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2007年6月27日 (水)

奈良の正倉院(3)

 皇太子の訪欧(英国、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアを歴訪)は歴史上はじめてであり、「将来天皇になるお方を夷狄の国に出すなど怪しからん」というような反対も強かった。
 何しろ「攘夷」はそれほど昔のことではなかった。万延元年が1860年で、この年3月の桜田門外の変で大老井伊直弼が殺された。これが1921年の61年前である。2007年から1945年は62年前なのだ。
 それに、「果たしてあの皇太子で大丈夫か? 外国へ出して恥をかかないか」という懸念もあったらしい。
 元老山縣有朋が大正9年に皇太子に拝謁したとき、山縣がいろいろ質問するのに皇太子は一言も答えることができなかった。あれは何だ、あんなのでは困るではないかと山縣は思ったらしい。
 ある軍人に対してこのときのことを「あたかも石地蔵のごとき御態度」と言ったというからすさまじい。
 まったく「不敬」ではないか――と思うでしょう。しかし、ちょっと山縣の立場に立ってみてやって欲しい。山縣有朋(1836-1922)はこのとき82歳で、2年後には死ぬ(国葬になったが石橋湛山は「死もまた社会奉仕」と評した)のである。

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 もう私利私欲はなかったと思う。
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」を文字通り実現したいと思っていたのである。そのためには大逆事件(1910年)のような無理筋もあえて辞せなかった。
 それなのに、今の天皇は何だ。この間は議会で詔書を丸めて遠眼鏡にして覗いたというではないか。その跡継ぎの皇太子が石地蔵ではわしは死んでも死に切れん――というようなことを考えていたのではないか。

 しかし、1921年(大正10年)3月3日から9月9日まで半年間にわたる訪欧は成功であった。日英同盟破棄(1923年)を前にした英国では大歓迎を受けた。
 

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