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2008年3月17日 (月)

推理小説の誤訳(2)

 古賀正義氏の『推理小説の誤訳』は、A Dictionanry of Mistranslated Mysteriesという副題がついている。
 本当に辞書なみに網羅的なのだ。主としてアガサ・クリスティーのミステリから万遍なく誤訳を見つけ出している。

『オリエント急行の殺人』なんて5種類の翻訳が出ていて、全部チェックしたらしい。

 文庫版まえがき
「本書で取り上げた材料は、アガサ・クリスティーの推理小説を中心とする何の変哲もない平易な英文である。この作業を進めながら驚いたのは、誤訳があまりに多いことであった。文庫本一冊につき、平均50位の誤りがあり、20,30は上の部、100を越えて下の部に属するというのが大体の感想であった。」

 私もクリスティーは以前に40冊くらいまとめて読んだことがあるけれど、ほんとに「何の変哲もない平易な英文」である。どうしてそんなに間違えるのか不思議だ(ケアレスミスの一つや二つは誰でもするけれど)。引用を続けると

「推理小説は緻密な論理によって筋が展開され、読者は著者が設定した推理の過程を辿ることに楽しみを見いだすものである。しかるに誤訳はしばしば論理の崩壊――矛盾・撞着――につながりかねず、著者の努力を無にし、読者の喜びを奪う結果になる。このようにして誤訳は論理を生命とする推理小説の敵となるのである。」

 ほんとにその通り。出版社に「金返せ」と苦情が来ないのが不思議だ。
 翻訳も「製造物」である。いや、これはちょっと不正確か、ともかく商品なのだから、欠陥商品なら問題が生じる。だから、産業翻訳では必ず訳文をチェックする。(翻訳の馬鹿防止でちょっと触れました。)
 チェック以前に翻訳者の選定に気をつける。翻訳会社が「トライアル」をして翻訳者を選ぶのだ。短い英文和訳と、場合によって和文英訳をさせる。(英語を読むのはできても、書くとなると大変なので、英文和訳専門の翻訳者が多い。)。
 私もトライアルを受けたし、ある翻訳会社のトライアルの出題と採点をしているが、どこを見るかというと、要するに英文法がちゃんと頭に入っているかどうかである。

 たとえば、本書p.100

I was just a shade nervous of Mrs. Flemming's receptions, but hoped my appearance might have a sufficiently disarming effect. (クリスティーのThe Man in the Brown Suit)

×フレミング夫人がどう思うか、いささか心配になったが、私としては、なるべく目立たないように見えたらいいと、思っていたのである。(向後英一)

×フレミング夫人が自分をどう迎えてくれるかが一番気になってきて、どうか自分がしおらしくてこのましい印象を与えますようにと祈った。(桑原千恵子)

△突然行ってフレミング夫人がどう思うかと考えると、不安な気持がないでもなかったが、きっとこの外観を見ればむこうさまだって腹立たしい気は起きなかろう、と私は思ったのである。(赤冬子)

○(下線の部分のみ)私の身装(みなり)を見れば、夫人の反感もやわらぐかもしれないと思った(わたしの(みすぼらしい)外観が夫人の敵意をやわらげる効果を十分発揮するかもしれないと思った)。

Armは武器であり、disarmは"武装を解除させる"という動詞であり、disarmingはこれから来た形容詞である。C.O.D.はdisarmにpacify hostility or suspicion of (~の敵意または疑念を和らげる)という定義を与え、これからdisarmingという形容詞ができたと説明している。(ここまで古賀氏。後略)

 間然するところのない説明である。私が英文法というのはこういうことです。
 かならずしもC.O.D.を引く必要はない。disarmは他動詞で原義は「武装解除する」、転じて「敵意を和らげる」、したがってdisarmingは「相手の敵意を和らげるような」という意味だ――と頭が働いて訳文が出てくるのでないと困る。当てずっぽうに訳してもらっては危ないのだ。
 上の3氏のような訳しぶりでは、契約書や財務諸表やマニュアルならお客さんから苦情が出るのは必定である。私なら絶対に翻訳者として採用しない。
 推理小説の場合はどうか。この部分をどう訳しても全体に大して影響はないようにも思える。しかし、こういう間違いが50も100もあれば、ボディーブローのように効いてくるのだ。「推理小説の敵となる」というのは、そういうことだ。

 古賀氏はクリスティーのほかにシャーロック・ホームズやグレアム・グリーンも訳文を検討したのだという。(続く)

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