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2007年7月31日 (火)

ラッセル自伝の誤訳(1)

Russell_2

 バートランド・ラッセル自伝は、今のところ英和対訳版がオンラインで読めます。
目次 
http://russell.cool.ne.jp/beginner/AUTOBIO.HTM
書き出しの部分
http://russell.cool.ne.jp/beginner/AB11-010.HTM
 翻訳されたのは、松下彰良氏。松下氏に感謝します。

 しかし、ちょっと見ただけでかなり間違っていますね。「ホームズの性格」でラッセル自伝の誤訳のことは「いずれまた」と書いたのだけれど、先にこちらを見ておこう。

 日高一輝訳で理想社から出た『ラッセル自叙伝』(絶版中)にずいぶん間違いが多いので、松下氏もこのサイトを作られたのだろう。労を多としたいが、間違いが直っていなかったり、別の間違い方をしている箇所がかなりある。
 間違いは誰でもあるので仕方がないが、なぜ周りの人が「間違ってますよ」と教えてあげないのだろうか?

 書き出しの部分をコピーさせてもらいます。

 私が最初にはっきり思い出せるのは、1876年2月、ペムブローク・ロッジ(松下注:ロンドン郊外リッチモンドにある祖父の屋敷)に到着した時のことである。正確にいうと、私はペムブローク・ロッジ到着のことをよく覚えておらず、私が記憶しているのは、ロンドンの終着駅の、多分パディントン駅(Paddington)の、大きなガラス屋根である。ペムブローク・ロッジに行く途上でその駅に降りたわけであるが、その駅は信じがたいほど美しく見えたのである。(注:ロンドンに10ケ所ある British Railway のメイン・ターミナルの1つで、南西イングランド及び南ウェールズ方面への列車が発着する。→[参考文献]三澤晴彦著『ロンドン発英国鉄道の旅』(光人社,1998年))
 ペムブローク・ロッジに着いた当日の記憶は、使用人(召し使いたち)の食堂(Hall)で飲んだお茶である。その食堂は、広く、長くどっしりしたテーブルとテーブル用の椅子と、(背もたれのない)高い腰掛け一つだけしか置いてない部屋であった。使用人たちは皆この部屋でお茶を飲んだが、女中頭(松下注:日高氏は、house-keeper を「管理人」と訳されているが、ここでは後にでてくるように、ミセス・コックスという年輩の女中頭のことをさしている。ロッジ管理人は、後にでてくるシングルトン氏)とコックと祖母専属の女中(lady's maid)と執事(使用人頭)は、女中頭の部屋で上流階級を形成していた。私はその使用人たちの部屋で、お茶を飲むために高い腰掛に座らされた。そこで私が最もはっきりと覚えているのは、なぜ使用人たちはそんなに私に興味をもつのだろうかと不思議に思ったことである。その時はまだ、私は、大法官(注:司法長官と上院議長を兼務)や何人もの有名な勅撰弁護士やその他の著名人たちが私を真剣に考慮の対象にしていることを知らなかったし、また、私がベンブローク・ロッジに来る以前に起こった奇妙な出来事も、私が大人になるまで知らなかった。
 私の父アムバーレイ卿は、長い間病をわずらい次第に衰弱が進んでいたが、(私がペムブローク・ロッジにつく)直前に(1876年始めに)亡くなられたところであった。母と姉(誤訳:日高一輝訳『ラッセル自叙伝』では「妹」になっているが、年上の妹はいない。)はそれより一年半ほど前(1874年に)ジフテリアで死亡していた。あとで日記や手紙でわかったことであるが、母は活発で、精力的で、機知に富み、まじめで、独創的で、そして恐れを知らない人であった。また、写真から判断すると、美人でもあったにちがいない。
 父は、哲学に通じ、学問好きで、超俗的で、気むずかしい、きちょうめんな人であった。
 二人とも熱心な改革論者で、そうしてどのような理論でも自分が正しいと思ったらいつでも実行にうつす覚悟をもっていた。父はジョン・スチュアート・ミルの信奉者かつ友人であり、そのミルから父母は、産児制限論者及び婦人参政権論者になることを学んだ。父は産児制限を唱えたために国会の議席を失った。母はその急進的な意見の故にしばしば、苦境におちいった。

 ここまでは、まあよろしいでしょう。問題はこれに続く次の箇所です。

 メアリー女王の両親が主催したある園遊会で、ケンブリッジ公爵夫人がかん高い声でこう言った- 
「ええ、わたしにはあなたがどのような方かわかっていますよ。わたしの息子の嫁です。けれど、聞くところによれば、あなたが好きなのはただけがらわしい過激派とアメリカ人だけだそうですね。ロンドン中でそれが言いふらされており、社交クラブではその話でもちきりです。私は、世間のうわさどおり急進派やアメリカ人が本当にけがわらしいかどうかを知るために、あなたのペチコートの中(出入りしている世界)をのぞいてみなければならないですね」
 フローレンス駐在英国領事からの次の手紙は、そのことに関する事情をよく物語っている
「レディ・アムバーレイ
 私はM.マッツィーニの崇拝者ではなく、彼の性格と主義主張は全く嫌いであり、憎悪しています(注:M は G の誤植だろうか? 即ちマッツィーニというのは、ジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini, 1805-1872)のことだろうか、それとも別人だろうか?)。その上、私が占めている公的な地位を考えれば、彼との文通の橋渡し役をつとめることはできません。しかしながら、このことで、あなたに不親切にしたいとは思いませんので、あなたの手紙が彼の許に届くようにと、私の出来る唯一の方法、すなわち、それを ガエッタ(イタリアのナポリの近くの小都市)の(マッチーニの)プロクラトーレ(法定代理人)気付にして投函することにしました。
 敬 具  1870年9月22日  A. Paget」(注:なぜPostと、Pが大文字になっているのか不明)
 マッツィーニは、私の母に彼の時計のケースを贈った。それを今、私が所有している。

 太字にしたのは引用者です。この太字の箇所、すなわち

(1)「メアリー女王の両親」
(2)「わたしの息子の嫁」
(3)「ペチコートの中(出入りしている世界)」
(4)M.マッツィーニに関する注
 
 が明らかな間違いです。どう間違っているか? 一つずつ見て行きましょう。

Bertrandrussellage8

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シャーロック・ホームズの性格(1)

                                                  S・C・ロバーツ

Holmes1

 シャーロック・ホームズの性格を研究する人がとかく陥りやすい誘惑は、むやみに新奇なものを求めることである。聖パウロの時代のアテネ人のように、ホームズ・ファンは新しいものを欲しがる。斬新な憶測、斬新な結論はむろん魅力的である。しかし、ともかく珍奇ならば何でもよいというのでは、学問の健全な進歩は期待できない。況やホームズ自身の原理と方法に合致しないことは言を俟たないのである。ホームズは繰り返し「データ」の重要性を強調し、当て推量ではなく推理を勧めたではないか。
 ホームズの家系についてはすでによく知られているように、祖母はフランス人であった。先祖は代々の地主で典型的な紳士の暮らしをしていた。17世紀と18世紀のワイト島の総督にホームズが一人ずついるが、これが彼の一族だったかどうかは分からない。同様に子供のときの教育についても、知られていることはほとんどない。兄のマイクロフトについては、外務省で特殊な枢要の地位に辿りつくには、60年前にはパブリックスクールと大学での贅沢な教育が不可欠だったことは想像に難くない。シャーロックについては、パブリックスクールの生活には気質的に適しなかったので幼時から自宅で教育されたか、学校へは短期間行っただけであとは家庭教師の手に委ねられたと推測してよかろう。彼の運動も、パブリックスクールよりは田舎の邸宅が背景としてふさわしい。団体競技には無知なのは周知の通りである。得意なのは家庭で学べるスポーツだった。家庭教師か、あるいはフランス人の親戚が、フェンシングを教えたのだろう。ときには父親に連れられて猟に行くこともあったはずだ。ボクシングの基本は、村の子供達と手合わせして覚えたに違いない。

[訳者より]
トスカ枢機卿の死』のS・C・ロバーツの著書Holmes and Watsonの一部です。少しずつ訳して行きます。5回くらいの連載になるはず。

 シャーロック・ホームズがパブリックスクールへ行かなかったという説はかなり有力のようだ。昔は「うちの子供はデリケートだから、パブリックスクールのような野蛮なところへは行かせない」と自宅で教育する場合があった。パブリックスクールは全寮制で、ラグビーのようなスポーツをむやみにやらせたし、体罰もいじめもあった。同性愛を覚える危険もあった。18歳になって資格試験を受ければ、オックスフォードでもケンブリッジでも入学できたらしい。

 たとえば、バートランド・ラッセル(1872-1970)もパブリックスクールへ行かなかった一人だった。彼は11歳の時に兄のフランクからユークリッドの幾何学原論を習い始めた。

 私はユークリッドは物事を証明するのだと聞いていたから、まず「公理」から始まるのには大いに失望した。最初は、なぜ公理を認めねばならぬのか、理由を言ってくれなければ認められないと頑張ったのだが、「これはまず認めないことには先に進めない」と兄は言うのだった。私は先に進みたかったから、「さしあたり」ということで渋々認めることにした。このとき感じた数学の基礎に関する疑念がそのまま残って、のちの私の仕事の方向を決定することになった。
――The Autobiography of Bertrand Russel 1巻p.36 (英語版)
(この本は邦訳が出ているようですが、おすすめできません。表紙の写真はたしかにラッセルの顔で、この表紙だけは間違いないのですが、中身は…… この話はまた。)

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  自伝の英和対訳版が
http://russell.cool.ne.jp/beginner/AB11-010.HTM
にある。書籍版の翻訳よりは遙かに優れているけれども、やはり間違いがあるようだ。この話もいずれまた。

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2007年7月29日 (日)

選手宣誓

 宣誓!

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Heil!

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2007年7月28日 (土)

シャーロック・ホームズの逆襲

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 シャーロック・ホームズについては、藤原編集室の「書斎の死体」というサイトにエッセイと翻訳4編を載せてもらっています。ぜひご覧下さい。
T・S・エリオットのホームズ論
・S・C・ロバーツ『トスカ枢機卿の死
・ロナルド・ノックス『シャーロック・ホームズ文献の研究
・S・C・ロバーツ『ワトソン年代学の問題

 このブログでは、カテゴリの「シャーロック・ホームズ」をご覧下さい。
 主なもののタイトルは

翻訳
・ドロシー・セイヤーズ「ドクター・ワトソンのクリスチャンネーム
・エドマンド・ウィルソン「ホームズさん、巨大な犬の足跡だったのです
英国紳士録におけるシャーロック・ホームズ
・ドロシー・セイヤーズ「ホームズの学生生活」1-4
・マーシャル・マクルーハン「シャーロック・ホームズ対官僚
・ケネス・レックロス「奇妙な時代
・S・C・ロバーツ「シャーロック・ホームズ小伝」1-5
・S・C・ロバーツ「シャーロック・ホームズの性格」1-5
赤毛連盟(鴎外訳)

エッセイ
明智小五郎からシャーロック・ホームズへ
柔道か柔術か1-11
牧師か神父か 1-4
赤毛のでぶ 1-2
モリアーティ元教授の職業 1-5
オックスフォードかケンブリッジか1-4
高名な?依頼人1-5
シャーロック・ホームズの事件簿から
シャーロック・ホームズと「あの女」1-8
凶器としての火掻き棒
棍棒かステッキか1-8
火掻き棒補説 1-2
・ホームズの木刀術 1-11
・バートン=ライトのステッキ術
奈良の正倉院1-8 

  著作権代理人については「コナン・ドイル」。これは標準的なコナン・ドイル伝の面白いところの抜粋と紹介です。

 これから書く予定のもの。

(エッセイ)
・ホームズの頭蓋骨
・ボヘミア王とは誰か
・手に手をとって
・プロの美人たち
・南アフリカ大虐殺とコナン・ドイル
・ミュージックホールのレスリング
・コントラルト?
・ボクサー弾を100発
・刺青論
・コナン・ドイル卿?
・ホルダーネス公爵と蜂須賀侯爵

(翻訳)
・S・C・ロバーツ『メガテリウム・クラブの盗難』――失われた冒険
・レックス・スタウト他『シャーロック・ホームズを語る――ラジオ座談会』
・ウィニフレッド・パジェット『父シドニー・パジェットの思い出』
・ドロシー・セイヤーズ『ドクター・ワトソンの結婚』
・ドロシー・セイヤーズ『アリストレテスの探偵小説論』
・ウィリアム・ジレット『シャーロック・ホームズの苦境』(一幕劇)
・アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズへの手紙』
・ジーン・コナン・ドイル『コナン・ドイルの思い出』

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2007年7月24日 (火)

ものづくりのDNA?

 翻訳業というのは因果な商売だ。
 原文あっての翻訳だ。勝手に変えてはいけない。原文がアホなら当然訳文もアホになる。これは仕方がない。
 お客様第一。
 お客様は神様です。(*The customer is God.は、ちょっとね。The customer is always right.くらいかな。)
 といっても、ものには限度があるので、特に和文英訳の場合は、「どうしても訳せません。原文を変えていただけませんか」と言わなければならないことがある。
 この間、一つありました。
ものづくりのDNAを育てる」というんだけど。どうしたらいいですか?
 
 こういうのは困る。
(1)「ものづくり」は何と訳するか?
(2) 「ものづくりのDNA」は、比喩として成り立つか?
(3) 「DNAを育てる」は?
 
(1) まさか直訳でMaking thingsともできない。やっぱり製造とか生産とかを表す言葉だろう。ProductionとManufacturingでは、後者でしょうね。
「ものづくり」は日本独自だぞと外人を脅かすには、Monozukuriとしてしまう手もありだ。

東京大学21世紀COEものづくり経営研究センター
Manufacturing Management Research Center (MMRC)

国立科学博物館ものづくり展
MONOZUKURI EXHIBITION

(2) DNAって何だ? 
 NHKなら日本、放送、協会の頭文字だ(「日放協」とすべきだと思う)。DNAは辞書では
 
DNA=Deoxyribonucleic Acid デオキシリボ核酸

 だって。知ってました? 遺伝子とどう違うか? 広辞苑

遺伝子】(gene) 生物の個々の遺伝形質を発現させるもとになるもの。その実体はデオキシリボ核酸(DNA)、一部のウイルスではリボ核酸(RNA)の分子であり、染色体上の一定の区画で、生殖細胞を通じて親から子へ遺伝情報を伝える。細胞内で蛋白質やリボ核酸の一次構造を指令し、形質発現の機構に関与する。

「遺伝子」の実体がDNAだったのだ。
「ものづくりの遺伝子」と書いてみると、たちまちインチキがばれる。

 日本人の男の大部分が身長2メートル以下なのは、遺伝子またはDNAのせいである。「身長2メートルの男になる遺伝子/DNA」がないからだ。
 日本人が「ものづくり」が得意だとして、それは遺伝子/DNAのおかげか?

Crsm0000000000

 トヨタのレクサスはメルセデスより品質が優れているらしい。これは日本が世界に誇る「ものづくり」の伝統(たとえば左甚五郎以来)だ! 日光東照宮の眠り猫を見ろ! なんて威張るのは結構だけれど、遺伝子/DNAを持ち出すのは変でしょう。

 企業名(リクルートが一番多い)のDNAというのも相当ある。そんなものはあり得ませんよ。比喩としても成り立たないのだ。

(3)DNAを育てる?
 遺伝子/DNAは「定義によって」育てることができないものです。――これで終わりなのだけれど、分からない人がいて困る。
 一体あんたはDNAというものを大根か人参とでも思っているのか? 水と肥料をやれば育つと思っているのか?

 「DNAを育てる」の例
・ 親のしごとは「DNAを育てる」こと
・やっぱり環境もDNAを育てる要因のひとつと感じますね。
・イチロー選手のように進化し続けるDNAを育てる。
・自分のDNAには自分が責任を持ち、自分のDNAを育てるのでなければ、教育現場は崩壊すると考えております。
・心のDNAを育てるためには想像力を鍛える必要がある。 一日5分間でもいいので何か一つ自分で物事を想像する訓練を身につける。 そうすることによって心のDNAが育ち幸せになるというものである。

 まだいくらでもある。
 えーい、馬鹿者共め、死ね、死ね、死んでしまえ!
 

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2007年7月22日 (日)

Manji

猪木

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谷崎潤一郎
(右側の女性が若尾文子さんです。今回の参議院選挙に立候補しています。当選したかな?)

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スワスティカ

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アドルフ・ヒトラー

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ハリー王子

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ネオナチ日本支部所在地(和歌山県)

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2007年7月21日 (土)

反リサイクル党宣言

Ein Gespenst geht um in Japan-das Gespenst des Recycling.
一つの妖怪が日本を徘徊している。リサイクリングという妖怪が。

 何年前だったか、「群像」「新潮」「文学界」のどれかに江藤淳(1933-1999)が「ゴミの分別収集」のことを書いているのを読んでびっくりしたことがある。

 私(江藤淳)は老妻と二人暮らしであるが、鎌倉市のゴミ分別収集にはほとほと弱っている。不燃ゴミだとか資源ゴミだとか何種類にも分けて出せというのだが、そんなことをしていては仕事も何もできないではないか。妻も体が丈夫ではないのだ。人間のできることには限界があるだろう。

 上は記憶に頼って勝手に再現したものです。泉下の江藤さん、ごめんなさい。原文をちゃんと読みたい人は国会図書館で文芸誌のバックナンバーをあたってください。
 今なら江藤氏もこういうことはブログに書くだろう。弟子にパソコン入力させればよいのだ。

 いま私の住んでいる田舎町も同じか、もっとひどい。
 ゴミは6種類だったかに分別しなければならない。ゴミ袋は半透明の指定ゴミ袋が色違いで4種類だったかあって、これに名前を書いて出すことになっているらしい。「資源ゴミ」2種類はゴミ袋に入れないで別に出すらしい。ペットボトルは資源ゴミだがボトルのフタは金属だから別にせよとか、たとえば焼き肉のたれの瓶は洗って出せだとか、やかましい決まりがあるらしい。
 らしい、というのは、無視しているからだ。ゴミ集積所は数百メートルも離れた所にあるし、朝の何時から何時までに出せ、というのだが、そんなことできるわけがない。
 生ゴミは庭に埋めて肥料にする。燃やせるゴミは庭で燃やす(焚き火は市条例で禁止のはずだけれど)。空き缶や瓶や大型ゴミなどは残ってしまうから、ある程度まとまったら自分で車を運転して市のゴミ集積場へ持って行く。
 これができるのは、たまたま私が村はずれに住んでいて庭が広いからだ。東京の基準で言えば「大邸宅」なので、庭で焚き火をしても文句を言ってくる人はいない。もう少したてこんだところにいたら、住民相互監視システムに従うしかない。

 ところで私はこないだ宝くじを3枚買った。1等と前後賞会わせて3億円が当たったら、これを政治資金にして「反リサイクル党」を結成し、唯一の公認候補として市会議員選挙に出るつもりだ。

 市民の皆さん。無駄なリサイクル、馬鹿馬鹿しいリサイクルは、即刻やめましょう。皆さんは大変な労力を費やしてたとえばペットボトルを集めて、いいことをしているつもりでしょう。それは大間違いなのです。ペットボトルをリサイクルすることで、資源を7倍使っているのです。ペットボトルはゴミ焼却炉で燃やすのが一番いいのです。ダイオキシンが心配だって? それは大変な誤解です。
 詳しくは『環境問題はなぜウソがまかり通るか』という本に書いてあります。諸君のような田舎者でも、この本を読めば分かるでしょう。「地球にやさしい」環境活動が、むしろ環境を悪化させているのです。

 3票くらいしか入らなかったりして。

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2007年7月18日 (水)

煙草を吸うな!

Ein Volk! Ein Reich! Ein Führer!
Nicht rauchen!

Adolf_hitler_biography_2
一つの民族! 一つの国家! 一人の総統! 
煙草を吸うな!

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2007年7月17日 (火)

ユーレカ!

 地球温暖化によって、北極の氷や南極の氷が溶けて海面が上昇する――と言われている。本当だろうか?

 まず、北極の氷については、アルキメデスの原理を考えてみればそんなことはあり得ないことが分かるはずだ。北極の氷は海水に浮かんでいるんだからね。

Ca_eureka

 アルキメデスの原理なんて言われても分からない? 困ったねえ。それならば、オンザロックを作ったときに観察してみなさい。飲まないでコップの水位にマジックインキで印をつけておくのです。何時間かして氷がすっかり溶けても水位は上がっていないはずだ。

Ontherock

 北極の氷のことは私だって分かっていた。
 しかし、南極の氷のことは、ちゃんと考えたことがなかった。南極では大陸の上に氷が乗っかっているはずだ。これが溶けたら海面が上昇するのじゃないだろうか?

I22

「南極の氷が全部溶けたとしたら、海面は60メートル上昇する」と言われる。しかし、南極大陸の気温は平均して零下50度くらいだ。平均気温が仮に3度上がっても零下47度になるだけだから、氷が溶けるはずがない。
 南極大陸の周りの気温が上がり、海水温が上がれば水蒸気の量が増える。この増えた水蒸気は雪や氷となって南極大陸に積もるから、わずかではあるが、海水面は下がることになる

――という趣旨のことは、武田邦彦氏の『環境問題はなぜウソがまかり通るか』の121頁から125頁あたりに詳しく説明してあります。

 北極の氷が溶けて海水面が上昇すると思いこんでいる人がかなりいるのは、朝日新聞1984年1月1日の朝刊の「仮想記事」がよくないのだって。これも本書の114-117ページに書いてあります。

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2007年7月16日 (月)

モンゴルの感想

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 モンゴルはなかなかいいところですよ。しかし妻を連れて来たかったなあ。それに娘も。娘は朝青龍のファンで、「ダグワドルジ」という本名で呼んでいるくらいなのだ。
 しかし、食べ物は何とかならんものかなあ。馬乳酒と羊の肉ばかりじゃないか。

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 というようなブログをお書きにならないだろうか?

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奈良の正倉院(8)

 鴎外森林太郎(1862-1922)は、軍医総監(中将相当)を最後に陸軍を退官し、1917年(大正6年)12月、56歳の時に帝室博物館総長に任ぜられた。
 帝室博物館は現在の東京国立博物館(上野公園内)である。総長として鴎外は奈良の博物館と正倉院の運営にも責任を有していた。

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 大正7年から10年まで、鴎外は11月になると正倉院の曝涼のために奈良に出張するようになった。大正7年11月、子供宛の手紙

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パパは正倉院と言う天子様のお倉の虫干しに奈良へ来たのです。今日天子様のお書き判のある紙で錠前が巻いてあるのを解いてみると中から守宮が一匹飛び出しました。毎年一匹入っているのだと役人が言いました。お倉の中に色々なものがあるがその中に蘭奢待と言う香の大木があります。ポンコ位の大きさです。足利義政や織田信長や豊臣秀吉が少しづつ切って取ったことがあります。切った跡にそれぞれ切った人の名が書いて張り付けてあります。明治天皇様のお切りになった跡もあります。お倉から帰りに奈良の大仏を見ました。首が落ちて毀れたので首だけ新しく拵えて付けてあります。 十一月五日
 茉莉ちゃん 杏奴こ ポンチに
 
 大正11年(1922年)は、英国皇太子が正倉院を見学するというので、鴎外は4月末に奈良に向かった。この年、61歳である。前年秋、足に浮腫ができるなど、腎臓病の兆候が出始めていた。
 英国皇太子は5月5日に正倉院に来た。
 妻しげ子宛の手紙によると

 英国皇太子は今日(五日)正午に正倉院に来て二十分でまわってかえった。このために此方は十日も費やすのである。……

 鴎外としては、正倉院の秘宝について詳しく説明するつもりで病躯をおして十分に準備していたに違いない。しかし英国皇太子には猫に小判だったようだ。お祖父さんのエドワード7世に一度は見ろと言われたから来てみただけらしい。すぐに近鉄に乗って大阪に向かった。近鉄のサイトによれば

大正11年の春、イギリスのエドワード皇太子(のちのエドワード8世)が来日、5月5日午後、奈良~上本町間を特別電車にご乗車になりました。走行中殿下は終始お立ちになったままで、沿線の歓迎の人波におこたえになりました。 

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 エドワード皇太子は5月9日まで日本に滞在した。京都に行って舞妓と遊んだらしい。「正倉院では樹下美人とかいう絵を見せられたが、わたしは千年以上前の美人なんぞに興味はない。生きている美人がいいね」

 森鴎外は5月7日の寝台車で奈良を発った。6月末、腎萎縮で肺結核の兆候もあると診断されたが、病気のことは自分で分かっていたようである。7月9日死去し、向島弘福寺に埋葬された。

20060220

 鴎外の墓は現在は三鷹の禅林寺にある。鴎外は「墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可カラス」と遺言した。たしかに墓石を見ると「森林太郎之墓」ではなく「森林太郎墓」となっている。さすがは鴎外だなあ。「之」の一字の有無にこだわったのだ。

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2007年7月12日 (木)

奈良の正倉院(7)

 中学の一年生か二年生のころと思ふ。私の家にときどき顔を出して、ほかの者はあまり相手をしないから、わたしをつかまへては世間話をして帰つてゆく中年男がゐて、彼の話のなかで一つ、おもしろいのがあつた。
 その男は以前、横浜だつたか神戸だつたかで巡査をしてゐたことあるのださうだが、
「英国の皇太子というふのが日本に来てな。その警備をさせられた。ところがこいつがひどい奴で、若い女を見かけるとすぐに色目を使ふ。声をかける。いや、とんでもない野郎だったな」
と回想して
「ああいふ野郎だから、せつかく王様になつても、シンプソン夫人とかいふのに夢中になつて退位させられた。あの事件が起つたとき、あ、あいつならやりさうだなあと思ひましたぜ」
といふ話だつた。
  
 Edwardviiituckpc
   調べてみると、のちにエドワード八世になり、さらにウィンザー公になつた、そのプリンス・オブ・ウェイルズは、1922年(大正11年)の4月12日に来訪して、5月9日、去つて行つた。これだけ長く日本に滞在すれば、ずいぶん遊べたはずで、さう言へば、たしか彼がハツピを着て人力車をひいてゐる写真もあつたやうな気がする。そして退位は1936年(昭和11年)、わたしは小学五年生だつた。
(丸谷才一『猫だつて夢を見る』p. 264)

 はっぴを着ている写真は探したがなかった。
   エドワード8世(1894-1972)は1936年1月、42歳で独身のまま即位した。同年12月、二度の離婚歴のあるアメリカ人、ウォリス・シンプソンとの結婚に際して反対を受けたため、退位してウィンザー公を名乗った。代わって弟ジョージ6世(1895-1952)が即位した。

Wallis_and_edward
 一歳年下の弟ジョージは1923年にすでに結婚して、1926年にはのちにエリザベス2世となる長女をもうけていたが、「兄貴は無責任だ。私は何も準備してこなかったのに」とぼやいて即位したという。ジョージ6世は真面目な性格だったが、戦争と戦後の植民地独立などの苦労がたたって健康を崩し、1952年に57歳でなくなった。兄のウィンザー公は1972年まで生きた。

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2007年7月11日 (水)

赤毛連盟

Sherlock1

 己が友達のシヤーロツク・ホームズ君を訪ねたのは、去年の秋の或る日のことである。ホームズは客と話し込んでゐた。この客は極く太つた赭ら顔の老紳士で、炎のやうに赤い髪の毛をしてゐる。邪魔をしたと云つて引き返さうとすると、ホームズが突然己の手を引いて室の中へ引き入れ、戸を閉めてしまつた。
「君は丁度好い所に来てくれたのだ、ワトソン」ホームズの口調は親密であつた。
「取り込み中かと思つたが」
「さうだ、実に取り込んでゐるのだ」
「それならば隣の室で待たうか」
「いや、それには及ばぬ。ヰイルソンさん、この紳士は私の朋輩で、加勢して貰つて首尾好く落着した事件も多くあります。あなたの事件でも随分役に立つてくれるでせう」
 太つた紳士は椅子から半ば腰を浮かせて軽く会釈した。そして、周りに脂肪のついた小さい眼で素早く探るやうに己を見たのである。
Red-headed League   Die Liga der Rothaarigen 森林太郎訳?)

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2007年7月 9日 (月)

今日も元気だ

たばこがうまい。

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2007年7月 8日 (日)

奈良の正倉院(6)

 英国皇太子の乗ってきたレナウン号は「巡洋戦艦」だった。
 巡洋戦艦というのは、主砲は戦艦並みに大口径で装甲は巡洋艦並みに薄いという艦種である。
 レナウン号は、排水量3万8000トン、最大速度28.3ノット、主砲は38.1cm連装砲が3基であった。まったく同じ型のものが「レナウン級巡洋戦艦」として2艦建造され、1番艦がレナウン、2番艦がレパルスであった。いずれも1916年に進水した。

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 第二次世界大戦では、レナウンは主としてヨーロッパで戦い、無事生き延びて1948年にスクラップになった。
 同型艦のレパルスは日本海軍とぶつかった。
 1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾を攻撃した。

大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。今八日未明、帝国陸海軍は西太平洋において米英と戦闘状態に入れり。

 英国海軍は12月2日に、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルス、駆逐艦4隻からなる東洋艦隊をシンガポールに派遣して日本の攻撃に備えていた。東洋艦隊は8日17時過ぎにシンガポールを出航した。
 12月10日11時45分、南部仏印サイゴンの基地から出撃していた日本海軍航空隊の索敵機が英国艦隊を発見した。一式陸攻26機と九六式陸攻67機が魚雷と爆弾で攻撃を加え、14時3分にレパルスを、14時50分にプリンス・オブ・ウェールズを撃沈した。
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一式陸攻

「作戦行動中の戦艦を航空機で撃沈することは出来ない」という、それまでの常識を覆した海戦であった。特にプリンス・オブ・ウェールズは1939年に進水したばかりの最新鋭艦で、ウィンストン・チャーチルのお気に入りであった。撃沈の報告を聞いたチャーチル首相は

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「私が書類箱を開けていると、寝台の電話が鳴った。軍令部長からだ。変な声だった。咳をしているようでもあり、こみ上げてくるものを堪えているようでもあり、初めはよく聞き取れなかった。
『首相。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが、どちらも日本軍の飛行機に沈められましたことを報告しなければなりません。トム・フィリップス(英東洋艦隊司令長官)は戦死しました』
『間違いないか』、『疑う余地はありません』。私は受話器をおいた。私は一人であったことを感謝している。戦争で、私はこれ以上のショックを受けたことはなかった。」
(「マレー沖海戦を聞く」――鬼頭佳嗣氏)

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 サセックスの海岸では、一人の老養蜂家がマレー沖海戦のニュースを聞いていた。
「そうか、とうとう日本と戦争になったか。私の生涯は妙に日本と縁があったな。
 ヴィクター・トレバーの父親は日本に行ったことがあった。あれはすぐに分かった。彼の遺言は日本の箪笥の中にしまってあったのだった。
 ギリシャ語通訳の事件では、メラス氏が連れて行かれた部屋に日本の鎧が飾ってあった。あの時代は日本趣味がはやったのだった。あの可哀想なガリデブ氏も日本の花瓶などを集めていた。
 ワトソンが奈良の正倉院のことでグルーナーにとっちめられたことがある。あれはもう40年近くも前のことだ。
 肝心なことを忘れてはいかん。日本の柔術の心得がなかったら、もう半世紀も前に私は死んでいたのだ。ワトソンがバリツなんて妙な名前をつけたものだから、世間ではいろいろ揣摩憶測をしているようだ。しかし、あれを教えてくれた日本人は、小さい男だったが強かったな。エーと、何という名前だったか? ウーム、いかん、名前が出てこない。推理力にはまだ年を取らせないつもりだが、記憶力は少々衰えたか。無理もない。私も日本流に言えばもう米寿だからな」

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2007年7月 6日 (金)

奈良の正倉院(5)

 1922年(大正11年)に日本を訪問した英国のエドワード皇太子は熱狂的な大歓迎を受けた。
 彼の乗ってきた軍艦「レナウン」号の名前が格好いいからというので、ストッキングなどを作る会社の社名になったくらいである。

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1916年竣工 レナウン号

昭和天皇が皇太子時代に英国を訪問されたときの答礼として、大正11年(1922年)英国皇太子(後のウィンザー公)が訪日されました。そのとき乗っていた巡洋艦が、当時世界の耳目を驚かした超弩級戦艦RENOWN号でした。元来、船の名前は縁起がよいとされている上に、RENOWNには"名声・栄光"などの意味があり、また当時繊維産業の先進国であった英国の繊維製品にあやかるということなどの理由から、大正12年(1923年)商標名の選考を行っていた先輩たちによって商標として採用されたものです。
レナウン社ホームページより)

♪ レエナウーン、レナウン、レナウン、  オシャレで シックな レナウン娘がわんさか わんさか わんさか わんさか、  イェーイ  イェーイ  イェイ イェーイ!

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 というのがありましたが、覚えていますか? 弘田三枝子が歌っていた。もう40年くらい前でしょうね。

 それまでは「佐々木商会」という社名だったのを改名してよかったのですね。
 頑固に名前を変えないのが「福助足袋株式会社」です。名実共に日本一の立派な会社だけれど、やはりちょっと古いのではないか。今日はデートだから福助のストッキングと福助のパンツをはいて行こう?

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 英国皇太子はレナウンという軍艦に乗ってきた、という話であった。(続く)

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2007年7月 4日 (水)

奈良の正倉院(4)

 1922年(大正11年)には、前年の皇太子訪英の答礼として英国の皇太子(正式にはプリンス・オブ・ウェールズ)エドワードが来日した。
 英国皇太子、後のエドワード8世は、1921年に巡洋戦艦レナウン号に搭乗して英国を出発した。まずインドを訪問してから、日本にまわるという旅程だった。

 インドでは1920年、ガンディー(ガンジー)の「非協力」が国民会議派の綱領に採択された。インドは彼の指導の下にスワラージ(自治)に向かって歩み始めた。このとき彼は51歳であった。

 一九二一年、ガンディーはインド全土を巡る旅に出た。彼は会議派の党員に助言を与え新党員を獲得するために、どんな辺鄙な村にも入っていった。彼は托鉢僧や行者のように白いカーディーのドーティー(腰布)を身にまとうようになった。彼が来ると聞くと、村人は一目姿を見てダルシャンにあずかろうと駅に押し寄せた。彼はサティヤーグラハとアヒンサーについて、あるいは南アフリカでの経験について、短い話をした。彼は自ら選んだ貧困、謙譲、単純で気高い生活で知られ、マハトマと呼ばれるようになった。

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 初めのうち、政府は非協力運動を黙殺していた。馬鹿げたヒステリックな運動で、すぐに消滅すると予想したのである。しかし運動が本格化してくると、これは法と行政の全体系を脅かすことが政府にも分かってきた。政府はガンディーの動きを見守り始めた。一九二一年十一月、英国皇太子がボンベイを訪問したが、彼の訪問は市民にボイコットされ、暴動と放火が続発した。その後インドの各都市で集会と行進が禁止され、会議派の事務所は深夜の捜索を受け扇動的文書が押収された。一九二二年一月までに、三千人の会議派党員が投獄された。
(『ガンディーと使徒たち』p.193)

 日本に着いたのは1922年4月12日であった。1921年11月にボンベイ(現在のムンバイ)でボイコットされてから日本着までの間は、ビルマ、香港などを訪問していたらしい。
 日本ではインドとは打って変わって大歓迎であった。プリンス・オブ・ウェールズは5月9日まで滞在した。
 次は日本での足跡を見てみよう。

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2007年7月 3日 (火)

緊張の夏

日本の夏

Kincho
  暑くなってまいりましたが、お元気ですか。

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2007年7月 1日 (日)

朝鮮総連事件の悪代官は誰だ

 緒方重威氏は元は偉いお役人ではあるが、今回はどうやら越後屋の役らしい。高麗屋はこの際見逃すしかない。まことに残念ではあるが、悪代官の身を守るためには仕方がない。
 こういう絵図を描いた者がいるに違いない。永田町で取材していて、この辺の裏事情を知らないとは言わせないぞ。
 なぜ書かないのだ。何が怖いのか。You have no balls!
 書けないのならジャーナリストなどと名乗るな。

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