翻訳の馬鹿防止(1)
ふつうは英語でFoolproofと言いますね。
Waterproofならば防水だ。しかし「防馬鹿」では分かりにくい。馬鹿防止と言えばよろしい。
馬鹿防止の考え方を具体化したのが、たとえば鉄道のATS(Automatic Train Stop)だ。JR西日本の脱線事故は、これが働かなくて大変なことになった。あれは装置のせいではない。首脳部が悪かったからだ。
翻訳ではふつうは間違ったからといって人は死なない。それでも誤訳一つで何億円も吹っ飛ぶことがある。
たとえば、この間
「法人税法第何条にかくかくとあり、昭和何年国税庁通達第何号にしかじかとあるから、この費目は非課税で、また別のこの費目は課税対象である」
などという文章を英語に訳した。
私の書く英語が間違うと、どこかの会社が無駄な税を払ったり納税漏れで追徴金を取られたりして、何億円も損をする。責任重大である。その割りには大した報酬はもらっていないのが遺憾である。
私はもちろん間違ってはいけないぞというつもりで書いているが、絶対に間違わないとは言い切れない。だから馬鹿防止の考え方を取り入れて、必ず訳文をチェックする人がつく。
和文英訳の場合は、英語のネイティブスピーカーが英文をチェックし、日本人が原文と照らし合わせて訳し漏れや誤訳がないかを調べる。
もう長年やっているからそう無闇に間違いはしない。それでも母語ではない英語を急いで書くので、間違いが出てしまうことがある。
以前に滋賀県の観光案内を英訳したことがある。
「井伊の赤備え」
というのが出てきた。私は司馬遼太郎を読んでいるから、これはすぐに
「井伊家の侍は全員が赤い鎧を着ていた」
と書けばよいことは分かった。ところがred armorsと書いてしまったのである。
もちろんred suits of armorと書かなければならない。
シャーロック・ホームズの『ギリシャ語通訳』で、通訳のメラス氏が連れて行かれた部屋にはa suit of Japanese armourが飾ってあった、というのは読んでいるから、これくらいのことは分かっているのだ。締切にせかされるとつい間違えるのだ。しかし、こういう間違いはネイティブチェッカーが直してくれるので安心である。
日本人のチェッカーに直されるのは主として訳し漏れである。たとえば、
「動物園には、キリン、シマウマ、ライオン、トラ、パンダ、ゾウ、カモシカが……」
などというのを訳するときに、カモシカだけは辞書を引かないと訳語が分からない。むかし煙草を吸っていたときは、ゾウまで訳しておいて、一服したものだ。吸い終わるとカモシカを訳することは忘れて先に進んでしまう――ということがよくあった。禁煙してからこういう間違いはだいぶ減ったが、それでも皆無ではない。
しかし、こういうふうに馬鹿防止の考え方を取り入れているのは、いわゆる「産業翻訳」だけである。出版翻訳では一向にチェック機能が働いていないようだ。どこが違うのだろう? (続く)
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