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2007年9月10日 (月)

ガンジーと憲法9条(2)

 ガンジーは「いかなる場合も暴力はいけない」とは主張しなかった。「卑怯と暴力といずれかを選ばねばならないとすれば、私は暴力を選ぶ」が彼の立場であった。
 
 1908年、39歳のガンジーは南アフリカでインド人登録法に反対する運動を指導していた。ところが、方針の違いをめぐって支持者から暴行を受けた。

 彼の支持者の一部、特に獰猛なパターン人は、彼が誓いに背いて信頼を裏切ったと思った。ミール・アーラムというパターン人は、依頼人としてよくガンディーに相談しに来ていた男だったが、最初に登録する者を殺すと誓っていた。ガンディーが登録事務所に入ろうとしたとき、ミール・アーラムが彼の頭を殴って気絶させた。アーラムはパターン人の仲間と一緒に彼を蹴ったり殴ったりし始めた。ガンディーは通りかかったヨーロッパ人と警察に救われ、英国人の友人の事務所に運ばれた。意識を取り戻すと彼はすぐに登録をすると言い張ったので、当局はその場で登録をさせた。彼は友人宅で十日間傷の養生をした。
(『ガンディーと使徒たち』p.168)

 このときのことについて、ガンジーは次のように書いている。

 卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。だからこそ、1908年にわたしが瀕死の暴行をうけたときに、もしわたしの長男がその場に居合わせたとしたら、彼はどうすべきであったか――逃げ出してわたしを見殺しにするべきか、それとも、彼の用いることのできる、また用いようと思う腕力に訴えてわたしを護るべきであったかと訪ねたとき、わたしは息子に、暴力に訴えてもわたしを護るのが彼の義務であると語ったのである。(『わたしの非暴力(1)』p.5)

 ガンジーは我が身への暴力には無抵抗を貫く覚悟だった。自分を「殺す」と言う者がいれば甘んじて殺されるつもりだった。しかし、20代半ばの長男(ガンジーは13歳で結婚した)に対しては、「もしその場に居合わせたら、断固として暴力に訴えて父親を守るべきだ」と要求したのである。
 仮に彼の妻や子が目の前で暴行を受けるようなことがあったとすれば、ガンジーはどうしたか? 暴力に訴えて妻子を守ったに違いない。
 
 ガンジーは1915年にインドに帰国し、1920年ごろから国民会議派を指導するようになり、やがてマハトマ(偉大なる魂)と呼ばれるようになった。
 ガンジーを最も悩ませたのは、ヒンドゥー教徒とムスリム(イスラム教徒)の間の衝突、宗教暴動であった。1926年、ヒンドゥーの村がムスリムの略奪にあった事件のあと、ガンジーは次のように書いている。

 弱い者にかぎって、自分が臆病であるために、自分自身の名誉や配下の者の名誉を護ることができなくなったときに、会議派の信条とかわたしの助言を隠れ蓑にしてきたことは、わたしもしばしば指摘してきたところである。非協力運動が最高潮に達したときに、ペディア付近で起こった事件のことを思い出す。村人が何人か略奪に遭った。彼らは、妻も子も所持品も略奪者のなすがままにして逃亡したのである。わたしがこのように責任を顧みなかった彼らの卑劣さを非難すると、彼らは臆面もなく、非暴力を言い訳にした。わたしは公然と彼らの行為を非難して言った――わたしの非暴力主義は、非暴力のことは考えるいとまもなく、ただ女や子供達の名誉を守った者たちのふるった暴力と完全に調和する、と。非暴力は臆病をごまかす隠れ蓑ではなく、勇者の最高の美徳である。非暴力を行うには、剣士よりはるかに大きな勇気が要る。臆病は全く非暴力と相容れない。(『わたしの非暴力(1)』p.51)

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