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2007年5月 9日 (水)

漱石と柔術?


 それからボートも漕ぎました。その自分いろんな色の帽子を造って被ることが流行ったもんだから、吾々の仲間でも黒い帽子を被ることにして、Black Clubと名づけました。よく向島へ出掛けたものですよ。又その頃大学に乗馬会というものが出来て、夏目君も、是公も、私も、狩野君も入ってました。講道館へは夏目君は通ったかしら? 何でも遣りよったから、多分少しは通ったろうと思います。私は勿論通いましたが、例のルーズベルトの前で試合をして、最近亡くなって十段を追贈せられたという、何とか云いましたね、そうそう山下八段はその自分はまだ二段でした。その他外来のスポーツとしては庭球も遣りました。その人はローンテニスと云ったものです。初めは一橋にあった予備門の芝生の上で、よく先生方が球の打ち合いをしていられたが、未だ規則も何もない、決して本物のテニスではなかったのでしょう。成立学舎の向側に三菱――現今の郵船会社でしょうね――その三菱の船長をしていたクレープスという外人が住んでいて、その庭で時々テニスをしていました。これは本物のテニスだったんでしょうね。しかし高い黒板塀がめぐらしてあったから、私どもはただ塀の下から覗いてみるだけでした。最後に野球ですが、前にも申す通り、その頃大学は一橋にあって、今の赤門内は一面に草ぼうぼうの野原で、だ他店問題だけがあそこに置いてありました。で、天文台関係の人達だけがその草原で時々ベースボールをやる。ベースボールと云っても、ベースも何も置いてあるわけではない。ただ球を打ってそれを何人かで受け留めるだけですがね。私も夏目も予備門の生徒だから、あの辺へ遊びに行くと、人数の都合上仲間に入れと云われて、時たま球を受け留める役にまわった。或時夏目が球を受け取り損ねて、睾丸(きんたま)にあたったものと見え、頻りに「痛い、痛い!」と云っていたが、明くる日から学校を休んで出て来ない。さては球が睾丸に当たったせいだなと心配していたが、よく聞いて見ると、その前からお汁粉を飲み過ぎて盲腸炎になったのでした。
(太田達人「予備門時代の漱石」より)

I_soseki

「ルーズベルトの前で試合した山下八段」は
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、

山下 義韶(やました よしつぐ、1865年3月13日 - 1935年2月26日)は、講道館四天王の一人で、十段位を最初に許された柔道家である。
 小田原藩(現在の神奈川県)の武芸の指南役の家に生まれる。1884年8月14日の講道館に入門後に頭角を現し、入門からわずか3ヵ月後には初段を取得、横山作次郎、西郷四郎、富田常次郎と共に講道館四天王とされた。1885年6月には二段、同年9月三段、1886年5月四段、1893年1月15日五段、1898年1月六段と、順調に昇段。   その後1902年にアメリカのシアトルに渡り、演武や講和を通じて柔道の普及に尽力。1904年10月23日には七段位となった。 
  1905年3月29日にはワシントンD.C.で、ジョージ・グランドという体格ではるかに上回るレスラー(山下の身長162cm、体重68kgに対し、このレスラーは身長200cm、体重160kg)と試合をし、抑え込みで勝利した。これを見ていたセオドア・ルーズベルト大統領に認められ2年契約で合衆国海軍兵学校の教官となる。
  1907年に契約期間満了に伴い帰国し、その後は講道館の指南役を務めた。以降も1920年3月17日八段、1930年4月1日九段と昇段を重ねる。1935年2月にその生涯を閉じると、嘉納治五郎は同年10月24日、「終始一貫斯道ノ普及ニ務メソノ成果国内ニ遍ク遠ク海外ニモ及ビソノ功績極メテ顕著ナリ」とし講道館史上初となる十段位を贈った。なお、2006年現在、柔道十段を認められたものは山下を含めわずか15人である。

 


漱石は講道館へ通ったのだろうか?

『三四郎』には、広田先生が来客と柔術の稽古をするシーンがある。(柔道か柔術か(1))
坊ちゃん』の喧嘩のシーンもなかなかよく書けていますね。

 ひゅうと風を切って飛んで来た石が、いきなりおれの頬骨へ中ったなと思ったら、後ろからも、背中を棒でどやした奴がある。教師の癖に出ている、打て打てと云う声がする。教師は二人だ。大きい奴と、小さい奴だ。石を抛げろ。と云う声もする。おれは、なに生意気な事をぬかすな、田舎者の癖にと、いきなり、傍に居た師範生の頭を張りつけてやった。石がまたひゅうと来る。今度はおれの五分刈の頭を掠めて後ろの方へ飛んで行った。山嵐はどうなったか見えない。こうなっちゃ仕方がない。始めは喧嘩をとめにはいったんだが、どやされたり、石をなげられたりして、恐れ入って引き下がるうんでれがんがあるものか。おれを誰だと思うんだ。身長(なり)は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだと無茶苦茶に張り飛ばしたり、張り飛ばされたりしていると、やがて巡査だ巡査だ逃げろ逃げろと云う声がした。今まで葛練りの中で泳いでるように身動きも出来なかったのが、急に楽になったと思ったら、敵も味方も一度に引上げてしまった。田舎者でも退却は巧妙だ。クロパトキンより旨いくらいである。

 実際には松山中学での漱石は文学士だというので月給80円で校長よりも高給取りだったという。むしろ赤シャツだったのだ。でも「身長(なり)は小さくっても喧嘩の本場で修行を積んだ兄さんだ」というのも漱石の一面でしょうね。
 ロンドン留学中にはプロレスを見に行ったことを正岡子規に手紙で報告しているくらいだから、格闘技にも関心があった。(柔道か柔術か(5)参照)
 予備門時代には「器械体操が群を抜いて上手かった」という。(夏目漱石年譜
 英語教師になってからは、possibleとprobableの違いを質問されて、
「私がこの教壇上で逆立ちをすることはpossibleであるがprobableではない」と答えたというから、運動は得意だったのだ。

 講道館で柔術を稽古した可能性はあると思いますね。この方面は今更研究する人がいないのでしょう。資料がないのが残念だ。どなたかご教示下さい。

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