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2007年7月31日 (火)

ラッセル自伝の誤訳(1)

Russell_2

 バートランド・ラッセル自伝は、今のところ英和対訳版がオンラインで読めます。
目次 
http://russell.cool.ne.jp/beginner/AUTOBIO.HTM
書き出しの部分
http://russell.cool.ne.jp/beginner/AB11-010.HTM
 翻訳されたのは、松下彰良氏。松下氏に感謝します。

 しかし、ちょっと見ただけでかなり間違っていますね。「ホームズの性格」でラッセル自伝の誤訳のことは「いずれまた」と書いたのだけれど、先にこちらを見ておこう。

 日高一輝訳で理想社から出た『ラッセル自叙伝』(絶版中)にずいぶん間違いが多いので、松下氏もこのサイトを作られたのだろう。労を多としたいが、間違いが直っていなかったり、別の間違い方をしている箇所がかなりある。
 間違いは誰でもあるので仕方がないが、なぜ周りの人が「間違ってますよ」と教えてあげないのだろうか?

 書き出しの部分をコピーさせてもらいます。

 私が最初にはっきり思い出せるのは、1876年2月、ペムブローク・ロッジ(松下注:ロンドン郊外リッチモンドにある祖父の屋敷)に到着した時のことである。正確にいうと、私はペムブローク・ロッジ到着のことをよく覚えておらず、私が記憶しているのは、ロンドンの終着駅の、多分パディントン駅(Paddington)の、大きなガラス屋根である。ペムブローク・ロッジに行く途上でその駅に降りたわけであるが、その駅は信じがたいほど美しく見えたのである。(注:ロンドンに10ケ所ある British Railway のメイン・ターミナルの1つで、南西イングランド及び南ウェールズ方面への列車が発着する。→[参考文献]三澤晴彦著『ロンドン発英国鉄道の旅』(光人社,1998年))
 ペムブローク・ロッジに着いた当日の記憶は、使用人(召し使いたち)の食堂(Hall)で飲んだお茶である。その食堂は、広く、長くどっしりしたテーブルとテーブル用の椅子と、(背もたれのない)高い腰掛け一つだけしか置いてない部屋であった。使用人たちは皆この部屋でお茶を飲んだが、女中頭(松下注:日高氏は、house-keeper を「管理人」と訳されているが、ここでは後にでてくるように、ミセス・コックスという年輩の女中頭のことをさしている。ロッジ管理人は、後にでてくるシングルトン氏)とコックと祖母専属の女中(lady's maid)と執事(使用人頭)は、女中頭の部屋で上流階級を形成していた。私はその使用人たちの部屋で、お茶を飲むために高い腰掛に座らされた。そこで私が最もはっきりと覚えているのは、なぜ使用人たちはそんなに私に興味をもつのだろうかと不思議に思ったことである。その時はまだ、私は、大法官(注:司法長官と上院議長を兼務)や何人もの有名な勅撰弁護士やその他の著名人たちが私を真剣に考慮の対象にしていることを知らなかったし、また、私がベンブローク・ロッジに来る以前に起こった奇妙な出来事も、私が大人になるまで知らなかった。
 私の父アムバーレイ卿は、長い間病をわずらい次第に衰弱が進んでいたが、(私がペムブローク・ロッジにつく)直前に(1876年始めに)亡くなられたところであった。母と姉(誤訳:日高一輝訳『ラッセル自叙伝』では「妹」になっているが、年上の妹はいない。)はそれより一年半ほど前(1874年に)ジフテリアで死亡していた。あとで日記や手紙でわかったことであるが、母は活発で、精力的で、機知に富み、まじめで、独創的で、そして恐れを知らない人であった。また、写真から判断すると、美人でもあったにちがいない。
 父は、哲学に通じ、学問好きで、超俗的で、気むずかしい、きちょうめんな人であった。
 二人とも熱心な改革論者で、そうしてどのような理論でも自分が正しいと思ったらいつでも実行にうつす覚悟をもっていた。父はジョン・スチュアート・ミルの信奉者かつ友人であり、そのミルから父母は、産児制限論者及び婦人参政権論者になることを学んだ。父は産児制限を唱えたために国会の議席を失った。母はその急進的な意見の故にしばしば、苦境におちいった。

 ここまでは、まあよろしいでしょう。問題はこれに続く次の箇所です。

 メアリー女王の両親が主催したある園遊会で、ケンブリッジ公爵夫人がかん高い声でこう言った- 
「ええ、わたしにはあなたがどのような方かわかっていますよ。わたしの息子の嫁です。けれど、聞くところによれば、あなたが好きなのはただけがらわしい過激派とアメリカ人だけだそうですね。ロンドン中でそれが言いふらされており、社交クラブではその話でもちきりです。私は、世間のうわさどおり急進派やアメリカ人が本当にけがわらしいかどうかを知るために、あなたのペチコートの中(出入りしている世界)をのぞいてみなければならないですね」
 フローレンス駐在英国領事からの次の手紙は、そのことに関する事情をよく物語っている
「レディ・アムバーレイ
 私はM.マッツィーニの崇拝者ではなく、彼の性格と主義主張は全く嫌いであり、憎悪しています(注:M は G の誤植だろうか? 即ちマッツィーニというのは、ジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini, 1805-1872)のことだろうか、それとも別人だろうか?)。その上、私が占めている公的な地位を考えれば、彼との文通の橋渡し役をつとめることはできません。しかしながら、このことで、あなたに不親切にしたいとは思いませんので、あなたの手紙が彼の許に届くようにと、私の出来る唯一の方法、すなわち、それを ガエッタ(イタリアのナポリの近くの小都市)の(マッチーニの)プロクラトーレ(法定代理人)気付にして投函することにしました。
 敬 具  1870年9月22日  A. Paget」(注:なぜPostと、Pが大文字になっているのか不明)
 マッツィーニは、私の母に彼の時計のケースを贈った。それを今、私が所有している。

 太字にしたのは引用者です。この太字の箇所、すなわち

(1)「メアリー女王の両親」
(2)「わたしの息子の嫁」
(3)「ペチコートの中(出入りしている世界)」
(4)M.マッツィーニに関する注
 
 が明らかな間違いです。どう間違っているか? 一つずつ見て行きましょう。

Bertrandrussellage8

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