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2007年7月12日 (木)

奈良の正倉院(7)

 中学の一年生か二年生のころと思ふ。私の家にときどき顔を出して、ほかの者はあまり相手をしないから、わたしをつかまへては世間話をして帰つてゆく中年男がゐて、彼の話のなかで一つ、おもしろいのがあつた。
 その男は以前、横浜だつたか神戸だつたかで巡査をしてゐたことあるのださうだが、
「英国の皇太子というふのが日本に来てな。その警備をさせられた。ところがこいつがひどい奴で、若い女を見かけるとすぐに色目を使ふ。声をかける。いや、とんでもない野郎だったな」
と回想して
「ああいふ野郎だから、せつかく王様になつても、シンプソン夫人とかいふのに夢中になつて退位させられた。あの事件が起つたとき、あ、あいつならやりさうだなあと思ひましたぜ」
といふ話だつた。
  
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   調べてみると、のちにエドワード八世になり、さらにウィンザー公になつた、そのプリンス・オブ・ウェイルズは、1922年(大正11年)の4月12日に来訪して、5月9日、去つて行つた。これだけ長く日本に滞在すれば、ずいぶん遊べたはずで、さう言へば、たしか彼がハツピを着て人力車をひいてゐる写真もあつたやうな気がする。そして退位は1936年(昭和11年)、わたしは小学五年生だつた。
(丸谷才一『猫だつて夢を見る』p. 264)

 はっぴを着ている写真は探したがなかった。
   エドワード8世(1894-1972)は1936年1月、42歳で独身のまま即位した。同年12月、二度の離婚歴のあるアメリカ人、ウォリス・シンプソンとの結婚に際して反対を受けたため、退位してウィンザー公を名乗った。代わって弟ジョージ6世(1895-1952)が即位した。

Wallis_and_edward
 一歳年下の弟ジョージは1923年にすでに結婚して、1926年にはのちにエリザベス2世となる長女をもうけていたが、「兄貴は無責任だ。私は何も準備してこなかったのに」とぼやいて即位したという。ジョージ6世は真面目な性格だったが、戦争と戦後の植民地独立などの苦労がたたって健康を崩し、1952年に57歳でなくなった。兄のウィンザー公は1972年まで生きた。

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コメント

>鴎外森林太郎(1862-1922)は、軍医総監(中将相当)を最後に陸軍を退官し、1917年(大正6年)12月、56歳の時に帝室博物館総長に任ぜられた。
 帝室博物館は現在の東京国立博物館(上野公園内)である。総長として鴎外は奈良の博物館と正倉院の運営にも責任を有していた。<

   「猫」とは何か?
 漱石は猫を、こう描いている。
「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか噸と見当がつかぬ」

もしも、この「我が輩」が【ニセ明治天皇(大室寅之祐)】の揶揄、即ち、
「猫」が【倭根子(やまとねこ)――皇統譜上の人物――明治天皇】であったなら……。

「吾輩は猫【倭根子・皇統譜上の人物・明治天皇】である。名前【漢風諡号】はまだ無い。
どこで生まれたか噸と見当がつかぬ」となる。
するともう一方の雄【森鴎外は、『帝謚考』でニセ明治天皇を嗤っている】事になる。
ニセ明治天皇下の軍医総監の職も鴎外は嫌だったのである。
だから、自分の墓に、(世俗の)一切の肩書きを付ける事を禁止し、それを友に遺言したのである。

帝室博物館総長として、聖武太上天皇の遺品を納めた正倉院に赴いた時が、
森鴎外の至福の時であったろう。

投稿: 銀河 秋彩 | 2011年7月 3日 (日) 05時32分

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