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2007年7月 4日 (水)

奈良の正倉院(4)

 1922年(大正11年)には、前年の皇太子訪英の答礼として英国の皇太子(正式にはプリンス・オブ・ウェールズ)エドワードが来日した。
 英国皇太子、後のエドワード8世は、1921年に巡洋戦艦レナウン号に搭乗して英国を出発した。まずインドを訪問してから、日本にまわるという旅程だった。

 インドでは1920年、ガンディー(ガンジー)の「非協力」が国民会議派の綱領に採択された。インドは彼の指導の下にスワラージ(自治)に向かって歩み始めた。このとき彼は51歳であった。

 一九二一年、ガンディーはインド全土を巡る旅に出た。彼は会議派の党員に助言を与え新党員を獲得するために、どんな辺鄙な村にも入っていった。彼は托鉢僧や行者のように白いカーディーのドーティー(腰布)を身にまとうようになった。彼が来ると聞くと、村人は一目姿を見てダルシャンにあずかろうと駅に押し寄せた。彼はサティヤーグラハとアヒンサーについて、あるいは南アフリカでの経験について、短い話をした。彼は自ら選んだ貧困、謙譲、単純で気高い生活で知られ、マハトマと呼ばれるようになった。

Gandhi3

 初めのうち、政府は非協力運動を黙殺していた。馬鹿げたヒステリックな運動で、すぐに消滅すると予想したのである。しかし運動が本格化してくると、これは法と行政の全体系を脅かすことが政府にも分かってきた。政府はガンディーの動きを見守り始めた。一九二一年十一月、英国皇太子がボンベイを訪問したが、彼の訪問は市民にボイコットされ、暴動と放火が続発した。その後インドの各都市で集会と行進が禁止され、会議派の事務所は深夜の捜索を受け扇動的文書が押収された。一九二二年一月までに、三千人の会議派党員が投獄された。
(『ガンディーと使徒たち』p.193)

 日本に着いたのは1922年4月12日であった。1921年11月にボンベイ(現在のムンバイ)でボイコットされてから日本着までの間は、ビルマ、香港などを訪問していたらしい。
 日本ではインドとは打って変わって大歓迎であった。プリンス・オブ・ウェールズは5月9日まで滞在した。
 次は日本での足跡を見てみよう。

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