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2007年9月30日 (日)

親父の七回忌

 この間、親父の七回忌をした。内輪で済ませることにしたので、坊さんにお経をよんでもらうだけである。それでも、墓前でよみ、お寺の本堂でよみ、最後に仏壇の前でよむのだから、なかなか大変である。
 仏壇の前で

觀自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子 色不異空 空不異色色即是空 空即是色……
ギャーテーギャーテーハラギャーテー ハラソーギャーテー ボジソワカ ハンニャシンギョー

 ここで鉦をチーンと鳴らして、その次に、お坊さんいわく。

○○院××居士ナナカイキー

 七回忌が「ナナ回忌」だって! 驚いた。
 赤穂四十七士は「よんじゅうななし」かな? 
 八百屋おナナか? 堀口大学によれば

八百屋お七が火をつけた
お小姓吉三に逢ひたさに
われとわが家に火をつけた
あれは大事な気持ちです
忘れてならない気持ちです

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 有名な事件だったのだ。ジャポニスムの波に乗って評判はフランスまで伝わり、文豪エミール・ゾラが小説にしたのが『ナナ』である。

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2007年9月29日 (土)

英文手紙の書き方(2) 高等編

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 僕は、アメリカ人と一回会うだけだったらアメリカ的にやります。一々説明するのは面倒くさいから、パッパとやっているけれど、友だちになっていくほど、日本的な接し方とか、日本人はこうするのだということを教えていくわけです。それも冗談半分でやるんだけど、たとえば、ボスナックさんから手紙が来て、”I want to……”と手紙が来たら、ボスナックさんに、「われわれ日本人はこんな失礼な手紙は絶対に出さない。手紙の初めから、私はこうしてほしいなど日本人は絶対に言わない」と言うんです。そしたら「いったいどうするのか」と言うから、「まず、春暖の候……いうて書くんや」と(笑)。そうでしょう? そういうことを書いて、それからおもむろに、「陳ぶれば」という言葉があって、そこからお願いとかが始まるのです。
 そこで何とか説明する。私という人間と、あなたという人間がいて、「私はあなたに……して欲しい」という手紙の出だしは駄目なんやと。私とあなたは、この春という世界に一緒にいる。だから、まず「春暖の候」といわなくてはいけない。その状況のなかで二人が生きていることを確認してから、「ところで」といわなくてはいけないのだと言うたら、「すごいな、やはり日本人はすごい」と。次にボスナックさんから来た手紙には、"Spring has come……”とか書いてあるんですよ。「へえ!」というようなもので。「あなたもだいぶ礼儀正しくなった」と冗談を言ったりするんですが、そういうことを通じて彼は日本人を知っていく。

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2007年9月26日 (水)

手に手を取って(2)

 ホームズとワトソンはhand in handで歩いたことはないようだけれど、arm in armならばあります。
 これは何という作品でしょうか? 

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「夕方になって風が出てきたようだ。どうだい、少し街をぶらついてみないか?」とホームズが言った。
 私は狭い居間にもうんざりしていたので、喜んで賛成した。それから3時間ばかり、フリート街からストランド通りへかけて繰り広げられる変幻きわまりない人生の万華鏡を眺めながら、二人でゆっくり散歩した。……ベーカー街に戻ったときは十時になっていた。戸口に四輪馬車がとまっている。

 この馬車で来たのがパーシー・トレヴェリアンという医者で、『入院患者』の事件が始まるのだった。
 この事件は1886年に起きた。発表はストランドマガジンの1893年8月号である。19世紀末のロンドンでは、男同士腕を組んで歩いてもおかしくはなかったらしい。21世紀の今だと、やはりちょっと変でしょう。

 もう1箇所、ホームズとワトソンが腕を組むシーンがあります。

 濃い煙が室内に渦巻いて、もくもくと窓から出てきた。中では人々が右往左往しているようだ。すぐにホームズの声がして、いまのは誤報だ、火事ではないと言うのが聞こえた。わめき騒ぐ群衆の間を抜けて、私は交差点まで立ち退いた。十分後、ホームズが腕を絡ませてきたので、ほっとして騒ぎの現場から立ち去ったのだった。

 もちろん『ボヘミアの醜聞』ですね。
「腕を絡ませてきた」の箇所、原文は……was rejoiced to find my friend’s arm in mine,

 ホームズとワトソンはよく二人でロンドンの街を歩くのだけれど、たいていarm in armで、腕を組んで、歩いたのじゃなかろうか?
 少なくとも、19世紀のイギリスでは、男同士が腕を組んで歩くのは、そんなに変なことではなかったみたいだ。
 イギリスだけではない。フランスでも同じらしい。男二人で街を散歩するという点ではシャーロック・ホームズのお手本みたいな小説がありましたね。

……と、やがてついに、真実の夜の到来を告げる、鐘が鳴る。と、今度は、僕たち、手を携えて、夜の街へ出るのだ。昼間の話の続きをすることもあれば、夜おそくまで、ただ当途もなく、夜歩きする場合もあるが、ともかくそんな風にして、僕たちは、あの大都会の奇怪な光と影の中に、ただ静かな観察が与えてくれる、無限の精神的興奮を、求めているのだった。

……until warned by the clock of the advent of the true Darkness. Then we sallied forth into the streets arm in arm, continuing the topics of the day, or roaming far and wide until a late hour, seeking, amid the wild lights and shadows of the populous city, that infinity of mental excitement which quiet observation can afford.

もちろん『モルグ街の殺人事件』です。arm in armで夜のパリを散歩するのは、オーギュスト・デュパンと語り手の「僕」である。岩波文庫の中野好夫訳。

 中野先生はarm in armの扱いに困ったらしい。ふつうに「腕を組んで」としないで、「手を携えて」とちょっと「抽象的」な書き方をしている。どういう動作なのか、わざと分かりにくく書いているのだ。
 しかし、ここは直訳で「腕を組んで」と訳しておけばよかった。これは「18XX年の春から夏にかけて、パリ滞在中」に起きた事件ということになっている。アメリカで発表されたのが1841年だから、それよりも前のことだろう。
「昔のフランスでは男同士腕を組むのはよくあることだった(と当時のアメリカ人は思っていた)」と考えておけばよろしい。日本人から見ると、あるいは現代のフランス人やアメリカ人から見ると、いかにも奇妙な習慣である。しかし、習慣というのはすぐに変わるものなのだ。

 腕を組むどころか、男同士で接吻する習慣も、ごく最近まであったのを覚えていますか?

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 同志レオニード・ブレジネフ(1907-1982)と同志エーリッヒ・ホーネッカー(1912-1994)の熱い接吻です。
 万国の労働者、団結せよ!

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2007年9月25日 (火)

手に手を取って(1)

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 ベーカー街の彼の下宿で、暖炉を両側からはさんでいるときだった。シャーロック・ホームズはこんなことをいいだした。
「ねえ君、人生というものは、人の考え出したどんなものにもまして、不可思議千万なものだねえ。われわれの思いもよらないようなことが、実生活では平凡きわまる実在として、ごろごろしているんだからなア。たとえば、今二人が手に手をとってあの窓からぬけだし、この大都会の上空を飛行しえたとしてね、家々の屋根を静かにめくって、なかでいろんなことの行われているのをのぞいてみると仮定しよう。そこには奇怪きわまる偶然の暗合とか、いろんな企みとか、反目とか、そのほか思いもよらぬできごとが、それからそれへ連綿と行われており、またそこから奇怪な結果が生みだされるというわけで、それに比べたら、小説家の考え出した月並みですぐ結末のわかる作品なんか、気のぬけた、愚にもつかぬたわごとにすぎないと思うよ」

『花婿失踪事件』の冒頭。訳文は延原謙氏です。

 ホームズとワトソンが二人で窓からぬけだしてロンドンの上空を飛行するというイメージがすばらしい。
 ホームズがこういう光景を思い描いたのは、きっと『ピーター・パン』の影響だ。ホームズとワトソンの友人コナン・ドイル(1859-1930)は、ジェームズ・マシュー・バリー(1860-1937)と親友だった。ドイルとバリーは一時は御神酒徳利のような仲で、オペレッタを共作したりもしている。(やがてドイルが心霊術に凝り始めると、バリーはドイルを敬遠するようになった。)
 ホームズにとってもバリーは友だちの友だちなのだから、バリー作のピーター・パンなら、劇場まで見に行ったかどうかはともかく、知ってはいたはずだ。

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と思ったのですが、これはアナクロニズムらしい。
 バリーが戯曲『ピーター・パン』を書いたのは1904年のことだった。『花婿失踪事件』はストランド・マガジンの1891年9月号に載ったのであるから、こちらの方が古いのですね。空中飛行はホームズが独自に思いついたらしい。

たとえば、今二人が手に手をとってあの窓からぬけだし、この大都会の上空を飛行しえたとしてね、……
If we could fly out of that window hand in hand, hover over this great city, ……

 しかし、ホームズとワトソンが二人で空を飛ぶのはいいとしても、「手に手をとってhand in hand」というのはどんなものだろう?

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 BBCでラジオドラマとして放送されたThe Case of Identityの録音を聞いてみると

If we could fly out of that window, hover over this great city, …

ホームズ(クライブ・メリソンという役者がうまい)はhand in handを抜かしてしゃべっている。
 このラジオドラマは1960年代にBBCで放送されたものらしい。ヴィクトリア朝の英語そのままでは現代の英国人に分かりにくいからか、ホームズやワトソンの台詞もときどき現代風に変えてある。
 この場合も、中年男同士が「手に手を取って」はちょっと変だというので省いてしまったのだろう。
 ストランドマガジンに載った1890年代でも、ホームズとワトソンが手をつないでロンドンの街を歩くなんてことはなかっただろう。二人で空を飛ぶという特別な場合だから、「手に手を取って」もあり、というのだと思う。しかし現代の眼から見ると、それでもおかしいというので省いちゃったのだろう。

 ところが、男同士手をつないではおかしいというのは、英国や日本のような特殊な文化の話らしい。ほかの国では、たとえば
 
(ベトナムで)私よりもlO歳ほど年上で同僚のペトナム人男性と一緒に歩いていると、突然手を握られてぴっくりしたことがある。ギョッとして手をふりほどきかけたところで、それもまずいかと思い、ボーッとしたまま、「ちょっとトイレに行くので」とか言って、その場はなんとかしのいだ。この体験をして以来、注意をして観察してみると、ハノイでは、中年のおじさん同士でも、親しそうに手をつないでいることがよくあるのに気がついた。
(→「今日の一言」というサイト)
 
  どうも気持が悪いが、別にホモではないらしい。韓国でも中国でもインドでも、成人男性同士手をつなぐのはよくあることだという。
「アラブの国々では、大人の男の人同士でも、普通に手をつないだりします」と上のサイトにもある。
 だから、サウジアラビアのアブドゥラー王子が訪米すると、ブッシュ大統領もサービスしちゃうのだ。お花畑の中を手に手を取って歩くなんて素敵ですね。

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 (写真はジョージのブログからお借りしました。)
 
 しかし、ホームズとワトソンだって、さすがに「手に手を取って歩く」ことはしなかったけれど、空中ではhand in handで昔はオーケーだったのだ。100年以上前のヴィクトリア朝のイギリスでは、男同士の身体接触の基準が今とは少し違ったのではないだろうか?
 別の作品を見てみよう。(続く)

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2007年9月17日 (月)

悪人待望

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 安倍さんは「麻生にだまされた」と言って辞めたのだそうだ。本当だろうか?
 本当なら、実に何とも嘆かわしい。麻生が悪人だから? 違う。

 麻生が悪人なら、胡錦涛はどうだ? プーチンはどうだ? 金正日は? ブッシュは? 

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 こういう連中を相手にして「だまされた」ですむか? 麻生にだまされて病院に入るようなヤワな人が1年間も日本の首相だったのだ。

 麻生太郎は、「安倍はもうびっこのアヒルだから生かさず殺さずに操っておく。適当なところで放り出して政権を譲らせる」という目論見だったらしい。なかなか頼もしい悪人ぶりではないか。だてに口は曲がっていないようだ。

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 ところが安倍がまさかあれほど早く音を上げるとは思わなかったらしい。それが計算違いで、どうやら福田康夫に油揚げをさらわれることになるらしい。福田氏はオランウータン系の穏やかな顔である。

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 顔から見るとそれほど悪人には見えないけれど大丈夫だろうか? 見かけによらない悪人であってくれればよいが。
 福田さんは野菜の本まで書いているのですね。

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2007年9月16日 (日)

英文手紙の書き方

 翻訳業の仕事の一部に商業用の手紙の英訳がある。

 拝啓 貴社益々ご清栄のこととお慶び申し上げます。

 この書き出しは省略してよろしい。これはだいたい共通了解になっている。
 拝啓の代わりにDear Mr.……と書く。貴社益々以下は省いて、すぐに用件に入る。
 商業用の英文手紙では、用件を「見出し」として書くこともある。Re ……という形を使う。「……に関する件」という意味である。たとえば初めに

  Re Vampires

 と書いてあれば、「なるほど吸血鬼の話だな」とすぐ分かるので便利だ。ニンニクや十字架を準備すればいいわけだ。

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  吸血鬼に関する件
 拝啓 弊社顧客、ミンシング・レインの茶仲買商ファーガソン・アンド・ミュアヘッド商会のロバート・ファーガソン氏より、本日付け書簡にて吸血鬼に関して照会を受けました。弊社専門は機械類の査定であり上記の件は営業範囲外であるため、ファーガソン氏には本件を貴殿に御相談なさるよう勧告させて頂きました。マティルダ・ブリックスの件における貴殿の功績は失念しておりません。

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 簡にして要を得た手紙ですね。ちなみにマティルダ・ブリックスは女の名前ではない。スマトラの巨大ネズミに関わる話であるが、シャーロック・ホームズは、まだワトソンに話すには時期尚早だと考えていたらしい。サセックスの吸血鬼の原文はこちら
 
 ところが、我々が英訳させられる手紙では、肝心の用件がどうも要領を得なくて困ることがある。たとえば「コンサートの開催が遅れる」ことを取引先に通知するのに、次のように書く人がいる。

[悪い例]
 残念ながら、今月末に開催予定であった次回コンサートの劇場に重大な欠陥が見つかりました。予定販売数を上回るチケット販売には本当に感謝しています。欠陥は、最初、山口営業部長が発見しました。換気装置が時折、突然止まることに偶然気づいたそうです。しかも、止まるときに、観客席にも聞こえるような、かなり大きい不快な音が鳴ります。……

 こんな手紙を本当に書く企業人がいるのか? 実際にいるのだ。本当に困る。
 これは私が訳した実例ではない。機密保持契約があるので「こんなアホがいる」という話はできない。
 これは日経ビジネス人文庫『電車で覚えるビジネス英文作成術』のp.30に出ている例です。
 
  [改善例]
 大変申し訳ないのですが、今月末開催予定の次回コンサートを延期しなければならなくなりました。この延期で大変なご迷惑がかかってしまうことを心よりお詫び致します。延期の理由は次の2点です。
① Moon Light劇場の欠陥
② パンフレット印刷の遅れ

 この本は題名通り英文の書き方の本なので、悪い例も改善例も、まず英語が書いてある。
 著者の藤沢晃治氏はよくできる人で立派な英語だと思う。ただし「電車で覚える」はちょっと誇大広告。電車の中で薄い本を読んで英語が書けるようになるはずがない。
 しかし

「まず要点、次に説明を書く」
これが、ビジネス英文の大原則
     

  という同書p. 28の「大原則」は、英語でも日本語でも同じだ。拳々服膺してもらいたいものだ。
 日本語で筋の通った手紙を書いてもらえれば、専門家が英語に直します。元の日本語が駄目ならばいくら翻訳者が頑張っても駄目である。まず日本語がちゃんと書けなくては駄目だ。英語以前の問題だ。

 英文和訳と和文英訳の両方の経験から言うと、手紙に限らず、マニュアルでもプレゼンテーションの原稿でも、ビジネス文書は英語で書かれたものの方が日本語のものより概して優れているようだ。
 英語の文書はふつうに翻訳すればたいてい読んですぐ分かるものになる。日本語の文書は、そのまま英語に訳したのでは「何を言いたいのかさっぱり分からない」ということになることが多い。
 上の「悪い例」は、一つ一つのセンテンスは文法的にも語法的にも正しい英語に訳してあるが、英文の手紙として出せば、まず読んでもらえないだろう。
 和文英訳の前段階として「和文和訳」が必要になることが多い。それでセンテンスの順序入れ替えから始まって大規模な脱構築を行うことになる。
 ところが、ものすごく偉い人の書いた文章だと、「意訳はまかりならぬ。直訳せよ」と厳命が下る場合がある。
 例の「美しい国」の話なども、多分そうだったと思う。翻訳者は苦労しただろうな。

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2007年9月14日 (金)

マラルメの煙草

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 パリでのマラルメの住居はロオム街にあった。火曜日、このロオム街の小さい部屋は十九世紀最後の文学的季節であった。まだ年少のヴァレリー、ジイド、クロオデルをふくめて、この扉に来てたたかなかったような青春はなかった。あまりに有名なマラルメの「火曜日」については、「クセノフォンがソクラテスを語ったように」すでにひとびとが語りつくしている。これらの「火曜日」全体が一つの大きい会話の流で、詩人の煙草のけむりがそこに黄昏の色をただよわせた。

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「いつも煙草の絶間なく、一瞬でもひとびとと自分の間にけむりを置くことをやめようとしないで……」とロダンバックは書き伝えている。おそらく、ひとびとはそこに、現実から夢のほうへ逃げて行くマラルメを見たように思ったのであろう。煙草のけむりに於いて分離された二つの世界しか見ようとしなかったのであろう。げんに、レミ・ド・グルモンはこういった。「どこへ逃げるのか。それがステファンヌ・マラルメのポエジイだ。」また「どこへ逃げるのか。マラルメは寺院の中へのように暗がりの中へかくれた。」
(石川淳)

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2007年9月12日 (水)

ロラン・バルト対竹下登

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「文」は階級的である。支配があり、内的制辞がある。こうして、完結に到る。どうして階級制が開かれたままであることができようか。「文」は完結する。それはまさに完結した言語活動でさえある。……インタビューを受ける政治家は自分の文を締めくくるのに大変苦労する。言葉が詰まったら? 彼の政策全体が打撃を受けるだろう。
(みすず書房『テクストの快楽』p.95)

竹下: 葛藤ということは、字引で引いてみましたら、これはまさに相反する二つの意見が譲ることなく対立する状態と、こう書いてありますので、いささか文学的表現であったかなという反省もありますが、行くべきだ、行かなきゃならない、それをどういう日程に設定するかというまず第一義的なものにそれが条件ととられる誤解を生じやしないかという付随したものが私の葛藤という言葉になったと、こういうことであります。
(1992年12月7日参議院予算委員会における竹下登証人発言)

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2007年9月11日 (火)

9.11の七回忌

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 しかし、陰謀説・自作自演説がありますね。
 たとえばhttp://www.kt.rim.or.jp/~mitsu-ya/giwaku/

 ウィキペディアによれば

自作自演説は、「アメリカ政府とアメリカ軍が、遠隔操作の貨物機やミサイル、建物内に仕掛けた発破解体用の爆薬を使ってツインタワーやペンタゴンを破壊し、通説のようなテロ事件であると報道機関を用いて演出した」とする説。当然ながら(テロ自体はアルカイダの仕業とする)見逃し説と比較しても通説との差異は大きく、また現在では見逃し説に代わる陰謀説の主流となっている。

9.11の5周年の直前(昨年の9月11日直前――引用者)、米国の各主要メディアは一斉に9.11の陰謀論についての記事を発表した。それらの中の一つタイム誌は「陰謀論は少数が唱える迷信ではない、明白な政治的事実なのだ」と述べた。上記のような報道が主要なメディアでブームのように報じられ、そして9.11陰謀論はしばしばマスコミの注目の的となるようになっていった。

 日本では「主要メディア」で一度も陰謀説が取り上げられたことがないのはなぜだ? 自作自演だったのかどうかは分からない。しかし、たとえば文藝春秋のような雑誌に自作自演説が一度も取り上げられないのはなぜか。「こういうトンデモ説がある」という紹介すらないのだ。

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2007年9月10日 (月)

パイプ三服分の問題

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It is quite a three pipe problem, and I beg that you won't speak to me for fifty minutes.

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ガンジーと憲法9条(3)

 1918年3月、ガンジーはインド西部のケダー地区で納税拒否闘争を指導して勝利し、全国的な指導力の基礎を築いた。
 翌4月、ガンジーはインド総督の要請を受けて、インド人志願兵の募兵活動を開始した。(第一次世界大戦では、すでに8万人のインド人志願兵が英国陸軍に属して戦っていた。)
 非暴力をとなえるガンジーが英陸軍のために志願兵を募るとは何ごとか、と同志たちは非難した。これに対してガンジーは、次のように書いている。

 いまインド人には二重の義務があります。平和を説くならば、我々はまず戦う能力を証明しなければなりません。……戦う力のない国民には不戦の大義を論ずる資格はありません。

 1918年の時点では、ガンジーの目指していたのはインドの自治であって、まだ独立ではなかった。しかしその後も「戦う力のない国民には不戦の大義を論ずる資格はありません」という姿勢が変化したと信ずるべき証拠はない。

 1947年8月、インドとパキスタンが分離独立したとき、ガンジーはすでに政治の第一線から退いていた。独立インドの首相となったのは、盟友のジャワハルラル・ネルー(1889-1964)であった。

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 インドが独立すると、駐留イギリス軍は撤退してインドの陸海空軍がインドを防衛することになった。
 これに対してガンジーは反対をとなえたか?
 仮にガンジーが「無抵抗主義者」または「絶対平和主義者」であれば

 インド国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 と主張しただろう。
 しかし、インドにはパキスタンと中国という敵がある。軍備全廃はできない。どうすればよいか? 名案がある。イギリス軍に戻ってきてもらうのだ! せっかく追い出したのになあ。
 日本という国は、アメリカ軍を活用して、絶対平和主義の高遠な理想と安全保障を両立させているではないか。見習わない手はない!

 冗談はさておき

 ガンジーの暴力論The Mind of Mahatma Gandhiより

 卑怯にも危険から逃れてはならない。逃げる者は精神的なヒンサー(暴力)を振るうのだ。逃げるのは、殺そうとして殺されるだけの勇気がないからだ。
  私の非暴力は決して力を失わせない。このような非暴力を通じてのみ、国民は危機に際して欲するならば統制のとれた暴力を行使することができるようになる。
 私のとなえる非暴力は極めて能動的な力である。そこには卑怯や弱さの余地はない。暴力的な男はいつの日か非暴力を学ぶ望みがある。卑怯者には何も期待できない。再三述べてきたように、自分と女性と礼拝所とを受難によって非暴力で守ることができないのであれば、男である以上、戦って守らなければならない。
 いかに肉体の力が弱くても、逃げるのは恥である。我々は持ち場を守って死ななければならない。これこそが非暴力であり同時に義勇なのだ。いかに弱くともあらん限りの力を振り絞って敵に危害を加え、その過程で死ぬ――これは義勇であり、非暴力ではない。危険に立ち向かうことが義務であるのに逃げるのは、卑怯である。  
 私は非暴力をとなえる。しかし、非暴力を守ることができない人、守るつもりがない人がいることを認める。その人たちが武器を取りこれを使うことを認める。何度でも繰り返すが、非暴力は弱者のものではない。強者のものなのだ。
 危険に直面しないで逃げることは、人と神と自身に対する信頼を否定することだ。このような精神的破綻状態で生きるよりは入水して死んだ方がましだろう。

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ガンジーと憲法9条(2)

 ガンジーは「いかなる場合も暴力はいけない」とは主張しなかった。「卑怯と暴力といずれかを選ばねばならないとすれば、私は暴力を選ぶ」が彼の立場であった。
 
 1908年、39歳のガンジーは南アフリカでインド人登録法に反対する運動を指導していた。ところが、方針の違いをめぐって支持者から暴行を受けた。

 彼の支持者の一部、特に獰猛なパターン人は、彼が誓いに背いて信頼を裏切ったと思った。ミール・アーラムというパターン人は、依頼人としてよくガンディーに相談しに来ていた男だったが、最初に登録する者を殺すと誓っていた。ガンディーが登録事務所に入ろうとしたとき、ミール・アーラムが彼の頭を殴って気絶させた。アーラムはパターン人の仲間と一緒に彼を蹴ったり殴ったりし始めた。ガンディーは通りかかったヨーロッパ人と警察に救われ、英国人の友人の事務所に運ばれた。意識を取り戻すと彼はすぐに登録をすると言い張ったので、当局はその場で登録をさせた。彼は友人宅で十日間傷の養生をした。
(『ガンディーと使徒たち』p.168)

 このときのことについて、ガンジーは次のように書いている。

 卑怯か暴力かのどちらかを選ぶ以外に道がないならば、わたしは暴力をすすめるだろうと信じている。だからこそ、1908年にわたしが瀕死の暴行をうけたときに、もしわたしの長男がその場に居合わせたとしたら、彼はどうすべきであったか――逃げ出してわたしを見殺しにするべきか、それとも、彼の用いることのできる、また用いようと思う腕力に訴えてわたしを護るべきであったかと訪ねたとき、わたしは息子に、暴力に訴えてもわたしを護るのが彼の義務であると語ったのである。(『わたしの非暴力(1)』p.5)

 ガンジーは我が身への暴力には無抵抗を貫く覚悟だった。自分を「殺す」と言う者がいれば甘んじて殺されるつもりだった。しかし、20代半ばの長男(ガンジーは13歳で結婚した)に対しては、「もしその場に居合わせたら、断固として暴力に訴えて父親を守るべきだ」と要求したのである。
 仮に彼の妻や子が目の前で暴行を受けるようなことがあったとすれば、ガンジーはどうしたか? 暴力に訴えて妻子を守ったに違いない。
 
 ガンジーは1915年にインドに帰国し、1920年ごろから国民会議派を指導するようになり、やがてマハトマ(偉大なる魂)と呼ばれるようになった。
 ガンジーを最も悩ませたのは、ヒンドゥー教徒とムスリム(イスラム教徒)の間の衝突、宗教暴動であった。1926年、ヒンドゥーの村がムスリムの略奪にあった事件のあと、ガンジーは次のように書いている。

 弱い者にかぎって、自分が臆病であるために、自分自身の名誉や配下の者の名誉を護ることができなくなったときに、会議派の信条とかわたしの助言を隠れ蓑にしてきたことは、わたしもしばしば指摘してきたところである。非協力運動が最高潮に達したときに、ペディア付近で起こった事件のことを思い出す。村人が何人か略奪に遭った。彼らは、妻も子も所持品も略奪者のなすがままにして逃亡したのである。わたしがこのように責任を顧みなかった彼らの卑劣さを非難すると、彼らは臆面もなく、非暴力を言い訳にした。わたしは公然と彼らの行為を非難して言った――わたしの非暴力主義は、非暴力のことは考えるいとまもなく、ただ女や子供達の名誉を守った者たちのふるった暴力と完全に調和する、と。非暴力は臆病をごまかす隠れ蓑ではなく、勇者の最高の美徳である。非暴力を行うには、剣士よりはるかに大きな勇気が要る。臆病は全く非暴力と相容れない。(『わたしの非暴力(1)』p.51)

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2007年9月 9日 (日)

ガンジーと憲法9条(1)

日本国憲法第9条 

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
(昭和21年11月3日公布 昭和22年5月3日施行)

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 マハトマ・ガンジー(1869-1948)や「ガンジーの無抵抗主義」なるものを第9条の擁護に持ち出す議論がある。
 これは誤解に基づいている。憲法第9条とガンジー主義はまったく違うものだ。

(1) ガンジーは無抵抗主義者ではなかった。
 ガンジーは非暴力によってイギリスのインド支配に激しく抵抗したのだ。→ガンジーは無抵抗主義者か1-4

(2) ガンジーは卑怯よりは暴力を選ぶべきだと主張した。
ガンジーは暴力を選ぶ
 この点は、ガンジーの伝記に即してもう少し詳しく説明する。

(3) ガンジーは独立インドが軍備を全廃し非武装の国になるべきだなどとは主張しなかった。軍隊は必要だと考えていたはずである。
 これについても、伝記に即した説明が必要だろう。

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