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2007年6月30日 (土)

詐欺とはどういうことだ?

 朝鮮総連と元公安調査庁長官の事件ですが、さっぱり分かりませんね。
 仮に裁判員制度が始まっていて私が裁判員だったら

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「こいつは悪いやつだ。顔を見れば分かる。審理なんかしなくてよろしい。有罪に決まり」と言うところだ。しかし詐欺とはどういうことだ?
 詐欺なら被害者がいるでしょう。
 典型的なのはオレオレ詐欺。半分ぼけたおばあちゃんなんかが被害者だ。いや年寄りだけとは限らない。働き盛りでも欲に目がくらんで架空の投資話などにだまされることはある。しかし、詐欺の被害者というのはあまり頭がいいとは言えないことは確かだ。

 朝鮮総連に対しては、これまでにずいぶん罵詈雑言が投げつけられている。しかし「朝鮮総連のやつらは頭が悪いから云々」というような悪口だけはなかったと思う。
 詐欺の被害者になるようなタマか?
 はじめは「電磁的公正証書原本不実記録」の容疑で捜査をはじめたのではなかったか? これなら、朝鮮総連が主犯、緒方氏は共犯だ。
 ところがNHKのニュースでアナウンサーが真面目な顔をして「朝鮮総連からだまし取ろうとして云々」などと言うからびっくりするじゃないか。
 いつ誰の指示で捜査の方針が変わったのか? NHKでそんなことを言えるはずがないのは分かる。しかし、ほかのメディアが全部口裏を合わせているのはなぜだ?
 検察が事情聴取を進めるうちに、朝鮮総連も実はだまされていたことが分かってびっくりした――そんなことを誰が信じるか?
 どなたか裏の事情を解説してくれませんか?

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2007年6月29日 (金)

もてない男はウソだった

 小谷野敦さんといえば『もてない男』として有名で、続編の『もてない男の逆襲』も洛陽の紙価を高めたのであるが、このほどこれが真っ赤なウソであることが判明した。
 他山の石ブログによると

 『週刊新潮』の最新号「結婚」欄に、小谷野敦さんが結婚相手の21歳年下の東大大学院生と一緒に写っている写真が掲載されている。
 写真を見ると、ストレートのロングヘアーの知的な美人で、眼鏡っ娘である。小谷野さんが「かわいい」というだけある。そして小谷野さんは自慢げな顔をしている。ちょっぴりうらやましい。(以下略)

 怪しからん。小谷野さんに石をぶつけよう。

 なお、小谷野氏は現在続々編『ギターを持ったもてない男』を執筆中で、近日刊行されるという。

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2007年6月27日 (水)

奈良の正倉院(3)

 皇太子の訪欧(英国、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアを歴訪)は歴史上はじめてであり、「将来天皇になるお方を夷狄の国に出すなど怪しからん」というような反対も強かった。
 何しろ「攘夷」はそれほど昔のことではなかった。万延元年が1860年で、この年3月の桜田門外の変で大老井伊直弼が殺された。これが1921年の61年前である。2007年から1945年は62年前なのだ。
 それに、「果たしてあの皇太子で大丈夫か? 外国へ出して恥をかかないか」という懸念もあったらしい。
 元老山縣有朋が大正9年に皇太子に拝謁したとき、山縣がいろいろ質問するのに皇太子は一言も答えることができなかった。あれは何だ、あんなのでは困るではないかと山縣は思ったらしい。
 ある軍人に対してこのときのことを「あたかも石地蔵のごとき御態度」と言ったというからすさまじい。
 まったく「不敬」ではないか――と思うでしょう。しかし、ちょっと山縣の立場に立ってみてやって欲しい。山縣有朋(1836-1922)はこのとき82歳で、2年後には死ぬ(国葬になったが石橋湛山は「死もまた社会奉仕」と評した)のである。

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 もう私利私欲はなかったと思う。
「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」を文字通り実現したいと思っていたのである。そのためには大逆事件(1910年)のような無理筋もあえて辞せなかった。
 それなのに、今の天皇は何だ。この間は議会で詔書を丸めて遠眼鏡にして覗いたというではないか。その跡継ぎの皇太子が石地蔵ではわしは死んでも死に切れん――というようなことを考えていたのではないか。

 しかし、1921年(大正10年)3月3日から9月9日まで半年間にわたる訪欧は成功であった。日英同盟破棄(1923年)を前にした英国では大歓迎を受けた。
 

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2007年6月26日 (火)

奈良の正倉院(2)

「……ワトソン君もなかなかのものだよ。……ところが、グルーナーが正倉院という日本の名前を持ちだしたから、たちまち化けの皮がはげた。……」
 エドワード7世は続けて正倉院の話をしたに違いない。
「正倉院には、何でも聖武天皇のゆかりの品をおさめてあるらしい。この天皇は8世紀の人だというから、我が国のアルフレッド大王より100年以上も前だ。そんな昔のものを保存しておるというのは、日本という国もなかなか馬鹿にならんぞ。お前たちも日本へ行く機会があったら、ぜひこの正倉院を見てきなさい」
 というような話を、皇太子で後のジョージ5世やその長男のエドワードや次男のジョージは聞いたと思う。
 写真は右がエドワード7世、左が長男で皇太子のジョージ、1910年に即位してジョージ5世になった。セーラー服の子供は、後ろの方がジョージの長男エドワード(のちの8世)、前が次男ジョージ(のちの6世)。

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 実際に孫が日本に来て正倉院を見ているのですね。1922年(大正11年)4月12日にエドワード皇太子が来日し、5月9日まで滞在したときに、正倉院も見学している。(プリンス・オブ・ウェールズを「皇太子」と呼ぶのは厳密に言うとおかしいかも知れないが、ここでは慣用に従う。)

 これはその前の年、大正10年に日本の皇太子(のちの昭和天皇)が訪英されたのの答礼であった。
 皇太子裕仁親王殿下は当時20歳で、同年帰国後に大正天皇の摂政に就任されている。

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 この写真は御真影ではない。別人28号です。しかし、まあ、こんな感じの青年だった。(続く)

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2007年6月24日 (日)

奈良の正倉院(1)

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 まずお尋ねするが、聖武天皇については何かご存じかな? この天皇と奈良の正倉院の関係は? おやおや、お分かりにならんのですかな?

I would ask you what do you know of the Emperor Shomu and how do you associate him with the Shoso-in near Nara? Dear me, does that puzzle you?
                                                    
 1902年9月、グルーナー男爵は「ドクター・ヒル・バートン」に化けたワトソンをこう問い詰めた。男爵は「奈良の近くの正倉院Shoso-in near Nara」と言っているが、これはちょっと不正確。正倉院は奈良市内にあります。こういう場合は訳文で訂正しておく方がよろしい。

 1902年、日英同盟が締結された年ともなると、英国人(あるいはドイツ人)もかなり日本のことを知っていたらしい。
 これは『高貴な依頼人』の事件であった。ホームズも名指しを憚ったほどの依頼人は、連合王国の王、エドワード7世陛下であった。

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 エドワード7世(1841-1910)は、ヴィクトリア女王の長男で、1901年1月22日、女王の崩御と同時に即位した。ときに59歳だった。この人は皇太子時代が長すぎたので、その間に遊びまわってとかくの評判もあったのだが、即位してからは第1次大戦前の欧州に安定をもたらして名君と言われた。

 それはともかく、この事件でのホームズとワトソンの活躍は王様を感心させたようだ。エドワード7世はサー・ジェイムズ・デマリー(この人がホームズに直接会って事件の依頼をした)から詳しい話を聞いたに違いない。そして子供や孫たちにその話をしたのではないかと思いますね。
「むろんホームズ君は偉いが、ワトソン君の方もなかなかのものだよ。男爵をだまして支那の陶器の通のふりをせねばならんというので、図書館から本を借りてきて一夜漬けで猛勉強したらしい。ホンウーとかヨンローとかタンインとか、わけの分からん支那の固有名詞を一生懸命覚えたそうだ。ところが、グルーナーが正倉院という日本の名前を持ちだしたから、たちまち化けの皮がはげた。……」

 たしかに化けの皮ははげたのだが、ホームズが男爵邸に忍び込んで「茶色の革製で金の紋章が入った帳面(鍵がかかっている)」を盗み出すだけの時間的余裕を与えた。

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 そして、この帳面はどういうものだったか? 男爵の「愛情日記」あるいは「愛欲日記」であった。キティ・ウィンター嬢によれば
「蝶々の収集をする人がいるでしょう。この男はね、代わりに女を収集していてこれが自慢の種なの。ぜんぶあの帳面に書いてあります。スナップショットが貼ってあるし、名前から何から細々と一切合財書き込んであるの」
 この帳面を見せてやれば、「自尊心のある女なら我慢はできないだろう」というのがホームズの予想で、ヴァイオレット・ド・メルヴィル嬢ももちろん例外ではなく、事件は解決したのであった。

 男爵の「愛情日記」であった、というところで何か思い出しませんか? 同じような日記を付けていた人がいたはずだ。この人はジェームス(ジェイムズではない)何某という名前だけれど日本人で、たしか「春の歩み」とかいう題名の日記も日本語で付けていたのだった。しかし、彼の場合は大したことにならず、今でも大いに活躍しておられるのはご同慶の至りだ。

 エーと、正倉院の話を書くつもりであったが、続きはまた。

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2007年6月23日 (土)

バートン=ライトのステッキ術

 バートン=ライトの創始した格闘技「バーティツ」は、シャーロック・ホームズの「バリツ」と関係があると言われています。

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 これについては、柔道か柔術か(8)-(11)あたりに書いておりますので、詳しく知りたい人はどうぞご覧下さい。

 日本の柔術にない工夫はステッキ対ステッキの戦い方です。ちょっと写真を見てみましょう。

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 ステッキ術についてもっと詳しく知りたい人は
http://ejmas.com/jnc/jncart_barton-wright_0200.htm
をご覧下さい。
 上のサイトにもありますが、こちらは素手、相手はステッキを持っている場合はどうするか、たとえば

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  この足技は空手ではなくフランスのサバットという蹴り主体の格闘技だそうです。オシャレですね。
   もう一つ、素手対ステッキの例。ボクシングとはちょっと違うでしょう。ふつう西洋人はこういうふうに腰を割らない。日本の武道の影響でしょう。パンチを決めたあとに「残心」があるのも素敵だ。

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   次はまたステッキ対ステッキですが、両手で持つのは西洋では珍しい。これも日本の剣術の影響だと思う。

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  もう一組、今度は剣術とはかなり違う動きをしている写真。

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2007年6月20日 (水)

ジョンソン博士の決闘論

 私は果たして決闘がキリスト教の掟に背馳するか否か、明確にしてもらいたいと思うと語った。ジョンソンは直ちにこの主題に乗り出して、実に鮮やかな手並みでこれを裁断した。私が記憶する限り、彼の考えは次のようであった。「君、人間の付合いが高度に洗練されると人を怒らせる原因も多様になり、本来はそれほど深刻でないにもかかわらず、それを晴らすために生命を賭さねばならないほどゆゆしい侮辱と思われる行為も発生する。念入りに磨き上げられた物体は、簡単に傷がつく。人間がこの種の不自然な洗練さを身につける以前ならば、誰か隣人を嘘つき呼ばわりすれば相手も負けずにお前こそ嘘つきだと言い返し、誰か隣人を殴れば相手も負けずに殴り返すことで事態が落着したのに反して、高度に洗練された社会では侮辱は深刻な危害だとみなされる。従ってそれへの黙認はもはや許されなくなって決闘が義務となり、世間が決闘に訴えず自ら侮辱に甘んずる男を仲間はずれにする了解が成立しているところでは、必然的に決闘が行われる。ところで君、自己の防衛のために戦うことは、決して不法ではない。従って決闘に訴える者は相手への激情からではなく自己正当化のために、つまり世間での汚名を晴らして社会からの追放を防止するために戦うわけだ。僕はこの種の余計な洗練された感情がない方がよいと思う一人だけれども、この通念が存続する限り決闘に訴えることは疑いなく合法だろう。」
 念のためにいうがこの正当づけは、たんに侮辱を受けた側にのみ妥当する。侵害者に対しては、すべての人間がこれを糾弾せねばならない。
(1772年4月10日、決闘論。中野好之訳)

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2007年6月16日 (土)

ホームズの木刀術(11)

 もう一つ、これは米海軍のシングルスティックの稽古風景。

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 海軍のシングルスティックは、どうやら木刀をカチカチと打ち合わせるだけらしい。剣道やフェンシングとは違って勝負はつけないようだ。
 シャーロック・ホームズは、パブリックスクールへ行かなかったとすると、この海軍式のシングルスティックをどこかで覚えたのだろう。

 米英ともに、左手を(上の写真は裏焼きらしく左右逆だが)背中の後ろに回しているのはどういうわけだろう。
 そもそも我々日本人から見ると、もう少し剣を長くして両手で持てばいいのにと歯がゆくなる。しかし、それぞれ民族的な癖があって、日本人の剣の使い方が特殊なのだろう。中国の青竜刀はずいぶん重いはずだが、やはり片手使いだ。

 スターウォーズの「ライトセーバー」は両手で持つのだった。

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 しかし、あのチャンバラは黒澤映画の真似だろうが、全くさまになっていなかったね。
 ジョージ・ルーカスは三船敏郎にダース・ベイダー役で出演を依頼して断られたのだという。ダース・ベイダーが例のお面を脱いで、三船の顔が出て来たら凄かったのに。三船敏郎なら、もちろん本物の剣戟を見せてくれただろう。
 ちなみに、ヨーダには宮沢喜一氏を起用する方針だったという。

 スターウォーズのチャンバラがおかしいのは
(1)まず刀の持ち方。

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 両手で持つなら、もっと重そうにしなくちゃ。軽ければ片手で振り回せばいいのだ。左右の手の間隔がくっつきすぎているし、むやみにきつく握っている。「手のうち」なんて言ってもアメリカ人には分からないだろうな。

(2)ライトセーバーを持った同士が互いにすり寄って刀と刀を打ち合わせるのも変だ。

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 西洋剣術ではああいうふうにやるのだろう。フェンシングのサーブルでも、相手の攻撃をまず剣で払ってこちらに攻撃権が移り、それから斬るなり突くなりする。
 剣道では抜き胴などという技がある。中西門下で千葉周作の先輩だった高柳又四郎は、誰と試合しても自分の竹刀に相手の竹刀を触らせずに勝ち「音無し剣法」といわれた。
 椿三十郎もそうだった。最後の仲代との例のシーンは凄かったし、十数人を一度に斬ってしまったときでも、三船の刀は一度も敵の刀に触れていない。反撃する暇を与えず、二太刀ずつ浴びせて全員を殺してしまった。

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 エーと、何の話だったか。ずいぶん話が逸れた。

 ホームズのsinglestickが「棒術」ではなく、「木刀術」だということだった。それははじめから分かっていたが、昔のイギリスの木刀がどんなものか、どう使ったかは知らなかった。調べてみるものですね。

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2007年6月15日 (金)

ホームズの木刀術(10)

 シングルスティックの試合では、相手の頭を割って流血させるのが目的だという。乱暴な話だ。ただ、トネリコの木は日本の樫の木刀ほど硬くはないから、脳震盪にはならないのではないか(と思う)。

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 木刀に大きな籠柄がついているのは、籠手打ちで木刀を取り落とすと試合がすぐに終わって困るからだろう。左手と脚を紐で結ぶのは何のためか? 左手を挙げて頭をガードするのでは、指を木刀で叩かれて骨折することがあるからだと思う。
 骨折は困るが頭から血が出るは構わん、というのは実に滅茶苦茶である。しかし、互いに流血させるために全力を尽くすのである。頭ばかりねらっても防がれるので、ときどき胴打ちをまじえて相手のガードを下げようとする。痛くても我慢してしっかり頭を守った方が勝者になる。
 パブリックスクールのシングルスティックは、片刃の剣の技術の練習というより、「根性養成」や「肝試し」が目的だったようだ。

 海軍では、もう少しカトラスの実戦に近い形でシングルスティックの稽古をさせた。
 写真は1876年に行われた英国海軍のシングルスティックの演武会。

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 この時点で英国の最近の戦争はロシアとトルコを相手にしたクリミア戦争(1853-56)である。そのほかに東洋へ行って土人をいじめたのは阿片戦争(1840-42)やインド大反乱(1857-58)などをはじめ、数え切れないほどある。しかし、もうカトラスは使われなくなっていたと思いますね。現在の銃剣術と同じで、実用というよりやはり根性養成のための訓練だったのだ。

 インド大反乱に関しては、「アグラの財宝」の事件が想起される。これは実に30年後の1888年になって、インドから持ち帰った財宝がもとでショルト少佐の息子が殺された事件だった。シャーロック・ホームズが見事にこれを解決し、ワトソンは妻を見つけたのだった。

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2007年6月14日 (木)

ホームズの木刀術(9)

 戦闘におけるフェアプレイ! 野蛮と小児らしさのこの原始的なる感覚のうちに、はなはだ豊かな道徳の萌芽がある。これはあらゆる文武の徳の根本ではないか? 「小さい子をいじめず、大きな子に背を向けなかったものという名を後に残したい」と言った、小イギリス人トム・ブラウンの子供らしい願いを聞いて我々はほほえむ。けれどもこの願いにこその上に偉大なる規模の道徳的建築を建てるべき隅の首石であることを、誰が知らないであろうか。
(Bushido:Soul of Japan, 1900  新渡戸稲造『武士道』矢内原忠雄訳)

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ヒューズ,トマスHughes, Thomas英 1822-96作家.
オックスフォードシャー州アフィントン生まれ.オックスフォード大学で学び,弁護士の資格を得て(1848),州の裁判所の判事となる(1882).リベラル派の下院議員になり,キリスト教社会主義者と親交があり,労働者学校の設立に力を貸した(1854).のちには同大学の校長を務めている(1872-83).パブリック・スクール小説の古典「トム・ブラウンの学校生活」の著者として何よりも記憶されるが,これは,トマス・アーノルドが校長をしていたラグビー校での彼自身の経験に基づいている.
(岩波ケンブリッジ人名辞典)

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トム・ブラウンの学校生活』(1857)は1830年代のラグビー校の学生生活を描いた小説。ヒューズ自身1834年から42年まで同校に生徒として在学し、1872年から83年まで校長を務めた。新渡戸稲造が『武士道』を書いた1900年ごろにはまだ広く読まれていた。

ラグビーの起源は、1823年、イングランドの有名なパブリックスクールのラグビー校でフットボールの試合中、ウィリアム・ウェッブ・エリス (William Webb Ellis) がボールを抱えたまま走り出したことだとされていたが、これは後世のロマンティックな創作だという説が有力である。19世紀初頭からボールを持って走る「ランニングイン」が始まったのは確かだが、その第1号がエリス少年だったかどうかは不明であり、手を使うこと自体はそれ以前でも許されていた。エリス少年自体は実在の人物で、オックスフォード大を卒業して神父となり、フランスで没したことが確認されている。南仏コートダジュールの小都市・マントンに墓地がある。ラグビーとクリケットを愛したと伝えられている。
(ウィキペディア「ラグビー」より)

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2007年6月12日 (火)

ホームズの木刀術(8)

 武器は、ふつうのシングルスティックよりも重くやや短い、大きな籠柄のついた太いトネリコの木刀である。選手は「オールド・ゲームスター」と呼ぶことになっているが、これがなぜかは分からない。試合の目的は相手の頭を割ることである。眉毛より上から1インチでも血が流れれば、流血した方の負けである。血は木刀でごく軽く叩けば出るので、わざと敵の胴や腕を激しく打たない限り、特に苛烈な競技ではない。試合をするには、まず帽子と上着を脱ぎ、木刀を取る。それから左手の指にハンカチか紐を巻いて、これを左脚に結びつける。紐の長さは、肘をなるべく高く頭のあたりまで挙げたときに紐がピンと張るように調節する。これで相手が打ってきてもひるまずに肘を高く上げておれば、左横面は完全に防御できる。右手は前に持ってきて木刀を横にして構え、切っ先が左肘と1インチか2インチ重なるようにすると、頭全体が完全にガードできる。相手の方も同じように構え、3フィートくらい、あるいはもっと近い間合いで相対する。こうして互いに相手の頭をねらってフェイントをかけ、打ち、切り返し、一方が「ホールド」と叫ぶか、血が流れるまで続ける。ホールドの場合は1分間休憩してから再開する。血が出た場合はそれで勝負がついて別の組が呼ばれる。選手が上手だと、すばらしい速さで切り返しが続く。子供が鉄柵にステッキをあてて走るとカタカタカタという、あれをもっと重くした音が響く。至近距離で向き合った男たちが木刀を打ち合わせるさまはまことに壮観である。
Tom Brown's School Days, 1857)

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2007年6月 8日 (金)

ホームズの木刀術(7)

 カトラスとは何か? 辞書でcutlassを引くと「短剣」と書いてある。これは間違い。
 短剣なら短刀と同じだろうと思ってしまう。短刀は九寸五分がきまりだ。

「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりませぬ」
「フウ存生に対面せで残念。ハテ残り多やな。コレコレ御検使。御見届け下さるべし」
と三宝引き寄せ九寸五分押し頂き
「力弥、力弥」
「ハツハツ」
「由良之助は」
「いまだ参上つかまつりませぬ」
「是非に及ばぬ。これまで」と刀逆手に取り直し、弓手に突き立て引廻す。

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 というような場面で使う。

 カトラスcutlassはどういう人が使ったかというと

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 もちろん、ロング・ジョン・シルバーみたいな海賊だけが使ったわけではない。海軍で使った。英国海軍では1941年まで制式装備だった。
 実際に使ったのはもっと前の帆船時代だ。ナポレオン戦争のころには船は木造で装甲なんかなかったが、大砲の威力が小さかったから砲撃で撃沈はできなかった。敵艦に接舷して「切り込み隊」が乗り込んで勝負を付けた。
 そういうときに使う剣は何がよいか? レイピアは決闘向きで乱戦で使うにはヤワすぎる。技術も必要だ。サーベルの方がよいが、刃渡り80cm以上もあるのは扱いにくい。馬上で使うには長くなくてはならないけれど。
 というわけで、刃渡り60cmくらいの刀を使うようになった。日本でいえば大脇差である。こういう刀で水兵が切り込みをかけた。

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 このようなカトラスとサーベルの稽古用にシングルスティックが使われた。 

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2007年6月 7日 (木)

ホームズの木刀術(6)

 ドイツ第二帝国(1871-1919)ではサーベルによる決闘が行われていた。
 フランスではどうか。これは調べてない。ウィキペディアの記事を引用します。

フランスでは20世紀はじめまで、決闘はごく普通に行われ、その結果が新聞に掲載された。もちろん決闘は非合法化されていたが、あまりに決闘の数が多く、この時代までは実際には取り締まられていなかった。第一次世界大戦後、決闘は古臭いと思われるようになり、新聞記事になることも少なくなった。しかし、散発的に決闘は行われていた。最終的に第二次世界大戦後、決闘はほとんど行われなくなった。しかし、散発的な決闘は現代でも行われることがある。

 本当だろうか? 本当でしょうね。ウソだと考える理由はない。自分でフランス語の文献を調べる余裕はありません。
 こういう決闘には、サーベルではなくレイピアが使われたはずである(もちろん拳銃を使うこともあった)。レイピアというのは

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 三銃士やダルタニアンが使ったような突く剣である。このレイピアの稽古用の剣がフェンシングのエペであり、その軽量版がフルーレである。
 シャーロック・ホームズは、グロリア・スコットの事件で

Bar fencing and boxing I had few athletic tastes,……
僕はフェンシングとボクシングを除いて運動の趣味はほとんどなかった……
 
 と言っているが、フェンシングというのはエペのことでしょうね。ホームズはパブリックスクールに行かなかったらしいからラグビーなどのチームスポーツは知らなかったが、親戚にフランス人がいたからフェンシングの心得があった。

 フェンシングにはエペとフルーレのほかにもう1種目「サーブル」がある。しかしこれは実戦用のサーベルとはかなり違う。突くだけでなく切ることもできるが、ごく軽いものだ。柄の部分を見ても分かる。

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 サーベルの実戦とサーブルの試合は、テニスとピンポンくらい違うでしょう。

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 フェンシングとは別にシングルスティックがあって、これがbacksword片刃の剣の練習用ということになっていた。片刃の剣にはサーベルのほかに、cutlassカトラスがあった。(続く)

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2007年6月 6日 (水)

ホームズの木刀術(5)

 ドイツの学生はMensurというものをして、これは辞書に決闘と書いてあるけれども、実は決闘Duellとは違うという話であった。英語でもドイツ語でも辞書が正しいとは限らない。
 Mensurとは何かというと

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 1900年ごろの学生組合のMensurを描いた絵です。
 見れば分かるように、まず剣が違う。サーベルではなく突き専用の剣で大きな鍔がついている。Korbshlaegerという剣である。胴には革製の防具、その下に鎖帷子を着込んでいる。首も厳重に保護している。眼はゴーグルで被っている。二人とも直立不動である。フットワークなどは使わない。
 Mensurというのは決闘ではない。
 決闘DuellはSatisfaktion(英語satisfaction名誉回復)が目的である。喧嘩を剣で解決しようとするのだから、一方が負傷するまではやめない。場合によっては死ぬ危険もあるが、やむを得ないのだ。
 これに対して、Mensurはスポーツの性格が強い。剣を構えて相対している二人は互いに恨みがあるわけではない。決闘とよく似ているけれども決闘ではなく、「肝試し」なのだ。双方防具を着け、その場に直立してフットワークは使わず、剣をもった手だけを動かして叩き合う。だから、命に関わるような大怪我は少なかった。
 もちろん剣を使うのだから、負傷は免れなかった。どうなったかというと、たとえば

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 この学生は頭に怪我をしたらしい。のぞき込んでいる無帽の学生は左頬に「名誉の負傷」がある。日本ならばヤクザの印なのに、ドイツというのは乱暴な国ですね。
 1871年(ドイツ帝国の成立)から1914年までに、ドイツではおよそ1万2000件のMensuren(複数)が行われたという。これとは別に、サーベルによる決闘もあった(こちらはそれほど多くはなかった)。
 ナチスが政権を取ると、決闘は完全に禁止された。Mensurは禁止されなかったが、学生組合が解散させられたので廃れてしまった。
 第二次大戦後にはどうなったか。1951年になってゲッティンゲン大学でMensurを戦後はじめて再開した学生が傷害罪で逮捕された。しかし、「双方同意の上での傷害は傷害罪を構成しないから無罪」という判決が出た。1958年にはベルリン自由大学の学生がMensurを行って退学処分を受けたが、裁判でこの処分が取り消された。だから、Mensurは合法ということになって、現在でも行われているらしい(詳しいことは知りません)。
 どうも怖ろしい国ですね。
 サーベルによる決闘の話であったが、逸れてしまった。続きはまた。

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2007年6月 5日 (火)

悪代官

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越後屋、おぬしも悪よのう。

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2007年6月 2日 (土)

ホームズの木刀術(4)

(ホームズから離れて回り道をしている。そのうち木刀術に戻ります。)

 イギリスでは、1829年にウェリントン公爵が決闘をしたのをきっかけに決闘は廃れてきて、1840年代には行われなくなった。このあたりのことは例の偽メール事件の際に「永田君、決闘しよう」という記事を書いたので、見てください。

 ところが、ドイツでは1935年(昭和10年)くらいまでサーベルによる決闘が行われていたというから凄い。満州事変の勃発が1931年9月18日、ヒトラーの総統就任が1933年1月30日である。
 決闘をしたのはまず軍人である。常時携帯しているのだから、何かもめ事があればサーベルで解決しようということになるのは、まあ自然である。
 大学生も決闘をした。近代ドイツの大学ではVerbindung(フェアビンドゥング)とかKorps(コーア)などと呼ばれる学生組合が独自の発達を遂げた。19世紀初めには自由主義的な政治活動の拠点になったこともあるが、まずビールを飲んで楽しくやるのが主な活動であった。

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 上の絵は1900年ごろの学生組合のコンパのようす。

 学生組合は今でもあるらしい。制服制帽のマールブルグ大学学生組合員。JETRO Deutschlandのサイトから一枚お借りしました。

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 ところが学生組合員同士で「名誉の問題」を生ずる場合がある。これをサーベルを使って解決するのである。決闘用のサーベルは騎兵用そのままではなく、もう少し軽いものらしい。

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 これは、やはり1900年ごろの学生の決闘風景。胴、首、右腕、籠手に防具のようなものを付けているし、戦い方もいくらか儀式化されているようだが、命の危険があることは変わらない。
 こういう決闘は、ヒトラーが政権を取ってナチスが学生組合を解散させるまで続いたというから怖ろしい。
 独和辞典でMensurを引くと、「(学生どうしのフェンシングによる)決闘」という定義があるが、サーベルを使うのはあくまでDuell(英語ならduel、決闘)であって、Mensurというのはまた別なのだという。(続く)

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ホームズの木刀術(3)

 西洋剣術の話でした。
 木刀術singlestickは片刃の剣backswordの稽古用であった。
 Backswordというのは、まずサーベルとカトラスcutlassである。
 サーベルは、もちろん騎兵用の刀ですね。

Pksm1811b2_2

  写真はプロシア陸軍の1811年制式「ブリュッヘル・サーベル」です。
 ワーテルローの戦い(1815年)で、ブリュッヘル将軍麾下のプロシア騎兵が使った。
Der Preussische Kavalleriesaebel M 1811 "Bluechersabel"によれば

 全長 950mm
 刃渡 825mm
 身幅  39mm
 重量 1154g

 日本刀と比べると、刃渡は長い方である。江戸時代の刀は2尺3寸(70cm)が定寸であった。もちろん実際に人斬りに使うならば長い方が有利なので、たとえば土方歳三の佩刀、和泉守兼定は2尺8寸(84.8cm)あった。しかし、そんなに長い刀を使いこなせる人は多くなかったはずだ。2尺7寸が81.8cmで、だいたいこのサーベルと同じ長さだ。
 重量はサーベルの方が日本刀より重いのではないかと思いますね。日本刀は柔らかい芯鉄を硬い皮鉄や刃鉄で包んで二重構造にするから、折れず曲がらずよく切れるのだそうだ。
 
Pksm1811b12_2_1  
   サーベルの方は工業製品である。同じ規格で何万本も作るから、日本刀のような面倒な製法はだめである。1本の鋼材を研いで刃を付けるだけだから、かなり厚くて幅もなければ強度を確保できない。
  ともかく重量1154グラムは野球のバットよりずっと重い。これを乱戦の中で馬上から片手で振り下ろすのだから大変だ。技術よりもまず腕力でしょうね。 1_britishcavalrychargel_1       
   ところが、このサーベルを決闘に使う場合があった。この場合は、剣術が問題になってくる。
 このサーベルによる決闘が盛んに行われたのは特にドイツであった。(続く)

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