S・C・ロバーツ
精神の苦悶の時代が近づいている。我々がこれを通り抜けて、はじめて子孫が生まれるのだ。霊魂は犠牲となり、不滅の望みは消えねばならない。
ワトソンと知り合ったころ、ホームズの抱いていたのはまさにこういう感情だった。これが根底にあったから、しばしば抑鬱に陥る時期があったのだ。しかし『四人の署名』から十年を経て、『覆面の下宿人』のころになると、ホームズの世界観は随分変化している。彼はこう言った。「If there is not some compensation hereafter, the world is a cruel jest.」*
*どう訳するか? これがむつかしい。
この翻訳は誰に頼まれたわけでもない。勝手にやっているのだから、適当なところで道草を食う。他の人はどう訳しているか?
延原謙訳
「そのうちに何かの埋めあわせでもないようなら、この世はあまりに残酷な茶番狂言です」
高山宏訳
「これから先何か良いことがない分には、人生なんて悪い冗談ですよ。」
大久保康雄訳
「今後、何かその埋め合わせがないなら、この世は残酷な茶番劇です。」
小林・東山訳
「もし、この後で、何らかのよいことがないとするならば、世の中などというものは、残酷な冗談です。」
深町眞理子訳
「もしもこれからの人生で、なんらかの埋め合わせでもなければ、それこそこの世は闇というものですよ。」
ホームズが「覆面の下宿人」の不幸な身の上話を聞いて、慰めの言葉をかけたのであるが、こういう意味だろうか? 全部違う。読めてませんね。
当然、当方が間違って恥をかくこともあるけど、そのときはTo err is human.と居直ればよいのだ。
覆面の下宿人はまったく不幸な境遇だ。生きていれば、そのうちに、これから先、今後、これからの人生で、「埋めあわせ」や「何か良いこと」があるか? ない。それは分かった上で言っているのだ。諸氏の訳したような意味ではない。ホームズはそんなおためごかしは言わない。
hereafterをShorter Oxford Dictionaryで引いてみよう。副詞としては
1 After this in order or position.
2 At a future time, later on.
3 In the world to come.
ランダムハウス英和辞典
【1】(時間)以後,これから先,今後,将来;(順序)この後に
【2】来世で,あの世で.
【3】=hereinafter
SODの3番目の意味 In the world to come をランダムハウスでは「来世で、あの世で」と書いている。 SODの例文
You do not merely believe but know that there is a life hereafter.
来世にも生命があると、信じているだけではない、そのことは分かっている、と君は言うのだな。
延原謙訳を少し前から見てみよう。
不運な女の身の上話はこれで終わったが、私たちはすぐには口をきかなかった。しばらくたってホームズは長い腕をさしのべ、彼女の手を軽く叩き、私でさえあまり見たことのない同情を示していった。
「お気のどくにねえ! 人の運命というものはじつにわからないものです。そのうちに何かの埋めあわせでもないようなら、この世はあまりに残酷な茶番狂言です。ところでこのレオナルドという男はどうなりました?」
延原訳は全体としてはよくできていると思う。
ただ、hereafterに「来世」という意味もあることは、英米人ならばすぐにピンと来るのだ。
だからS・C・ロバーツ氏も、はじめのころはまるでコナン・ドイルみたいな単純な合理主義者だったホームズが10年後には世界観が変わっている――ということを示すためにhereafterの使い方を例に挙げているのだ。
それではどう訳するか?
「来世で埋め合わせがなければ……」と訳してしまっては間違いでしょうね。翻訳はむつかしい。
日本語の「来世」と「そのうちに」「今後」「これから先」などとはあくまでも別の言葉だ。
来世は死後のこと、「そのうちに」は明らかに生きている間、「今後」や「これから先」もふつうは生きている間のことだ。はっきりと区別がある。
英語では hereafter=ここからあとで という一つの単語が
1.基本的には、「順序や位置があとで」という意味、
2. 時間的にあと、すなわち「将来に」という意味(だいたいは生きている間)、
3. キリスト教では霊魂不滅だから、「死んでからの将来に=来世に」
という重層的な意味構造を持っているのだ。
“Poor girl!” he said. “Poor girl! The ways of fate are indeed hard to understand. If there is not some compensation hereafter, then the world is a cruel jest. But what of this man Leonardo?”
「かわいそうに。かわいそうに。まことに天命は計りがたいのです。しかしいつかは埋め合わせがある。そうでなければ世界は残酷な笑劇だ。ところで、このレオナルドという男のことですが、どうなりましたか」
自分で訳してみるとむつかしい。
ただ「そのうちに何かいいこともありますよ」という脳天気だけは絶対駄目だ。
いつかは=hereafterでないことは言うまでもない。ここでは一語で上述の三層の意味を持つ日本語はない。
しかし、ホームズも、人知を越える計らいを信じたくなっているのだ。
物語の終わりの部分。
「あなたの命はあなたのものではない。それは手放しなさい」
「この命が誰かの役に立ちまして?」
「神のみぞ知る、です。苦難に耐える生活自体が、我慢の足りぬ世界に対する教えなのです」
女の返事は恐るべきものだった。ヴェールを上げて、明るい方へ歩み出てきた。
「あなたなら我慢できて?」
慄然。その顔の輪郭は説明できない。顔自体がないのだ。生気のある美しい褐色の眼が怖ろしい廃墟から悲しげに光っている。これが一層凄惨だった。ホームズは片手を上げて憐憫と拒絶の素振りを示した。我々は部屋を出た。
二日後、私がホームズを訪ねると、彼は幾分か誇りをこめてマントルピースの上にある青い小瓶を指さした。私はそれを手に取ってみた。毒物を示す赤いラベルが貼ってある。開けるとアーモンドの芳香がした。
「青酸か?」
「その通り。郵便で来たのだ。『我が試みをお送りいたします。ご忠言に従うつもりでございます』とあった。これを送ってきた勇気ある女性の名は、分かるだろう、ワトソン」
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