奈良の正倉院(8)
鴎外森林太郎(1862-1922)は、軍医総監(中将相当)を最後に陸軍を退官し、1917年(大正6年)12月、56歳の時に帝室博物館総長に任ぜられた。
帝室博物館は現在の東京国立博物館(上野公園内)である。総長として鴎外は奈良の博物館と正倉院の運営にも責任を有していた。
大正7年から10年まで、鴎外は11月になると正倉院の曝涼のために奈良に出張するようになった。大正7年11月、子供宛の手紙
パパは正倉院と言う天子様のお倉の虫干しに奈良へ来たのです。今日天子様のお書き判のある紙で錠前が巻いてあるのを解いてみると中から守宮が一匹飛び出しました。毎年一匹入っているのだと役人が言いました。お倉の中に色々なものがあるがその中に蘭奢待と言う香の大木があります。ポンコ位の大きさです。足利義政や織田信長や豊臣秀吉が少しづつ切って取ったことがあります。切った跡にそれぞれ切った人の名が書いて張り付けてあります。明治天皇様のお切りになった跡もあります。お倉から帰りに奈良の大仏を見ました。首が落ちて毀れたので首だけ新しく拵えて付けてあります。 十一月五日
茉莉ちゃん 杏奴こ ポンチに
大正11年(1922年)は、英国皇太子が正倉院を見学するというので、鴎外は4月末に奈良に向かった。この年、61歳である。前年秋、足に浮腫ができるなど、腎臓病の兆候が出始めていた。
英国皇太子は5月5日に正倉院に来た。
妻しげ子宛の手紙によると
英国皇太子は今日(五日)正午に正倉院に来て二十分でまわってかえった。このために此方は十日も費やすのである。……
鴎外としては、正倉院の秘宝について詳しく説明するつもりで病躯をおして十分に準備していたに違いない。しかし英国皇太子には猫に小判だったようだ。お祖父さんのエドワード7世に一度は見ろと言われたから来てみただけらしい。すぐに近鉄に乗って大阪に向かった。近鉄のサイトによれば
大正11年の春、イギリスのエドワード皇太子(のちのエドワード8世)が来日、5月5日午後、奈良~上本町間を特別電車にご乗車になりました。走行中殿下は終始お立ちになったままで、沿線の歓迎の人波におこたえになりました。
エドワード皇太子は5月9日まで日本に滞在した。京都に行って舞妓と遊んだらしい。「正倉院では樹下美人とかいう絵を見せられたが、わたしは千年以上前の美人なんぞに興味はない。生きている美人がいいね」
森鴎外は5月7日の寝台車で奈良を発った。6月末、腎萎縮で肺結核の兆候もあると診断されたが、病気のことは自分で分かっていたようである。7月9日死去し、向島弘福寺に埋葬された。
鴎外の墓は現在は三鷹の禅林寺にある。鴎外は「墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可カラス」と遺言した。たしかに墓石を見ると「森林太郎之墓」ではなく「森林太郎墓」となっている。さすがは鴎外だなあ。「之」の一字の有無にこだわったのだ。
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