れたからには、みんな歴とした日本人さ。無抵抗主義の知的に確立される限り、ジャガタラ文の悲劇などは有る筈もないし、負けるが勝の論理もなく、小ちゃなアイロニイも、ひねくれた優越感も必要がない。要するに、無関心、無抵抗、暴力に対する唯一の知的な方法はこれ以外にはない。

「ガンジーの無抵抗主義も私は好きだし」と坂口安吾は書いているが、とんでもない誤解である。時代を考えれば無理もないのかも知れない。
「安吾巷談」は1950年1月号から文藝春秋に連載が始まった。3月号の「野坂中尉と中西伍長」は同年1月のコミンフォルムによる日本共産党批判を受けている。この批判によって、共産党は野坂参三らの所感派と宮本顕治らの国際派に分裂する。スターリン元帥に比べれば野坂参三は中尉くらいの格だというのである。
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  言うまでもなく敗戦は1945年8月15日である。1950年当時の首相は民自党の吉田茂。ガンジーは1948年1月30日に暗殺されている。

1945年8月15日 敗戦
1946年1月1日  天皇人間宣言
     11月3日  日本国憲法公布(47年5月3日施行)
1947年1月31日 2・1ゼネスト中止指令
       8月     インド・パキスタン独立
1948年11月    極東国際軍事裁判最終判決
1949年10月    中華人民共和国成立
1950年8月      警察予備隊設置
      11月     レッドパージ開始
1951年6月      朝鮮戦争勃発
       9月      サンフランシスコ平和条約調印

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2007年5月12日 (土)

ガンジーは無抵抗主義者か(2)

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 受動的抵抗passive resistanceという言葉は、ガンジーが初期にサティヤーグラハの訳語として使っていたものである。

 1906年、南アフリカのトランスヴァール政府は、インド人の移住を禁止するために「アジア人登録法」を制定しようとしていた。ヴェド・メータの『ガンディーと使徒たち』によれば

……この法律が成立すれば、トランスヴァール在住のインド人はすべて指紋を採られ、政府発行の登録証を常時携帯しなければ罰金または懲役に処せられるか本国に送還されることになった。登録を許されるのは法律の成立時にトランスヴァールに在住しているインド人だけだった。インド人たちは犯罪者のように指紋を採られたくなかったし、犬が首輪に鑑札をつけるように登録証を持ち歩きたくなかった。さらに、もしこの法律が通れば、インド人をすべてトランスヴァールから、やがては南アフリカ全土から追い出すために使われる恐れがあった(当時トランスヴァールには約一万三千人、南アフリカ全土では約十万人のインド人がいた)。またほかの植民地でも同じような法律が作られるかも知れなかった。
 ガンディーの指導の下に、トランスヴァール在住のインド人はアジア人登録法に対する反対運動を開始した。ヨハネスバーグの古いエンパイア劇場で大集会が開かれ、作戦計画が練られた。「法律が成立すればインド人は処罰を覚悟して抵抗する」という決議案が提出された。討論が始まると、一人の男が立ち上がって激しい口調で発言した。余人は知らず自分は、神を証人として、絶対に登録には応じないと彼は言い切った。ガンディーはこの男が神の名を口にしたことに打たれた。ガンディーは出席者に注意を促した。もし「神を証人として」決議案に賛成するならば、厳粛な誓約をしたことになり、決して取り消すことはできません、と彼は言った。「この決議は多数決では採択できません。誓約によって他人の行動を左右することはできないからです。……各人が自分の心を検討して下さい。自分は最後まで戦い抜く力があると、内なる声が告げているでしょうか? その場合だけ、誓いを立てるのです。誓いが実を結ぶのもその場合だけです」エンパイア劇場に集まった者全員が立ち上がり、右手を挙げて、神を証人として、自分は決して登録には応じないと一斉に誓った。政治的権利のための闘いとして始まった運動が、魂の救済の闘いとなったのである。救済の達成は、ガンディーが確信し始めていたように、真理と愛を通じてのみ可能であった。サティヤーグラハの力、ガンディーが生涯をかけて精錬して行くことになる原理を通じてのみ可能であった。
 この前後にガンディーはこう書いている。

 サティヤーグラハは「受動的抵抗」と英訳される。この言葉は、苦痛を我が身に引き受けることによって権利を獲得する方法を指す。これは武器による抵抗の反対である。良心に反することを為すのを拒むとき、私は霊の力を使う。たとえば、時の政府が私に適用される法律を作ったとする。私はその法律に反対である。もし暴力に訴えて政府に法律を撤回させるならば、私は肉体の力を使う。法律に背いて処罰を受け入れるとすれば、私は霊の力を使うのである。これは自己犠牲を伴う。……さらに、仮にこの力が不正な目的に使われたとしても、害を受けるのは使った者だけなのだ。
(同書pp.166-167)

 受動的抵抗passive resistanceという言葉はあまりに消極的であるとして、ガンジーはやがて自身の造語サティヤーグラハSatyagrahaをそのまま使うようになった。
 英語の辞書でこの語について正しい記述をしているのはランダムハウス英和辞典である。

Satyagraha
【1】(インドで)サティヤーグラハ[真理把持]運動:1919年 M.K.Gandhi が政治的社会的改革の方法として始めた非暴力不服従抵抗政策.
【2】(一般に)非暴力不服従運動.
[1920.<ヒンディー語=サンスクリット語 satya 真理+agraha 強い愛着,固執]

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2007年5月11日 (金)

ガンジーは無抵抗主義者か(1)

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 マハトマ・ガンジーが無抵抗主義者であったというのは誤解である。
 ガンジーは非暴力をとなえたが、無抵抗を勧めたことはない。
 マハトマ・ガンジー全集は英語版で全100巻あり、全部を読んだ人は一人もいないだろう。だから確言することはできないが、ガンジーが無抵抗という言葉を肯定的文脈で用いたことはないはずだ。

 三省堂のニューセンチュリー和英辞典で「無抵抗」を引くと、訳語はnonresistanceとなっている。これは正しいが、続いて挙げられている次の例文は間違っている。

インドはマハトマ・ガンジーの無抵抗主義による諸政策に導かれてついに英国の支配から独立した。
India led by Mahatma Gandhi's policies of passive resistance, finally gained its independence from the British rule.
 
 policies of passive resistanceは「無抵抗主義による諸政策」ではない。
 passive resistanceを訳するならば「受動的抵抗」である。「無抵抗」などという訳は、どこをどうひねっても出てこないはずだ。

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2007年5月10日 (木)

ガンジーは暴力を選ぶ

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 もし卑怯と暴力のいずれかを選ばなければならないとすれば、私は暴力を勧める。……インドは、もし必要ならば自らの名誉を守るために敢然と武器を取るべきであって、卑怯未練にも不名誉を甘受してはならない。
 非暴力は暴力にはるかに勝り、寛恕は制裁よりも男らしいと私は信ずる。寛恕は戦士の特性である。……しかし非暴力が寛恕であるのは、制裁の力があるときだけである。無力な者が許す振りをして見せても無意味である。
(出典 The Mind of Mahatma Gandhi)

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2007年5月 9日 (水)

漱石と柔術?


 それからボートも漕ぎました。その自分いろんな色の帽子を造って被ることが流行ったもんだから、吾々の仲間でも黒い帽子を被ることにして、Black Clubと名づけました。よく向島へ出掛けたものですよ。又その頃大学に乗馬会というものが出来て、夏目君も、是公も、私も、狩野君も入ってました。講道館へは夏目君は通ったかしら? 何でも遣りよったから、多分少しは通ったろうと思います。私は勿論通いましたが、例のルーズベルトの前で試合をして、最近亡くなって十段を追贈せられたという、何とか云いましたね、そうそう山下八段はその自分はまだ二段でした。その他外来のスポーツとしては庭球も遣りました。その人はローンテニスと云ったものです。初めは一橋にあった予備門の芝生の上で、よく先生方が球の打ち合いをしていられたが、未だ規則も何もない、決して本物のテニスではなかったのでしょう。成立学舎の向側に三菱――現今の郵船会社でしょうね――その三菱の船長をしていたクレープスという外人が住んでいて、その庭で時々テニスをしていました。これは本物のテニスだったんでしょうね。しかし高い黒板塀がめぐらしてあったから、私どもはただ塀の下から覗いてみるだけでした。最後に野球ですが、前にも申す通り、その頃大学は一橋にあって、今の赤門内は一面に草ぼうぼうの野原で、だ他店問題だけがあそこに置いてありました。で、天文台関係の人達だけがその草原で時々ベースボールをやる。ベースボールと云っても、ベースも何も置いてあるわけではない。ただ球を打ってそれを何人かで受け留めるだけですがね。私も夏目も予備門の生徒だから、あの辺へ遊びに行くと、人数の都合上仲間に入れと云われて、時たま球を受け留める役にまわった。或時夏目が球を受け取り損ねて、睾丸(きんたま)にあたったものと見え、頻りに「痛い、痛い!」と云っていたが、明くる日から学校を休んで出て来ない。さては球が睾丸に当たったせいだなと心配していたが、よく聞いて見ると、その前からお汁粉を飲み過ぎて盲腸炎になったのでした。
(太田達人「予備門時代の漱石」より)

I_soseki

「ルーズベルトの前で試合した山下八段」は
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、

山下 義韶(やました よしつぐ、1865年3月13日 - 1935年2月26日)は、講道館四天王の一人で、十段位を最初に許された柔道家である。
 小田原藩(現在の神奈川県)の武芸の指南役の家に生まれる。1884年8月14日の講道館に入門後に頭角を現し、入門からわずか3ヵ月後には初段を取得、横山作次郎、西郷四郎、富田常次郎と共に講道館四天王とされた。1885年6月には二段、同年9月三段、1886年5月四段、1893年1月15日五段、1898年1月六段と、順調に昇段。   その後1902年にアメリカのシアトルに渡り、演武や講和を通じて柔道の普及に尽力。1904年10月23日には七段位となった。 
  1905年3月29日にはワシントンD.C.で、ジョージ・グランドという体格ではるかに上回るレスラー(山下の身長162cm、体重68kgに対し、このレスラーは身長200cm、体重160kg)と試合をし、抑え込みで勝利した。これを見ていたセオドア・ルーズベルト大統領に認められ2年契約で合衆国海軍兵学校の教官となる。
  1907年に契約期間満了に伴い帰国し、その後は講道館の指南役を務めた。以降も1920年3月17日八段、1930年4月1日九段と昇段を重ねる。1935年2月にその生涯を閉じると、嘉納治五郎は同年10月24日、「終始一貫斯道ノ普及ニ務メソノ成果国内ニ遍ク遠ク海外ニモ及ビソノ功績極メテ顕著ナリ」とし講道館史上初となる十段位を贈った。なお、2006年現在、柔道十段を認められたものは山下を含めわずか15人である。

 


漱石は講道館へ通ったのだろうか?

『三四郎』には、広田先生が来客と柔術の稽古をするシーンがある。(柔道か柔術か(1))
坊ちゃん』の喧嘩のシーンもなかなかよく書けていますね。

 ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの頬骨へ中ったなと思ったら、後ろからも、背中を棒でどやした奴がある。教師の癖に出ている、打て打てと云う声がする。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を抛げろ。と云う声もする。おれは、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、傍に居た師範生の頭を張りつけてやった。石がまたひゅうと来る。今度はおれの五分刈の頭を掠めて後ろの方へ飛んで行った。山嵐はどうなったか見えない。こうなっちゃ仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいったんだが、どやされたり、石をなげられたりして、恐れ入って引き下がるうんでれがんがあるものか。おれを誰だと思うんだ。身長(なり)は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云う声がした。今まで葛練りの中で泳いでるように身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引上げてしまった。田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンより旨いくらいである。

 実際には松山中学での漱石は文学士だというので月給80円で校長よりも高給取りだったという。むしろ赤シャツだったのだ。でも「身長(なり)は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだ」というのも漱石の一面でしょうね。
 ロンドン留学中にはプロレスを見に行ったことを正岡子規に手紙で報告しているくらいだから、格闘技にも関心があった。(柔道か柔術か(5)参照)
 予備門時代には「器械体操が群を抜いて上手かった」という。(夏目漱石年譜
 英語教師になってからは、possibleとprobableの違いを質問されて、
「私がこの教壇上で逆立ちをすることはpossibleであるがprobableではない」と答えたというから、運動は得意だったのだ。

 講道館で柔術を稽古した可能性はあると思いますね。この方面は今更研究する人がいないのでしょう。資料がないのが残念だ。どなたかご教示下さい。

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